歴歩

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中国・法王寺 釈迦舎利蔵誌「円仁の石板」は偽物か?

2010年08月27日 | Weblog
 今朝の読売新聞で『「円仁の石板」偽物の可能性』とのタイトルで、先月に公表された法王寺(河南省登封市)新発見の石板は、寺側が所有している拓本とは別物であるが分かったと報じている。指摘したのは書道史研究者の飯島太千雄さん。
 ①公表された石板の写真(文字面縦約40cm、横約59cm)と ②栃木県大慈寺に法王寺から贈られた拓本(文字面縦38cm、58cm)では、文字面の大きさに差がみられること、そして、外枠の文様と文字の間隔が異なるとしている。
 ①は、法王寺の門の右横の塀にほかの石板とともに嵌め込まれており、入り口から右側2番目、上段に「円仁の石板」がある。
 ②は、出版されたほうの拓本としているので、香港延仏国際慈善基金会発行『大法王寺国宝仏骨舎利』の中にもある拓本と推定される。
 ①は、中国网络电视台からインターネットで動画配信されている「法王寺古刹秘史」から、その石板の映像が得られた。
 ②は、7月16日(金)に國學院大學にて行われた、「第11回入唐求法巡礼行記研究会」(注1)の報告会にて配布されたA3資料と同じ推定される。
 ①、②を比較すると、確かに前述のとおりであるし、一番初めの文字『釋』と外枠の文様との位置関係が大きく違っていることがわかる。
 飯島さんは、「石板は捏造品を作るための試作品とその完成品なのではないかと」と推測している、とする。
 「円仁の石板」は舎利物の発掘調査で見つかったものでなく、十数年前前後に寺の人間によって出土し、価値がわからずしばらくそのままになっていたとし、さらに、出土時に担当していた僧侶が亡くなっていて追跡が難しいようだが…。
[参考:読売新聞、(注1)での配布資料、中国网络电视台・動画「法王寺古刹秘史」]

「円仁の石板」偽物か、寺出版の拓本と別物(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ユース・情報
 2010.7.16法王寺/釈迦舎利蔵誌と円仁、迦陵頻伽盒
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久留米市・神道遺跡 第26次発掘調査で新たに13基の埋甕を発見

2010年08月27日 | Weblog
 久留米市は26日、同市御井旗崎1丁目の神道遺跡(しんどういせき)から、新たに12基の埋甕(うめがめ)を発見したと発表した。 過去の出土分を合わせると18基で、1カ所の遺跡からの埋甕出土数は県内最多となった。
 埋甕は鉢形の土器を地面にそのまま埋めたもの。今回出土した埋甕の大きさは深さ約50cm、最大直径約40cm。
 これまで、縄文時代の縦穴住居や幅約5mを溝などが見つかっている。
 遺跡の近くには高良山があり、わき水が豊富にあったとみられ、3000年以上前から人間が生活拠点にしていたと考えられるという。
 28日午前10時~11時、地域住民向けに現地説明会が開かれる。
[参考:毎日新聞、福岡県庁HP]



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松江市・キコロジ遺跡 平安初期の「賀太」と書かれた墨書土器が多数出土

2010年08月27日 | Weblog
 松江市教委は26日、キコロジ遺跡(同市朝酌町)で、平安初期(9世紀頃)の墨書土器29点や漆器の皿3点、土製の馬などが見つかったと発表した。
 墨書土器は、直径約12cm、高さ約1.3cmの須恵器。「賀太」と書かれている土器が大半を占めており、「出雲国風土記」など古代の文献には見られず、複数の筆跡があるため、地名か人名などの固有名詞の可能性が高いという。ほかに、「南」「草」の字など。
 墨書土器は、国府跡など役所の跡から見つかる例が多いが、集落跡などでまとまって出土するのは希という。
 このほか、古墳時代後期(6世紀後半頃)の漆塗りの刀の柄頭2点も出土した。1点は未完成品のため、周囲に工人がいた可能性がある。緑釉陶器なども見つかり、周辺に豪族などの有力者が住んでいたことを示す貴重な発見とする。
 ほかに、田下駄や火おこしの道具などの木製の生活品も多く見つかった。
 同遺跡は、長善寺(ちょうぜんじ)ため池改修に伴い5月から調査。低湿地にあり、周りの平地から転落したものが遺物として残ったとみられる。
 出土品の一部は28、29両日9時~17時、朝酌公民館(同市朝酌町92-1)で展示される。午前10~11時には調査担当者による調査結果の発表もある。
[参考:読売新聞、山陰中央新報、中国新聞、NHK、松江市HP]
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舞鶴市・中山城跡 16世紀代の主要な郭の遺構が出土 一色氏城主説強まる

2010年08月27日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは23日、舞鶴市中山にある中世の山城「中山城跡」(面積約9千㎡)で、平坦地「郭(くるわ)」を斜面に階段状に設けて防御を固めた16世紀代の主要な郭の遺構が見つかったと発表した。
 主要な郭跡は標高約60mにあり、南北約40m、東西約17mの規模。西側の斜面に階段状に3つの郭を設けて、1つには近くを流れる由良川を見張るためのものとみられる建物を建てて、防御を固めていたらしい。
 山頂の郭から、住居や倉庫として使われた掘っ立て柱建物4棟と柵2条の跡見つかった。由良川に面した斜面の郭には見張り台跡とみられる深い柱穴が掘られており、由良川を往来する船舶を監視したものとみられるという。 郭からは武具や陶器など約150点も見つかった。戦国の山城らしく、刀の柄頭や甲冑の部品のほか、唐津焼のすり鉢や香炉、料理を盛ったとみられる明代の染め付け皿、天目茶碗片、碁石として使っていたとみられる黒い石なども見つかった。

 出土土器から戦国時代後半の16世紀前半に築城され、16世紀後半に郭の平坦面を広げるなど改変を行い、17世紀初頭に廃絶したという。
 発掘調査で築城時期や郭の構造が確認されるのは初めて。中山城跡は史料から、城主は丹後の守護大名の一色氏だったとも考えられているが、今回の出土品の内容や年代から一色氏の可能性が強まったという。
 現地説明会が28日午前10時半から開かれる。
[参考:朝日新聞、産経新聞、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター]



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