旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

月桂冠相談役大倉敬一氏の『私の履歴書』を読んで

2010-11-02 14:24:50 | 

 

 

 日経新聞『私の履歴書』の10月は、長く日本酒造界をリードしてきた月桂冠㈱の大倉敬一相談役(元社長、会長)の登場であった。

 履歴書はその人固有のものであり、一ヶ月に渡り人生の半世紀を書き綴るこの欄は、まさに執筆者のもので、第三者がその内容についてとやかく言えるものではないだろう。その上で、不見識の非難を覚悟の上で、どうしても言いたいことが一つある。

 それは、現今の日本酒の低迷の一因と見られる「日本酒の酒質」――中でも、戦後の日本酒界を席巻した「アル添三増酒」について一言も触れていないことである。

 私は月桂冠の蔵元が、この問題にどのような見解をお持ちで、どのような教訓を後世に残してくれるのであろうかと、毎日期待して読んだ。しかしそれは一言もなかった。

 

 月桂冠の盛衰については詳細な記述があった。氏が入社した19565万石、四季醸造を実現した6110万石、6420万石、7050万石、そしてついに73708千石でピークを迎えるが、これから下降線を辿り、氏が社長に就任した78年には62万石、97年社長を退任する時は40万石に減少していた…、と数回にわたり書かれている。

 その要因として、「造れば売れるという売り手市場の感覚を抜け切れなかった」こと、「おおきなヒット商品に恵まれなかった」という自己反省のほか、主因を「消費減退は構造的な要因」とし、「酒のラインアップが、ビール、焼酎、ウィスキー、ワインと豊富になり“日本酒は酒の王様”とは言いにくくなった」、「各地の酒蔵が吟醸酒や純米酒などの生産に意欲的に取り組み、全国ブランドが黙っていても売れる時代は終わりつつあった」こと、「価格の規制緩和」、「販売網も、容器も多様化する中で、対応が後手に回った」などをあげている。

 私は戦後の食の多様化、それに伴う酒の多様化が、日本酒のシェアーを押し下げたことを否定しない。しかし、そのような多様化の中でこそ「まずい日本酒」「二日酔いを伴う日本酒」…つまり「ニセモノ酒“アル添三増酒”」が日本酒離れを起こす元凶となったのではなかったのか。そのような酒をナショナルブランドとして売りまくったトップ企業の責任に、なんらの反省もないのであろうか?

 月桂冠自体が、糖類使用を離れていった経過もあるのであるから、そのような経緯を一回でもいいから書いて欲しかったと思うと残念でならないのである。

 


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