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てらまち・ねっと



 今日は田舎暮らしのことを新聞各紙でひろってみたい。
 特集コーナーがある新聞も。田舎暮らしの広がりの現われだと思う。

 最初に、九州のテレビがある人を載せていたので紹介。

 かつて、農薬の空中散布民問題で取り組み始めたとき、最初に手助けしてくれたのは大阪大学の植村振作さん。
 有機農業や市民運動はやっていたものの、「農薬散布と環境問題と市民運動のセット」の仕方には、まだ、うとかった。
 植村さんは、すぐに岐阜まで来てくれた。
 飛散・残留農薬の農薬分析のことの解説も。
 それらに反応して他の大学の専門家も協力してくれた。

 植村さん応用物理、環境科学専門、大学を退官して、故郷の九州の田舎に戻っておられることは、以前送られて来た年賀状で知っていた。

 昨年、突然、その植村さんから電話がかかってきた。
 「今、住民訴訟を本人訴訟でやってるんですよ。
  裁判所が反応しないんで、どうしたらいいの? 」

 懐かしく & お世話になった人の電話。
 東京の知人に植村さんのメールのアドレスを教えてもらって、メールした。

(関連・ 「農や暮らし」を主題にした 朝日新聞・県内版・コラム /「いきいきセカンドステージ」)

新・田舎暮らしのすすめ
天草テレビ から
ふるさと天草から 環境を訴える
ダイオキシンの元凶を暴く

●第2回目は元大阪大学大学院理学研究科助教授、植村振作さんです。 

車の排気ガスや工場からの排煙、スモッグで汚れた空と空気。
喘息やアトピーに苦しむ子供達。
お父さんはすし詰めの満員電車で毎日通勤。
大企業に勤めていても、いつ自分の身に降りかかるかも知れない会社の倒産やリストラ。
そして便利さと引き替えのストレスだらけの都会生活。

これらに嫌気がさして、地位や名誉、仕事も全部捨てて、
自然と人間らしさを求めて、都会から田舎の天草島に移り住んだ人たちをご紹介する新コーナーが始まりました。

農薬、発ガン性物質のダイオキシンなど環境問題で行政や企業を正し、救済、支援する市民運動を手助けしてきた元大阪大学大学院理学研究科助教授、植村振作さんが2年前、退官を機にふるさと天草に戻ってきた。

植村さんは電車が嫌いで、騒々しい、排ガスの臭いのする都会からきれいな空気の天草へ「必然的に帰ってきた」と話す。

1936年熊本県本渡市生まれ。
大学では応用物理、環境科学が専攻。

生活環境に潜む農薬汚染を解明し、国の農薬行政を正す訴訟を支援したり、合成樹脂廃棄物問題等で市民運動を続け、環境問題の草分け的存在で知られる。

天草へ戻ってからも「生活環境を汚染する化学物質の規制に関する法律」の制定運動で全国を駆け回るなど、精力的に活動を続けている。

特にゴミ焼却時に発生するダイオキシンはその発生源について、塩化ビニール工業界と大論争を展開している。

塩ビ工業界の主張する台所ゴミに付着する食塩が加熱され分解し、ダイオキシンの元となる塩素を発生させるとする「食塩原因説」の実験結果を、植村さんは「悪知恵を持った者がデザインしたインチキな実験」と主張。
そのプロセスを暴露した。

食塩を加熱しても通常、塩素は発生しないが、塩ビ工業界の実験では食塩に吸湿性のある「活性白土」を混ぜることによって塩素を発生させる実験を行い、市民には「活性白土」を混ぜたことを隠していたという。

(食塩に「活性白土」を混ぜ、加熱すると塩素が発生する実験)

植村さんはゴミ焼却で塩ビを燃やさなければ、ダイオキシンの発生は10分の1に減るといい、「塩ビの使用をやめて欲しい」と主張する。

母乳から検出されるダイオキシンはかつて農薬散布されたものが現在、人の体内に蓄積しているもので、いまゴミ焼却炉から出ているダイオキシンはいずれ人体を汚染し、次の世代が危険にさらされることになる。

植村さんはダイオキシンの発生原因を絶つ「予防原則」が必要で、国のゴミ処理方法は高額の焼却炉建設に多額の税金を投入しているだけで、ダイオキシン対策の問題解決にはなっていないともいう。

田舎にいても原稿はインターネットで送れるし、不便さは感じていない。
むしろきれいな環境の中で、ミミズクの巣を発見して、その親子を写真に収めたり、原稿を書きながらその合間に、竹で自宅の垣根を作ったりして、田舎生活を楽しんでいる様子。

自宅のある本渡市の市の鳥がカワセミだが、市に問い合わせても観察できる場所を知らなかったという。
天草も都市化の波で、山や川が宅地化され、自然が破壊されつつある。
植村さんはカワセミが住めるような環境であって欲しいと、ふるさと天草から訴え続ける。

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  読売新聞 いいもんだ田舎暮らし 一覧
● 福島・いわき パン作りが新たな出会いを生んだ 2008年5月14日 読売新聞
  【前編】のんびり一転、注文に応じる日々
郵便局員のひと言で多忙な田舎暮らしになった 65歳で退職するまで、パン作りとは無縁だった多田秀男さんが、手作りパンのお店を開業したのは、全くの偶然だった。
 退職を3年後に控えた62歳の時、「リタイア後は田舎に移住したい。緑の多い所で、のんびり暮らしたい」との夢をかなえるため、理想の土地を見つけ、家も建てた。あとはのんびり過ごすだけでよかった。しかし、移住後1年、郵便配達員のひと言が多田さん夫婦の田舎暮らしを大きく変えた。第二の人生がパン屋として始まったのだ。

生活の糧とならずとも、生きがいに
森の前の自宅。パン工房などは後から増築した 三郷ジャンクションから常磐自動車道を154キロ、いわき勿来インターチェンジを降りて田人(たびと)方面に向かう。鮫川の支流である荷路夫川(にちぶかわ)に沿って走ると、周囲はまさに里山風景。畑や田が広がり、その中心に集落がある。遠くには標高のそれほど高くない山々と森。さわやかな風に誘われて車を止めれば、田んぼからカエルの合唱が聞こえてきた。

 多田秀男さん、明乃さん夫婦が移住したのは、いわき市田人町の荷路夫集落から5分ほど森の中を上った、自然に囲まれた土地である。

 最初はのんびり過ごす予定だったが、移住してから5年、パン作りに忙しい毎日を過ごしている。水、木、土曜日の3日間は配達日と決め、周辺の集落だけではなく、約15キロ離れた植田駅かいわいまで軽自動車を走らせる。田畑の横を抜け、県道を走り、注文してくれた家に着くと、「パン屋です!」と、大きな声であいさつ。秀男さんが67歳になって始めた商売だ。

 「ガソリン代も高いし、本当は午前中だけの配達にしたいのです。しかし、高齢者の注文が多いので、感謝の気持ちも込めて、多少のわがままには応えないと」と、パンを届けた後で秀男さんが言った。

 食パンは1.5斤で380円、バターロールは1個80円、長さが20センチほどあるセサミコロンが400円。10種類以上のパンが、パソコンによる手作りのパンフレットに描かれていた。完全予約制だが、口コミでおいしいパンのうわさが広がり、配達範囲は広がっていった。

 「うちのパンの値段は、材料費に基づいてつけた価格。配達手数料やガソリン代は入っていません。だから、パンの販売で生活していこうと思っても無理。光熱費などの足しになる程度です。私たちは年金生活者です。しかし、この仕事によって人との出会いと、大きな生きがいを感じました」

口コミで広まった「パン屋開業」
週に3日、軽自動車を駆ってパンの配達に出かける 今や生活の中心になったパン作り。「手作りパン工房 すぎの子」が行っているのはパンの製造販売だけではない。手作りパン教室も開催しており、近隣の主婦たちがやって来る。

 「私はずっと看護師をしていましたが、病院勤めの合間にパン作りを覚えたくなって、近所のパン屋さんで習いました。あくまで趣味の一環としてのパン作りでした」と、明乃さんが話す。

 移住してからもパン作りを楽しんでいた。ある日、郵便配達員が言った。

 「おいしそうなにおいですね。いったい、なにができるのですか?」
 「ちょうどパンが焼けました。召し上がってみますか」と、親しくなっていただけに、出来たてのパンを差し出した。

 口に含んだ後、彼は目を輝かせながらこう言った。
 「これはおいしい! いつも食べているパンとは全然違う。今度、私のためにも焼いてください。それよりも、パン屋を始めればいいのでは……」 

 田舎の口コミネットワークは想像以上の早さで広がっていく。「あの家のパンがおいしい」「今度、パン屋を始めるらしい」。夕方にはそのうわさが近隣に広がっていた。その発信源はパンの味に魅了された郵便配達員だった。

 「私にもパンを焼いてください」「パンの焼き方を教えてください」。開店の予定もないのに、人が訪ねてくるようになった。

 「こうなったら期待に応えなくてはいけません。日立まで半年ほど通って、パン教室を開校するための資格を取得しました」と明乃さんが言えば、「8畳の増築用キットを買ってきて、母屋の裏側に隣接させてパン工房を造りました。基礎に20万円、キットは80万円。工事は友人に手伝ってもらい、自分たちで行いました」と、秀男さん。

 移住1年後、パン工房の開店準備が整った。
  移住者プロフィル  (以下、リンク先記事を) 

●毎日新聞 田舎に行こう アーカイブ  田舎に行こう アーカイブ
●子ども農山漁村交流プロジェクト:高山市を候補地に 教育の体験活動の場 /岐阜   毎日
 ◇総務省など3省が連携--少子化が進む山村地域に活気を
 国が来年度実施する「子ども農山漁村交流プロジェクト」の受け入れ候補地に、高山市が名乗りを上げた。市域の豊かな自然や体験交流施設などを紹介するパンフレットやモデルプランを作成。広域市町村合併で豊富になった資源を活用し、子どもたちの教育に役立つ体験活動の場を提供する。少子高齢化が進む農山村地域に元気を呼び戻す狙いもある。【奈良正臣】

 このプロジェクトは総務省と文部科学省、農林水産省が連携。子どもたちが農山漁村で宿泊体験をしながら、学ぶ意欲と自立心、豊な人間性や社会性をはぐくむことを目的としている。文科省は今後、5年間で全国の小学校2万3000校の参加を目標にしている。また農水省は各都道府県で受け入れ側のモデル地域を設け、拠点施設の整備を支援する。約500のモデル地域設置を目指している。来年度は全国の100~200校程度がプロジェクトに参加するとみられている。

 高山市は昨年から、受け入れ可能な交流施設や自然体験の場などをリストアップ。農業や自然体験交流施設の紹介、四季折々のモデルプランを盛り込んだパンフレットを作製し、全国の教育委員会に発送した。

 昨年3月に設立したグリーンツーリズム推進協議会「ふるさと体験 飛騨高山」が窓口となって、3泊4日前後の教育効果の高いプログラムを企画。交流施設の中には廃校になった小中学校や農村民宿、既存の体験センターなどが含まれており、こうした施設を拠点に農業、生活文化、食文化、環境活動など、さまざまな体験を提供する。
 市地域振興室の西田純一室長は「子どもたちが伸び伸びと安全な体験活動ができるように、市域が一体となって積極的に取り組みたい」と話している。

●【暮らし】
続 途は続くよ 農業の夢を実現 近沢行洋さん 家族と別々、田舎暮らし
   中日 2008年5月20日
 「元気に育ってくれよ」。元会社員の近沢行洋さん(54)は植えたばかりのナスの苗を慈しむように見つめる。妻と四人の子どもがいる東京都調布市の家を出て、水戸市近郊に借りた五ヘクタールの土地でニンジンやジャガイモ、コメなどを作っている。

 農家にあこがれた原点は少年時代。父親の転勤で東北地方に住んでいたとき、農作業を手伝う友人の姿があった。日に日に成長し、豊かに実る野菜やコメ。「丹精込めると一粒の種からその何百倍も収穫できる」。その魅力に取りつかれた。

 近沢さんは倉庫会社などを経て、三十八歳で有機野菜の小売会社に就職。少年のころの夢を思い出した。「いずれは農業を。食べるものを自分で作ってこそ真の自立」

 四十八歳のとき、新しく移った農業関係会社の経営方針に違和感を覚えて辞めた。知人から学習塾経営を任されたが、「妻にも収入がある。この仕事は子どもが成人するまで」と決めた。

 三年後、末の子が二十一歳になったのを機に家を出て、水戸市内の農業専門学校に入学。一昨年十一月、卒業と同時に、地主に交渉して無償で借りた土地で働き始めた。背丈より高く伸びた雑草の処理に一カ月以上かかった。

 貯金は四百万円。収入が安定するビニールハウス栽培をしようと、国の新規就農支援制度の無利子融資を申し込んだが「そんな貯金額で本当にやる気があるの。融資には地元の保証人が必要」と突き放された。「引っ越したばかりで保証人なんかいない。就農支援とは名ばかり」と憤る。少ない貯金から百万円を使い中古の農業機器をそろえた。

 家探しにも苦しんだ。機器を置ける納屋付きの空き家に目星をつけたが、貸してくれたのは納屋だけ。住居は二キロ離れた別の場所になった。

 毎日、夜明け前から日が暮れるまで働く。熱中症で倒れ病院で点滴を受けたことも。慣れない家事もきつい。「ボロぞうきんのようになって帰って、ばったり。目覚めたら朝だったこともあった」

 そんな苦労をしても、雨不足がたたり、ニンジンの収穫は計画の半分程度。稲は三分の一が実らなかった。

 隣接地の雑草取りまで率先してやった。そのうち、地元の農家が「頑張っているから家を貸してやって」と口を利いてくれて、念願の納屋付き住居を借りられた。「見ていないようでみんな見ている。本気だと認めてもらえれば、親切な人ばかりだった」

 中国産作物への不信も追い風になり、成長不良の作物でも売れた。それでも赤字。貯金を取り崩す暮らしが続く。

 別居中の妻のあかねさん(51)は、夫にあきれている。

 「そりゃあ勝手な人だと思いますよ。『農業をやるには今しかない』って無理やり出て行ったんだから」。夫が農業への夢を語り始めた十九年前、「いつ出て行くか分からない。私が家計を支えなければ」と危機感を感じ、外資系保険会社でパートを始め、三年後に正社員になった。「四人の子どものうち三人は私立大学生。農業をやるなら、結婚しないでやってほしかった」と不満を口にする。一度も夫の畑を見に行ったことはなく、定年後も夫の元にいくことは考えられないという。「私は都会型の人間で、田舎暮らしは無理。友達もいるし、趣味の和太鼓も続けたい」
     (渡部穣) (以下、リンク先記事を)

●種蔵集落(飛騨市)-岐阜新聞ここがおすすめ!古里の旅  【岐阜新聞 2007年12月21日掲載】
 富山県境にほど近い飛騨市宮川町の種蔵集落。山あいの里に板倉と石積みの棚田が点在し、日本の原風景ともいうべき景観が広がる。
 板倉は、農家が火災によって家財や穀物が類焼するのを防ぐため、母屋から離れた場所に建てる木造倉庫。種蔵地区には築80年から100年以上経過したものが20棟残っており、2001(平成13)年には環境省の「香りの風景百選」にも選ばれた。
 飛騨市は数年前から、種蔵地区で昔ながらの風景と農山村文化を生かした観光開発を進めている。都会の人たちに田舎暮らしを体験してもらおうと、宿泊用の古民家と板倉3棟を地区の中心部に新たに移築。来年夏のオープンに向けて、板倉風の公衆トイレや駐車場も整備した。 (以下、リンク先記事を)

●【風のまにまに 南会津雑記】 (1)山光る 生きていることを実感  朝日 2008年04月11日
南会津の山並みと民家。3月末でも根雪が里を覆う=3月日、南会津町針生地区

岡村 健さん
 各地の便りはサクラの見ごろを告げている。でも、住んでいる南会津の山間部はウメもサクラもまだまだ先である。

 「ああ、春が来る」。雪の中の暮らしでそう感じるのは2月の末から3月初め、たまの晴れの日に遠い山がまぶしく光る時だ。稜線の雪が半逆光の陽光に輝く。零下10度の寒さが続き、毎日のように雪に降り込められていても、太陽はいつしか高度を上げ、光を強めているのだ。天体は悠久の運行を続け、季節は確実に巡って来る。

 新聞記者生活の定年を区切りに、首都圏のマンションを処分してここに移住した。今年で10年。選択は間違っていなかった。いや、正しいとか誤りだとか言う以前に、今はここ以外の生活を考えることが出来ない。夕食時のわが夫婦の会話で「あのまま首都圏にいたら、いったい何をしていただろうねえ」と何度繰り返されたことだろう。

 (略) それでも、僕はすこぶる元気だ。なぜなら、次々と降りかかってくるさまざまな問題がよく見えるからだ。さらに、難題を解決しようと努力している人が周りに必ずいる。だからといって、解決できることは決して多くはないが、そういう努力を続ける生き方こそ、豊かな暮らしと呼べるのではないか。

 山里の風物に囲まれて日々を送る喜びに加えて、心豊かに生きる人たちと知りあえる。そして時には、わが身がいささか役に立つこともある。人生の終盤を過ごすにふさわしい場所がよくぞ見つかったものだと思う。

 ここの暮らしは、人が天体の巡りの中で生きていることを実感させてくれる。自然の中で、人はどうふるまえば良いのか、何をやってはいけないのか、も教えてくれる。

 穏やかに風が吹く。宇宙の働きが産み出す4月の風に吹かれて、そろそろ畑の段取りを考えるとしよう。

 ◇筆者はこんな人
 岡村 健(おかむら・けん)1938年生まれ、新潟市で育つ。フリーライター、元朝日新聞記者。88年から約2年間、福島支局長。2年、定年退職に合わせて湘南から南会津に移住した。朝日新聞福島版で「山里ぐらし」「ふくしま見聞録」を連載、05年に「旅のつづきは田舎暮らし-僕とカミさんの定年後・南会津記」(風土社)を出版。


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