アキバ無差別殺傷事件についてTVである犯罪心理学者サンが、「学生運動華やかなりし頃は全共闘や新左翼が、社会から落ちこぼれた若者のガス抜きの受け皿になっていた。現代はそうした受け皿がなく、欲求不満の捌け口が他人への無差別な攻撃性となって現れている」とコメントしていた。
それはちょっと違うだろう。60年代後半というと大学進学率はわずか10数%。当時、全共闘や新左翼運動を主導していた学生連中は、いわばエリート予備軍(もしくはすでにエリート)だったのであって、決して「欲求不満の落ちこぼれ」では無かった。実際、彼ら「革命戦士」の多くはこっそり旗を降ろして、立派な「企業戦士」となっていった。(本稿の本題からはそれるが、全共闘・新左翼については、当事者は黙して語らず、あの体制側機関紙「産経新聞」が「総括」を試みているのは興味深い)
また、現代の若者の受け皿を特徴付けるものとして「ネットバーチャル社会」をあげる論評もあった。確かにそういう一面もあるだろうが、これまた本質的ではないと思える。
今日、あるTV番組で「人の脳の錯覚」が取り上げられていた。
昔から「だまし絵」という分野がある。見方によって若い女性に見えたり老婆に見えたりする絵や壁に飾られた額が実は描かれたものであったり。だまし絵を芸術にまで高めたルネ・マグリットなどが有名だ。
こうした二次元的「だまし絵」から発展して、最近では立体的な「だまし絵」も登場している。TVで紹介されていたのは、ペーパークラフトの恐竜。動くはずのない紙の恐竜が、どの方向から見ても顔を動かして観察者の方に目線を向けてくるように見えるのだ。そのからくりは、恐竜の顔で鼻や額など凸である(と人間が思い込んでいる)部分と、目の周囲など凹である(と人間が思い込んでいる)部分とが逆に作られており、その逆凹凸が錯覚を引き起こすのだ。
同じような例で、ビル街の絵。二次元的な古典的遠近法では、道の先やビルの遠端などは遠くへ行くほどだんだん狭くなるように描かれる。6月13日の写真、私の足が長く見えるとしたらこれもまたカメラの特性を利用した“錯覚”だ。
この古典的二次元遠近法の絵に、さらに遠近を逆にした三次元的凹凸を付け加えるとどうなるか。観察者が動くと、まるで絵の中のビル街を歩いているように景色も動き変わる(ように見える)のだ!。まるでテレビゲームのディスプレイに展開されるバーチャル世界のようにだ。逆遠近法というのだそうだ。
人間の脳には、
1.ものをいつも見慣れているふうに見ようとする。
2.同じものを見続けていると疲れてきて、それに対する集中が弱くなり、逆のものを見たがったり認識しようとする。
3.遠くにあるものは荒い輪郭を見るが細かい輪郭は見えない。逆に、近くにあるものは細かい輪郭は見えても荒い輪郭は見えなくなる。
といった特徴があるらしい。そこからあるがままの本質ではない、実際にはないものを見たり認識したとする“錯覚”が生まれる。
考えてみると、社会現象や政治、経済、環境問題などあらゆる事象に対しても、人間の脳は錯覚を起こしている(あるいは起こさせられている)可能性が十分にある。冒頭の学者センセイの浅薄な論評などそうした“錯覚”の典型だ。少なくとも今、自分が見聞きし感じたりしていることが実は“錯覚”ではないのか、いつもちょっと立ち止まって考えてみること、要するに「世の中を常に疑い、斜めに見る」ことは実は大事なことなのだと思う。
最後に、TVでの交通事故回避実験。これは“錯覚”の域を超えているとは思ったのだが。
ある処置をされた歩行者は、後から近づいてくる車(実験では自転車)を必ず避けるようになる。被験者の歩行者は、頭に特殊なヘッドホンを装着している。そのヘッドホンには左右に電極が付いており、第三者がリモコンで無線信号を送ると電極を通して歩行者の内耳に微弱な電流が流れるようになっている。人間は内耳(三半規管?)で平衡感覚をコントロールしているのはよく知られているが、微弱電流が流れると+側に重心が動いたと“錯覚”し無意識に歩く方向を電流の流れる方向へ変えるのだ。
いくら交通事故が避けられるといっても、皆ヘッドホンを付けて歩き、事故が起きそうになると監視システムから無線で命令が送信され、無意識に歩く方向を変えるなんて、まるで「マトリックス」の世界だ。オウムのヘッドギアはバカバカしくてむしろ微笑ましかったが、こいつは不気味この上ない。しかし、こんな研究もされていることは知っておいた方がいい。