慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『紙』新聞離れ

2016年06月20日 | 学び
70代と心中する「紙」の新聞

新聞を読む習慣を持つ高齢者がまもなく「退場」し、部数減はこれから始まる
無料サイトを通じて記事がいくら読まれても、お金はほとんど入ってこない
「紙」の部数が減っていけば、どこかの段階でデジタルヘの完全移行を迫られる
新聞は「紙」並みの収入が確保できる新ビジネスモデルの構築が迫られている
「2015年国民生活時間調査」で、新聞離れに悩む新聞社に追い打ちを掛けるような結果が明らかになった
「紙離れ↓デジタルヘの移行↓収入減↓取材要員。給与の削減」という悪循環に陥るのは避けられそうにない
FACTA6月号記事参考&引用(真相が記載されている雑誌で私の愛読書です)












新聞離れ(FACTA6月号記事、ネットより引用)

「2015年国民生活時間調査」結果より
10代後半で新聞を読んでいる人は5%(20年前の約4分の1)
20代と30代で新聞を読んでいる人は6%(20年前の約5分の1)
40代で新聞を読んでいる人は、22%(20年前の約3分の1)50代も39%(20年前の半分)
60代で新聞を読んでいる人は、55%(20年前の約15%減少)
70歳以上で新聞を読んでいる人は、59%(20年前の約2%減省)
60代、70代と団塊の世代は、朝起きたら新間を読む習慣を持っている世代
これからの世代が、10年たつと急激に低下していく

「新聞離れ」を報じない新聞各紙
NHKの発表では、要約は新聞を読む時間の多い、中、高年層を含めて幅広く減少と発表
これに触れない報道姿勢は、ネットで「新間が報じない新聞離れ」と批判されてる
新聞離れの最大の要因は、ネットという新媒体の登場とそこでの無料ニュースの普及です
ネットになじめない高齢者層が、新間を読む習慣を持ち続けていて、新間を支えているという構図
70代の人々が「退場」する事実は、新聞「総崩れ」の時が迫っていることを予感させる

新聞各社は、「紙」からデジタルヘの移行を急いではいる
トップを走る日経新聞を除けば、デジタル関連の収入は伸び悩んでいる
読売が「読者限定タブレット」提供企画を実施した
購読収入と広告収入の双方が見込める「紙」の方が、広告収入がほとんど見込めない電子版よう利益が大きい
新聞購読者は減っていくため「紙」を前提とした対応策では生き残りは不可能だと分かってはいる
「紙」の方が電子版よう利益が大きいので「脱新聞化」も進めにくいというジレンマ


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明智光秀、何故本能寺の変成功し敗れたのか?

2016年06月20日 | 歴史
織田信長は数々の裏切りにあってきた

用心深さから多くの謀反を跳ね除けてきた信長!
明智光秀だけが本能寺の変を成功出来た要因は、一瞬のチャンスに賭けた光秀の決断では?
光秀が、本能寺の変起こした要因は、土岐一族の再興では?
光秀より優秀な豊臣秀吉が同時代に生きたのが光秀の不運・不幸の結果『光秀3日天下』に結び付いたのでは?
BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組、武田鏡村(作家)記事参考&引用


































BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組画面引用

明智光秀が織田信長に使える迄
明智光秀、源氏の流れ土岐家で生まれるが土岐家滅亡
明智光秀浪人となり、朝倉一族の家臣となり、室町幕府将軍と知り合う
織田信長と足利将軍との結び付けで織田一族となる

明智光秀の謀反の要因(遺恨)・怨念説)
丹波八上城事件
 ☆光秀は、八上城の波多野を攻めたが、城がなかなか落ちず、生母を人質に差し出しす
 ☆秀治と波多野秀尚の兄弟に「降伏すれば、命と領土を保証する」と約束した
 ☆波多野兄弟は投降したが、信長は光秀の説得も聞かずに彼らを殺してしまう、人質の光秀の母も殺害させる
斎藤利三事件
 ☆稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を、光秀が召し抱えた
 ☆信長は光秀に「利三を一鉄に返せ」と命じたが、光秀が命令に従わなかったため、信長は光秀を手討ちにしようとした
恵林寺焼亡事件
 ☆武田氏に味方した恵林寺を焼き払えと信長が命じたが、光秀はその暴挙をいさめ信長の逆鱗に触れた
長宗我部の攻略事件
 ☆光秀は、長宗我との和平・連携を命じられていたが、信長は後に長宗我部を敵視し、光秀の立場がなくなった
徳川家康饗応事件
 ☆武田氏を滅亡させた後、光秀は徳川家康と穴山信君を安土城で接待する饗応役を務めた
 ☆用意した魚が腐っていたため、腹を立てた信長に饗応役を解任される

明智光秀の性格
光秀の陰湿な性格が、遺恨・怨念説が生まれたのかもしれない?
宣教師のルイス・フロイスによる報告書に光秀の性格が記載されている

明智光秀の謀反の要因(恐怖説)
佐久間父子追放から信長に対して恐怖を抱く
 ☆石山本願寺の攻略で功績がなかったとして、信長に仕えてきた重臣の佐久間信盛・信栄父子が追放された
 ☆信長に長く仕えた者ですら、失脚させられる、途中から信長に仕えたわしなぞ、いつ追放されるかわからん
領地替えの恐怖
 ☆光秀の領地、近江と丹波が取り上げられ、信長から「出雲と因幡を切り崩し次第与える」と言われた
 ☆光秀としては、出雲・因幡を制圧しても、まだ九州があり、さらに唐土への出兵もある
 ☆配置転換を繰り返さなければならないだろうか?しかも、功績がなければ追放だ

野望説(一瞬のチャンスに賭けた)
土岐一族の再興
信長の重臣で唯一、信長の近くにいたのは光秀である
秀吉(中国地方)、柴田勝家(北陸地方)、滝川一益(関東地方)、丹羽長秀(大坂方面)にいる
本能寺の変は、明智光秀がしかけた一世一代の大勝負



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江戸庶民その日暮らしの収入事情

2016年06月20日 | 歴史
江戸庶民の住居は、六畳一間の住居空間(居間と寝室)

一部屋ですべてを済まさなければならなかった
庶民の生計は、家賃の低さで何とか生活できた
歴史REAL「大江戸八百八町」記事参考&引用










江戸庶民生計(歴史REAL「大江戸八百八町」他記事、ネットより引用)

庶民が住む裏長屋の家賃
月額約1000文(現在の貨幣価値2万円)
長屋住まいならば収入が少なくても江戸で生活できた

庶民の生計
庶民は、その日稼ぎの仕事に従事
市場に出かけて野菜や魚を仕入れ天秤棒を担いで売った(仕入れ約7百文、売り上千二百文)
屋台で、蕎麦や寿司などを売った
大工などの職人として日当を得る者もいた
日々の生活費(米代・酒代各々三百文、味噌・醤油代五十文、子供の菓子代12文)
残金は六十八文位(毎日、仕事に出られるとも限らない)
家賃の低さで何とか生活できた

大工は専門職で日当は高い
日当約400文位、でも毎日仕事があるとは限らない
雨の日は休みで、生活の苦しさは棒手振とさほど変わらなかった
年間でみると、手元に残るのは現在の貨幣価値で十万円位
家賃の低さにより生活できた実情は同じ

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