歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

宮崎市・生目古墳群1号墳 後円部に階段状の葺石を発見

2014年01月10日 | Weblog
 宮崎市教委は9日、宮崎市跡江の国史跡・生目古墳群1号墳(全長120mの前方後円墳、4世紀初頭)の後円部で、葺石が階段状に積み上げられているのが見つかったと発表した。 約20度の斜面を1mほどの間隔で平らな部分を作り積み上げていた。
 1号墳は51基ある古墳群の中で最も古く、古墳時代前期に造られた。 後円部は直径約60m、高さ約12m。
 葺石は斜面を覆うように置かれるのが一般的で階段状のものは全国でも珍しいという。
 現地説明会が2月2日(日)午前10時から、3回に分けて開かれる。
[参考:宮崎日々新聞、西日本新聞、読売新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金海市・鳳凰洞遺跡 伽耶時代船舶、倭(日本)の部材を使用

2014年01月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 嶺南文化財研究院は8日、2012年6月に慶南金海鳳凰洞で東洋文物研究院が収集した伽耶時代船舶部材(長さ390cm、幅60cm、厚さ2~3mm)の保存処理を完了したとして、部材の年代は放射性炭素年代測定の結果3~4世紀と確認されたと発表した。
 部材は、樟(녹나무)と杉(삼나무)であるが、樟は中国、日本のほか韓国では南海岸一部・済州道などで制限的に育つが、杉は日本固有樹種である。 そのため、船は日本で建造したか、あるいは金官伽耶(首都:金海)が材料(木)を輸入して建造したものと考えられる。
 実際の船の長さは8~15m以上と推定され、伽耶時代海上活動、特に倭(日本)との交易に使われたとみられる。
 この船舶部材が発見された鳳凰洞遺跡(봉황동 유적)は、当時南海岸を通して金官伽耶の港の役割をしたところと推定されている。
[参考:聨合ニュースほか]

過去の関連ニュース・情報
2012.6.26 金海市・鳳凰洞遺跡 
 金海市は25日、東洋文物研究院の発掘調査により慶尚南道金海市の鳳凰洞遺跡(史跡2号)から伽耶時代4〜5世紀のものと推定される船の一部が初めて出土したと発表した。 昌寧郡釜谷面飛鳳里の新石器時代の遺跡から出てきた船に続いて韓国2番目に古い船という。
 出土したのは、船舶本体の隔壁(長さ340㎝、幅60㎝)、櫓と錨(いかり)の石。
 船の全体の大きさは、長さ30m、幅10m以上と推定された。これは、35人程度の乗船が可能な規模としている。 伽耶の優れた船舶製造技術を見ることができ、海上王国伽耶の実体を証明する画期的な材料として評価される。
 今回の調査では、貝塚、高床建物跡、Y字型木柵設備なども一緒に発掘された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北上市・国見山廃寺跡 「手づくねかわらけ」は12世紀のもの、奥州藤原氏と密接な関係

2014年01月10日 | Weblog
 北上市立埋蔵文化財センターは8日、平安時代の山岳寺院跡・国指定史跡「国見山廃寺(くにみさんはいじ)」(同市稲瀬町)から34年前に出土した土器や陶器を専門家が再評価した結果、奥州藤原氏に直結する重要な場所であることが確実になったと発表した。
 国見山廃寺跡は、平安時代の歴史書「六国史」の一つ「日本文徳天皇実録」の天安元年(857)6月3日の条に記載されている「陸奥国極楽寺」跡の可能性がある。2004年9月に国史跡に指定された。
  専門家による鑑定の結果、鎌倉時代のものとされていた素焼きの土器「手づくねかわらけ」は、奥州藤原氏2代基衡(1105-1157)の頃と同時期のものであり、従来、別産地と思われていた陶器は、平泉以外では限られた場所でしか出土していない12世紀中頃から後半の陶器だった。
[参考:朝日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 国見山廃寺跡
 2009.10.16国見山廃寺跡 9世紀前半~11世紀にかけ造成 4回の盛土を確認


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする