「今私がいるこの世界は果たして本当に実在する現実なのだろうか」誰もが一度はフッと頭をよぎったことのある疑問ではないだろうか。
バーチャルゲーム機のモニターを頼まれた青年は、現実とバーチャル2つの世界を行ったり来たりするうちに一体どちらの自分が実在なのか分からなくなり、やがて自我の崩壊の危機にさらされる。
クラインの壺とはメビウスの環の三次元バージョンで、中と外の境界が無い壺、出口が入口でもあり言い換えれば出口も入り口も無く入ったが最後永久に出ることができない、そもそも外の世界があるのかどうかも分からない壺なのだ。イメージとしては壺の口がぐるっと曲がって胴体につながっている図がよく描かれている。
現実とバーチャルとの往来(どちらが現実かも分からないのだが)をモチーフとする作品はその後数多く発表されている。小説発表から10数年後、似たような発想の映画マトリックスが公開された。一世を風靡した鈴木光司の「リング」。シリーズは「らせん」「ループ」と続き「定子の呪い」は実はバーチャル世界の出来事だった、という「夢落ち」ならぬ「バーチャル落ち」というような拍子抜けの展開を見せる。鈴木が「リング」で展開してみせた新しいホラーの世界とその筆力に感服した私は、著者がこの不条理をどう収束させるのか大いに期待してシリーズを読み進めたのだが「ループ」の「バーチャル落ち」にはがっかりさせられたものだ。
「クラインの壺」は現実とバーチャルの交錯物というジャンルを最初に確立しただけでなく、あえて落ちをつけずに自我の崩壊という究極の心理ホラーの手法をも同時に世に問うた記念碑的作品であった。
そもそも現実なるものは実在するのだろうか、3つ以上の複数のバーチャル世界を生きる自我は現実ではない想念としてでも存在しうるのだろうか。存在するのならこれこそ多次元の世界かもしれない。
新しい宇宙論の一つに「無限の複数世界が並行して存在しており時間とはその間を次々に移動することなのだ」という説がある。しかし、無数の世界を意思に関係なく移動させられる存在というのは、確かに時間を説明できても「自我」であると言えるだろうか。あるいは意思を持って移動する世界を選べるというのだろうか。そもそも宇宙は、物質は、人間は何のために存在するのだろうか。「宇宙がそれ自身だけで存在していても意味が無い。宇宙はそれ自身を認識されてこそ存在する意味がある。おのれ自身を認識させるために宇宙はその意思によって何億年もの年月をかけて人間を生み出したのだ。すなわち宇宙には意思がある」とする説もある。宇宙と人間の存在する意味、人間の意識は実際には無いものを仮想する単なる想念なのか、それともこの世界では単なるバーチャルな想念であっても別の世界には現実として存在するものなのか。そこのところを解き明かしてくれる力量のある小説家よ出でよ。似て非なるものに多重人格ものがあるがそんなものは私でも思いつく。
バーチャルゲーム機のモニターを頼まれた青年は、現実とバーチャル2つの世界を行ったり来たりするうちに一体どちらの自分が実在なのか分からなくなり、やがて自我の崩壊の危機にさらされる。
クラインの壺とはメビウスの環の三次元バージョンで、中と外の境界が無い壺、出口が入口でもあり言い換えれば出口も入り口も無く入ったが最後永久に出ることができない、そもそも外の世界があるのかどうかも分からない壺なのだ。イメージとしては壺の口がぐるっと曲がって胴体につながっている図がよく描かれている。
現実とバーチャルとの往来(どちらが現実かも分からないのだが)をモチーフとする作品はその後数多く発表されている。小説発表から10数年後、似たような発想の映画マトリックスが公開された。一世を風靡した鈴木光司の「リング」。シリーズは「らせん」「ループ」と続き「定子の呪い」は実はバーチャル世界の出来事だった、という「夢落ち」ならぬ「バーチャル落ち」というような拍子抜けの展開を見せる。鈴木が「リング」で展開してみせた新しいホラーの世界とその筆力に感服した私は、著者がこの不条理をどう収束させるのか大いに期待してシリーズを読み進めたのだが「ループ」の「バーチャル落ち」にはがっかりさせられたものだ。
「クラインの壺」は現実とバーチャルの交錯物というジャンルを最初に確立しただけでなく、あえて落ちをつけずに自我の崩壊という究極の心理ホラーの手法をも同時に世に問うた記念碑的作品であった。
そもそも現実なるものは実在するのだろうか、3つ以上の複数のバーチャル世界を生きる自我は現実ではない想念としてでも存在しうるのだろうか。存在するのならこれこそ多次元の世界かもしれない。
新しい宇宙論の一つに「無限の複数世界が並行して存在しており時間とはその間を次々に移動することなのだ」という説がある。しかし、無数の世界を意思に関係なく移動させられる存在というのは、確かに時間を説明できても「自我」であると言えるだろうか。あるいは意思を持って移動する世界を選べるというのだろうか。そもそも宇宙は、物質は、人間は何のために存在するのだろうか。「宇宙がそれ自身だけで存在していても意味が無い。宇宙はそれ自身を認識されてこそ存在する意味がある。おのれ自身を認識させるために宇宙はその意思によって何億年もの年月をかけて人間を生み出したのだ。すなわち宇宙には意思がある」とする説もある。宇宙と人間の存在する意味、人間の意識は実際には無いものを仮想する単なる想念なのか、それともこの世界では単なるバーチャルな想念であっても別の世界には現実として存在するものなのか。そこのところを解き明かしてくれる力量のある小説家よ出でよ。似て非なるものに多重人格ものがあるがそんなものは私でも思いつく。
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