WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

人間として生きることの意味

2008年05月08日 | このごろ思うこと

 よく「人間らしい(生活)」とか言うけれど、「人間」って何ゆえ人間であると思いますか?私は、人間の人間たるゆえんとは、その人が居たからこそ、この世にあるものが出現出来た、逆に言えばその人が居なければその何かは絶対にこの世に出現しえなかった、唯一かけがえのない存在、そういうものだと考えています。
てなことを入院してほんの少しですが「死」も意識して、「人間として生きることの意味ってなんだろう?」と徒然なるままに考えたのでした。(カワイイ看護婦(師)さんの後追いかけていただけではないのです)

 では、その人が居なければ絶対にこの世に出現しえないものってなんでしょうか?
例えば、お金や地位や名誉や、発明・発見、これらのものは別にその人でなくても誰かが具現化できうるものたちです。エジソンがいなくても誰かが電球を発明したでしょうし、ビル・ゲイツがいなくてもコンピューターは動いていたでしょう。村上さんでなくても誰かが上手いことやってたくさんのお金を稼いだでしょう。田村(谷)さんでなくても確実に誰かが金メダルを取れるわけです。
 もちろん、これらを実現させるには才能と努力は必要でしょう。私や貴方にも出来るというものではありません。しかし、誰かが確実に実現させることのできるものです。

 その人でなければ絶対にこの世に生み出せないもの、それは創作=芸術です。ピカソでなければピカソの絵は絶対に描かれることはなかったし、ウタダヒカルさんでなければ「オートマチック」は絶対にこの世に存在はしなかったし、村上春樹さんがいなければ「ノルウェイの森」は絶対になかった。科学はすでにこの世にあるものを知識として増やすだけのことですし、スポーツは人間の体の構造的限界を超えることは絶対に出来ません。
 何もこれらほど世に知られたものでなくてもいいわけです。私は趣味でチェンソーカービングというのをやっています。とても芸術作品とはいきませんが、その作品は私がいたからこそこの世に出現しえたということが大事なのであって、私がいなければ、私でなければ絶対にこの世には出現しえなかったということです。そういうものを私は残したいと思っていますし、それこそ一個の人間であることの最大の証、意味だと思っています。そして、この世にただ一つのものを残せたと自分が満足し納得できたとき、人間は「死」を恐れなくなると思います。

 アメリカの金持ちで、病気になり死を恐れるあまり治療法が見つかるまで、金にあかせて自分自身を冷凍保存する人たちがいるそうです。そうした人たちは、誰でも(「誰でも」というとちょっと語弊があるかもしれません、「誰かが」というのがより正確な言い方でしょう)残すことの出来るお金は残せたが、その人がいなかったら存在しえなかったものを残せなかったのでしょう。

 さて、そうした意味でもっと価値の高いものがあります。あたりまえのようですが、それは人間そのもの、とりわけ子供です。一人の人間は、その父親と母親とがそろわないと絶対にこの世には出現しえません。さらに一人の人間でも作れる芸術作品と違って、人間そのものは一人だけでは作れない、必ず特定の二人が必要です。さらに、その両親それぞれを作るのにそれぞれにまた二人の人間がいなければならない、2のn乗が延々と続くわけです。そういう意味で最も価値が高いと思います。(遠い将来、雌雄同体の人間が現れたり、無性生殖や人間の完全人工合成が出来るようになれば話は別ですが、そのときには生命や人間に対する価値観が現在とは全く異なってくるでしょう)
 だから私は、批判を恐れずに言いますが、DINKSなどといって子供を作らない人間(=価値0)より子供を作ってちゃんと育て上げた人間はそれだけで価値あり、偉いと思います。逆に、どのような事情・情状があろうと、人間とりわけ子供を殺してしまった人間は、殺した人(とりわけ子供)の何かを生み出す可能性と満足して死ぬ権利を奪った、負の価値を生み出してしまったという意味で人間ではなくなったことになります。もし私が「裁判員」になったらそのような人間には躊躇なく「死刑」票を入れます。

 今、「後期高齢者医療制度」なるものが大問題になっています。
医療に年齢差別を持ち込むことは良くないとは思いますが、そもそも保険やなんかで至れり尽くせり、できるだけ死期を遅らせること自体がほんとうに良いことなのか、疑問です。
 むしろ自分がいたからこそ生み出せたものをこの世に残し、満足し納得して「死」を受け入れられる「生」を送ることの方がずっと重要なことのように思えます。医療費が増えるのは、当たり前ですが「死にたくない」、あるいは周りの都合で「死なせたくない」からです(最近、死にたい人も増えているようですけど)。「死にたくない」のは、この世にまだ満足できるものを残していなくて未練があるからです。みんなが貧しく残したくても何も残せない人が多かった時代にはこの未練を神や仏で誤魔化してきました。
 現代は、金持ちの富だけを集めても、みんなが健康で生きている間にやりたいことをでき、30歳だろうが90歳だろうが満足して死ねるための社会を作ることが出来る時代です。そしてそれこそが医療費削減の最も本質的な策だと思います。
 例えば、個人が生きていくのに必要以上な5000万円以上の資産は国が接収し、その財源で週休3日自由取得制度、40歳定年制、定年先行取得制度(30歳~40歳まで定年を先行取得すると最終定年は50歳に延長)、現役年収の平均並み年金を保証する、その上で余れば医療などに回してもよい。
 医学、医療、医薬品にこれ以上ムダにお金をかけるのをやめ、病気・自然死を生き物の宿命として受け入れる。医学・医療なんてプラスのものは何も生み出さない。病気や怪我のマイナスを0に戻すだけ、あるいは近づけるだけの、本質的に金食い虫の学問なんですから。
 「死ぬからこそ生き物」なのだ」という名言もあります。当然、死亡率は上がり、平均寿命は低下し、総人口は減少するでしょう。しかし、自分だけは長生きしたいと欲を張らず、平均50歳くらいでどんどん次世代にバトンタッチしていけばよいのです。人類がこの地球の中だけでできるだけ永く存在し続けるためにはそれしかないでしょう。


ラップ

2008年05月08日 | ビンボー技
 ラップが巻き付いて出せなくなることがたまにある。セロテープなどで貼り出す方法は誰でも知っている。そこで新しくラップを開けた際、先端を引き出すために貼ってあるテープ(画像の青いヤツ)を、取り出し後も箱に貼っておくなどして取っておくといざというとき便利である。粘着力が手ごろで紙の箱に貼っておいても必要なときすぐ剥がせる。それだけ

田舎の食糧事情

2008年05月08日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 いよいよ地球規模での食糧危機が現実のものとなりつつある。日本でも遅ればせながら、食糧自給率向上の大合唱が始まっている。
 それでも、「いざとなったら都会はダメでも田舎へ行けばまだ大丈夫」なんて思っている人もいるのではないだろうか。私もなんとなくそう思っていた。大変な事態になる前に、田舎へ移住するか田舎との二重生活で自給自足をすればナントカなる、と勝手に都合よく思っていた。

 先日、田舎でBBQをしたのだが、「田舎には野菜なんか腐るほどあるだろう、田舎暮らしの知人からおすそ分けしてもらおう」と肉類だけ買っていった。ところが見事に当てが外れた。野菜は、すでにとうが立って“えぐみ”の出てきたオバサン(オジサン)?タケノコしかなかったのだ。聞けば、「今は野菜の端境期で食べられるものはない」とのこと。
 もちろん、今や日本ではどんなド田舎でも、金さえあれば車を走らせてスーパーで野菜(ただし地物ではない)はじめあらゆる食料を調達できる環境にはなっている。しかしそれでは、いつ食糧が店頭から消えるか分からない危ない都会となんら変わらない。
 農協の「野菜カレンダー」を見ると、ゴールデンウィーク頃が収穫期の野菜はキャベツ、タマネギ、ホウレンソウ、インゲン、小松菜、サニーレタス、...、と結構あるはずなのだが、今回BBQをした田舎は米作中心で、野菜はあまり作っていないようなのだ。都会人が遊び半分でやっている家庭菜園と同じで、ネギなどの常備野菜以外は、少量なら大半の野菜は作るよりスーパーで買った方が手間もかからないし安い。
 以前、大江のスーパーで長崎の人参を売っているのを不合理に思ったものだが、米農家は米だけをつくり、野菜農家は野菜だけを作り、農業はあくまで副業で勤めに出て金を稼ぎその他の食糧はスーパーで買う、効率重視の工業社会的分業が農業の世界にもできあがっている。野菜専業農家がハウスで多くの石油燃料を消費して出荷調整しているおかげ?で、スーパーへ行けば年中野菜が手に入る。しかし、巷間言われているように石油燃料もいずれ逼迫してくるだろう。

 価格が高かったり必要度が低ければ買わなければよいという、市場任せにできる工業製品と違って、食糧は生きるために一定量は絶対に必要なものである。現在のような分業農業によって食糧供給を安定的に持続させるためには、政治的な生産者・消費者双方への価格保証制度は不可欠だ。しかし、「価格保証なんかすれば農家は制度に甘えるし、また新たな利権構造を生む」という声もあるだろう。それも一理ある。
 そこで、生活の最小単位である世帯ごとに市場と関係なく食糧自給できる制度として、「平成の農地改革」をしてはどうだろうか。せめて自分達の食べる分くらいは自給したいと考える人達がいても肝心の農地を持っていない一方で、多くの遊休地を抱えながら貸し出しこそすれ手放そうとしない不在地主がいる。不在地主のほとんどは、土地の奪い合い・私有化の歴史の過程でたまたま先祖が自分のものとした土地をタナボタで引き継いだ人たちだ。
 そんな土地私有者から、生活のために必要最小限の50~100坪程度の土地を残して余剰の土地を全て国が接収し、一人当たり100坪程度を日本全国各世帯に人数に応じて食糧自給生産用地として再配分し貸し出すのだ。10年ごとくらいに世帯人数の見直しと農地の再配分を行う。
 「何をバカみたいなことを」と思われるかもしれない。しかし、そのくらいの改革を敢行しなければ根本的な解決はできないだろう。「官僚、役人」に農政の責任を押し付けて逃げ切ろうとする姑息な政治家もいる。確かに腐りきった「官僚、役人」は多いかもしれない。がしかし、そんな連中が発生するのも土地の私有・相続制度によるウマミ・利権構造があればこそだ。