旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

ウフィツィ美術館自画像コレクションを観て

2010-11-09 10:19:42 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 かねて気になっていた「ウフィツィ美術館」展が、来週で終わることに気が付き慌てて出かけた。わたしよりワイフの方が見たいと言っていたのだが。

 フィレンツェのこの高名な美術館は、ルネッサンスの華の一つといえよう。今回来日した「自画像コレクション」は、ウフィツィ美術館に連なる“ヴァザーリの回廊”に展示されているものらしい。このヴァザーリの回廊なるものは、アルノ川に架かるこれまた高名な「ヴェッキオ橋」の上に作られた回廊と言う。橋の上に回廊を作り、そこに絵を並べるという発想自体がルネッサンスと言うものだったのかもしれない。
 私は未だフィレンツェに行っていない。北のミラノ、ヴェネツィアから南のシチリアやサルデーニャなどには行ったが、イタリア中心部のローマ、フィレンツィエに行ってない。話しに聞くアルノ川やヴェッキオ橋の美しい光景を、いつか見たいと夢見ている。

 前置きはさておき、その回廊に並ぶ自画像をたっぷり観た(ほんの一部であろうが)。自画像は、画家が自分を見つめ直そうとしたもので、まさにルネサンス以降の自己の確立の中で生まれてきたものだろう。ウフィツィの自画像が有名になるにつれ、自薦他薦の沢山の自画像が寄せられたらしいが、まさに様々な自画像があるものだと思った。
 レンブラントやアングルなどの大巨匠のものは、さすがにドッシリと重く、彼らが自分の何を見たのかつぶさにはわからないが惹きつけられるものがある。中には、勲章をつけたり、オクスフォード大学のマントをそびやかした姿を描いたりしているのもあり、自分を見つめたのか、地位や名誉をひけらかしたのかわからぬ内容のものも多かった。
 まあ、様々な自己表現があるのであろうから、それにケチをつける方が不見識かもしれない。変わったのはシャガールで、30年間構想を練り80歳になって完成し、自らウフィツィに寄贈したという。顔を見ると若くて80歳には見えないので30年前の顔かもしれないが、こうなると自画像とは何か、私などにはさっぱりわからなくなる。

 自画像が自分を見つめるものであるならば、自画像は常に画家のそばに置いて置くべきもので、公開するような性質のものではないのではないか?などと思ったりした。そういいながら公開されたお陰で結構楽しませてもらったのだが。


領土問題と国の品格

2010-11-06 13:01:31 | 政治経済

  

 海を隔てているとはいえ国境を接する中国とロシアとの領土問題が急浮上してきた。どちらも、冷静に歴史的経過に立ち戻れば、境界線などは明瞭だと思うのだが……。

 

 尖閣諸島は、近世まで無主の島であったが1884年日本人が最初に探検し、1895114日の閣議決定で日本が領有を宣言した経緯にある。以来、1972年まで中国は一度も異議を唱えたことはない。ところが海底資源に気が付いたのか、1972年になって突如として「中国のものだ」と言い出した。理由は尖閣諸島が台湾に帰属するというものらしいが、台湾などの処理を決めた日清戦争後の下関条約などを見ても、尖閣諸島は台湾に帰属する諸島の中から完全に切り離されており、交渉の対象にもなっていない。

 一方、北方領土については、1855年の「日魯通好条約」と1875年の「樺太・千島交換条約」で、南北千島全体が日本の領土と取り決められた。それを旧ソ連が、第二次大戦終結の際に占拠したことは記憶も新しく、世界の人が知っている。この、平和条約も結ばず占拠した経緯は、戦争による「領土不拡大」という大原則を踏みにじるものであった。しかもその時、千島だけでなく北海道に帰属する歯舞、色丹まで持って行ったのだ。

 

 このような冷厳な事実にもかかわらず、それらを通り越した領土の主張だけが飛び交えば、民族意識だけが前面に出てくる。それが高じれば武力闘争に発展することは多くの歴史が教えている。事実に基づかない理不尽な民族意識は、時として理性を失う。私も国を愛する気持ちは人後に落ちないつもりでいるが、これだけは避けたいと思っている。

 力のある者が欲しいものを手に入れるということになれば、強盗植民地主義時代に返ることになり、平和共存、領土不拡大など、人類の生んできた大原則が失われる。

 日本も含めてであるが、ここは、ロシアと中国という大国(?)の品格が問われることになろう。

 


お燗(かん)酒

2010-11-05 13:31:29 | 

 

 明後日は早くも立冬。ここ数日の寒さは秋の深まりを感じさせ、冬の始まりを告げているようだ。お酒も燗酒が欲しくなる時節となった。

 ある蔵元から純米大吟醸酒を頂いた。その手紙に、「…どうぞ冷でも燗でもお好みのスタイルでお楽しみ頂ければ幸いです」とあった。私はこの一文を読んで時代の変化を感じた。大吟醸酒が市井に出回り始めた頃から、「吟醸酒は冷で飲むもの」という観念が定着して来た。いわんや大吟醸などは冷以外では飲んではいけないとされ、その範囲は純米酒などにも及んでいた。
 吟醸酒の香りを重視し、その清澄感を味わってもらおうとする蔵元や酒販店の思いが、この風潮を生み出したのであろう。もちろん香りの引き立つ冷たい味は捨てがたいものがあるが、お燗をした吟醸酒の豊かな香りとお米の味の広がりは、また別の魅力を生み出す。
 だから私は随分前から、大吟醸であろうが何であろうが、時に及んでは燗をして、その多様な味を楽しんできた。この手紙をくれた蔵元も、当然のことながらそんな楽しみをしていたのであるが、長年の付き合いで、「お燗でもどうぞ」というお手紙には初めて接した。
 時代の変化であろう。私は飲み屋などで吟醸酒や純米酒のお燗を頼むことが多いが、その都度「これは冷で飲むものです」と叱られ、「こんな酒知らずの爺さんがいるから困るのだ」と言うようなさげすみの目で見られて来た。私はその度に何度も何度も頭を下げて頼み込んでお燗をしてもらったものだ。
 そのような傾向は、やっと少なくなってきた。お燗の良さが定着してきたのであろう。

 昨夜、店の若者たちと一杯やった。近くの“S屋”と言う居酒屋で、ここはなかなか良い日本酒を置いている。最初に「まんさくの花」を冷で飲(や)り、次に「天狗舞」の山廃純米のお燗を注文した。ところが出てきたお酒は熱湯に近く、熱くて持てないお銚子の口からは湯気が立ち上っていた。私は飲むのをやめて帰ろうかと思ったが、近くで親しくしている店でもあるので、思い直して注意した。
 「これはとても飲めない。酒とはいえない。通常なら私は黙って店をでて二度とこないが、これまでお世話にもなったので注意しておく。あなたは燗をつけているのを忘れていたのであろうが、それならこの酒は燗冷ましで料理にでも使い、新たに正常な燗を客に出すべきであろう。それが酒を愛し、客を愛し、ひいては自分の店を愛することではないのか」

 相手はしきりに謝ったが、「それほど悪いことなのか?」と言うような顔をしていたので、酒についての知識も意識も低いのであろう。
 日本酒離れの時代は長く厳しい。このようなことでは、その時代はまだまだ続くのであろう。


今年もあと二ヶ月…

2010-11-03 12:38:12 | 時局雑感

 

 一昨日(11月1日)の朝ことであるが、ワイフがリビングのカレンダーを剥がしながら、「あ~、あと2枚になっちゃった」とつぶやいた。ことしも余すところ2ヶ月になったのだ。

 築後19年を経た我が家も、先月から屋根・外装工事に取り掛かり、約20日をかけてようやく終わった。従来の濃い藍色からオリーブグリーンの壁に塗り替え、ずっと明るくなった。屋根の下や窓の縁どりの白も生きて、周囲の緑とも調和して心地よい。この色合いと共に余生を送ることになるのであろう。

   
              

 11、12月は同窓会や忘年会、それに様々な理由付けによる飲み会が多い。同窓会も、高校、大学、職場(銀行や第二、第三の職場と多い)と多彩だし、酒関係も数え上げればきりがない。
 12月は、吉祥寺フィル15周年記念行事の中の「娘の企画するオペラコンサート」や、息子の恒例のクリスマスコンサートなど音楽会も続く。当面はなんと言っても沖縄旅行だ。2回目の沖縄であるが、今度は現地の人と接する機会が多い手づくり旅行であるので、いわゆる観光ツアーと異なるところを楽しみにしている。
 このようなことをしていれば、2ヶ月などまたたく間に過ぎてしまうだろう。

 昨日、今日と快適な青空が続く。ようやく秋本番を迎えたようだ。気が付いてみれば、庭のはなみずきががいつの間にか紅葉していた。


        
   


月桂冠相談役大倉敬一氏の『私の履歴書』を読んで

2010-11-02 14:24:50 | 

 

 

 日経新聞『私の履歴書』の10月は、長く日本酒造界をリードしてきた月桂冠㈱の大倉敬一相談役(元社長、会長)の登場であった。

 履歴書はその人固有のものであり、一ヶ月に渡り人生の半世紀を書き綴るこの欄は、まさに執筆者のもので、第三者がその内容についてとやかく言えるものではないだろう。その上で、不見識の非難を覚悟の上で、どうしても言いたいことが一つある。

 それは、現今の日本酒の低迷の一因と見られる「日本酒の酒質」――中でも、戦後の日本酒界を席巻した「アル添三増酒」について一言も触れていないことである。

 私は月桂冠の蔵元が、この問題にどのような見解をお持ちで、どのような教訓を後世に残してくれるのであろうかと、毎日期待して読んだ。しかしそれは一言もなかった。

 

 月桂冠の盛衰については詳細な記述があった。氏が入社した19565万石、四季醸造を実現した6110万石、6420万石、7050万石、そしてついに73708千石でピークを迎えるが、これから下降線を辿り、氏が社長に就任した78年には62万石、97年社長を退任する時は40万石に減少していた…、と数回にわたり書かれている。

 その要因として、「造れば売れるという売り手市場の感覚を抜け切れなかった」こと、「おおきなヒット商品に恵まれなかった」という自己反省のほか、主因を「消費減退は構造的な要因」とし、「酒のラインアップが、ビール、焼酎、ウィスキー、ワインと豊富になり“日本酒は酒の王様”とは言いにくくなった」、「各地の酒蔵が吟醸酒や純米酒などの生産に意欲的に取り組み、全国ブランドが黙っていても売れる時代は終わりつつあった」こと、「価格の規制緩和」、「販売網も、容器も多様化する中で、対応が後手に回った」などをあげている。

 私は戦後の食の多様化、それに伴う酒の多様化が、日本酒のシェアーを押し下げたことを否定しない。しかし、そのような多様化の中でこそ「まずい日本酒」「二日酔いを伴う日本酒」…つまり「ニセモノ酒“アル添三増酒”」が日本酒離れを起こす元凶となったのではなかったのか。そのような酒をナショナルブランドとして売りまくったトップ企業の責任に、なんらの反省もないのであろうか?

 月桂冠自体が、糖類使用を離れていった経過もあるのであるから、そのような経緯を一回でもいいから書いて欲しかったと思うと残念でならないのである。

 


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