伏拝王子からは、はるかに見下ろす本宮大社まで一気に下る(途中一部の上りはあるが)。途中、東京でも聞いたことのあるような「三軒茶屋跡」とか、熊野川や「大斉原の大鳥居」が見える素晴らしい展望台、また「祓所王子」などがあるが、これらはガイドブックにお任せすることにして、ガイドの語り部先生方のお話をいくつか書き残しておこう。
坂本先生は「古道を歩くには五感を働かせよ」と言うとおり、路行く傍らの草花を実に丁寧に説明してくれた。1センチにも満たないような草花など、先生に言われるまではとても気がつかないようなものばかりであった。
斜面の木陰にひっそり佇む石像を指して、「ここには『道休禅門』と書かれている。『道で休む』とうのは、いわば『いきだおれ』のことだ。熊野を訪れた多くの人が途中で行き倒れ死んでいった。村の人はそれを丁寧に葬ってきたのだ」と説明する。熊野を詣でた人はそれなりの過去と事情を持ち、中には死に場所を求めた人も多かったようだ。
熊野に旅立つ人たちは、国元を発つとき庄屋などから「通行手形」を受け取る。その手形を坂本ガイドに見せてもらったが、「この者は怪しいものではないから通してくれ」というほか次の3点が記されている。一つは「怪我や病気の際は手当をしてやってくれ」、二つは「日が暮れたら一泊の宿をあてがってくれ」、三つは「もし亡くなったら“その地の慣わし”により葬ってやってくれ」としたためられている。
地元の人はそれぞれの方法で参詣者をもてなして来たのだ。日が暮れれば一泊の宿を与え翌日は何がしかの路銀を持たせて見送り、目の不自由な方がいれば次ぎの集落まで手を取って送った(これを”座頭引き”とよんだ)という。
斜面の中腹を辿る道が多い熊野古道は、右も左も急斜面である。そこには、松や檜や雑木も植わっているが多くは杉だ。初日の小松ガイドが杉林の中腹の石垣を指して「何の跡か分かるか」と言うので「城跡かなあ」と答えると、「実は棚田の石垣跡だ」とのこと。熊野も過疎化が進み、かつて米を作った段々畑には杉が植えられたのだ。稲を育てるのは手間がかかるが、杉を植えておけば放置しておいても育つ・・・、というわけらしい。
熊野を詣でる人に様々な事情があるように、そこに住む人たちにもいろいろな事情があって、こちらは村を出て行ったのであろう。