ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

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『手をつなぐ子等』の映画化(その1):『手をつなぐ子等』の書誌的検討から

2023年02月04日 16時05分05秒 | 田村一二

「田村一二の『手をつなぐ子等』の書誌的検討ー戦中および戦後占領下における出版事情と検閲・修正」(『人間発達研究所紀要』第33号、2022年12月、pp.41-52)を書いた。『手をつなぐ子等』の戦中出版の事情や再版のどうこう、そして戦後の占領下での検閲・修正などを確認し、『手をつなぐ子等』と戦中戦後の社会の変化と同時にその文化的な価値を確認しようとしたものだった。いくつかのことがらについて、明確に出来たと思う。第一に、田村の戦中の作品(『忘れられた子等』昭和17年2月、『石に咲く花』昭和17年3月、『手をつなぐ子等』昭和19年1月)は、田村敬男という出版人の着目と存在に支えられていたこと、第二に、その中でも『手をつなぐ子等』の出版と再版はいくたびかにわたっており、戦中、そして戦後初期もふくめて広く普及されたことが注目されること、第三に、内容上の検閲の痕跡があるものの、しかし、親からの手紙の部分での復活などもあったこと。また、田村の作品は、基本的にはフィクションというより、特別学級などでの自らの経験が基礎となって作品化されており、修正の復活部分も事実に基づいたものであろうと思われた。

「書誌的検討」のおわりにかえて、映画『手をつなぐ子等』との関係について次のように言及した。

田村一二の『手をつなぐ子等』について書誌的な検討を行ってきた。その中で、田村一二の実践を評価し、それを戦中そして敗戦という歴史が急展開する過程において『手をつなぐ子等』をはじめとした田村一二の実践の重要性を、出版を通して支え続けてきた田村敬男という存在が浮かび上がってきた。田村一二と田村敬男の『手をつなぐ子等』は、すでに戦中、伊丹万作とのつながりを経て、稲垣浩監督の『手をつなぐ子等』(1948年3月公開)にもなる。第二次修正の出征した父親の手紙の部分の復活は、この映画の制作のプロセスでなされたものであるが、その手紙自体を復活させることへの田村自身の体験と思いがあると思われる(注1)。

伊丹万作は、1944年、田村一二と親交を深め、聞き取りを行って『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。伊丹は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」(後の近江学園の園歌となる)をつくってもいる。伊丹と共同で映画をつくってきた稲垣浩は、「万作」という文章の中で、それまでの映画の製作について述べた後、『手をつなぐ子等』の制作について次のように述べている(注2)。

「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督として私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」

伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」とし、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めた検討は、いまひとまわり大きく広がる『手をつなぐ子等』の世界を示唆している。他日を期したい。

注1、田村一二は、ある特別学級の担任からの聞いた話として、特別学級の担任へ戦地の父親から長い手紙がきたことを記している(田村一二「覚書帳より」『勿忘草』1943年9月、pp.38-39)

注2、稲垣浩「万作」『伊丹万作全集月報3』筑摩書房、1961年、pp.1-2


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