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教科書に載せたいアイドル史の100曲③(83年~87年「アイドルがいっぱい」)(ときめき研究家)

2011-02-03 00:00:56 | ときめき研究家
83年から87年頃まで、既出のアイドルの多くが競って活躍し、アイドルポップの全盛期を迎えた。

「花の82年組」で飽和状態だったのか、83年にデビューした新人からは大物は出なかった。
その中で、横浜銀蠅の妹分として売り出した岩井小百合(1983デビュー)の『ドリーム・ドリーム・ドリーム』(1983)は、スピード感いっぱい。伊藤麻衣子(1983デビュー)の『微熱かナ』(1983)は脆い感傷を巧みに歌った。森尾由美(1983デビュー)の『お・ね・が・い』(1983)は、可愛らしさを最大限に引き出した名曲。

一転して84年は大物がデビューした。80年、82年、84年と、アイドル隔年法則とも言われた。
菊池桃子(1984デビュー)は、『青春のいじわる』(1984)でデビュー。ささやくような声で、当時流行していたオメガトライブの女性版と言える洗練されたサウンドのアルバムを発表。アイドルとしての清楚な可愛らしさは空前絶後、それを失わないまま今日に至っている。
対象的にアイドルとして疾走し、燃え尽きてしまったのが岡田有希子(1984デビュー)。正統派アイドル路線を歩み、事務所の先輩松田聖子作詞の曲『くちびるネットワーク』(1986)がラストシングルとなった。
荻野目洋子(1984デビュー)は、硬質な声と確かな歌唱力を武器に上質なアイドルポップを歌っていたが、洋楽カバーの『ダンシングヒーロー』(1985)で大ブレイク、以後ポップシンガーとしての道を歩む。
長山洋子(1984デビュー)もアイドルとしてデビュー、『ヴィーナス』(1986)のような洋楽カバーでも高い歌唱力を示したが、後に演歌に転向し人気歌手となった。

85年には「隔年法則」が破られ、続々有望アイドルがデビューした。
斉藤由貴(1985デビュー)の『卒業』(1985)は、作詞家松本隆渾身の卒業ソング。生ぬるい感傷に流されないクールな知性を感じさせる。舌足らずな可愛らしい歌い方が個性的。
中山美穂(1985デビュー)はテレビドラマで人気が出て、その後息長く歌手・女優として活躍した。ダンサブルなヒット曲も多いが、代表曲としては歌い上げるバラード『You’re My Only Shinin’ Star』(1988)を挙げておく。
南野陽子(1985デビュー)は、神戸育ちのお嬢さんのイメージにぴったりの『話しかけたかった』(1987)が代表曲。その後も美しさを失うことなく女優として活躍中。
浅香唯(1985デビュー)は、マニア好みの名曲を出しながら、なかなかヒットに恵まれなかったが、ドラマ『スケバン刑事』でブレイク、代表曲『C-girl』(1987)でトップアイドル入りした。
芳本美代子(1985デビュー)は、ものすごい歯並びの愛くるしいルックスで、弾むようなポップスの名曲を連発。デビュー曲の『白いバスケットシューズ』(1985)は、アイドルポップかくあるべしという名曲。
松本典子(1985デビュー)は、無色透明で、強烈な色がないのが個性で、中島みゆきとユーミン、対象的な両者の楽曲をシングル曲として歌っているのはアイドル史上おそらく彼女だけだ。代表曲と言えるヒット曲がないが、デビュー曲の『春色のエアメール』(1985)を挙げておく。
佐野量子(1985デビュー)はいっそう地味だが、ほのぼのした癒し系アイドルとして定着。『四月のせいかもしれない』(1987)は、イメージには合わない悲しい別れの歌。
そして本田美奈子(1985デビュー)も85年デビュー。『1986年のマリリン』(1986)では、高い歌唱力でセクシーな魅力を見せつけたが、後にミュージカルに進んだ。2005年に白血病で逝去。

続く86年、87年デビューからも個性派が出ている。
島田奈美(1986デビュー)の『内気なキューピッド』(1987)はEPOのキュートな曲、西村知美(1986デビュー)の『ポケットに太陽』(1987)はほのぼの、水谷麻里(1986デビュー)の『ポキチ・ペキチ・パキチ』(1987)は不思議ソング。
伊藤智恵理(1987デビュー)は長い手足と抜群の歌唱力で『雨に消えたあいつ』(1987)を残した。そして酒井法子(1987デビュー)だが、代表曲は十代の元気な曲ではなく、ヒットした出演ドラマの主題歌『蒼いうさぎ』(1995)ということになる。

こうした魅力的なアイドル達が活躍しているのと同時に、アイドル界におニャン子クラブ(1985デビュー)の旋風が吹き荒れたのが85年~87年のことである。フジテレビの『夕焼けニャンニャン』で結成された素人集団が、秋元康プロデュースのもと、あれよあれよという間に、大ブームとなった。素人らしさを前面に出したおニャン子は、クラシック音楽で言えば民族音楽を取り入れたドボルザークやグリーグ、シベリウスなどの国民楽派だろうか。
デビュー曲『セーラー服を脱がせないで』(1985)以降、ヒット曲を連発。更に、メンバーが次々にソロやユニットとしてデビューし、ヒットチャートを席巻した。
初期おニャン子の象徴的存在の新田恵利(1986デビュー)の『冬のオペラグラス』(1986)は巧拙を超えた圧倒的なパフォーマンス。そのライバル的な存在で勝気な国生さゆり(1986デビュー)の『バレンタイン・キッス』(1986)は今も冬の定番ソング。フランス人形のような河合その子(1985デビュー)の『青いスタスィオン』(1986)はハイセンス。更に、正統派アイドル渡辺美奈代(1986デビュー)の『PINKのCHAO』(1987)、理知的なキャンパスガールイメージの渡辺満理奈(1986デビュー)の『深呼吸して』(1986)、そして空前絶後デュオうしろゆびさされ組(1986デビュー)の『うしろゆびさされ組』(1986)など、名曲も多数。
そしてソロデビューの真打ちは工藤静香(1987デビュー)。歌手として、元おニャン子という肩書無用の活躍をして、今はキムタク夫人だ。ヒット曲も多く、代表曲は迷うが、アイドル色がまだ残る『MUGOん、・・・色っぽい』(1988)とした。

おニャン子の評価には賛否両論あるが、アイドルの様々な可能性を示した壮大な実験だったことは確かだ。一方で、その実験の余波で、おニャン子解散後は、嵐の去った後のように、全てやりつくした満腹感・虚脱感から、アイドル全体の活力が徐々に失われていくことになる。(続く)

参考文献
・『歌謡曲名曲名盤ガイド1970s』(Hotwax)
・『歌謡曲名曲名盤ガイド1980s』(Hotwax)
・その他、LP・CDの歌詞カード、各アイドルのホームページ等
コメント (2)
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