旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

高知の史跡② … 牧野植物園と竹林寺

2012-11-14 12:18:52 | 

 

 桂浜から五台山に上る。先ず訪れたのが『県立牧野植物園』。
 植物学者牧野富太郎の名前は聞いてはいたが、詳しく触れるのは初めて。1862年高知県高岡郡佐川町に生まれ、独学で植物学の研究を重ね、22歳で上京して、黎明期の東京大学理学部植物学教室で、植物分類学の研究の機会を与えられた、とパンフレットにある。
 驚いたことに、牧野が生涯において蒐集した標本は40万枚、新種や新品種として命名した植物は1,500種に及ぶという。この植物園は広さ約6ha,約3,000種が四季を彩るといわれ、私たちは時間がなく40分しか回れなかったが、一日すべてを費やしても見切れないだろう。

   
        植物園へのアプローチ
 
     
   園内のすべてに名前が付られていた
   
   植物園入口に咲く蓮

 牧野植物園に隣接する古刹が、四国霊場第31番札所の『竹林寺』。四国に行く以上、札所の一つぐらいは訪ねよう、と軽い気持ちで赴いたのであるが、これは大変な名刹であった。
 山門の門構えや参道の赴きからして、想像をはるかに超えるスケールと静寂な美しさにあふれていた。

               
  
 

国の重要文化財である本堂の対面高所には、見事な五重塔がたっていた。説明書きによれば、古くは三重塔があったが明治32年の台風で倒れ、昭和55年ようやく、全国の般若心経奉納の浄業を得て再興したとある。鎌倉時代初期様式、総高31.2m、間口4.8m、総檜造り、使用木材1,320石、使用瓦2,800枚、宮大工延べ人数5,400人…と気の遠くなるような説明が続いていた。
 案内役の友人K君の奥様の菩提寺でもあり、K君はご住職とも親しく、たまたま居合わせたご住職に方丈の間に案内され、お茶とお菓子をいただきながら、「夢窓国師の作庭といわれ、高知県三名園の一つ」とされる庭園を見せていただいた。望外の幸せであったというしかない。

  


高知の史跡① … 高知城、自由民権記念館、坂本龍馬記念館など

2012-11-13 21:29:08 | 

 

 高知の旅の三日目は、昨夜の痛飲が尾を引いてホテルを出発したのは9時30分。まずは名物の「木曜市」をゆっくり回って“桂浜での昼食”のための食材などを購入の上、高知城に向かう

      
        美しい高知城

 高知城は、関ヶ原の戦で功績があった山内一豊が、遠州掛川より入国して築城した。1601年秋に着手し完成までに10年を要したという名城。天守閣だけでなく本丸御殿も含めた本丸部分が、すべて江戸時代の姿を残す城は高知城をもって唯一とする。(高知城管理事務所発行のパンフレットより)
 天守閣に着くまでの石段と言い、最上階に上る木の階段と言い、かなりの労力を要して登った。当時の「ご勤務」はさぞ大変だったであろうと思う。何と言っても城主山内一豊は、妻の内助もあって「功名が辻」を登りつめた男。同名のNHK大河ドラマでは、妻の千代役を仲間由紀恵が演じて好評を博した。園内にも「千代と馬」の像があった。

 続いて訪問した『自由民権記念館』は、近代日本を先導した「自由と民主主義」の息吹に満ちていた。ルソーの『自由契約論』を説いた中江兆民、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだ板垣退助、「日本国憲法草案」を起草するなど自由民権運動を代表する論客植木枝盛など、館内は「自由は土佐の山間より」を示す膨大な資料に埋まっていた。

 
   パンフレットと「自由通行証」という入場券

    
    植木枝盛にも会った

 

 午後一時、桂浜に着き、高台に立って眼前に広がる太平洋を越えて「江戸城を見据えている」とされる坂本龍馬の像の下で、木曜市で買った昼食を食べた。
 食後……白波の打ち寄せる桂浜をゆっくりと散歩し、『坂本龍馬記念館』を訪ねる。龍馬については、今更つけ加えることはあるまい。

  
   
 太平洋を見つめる龍馬像は台石を含め13.5メートル
 同じ高さの櫓に上り、龍馬の目線で大洋を見る。

     


四万十川の清流に身を委ねて

2012-11-12 11:28:41 | 

 

 三日間の高知の旅は、何処も甲乙つけがたいものがあったが、何と言っても四万十川ドライブは心に残る。高校時代の友人K君のベンツで、懐かしい臼杵弁を交わしながら、窪川から江川崎まで「四万十川中流」をドライブした。ゆっくりと一日をかけて。

 「日本最後の清流」というロマン、、源流とされる不入山(高知県高岡郡都農町)の「いらずやま」という響き、はたまた「しまんと」の語源はアイヌ語に発するとも言われる神秘性…、いずれも私の夢を掻き立て続けてきたこの川に、77歳にして初めて足を踏み入れた。
 運転をすべてK君に頼むこともあり、お互いの高齢を考えて「全て無理せずゆっくり」と臨んだ。そしてこの「ゆっくり」が、山間深く流れる四万十の清流にピッタリであった。

      
          
    道の駅「四万十とおわ」の『とおわ』食堂より

 途中二つの沈下橋に降りて、橋を渡り、河原を歩いて清流に身を委ねた。浅い流れをたくさんの小魚が潜り抜け、河原には名も知らぬ美しい草花がひそかに咲いていた。
 一つの沈下橋では、橋の上で「納豆屋のおばあさん」を取材する雑誌社の一団と出くわした。納豆はもちろん、いろんな話に花が咲き、おまけにその納豆を一個頂戴した。

                 
    

                        
 江川崎の『ホテル星羅四万十』に渡る橋から見下ろす四万十川は、ぐっと川幅も増し、いよいよ下流に差し掛かる風情だ。それより下ると河口の四万十市(旧中村市)に向かうが、遠回りを避けてUターン、窪川に引き返した。自分としては、中流の一番いいところを満喫したつもりだ。
        

 


歌いつがれた日本の心・美しい言葉⑮ ・・・ 『浜千鳥』 

2012-11-10 14:03:59 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 11月7日は立冬。暦の上では既に冬である。その前日6日、つまり秋の最終日に私は高知に着き、以後3日間、広洋とした太平洋を眺め続けた。そこで何度も思い出した歌が『浜千鳥』…、それは作曲者弘田龍太郎が高知の出身であることにもよる。

     青い月夜の 浜辺には
     親をさがして 鳴く鳥が
     波の国から 生まれ出る
     ぬれた翼の 銀のいろ

     夜鳴く鳥の かなしさは
     親をたずねて 海こえて
     月夜の国へ 消えてゆく
     銀の翼の 浜千鳥

        
         月の名所の桂浜

 この歌を今の時節にとり上げることにも異論が出るかもしれない。作詞者鹿島鳴秋がこの詩を書いたのは、大正8(1919)年の初夏とされているからだ。「鹿島鳴秋が大正8年6月、柏崎に友人を訪ね、浦浜から番神海岸を散歩して、初夏の海の印象を手帳に書き残した」ということが、柏崎の歌碑などに記されている。 
 しかし私にはどうしても秋の歌に思える。「青い月夜」、「鳴く鳥の悲しさ」、「翼の銀の色」など、秋か初冬の情景としか浮かばない。そして、それを思わせるように、この詩に弘田龍太郎が曲をつけて発表したのは翌大正9年の1月である。龍太郎はこの曲を秋から冬にかけて作曲したのであろう。
 龍太郎は高知県安芸市の生まれ、そこには3歳までしかいなかったが、前に広がる太平洋の印象は強烈に残っていたに相違なく、特に秋から初冬にかけての澄み切った月夜の浜辺を想起しながら作曲したのではないかと思っている。
 因みに、平成7年9月に開かれた「安芸童謡フェスティバル~弘田龍太郎を歌う~」のプログラムの「弘田龍太郎童謡12か月」でも、9月の歌に分類されている。
 「波の国から生まれ出る」というダイナミックな曲想、「月夜の国へ消えてゆく」という透明感、寂寥感を、鹿島鳴秋は初夏の日本海に見たが、弘田龍太郎は秋の太平洋に感じたのではないか。


秋、快晴の高知を満喫

2012-11-09 15:11:05 | 

 

 三日間の高知の旅から帰ってきました。快晴に恵まれて文句のない旅でした。鰹のたたきをはじめ美味しいものを食べ、二つの酒蔵を回り、高知城や竹林寺、自由民権資料館など土佐の歴史に触れました。
 何よりも太平洋を眺め、四万十川の清流に身を委ねて、心の洗濯をしてきました。追って記事を書き連ねますが、とりあえずその断片の写真を…。

  
中土佐町久礼の旅館『黒潮本陣』の部屋より太平洋を望む
       
       四万十川中流の、ある沈下橋より
  
        桂浜を洗う太平洋の白波


三日坊主を克服して達成した連続1492試合フル出場 … 金本選手の偉業

2012-11-05 18:07:51 | スポーツ

 

 昨夜のNHKサンデースポーツに、今年で現役を引退したプロ野球選手金本知憲選手が出演し、「21年年間の現役生活」を語った。
 金本選手は広島時代からのファンで、次々と塗り替える新記録を追って何度か本稿にもとり上げた。今シーズンの最終戦まで、「打点」で長嶋の記録に追いつくことを期待したが、走者を置いて打席に立つ機会に恵まれながらついに1打点及ばなかった。あの努力をもってしても追いつけなかった長嶋茂雄の力を多とすべきか…?
 しかし金本の値打ちを一番示すのは連続出場記録であろう。「1492試合フル出場」は不滅の記録とされ、その過程での伝説的なエピソードもいくつか紹介された。何と言っても有名な話は、左手首を骨折しながら出場し「右手1本で打ったヒット」のことだ。昨夜も、「あの時は手首が腫れて手袋をするのも痛かったが、退場する気はなかった」と話していた。

 驚いたことに金本は名うての三日坊主であったという。しかも体は小さく、鍛えるしかなかったという。「細い体で上にも伸びないので横に大きくするしかなかった」と、180キロのバーベルを上げるトレーニングが映し出されていた。またオフには寺に通い、燃え盛る火の前での読経で心を鍛えた。「義務的に行った業やトレーニングでは何も残らなかった。積極的に取り組んだ時しか成果は出ない」とも言っていた。
 こうして達成した連続フル出場1492試合とはどんな行程だろう。この数字は、たまたま「イヨー、クニが見えたぞ」と記憶した「コロンブスのアメリカ発見年」と同じ数字であるが、三日坊主がたてた連続記録は遥か海洋の彼方同様、何とも遠い数字だ。

 しかし、金本本人が一番誇る記録は「1002打席無併殺打」ということだ。無走者内野ゴロで全力で走り一塁に生きれば安打となり打率は上がるが、走者がいる場合はその走者が封殺され、自分が併殺を逃れて一塁に生きても打率は下がる。しかし全力で走る! これがチームプレイで、自分の記録は下がっても全力疾走で一塁に生き、次打者が本塁打を打って1点差で勝ったこともある。「この記録だけは自信をもって後輩たちに話している」と胸を張った。
 頭が下がるというほかない。


「自由は土佐の山間より」 … 高知の旅で触れたいもう一つの側面

2012-11-03 14:28:32 | 

 

 6日からの高知の旅は、高校時代の旧友を訪ねる旅であり、もう一つは、何回か行ったにもかかわらずもうひとつ極めつくしていない高知を十分に味わいたいというものだ。曰く「四万十川」、「桂浜やはりまや橋」、それになんといっても「鰹料理や美味しい酒」、それに連なる[酒蔵巡り]などである。中でも今回は、旅館『黒潮本陣』に泊まり、高名な「汐湯の露天風呂」から太平洋を眺める、という目玉商品も組み込んである。
 しかし高知、というより土佐の歴史はそのようなことにとどまらない。桂浜では当然そこに立つ坂本龍馬像から龍馬記念館などに赴くが、明治維新を主導した坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太などだけでなく、土佐は明治の自由民権運動、つまり日本最初の民主主義運動を主導した人物をも多く輩出した。中江兆民、板垣退助、植木枝盛、…などがそれである。
 昨夜、高知の馬路村出身の友人T君と一杯飲んで、高知に行くことを告げると、彼は、「高知にはいろいろあるが、『自由は土佐の山間より』と叫んだ先人たちの資料館『自由民権記念館』だけは訪ねてくれ」と熱っぽく語った。
 特に、酒を飲みながらの話でもあったので、植木枝盛の話に花が咲いた。植木は板垣退助などとともに土佐自由党の闘志であり、明治政府の酒税引き上げに反対する酒屋たちの「全国酒屋会議」(明治14年)を指導した人物である。T君の意見によれば、「自由は土佐の山間より」という言葉は植木枝盛の言葉ではないか、ということだ。土佐に行くならば、何とか植木の資料の一端にでも触れたいと思っていたのだが、幸いにも土佐出身の友人と直前に杯を酌み交わしたのは幸運であった。何としても自由民権記念館には立ち寄ろう。

 このようなことを詰め込むほどに旅は窮屈なものになり、いつもワイフなど同行者に嫌われるのであるが、これもまた旅というものであろうから…。
 いつものように天気予報を探っているが、おかげで雨の心配はそれほど無さそうだ。6日は曇り、降水確率30%、7日、8日は晴れたり曇ったりで降水確率は20%となっている。快晴とはいかないようだが、まあ、相応の天気のようだ。じっくり土佐を愉しんでこよう。

 


老後医療のあり方 … 「加齢病」に特別な医療が必要か?

2012-11-01 12:54:09 | 時局雑感

 

 私の眼は「加齢黄斑変症」で、左目は網膜の真ん中が黄斑にやられほぼ見えない。右目も左側が一部欠けて見えるのでやや見にくい。2か月に一回のペースで東京医大眼科に通っている。
 昨日はその定例検査日で、早朝から出向き、「視力、眼圧検査」、「網膜写真撮り」を経て、主治医S.I先生の診察を受けた。最近やや見にくさが増してきたので、そのことを率直に報告しながら診察を受けた。そのやりとりは以下の通り。 

私  「今日の検査で視力は1.0と変わらないが、最近やや
      見にくさが増した感じです」
先生「そうでしょう。写真の結果では少し水が溜まって
      います. しかし1.0は見えるんだなあ…」
私  「新聞も本も読んでいます。ブログも二日に一回のペー
      スで書いています。少しは読みにくくて時間もかかるが、
      77歳の老人ともなれば無理からんことじゃないんです
      か?」 
先生「ブログを書いてるとはすごいですねえ。少し水たまりは
      あるが、1.0見えるとは不思議だなあ。医者としては
      症状があると注射とかレーザーとか治療を考えるが、
      それにはリスクがあるし、注射なんてやってみなけ
      れば効くかどうかわからないしなあ…」
私  「先々週、尾瀬に行きましたが、こんな目でも尾瀬の紅
      葉はきれいでした。昔はみんな死んでいた年頃で目が
      悪いの腰が痛いのなんて問題にならない齢です。少々
      見えにくくても、症状に付き合って生きていくしかない
       と思っています」
先生「それも一つの考え方ですね。まあしばらく模様を見ま
       しょう」

 ということで2か月後(12月26日)の予約を入れて退散した。このまま見えなくなっても「齢のせいだ」という諦め・開き直りと、「本当に両方とも見えなくなったらどうしよう」という不安を交錯させながら。
 因みに、山中ノーベル賞の「iPS網膜」の実現性について質問すると先生は、「大変話題になっているが、1年や2年で出回るとは思えないなあ」と笑っていた。網膜細胞の実用化が一番早いといわれているので期待しているが、どうも私の生きているうちには間に合いそうにないか?
 まあ、老いを素直に受け入れて、様々な症状と付き合って生きていくことにしよう。

     
    わが庭のハナミズキも、すっかり紅葉しました


投票ボタン

blogram投票ボタン