旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

熊野紀行② ・・・ 中辺路コースの全貌

2010-03-12 16:17:55 | 

 

 『熊野紀行』などと銘打ったが、われわれの辿った道は、既に書いたようにほんの一部に過ぎない。熊野の中の熊野古道、その一部の中辺路コースの、そのまた一部を大半バスに乗りながら辿ったに過ぎない。それが分かっただけでこの旅は意味があった。

 中辺路の、いわゆる古道へのとり付き口は、田辺市街より大分山中に入った「滝尻王子」である。500mごとの番号道標もこの滝尻王子を起点としている。空港からのバスは先ず滝尻王子に到着、そのそばにある熊野古道館でオリエンテーションがあった。

   

 先ず見せられたのがこの紀伊半島南部の地図で、これに「六つの熊野古道」が映し出されている。初日の現地ガイド小松裕見子氏は、「左手をひろげ、親指を折りこんだ姿」として、見事に6古道を説明した。つまり、「人差し指が京都からの紀伊路、折りこんだ親指が中辺路、中指が高野山からの小辺路、薬指が吉野からの大峰奥駈道、小指が伊勢路・・・すべて那智本宮大社に向かっている。手のひらの最下部が大辺路で、これで6路」というわけだ。この説明は古道の全貌をつかむには分かりやすかった。
 
全ての道は本宮大社へつづく・・・、われわれは、その中の中辺路を辿って本宮へ・・・、といっても、滝尻王子から本宮大社までは約38キロ、標高差数百mに及び、標準所要時間は18時間30分となっており12日の行程だ。当然のことながらバスで運んでもらいながら要所要所を歩くわけだ。

 初日は、本宮大社までの中間点「継桜王子」の「野中の清水」までが行程だ。それでも全て歩けば17キロ、10時間近くを要する。わが一行はまずバスで高原熊野神社を訪ね“樹齢千年以上といわれる楠の大木”などを拝み、そばの「高原霧の里」で昼食。


 雨が幸いして(と言うのはガイドの説明だが)、さすがに「霧の里」の霧あがる風景は美しかった(次ページ写真)。聞けば、イーデス・ハンソンさんはここに住んでいるそうな。 
 
美味しい“紀州寿司詰め合わせ弁当”で腹ごしらえをして、いよいよ山歩きの起点に向かう。

          
                     


熊野紀行① ・・・ 熊野はヤワではなかった!

2010-03-10 21:39:21 | 

 

 熊野古道から帰って来ました。

 この旅の印象を一言で言うと、「熊野はヤワではない!」ということにつきる。もちろんこれには、たまたま重なった自然条件も影響しているのであるが、とにかく、簡単に人を寄せ付けるところではない、ということだけは分かった。
 まず、羽田空港に着くとJTBの添乗員O君が「天候不順で白浜空港に着陸できるかどうかわからない。その場合は関空に降りてバスで田辺に向かうが、初日の日程をこなすのは無理だろう」と言う。案内板を見るとそのような表示がある。神は早くも安易な接近を拒んだか・・・と思えた。結果は危惧に過ぎず、無事、白浜空港に定時に降りた。もちろんわれわれは、心の中で「白浜に着陸できますように・・・」と祈り続けたのであるが。

 そのような気象条件であるだけに、歩き始めると雨が降り出す・・・、やがて雨は止んで快調に歩いていたが終盤はまた降りしきり、初日はまず雨で始まった。
 ところが二日目、朝目覚めると一点の雲も無い! 中辺路(なかへち)の中心部である発心門王子から、この旅の一つのハイライト“熊野本宮大社”まで快適な歩きを楽しむ。カリスマガイドとして噂の高い坂本勲生氏(82歳)の名案内に誘われてのルンルン歩行であった。午後は早くも雲が出てきて、待望の“瀞八丁”川下りは快晴とはいかなかったが、天下の名勝を十分に楽しんだ。

 ところがドッコイ。三日目は朝から本格的な雨である。昨日の快晴はどこへ行ったのか、雨というより「強風つき豪雨」つまり台風みたいなもので、とうてい山道を歩くような状況ではない。「昨日ちょっと天気がよかったからといって甘えるんじゃない」と言う神の声が聞こえてくる。
 ただそれでも、雨具に身を固めてひたすら歩いた。“速玉大社”にまず詣で、この旅でわたしがもう一つのハイライトと位置づけていた“那智大社”、“那智の大瀧”を目指してひたすら歩いたのである。大門坂などは写真では見ていたが、傘と杖を両手に登る300段を超える急階段は、絵で見る情緒とは質を異にする試練であった。ようやくたどり着いた“那智の大瀧”には圧倒されたが、その凄まじい轟音と水量ともども、神は容易に人を近づけない、と悟らざるを得なかった。

 以降、このかけがえの無い旅の思い出を書き続けていくことになるであろう。


熊野古道に行ってきます

2010-03-06 16:48:43 | 

 

 明日から3日間、熊野古道を歩いてきます。歩いてくるといっても、羽田から南紀白浜までは飛行機で、それからバスで山中に乗り込み、所々歩いたり船に乗ったりして、再び飛行機で帰るのだから、「歩いてきます」というのは正しくなかろう。

 それに比べると往年の熊野詣は大変であったようだ。なんと言っても京都から歩いていくのだから大変だ。後鳥羽上皇の4度目の参詣にお供をした歌人藤原定家の記録によれば「総日数22日、総行程6百キロ」というから並ではない。最も多く熊野に詣でた天皇は後白河天皇で、在位40年間に34回も往復したというから想像を絶する(いずれも田中昭三監修『世界遺産熊野古道を歩く』10頁、66頁より)

 こちらは75歳を目前にして初めて熊野に足を踏み入れる。しかも飛行機とバスと船で・・・。信心が足りないのかもしれないが、まあ、相手は天皇であるので戦にならない。これで勘弁してもらって、せいぜい、神話と死者の伝説に触れ、世界文化遺産としての「道」を味わい楽しんでこよう。

 それでしばらくブログはお休み。 バイバイ


熊野古道で何を見るか(つづき)

2010-03-05 11:49:39 | 

 

 熊野古道は世界遺産である。2004年7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの「遺跡及び文化的景観」に登録された。つまり「道」が世界遺産になったのである。そのような例としてはスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」ぐらいのもので、あまり例はないらしい。(Wikipediaより)

 そもそもこの参詣道は京都に始まっている。京の都の皇族や貴族連中が熊野詣のために長年踏み固めてきた道である。京都から大阪(浪速)を通って、山への取り付き口である田辺までを「紀伊路」と呼び、東側の伊勢神宮から熊野三山までの道を「伊勢路」という。
 山中の道がまさに熊野古道というにふさわしいのであろうが、これには大、中、小と大峰奥駆路(吉野―熊野三山)の四つがある。大は「大辺路(おおへち)」(田辺―串本―熊野三山)、中は「中辺路(なかへち)」(田辺―熊野三山)、小は「小辺路(こへち)」(高野山―熊野三山)と呼ばれ、いずれも熊野三山を目指す道である。

 大峰奥駆路(おくがけみち)などは1700mの大峰山を辿る道で、素人には到底無理なようだ。他の大中小も標高差7~800メートルもあり、全てを歩くにはかなりの体力と日数を要するだろう。
 今回の二泊三日のツアーは、中辺路の中のほんの10数キロ(一日5、6キロ)を歩き、あとはバスと船で熊野三山をめぐるというもの。しかも夜は勝浦観光ホテルなどに泊まりゆっくり温泉に入るという、まあ大名旅行のようなものかもしれない。
 とはいえ、恐らく雨が降るであろう山道を数キロ歩くだけでも、日ごろ歩くことの少ない人間として、それなりの覚悟をしている。

 本宮大社からはジェット船で瀞峡谷を見て、バスで熊野川に沿い勝浦に向かうが、実はこの川も「世界遺産としての道」にふくまれているのだ。古来、本宮大社から速玉大社までは、熊野川を舟で下っていたので、この川は「参詣道」の一部である。
 われわれは楽をするために船やバスに乗るのではなく、世界遺産の一部を学ぶために乗るのだと心得よう。

 どうも熊野古道で見るべきは、「道と川」であるようだ。


熊野古道で何を見るか

2010-03-03 16:20:58 | 

 

 いよいよ熊野古道が近づいてきた。どうも天気が心配であるが、そもそも雨の多い地域であるので、それを恐れていては熊野に行く資格はないのであろう。

 そもそも熊野は、死者と神話のくにと言えよう。また生い茂る古木の中を歩くことでもあり、雨が降ろうが降るまいが、そんなに明るい所とは思えない。熊野の語源は「古代の人々が死者の隠れるところを『隠国(こもりく)』とよんだことからくる『隠野(こもりの)』の音がなまったもの」(JTBパブリッシング『熊野古道を歩く』116頁)というからやはり死者のくにだ。
 熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)のシンボルマークは「八咫ガラス」で、このカラスは、神武天皇の東征に際し天照大神の使いとして、天皇を熊野から大和へ案内したとして知られているが、同時に、昔は死者を鳥葬にしていたがその死者をついばむ鳥として尊敬されていたらしい。やはり死者に関係があるのだ。
 このシンボルマークのカラスをあしらった御札が売られており、その裏に誓いの文言を書いて神にささげ、思いを遂げる力にしてきたと言うので、一枚買って試してみよう。この年になって神に誓うこともあまりないが。

 鳥葬と言えば水葬もこの地を想起させる。それは「海の向こうの浄土」を目指して船を乗り出し死んでいった「補陀落渡海」伝説だ。古来、20人以上の僧侶がこれを試み、付き添いを含め100人以上が海に消えたとされている。
 これは当然山の中ではなく和歌山半島南端の海浜の話で、那智大社のそばに補陀落山寺というのがあるので、今回は参拝することになるのであろう。そこから見る太平洋がどのように見えるか楽しみだ。信仰のたりない私には、とても極楽浄土につながる海には見えないのであろうが。
 いずれにせよ熊野古道は、死者と神話から始まる。


両国国技館「5千人の第九」を聞く

2010-03-01 16:30:00 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 年末の定番であるベートーヴェン「第九」を、時ならぬ春先に聞いた。昨日両国国技館で開かれた「墨田“第九”を歌う5千人の会」である。義兄に券を頂いたのだが、義兄家族と私と娘で、仲良くマス席(四人)に座っての鑑賞である。
 以前からワイフに「相撲を見に行こう」と言われていたのであるが実現せず、国技館のマス席に座るのは初めて。 “東10の6番”の席に、「四人では狭いなあ」とか言いながら納まり、「名演奏だったらブラボーと叫んで座布団をなげるのかなあ」とか、「クラシックを聞くというより一杯飲む雰囲気だなあ」などと言っていると、娘が本当にビールを買ってきた。始まるまでに時間もあったので、初めてのマス席で先ず一杯飲(や)った。(音楽が始まって飲んだりはしませんでしたぞ)

 それはさておき、第一部のセレモニーでは司会に和服姿のおねえさんと、ご当地墨田出身の木の実ナナさんなどが出てきて「5千人第九の会」の来歴を話す。聞けば、事の起こりは1965年で、爾来、全国から集まる5千人が毎年歌い継ぎ、今回は第26回にあたるという。大変な歴史である。
 見れば、国技館のちょうど半分が5千人の合唱団に占められ、半分が客席、真中の土俵上に新日本フィルを中心にしたオーケストラ、壇上にソプラノ佐藤しのぶ、テノール錦織健ほかソリストが並ぶ・・・。構えといい5千人の発するヴォリュームといい迫力があった。
 わが社の監査役であるH氏も毎年参加しているようだが(昨日もどこかにいたのであろう)、一度参加したら止められないだろうと思う。

 司会のおねえさんは向島の料理屋の女将さんと見受けたが、東京下町特有の雰囲気があってなかなかよかった。そのおねえさんの話によれば、25年前の発足当時は、向島の芸者衆も和服姿で参加したが、何といっても歌詞のドイツ語が読めない。一人ドイツ語の分かる芸者さんが歌詞を漢字に翻訳、その傑作の一つが、何度も出てくる「歓び」という意味の「FREUDE(フロイデ)」で、「風呂出(ふろいで)」と訳したというから面白い。
 「下町墨田のベートーヴェン」ならではの雰囲気であった。


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