歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

初代松江藩 出雲国の家臣分配を示す「知行目録」を発見

2017年10月26日 | Weblog
 松江歴史館(松江市)は26日、江戸時代の初代松江藩主堀尾忠氏が、関ケ原の合戦後に領主となった出雲国の土地を家臣らに分け与えたことを示す文書「知行目録」(縦31.4cm、横44.9m)が見つかったと発表した。
 関ケ原の合戦の功績により、出雲、隠岐国の領主になった堀尾忠氏が、現在の島根県出雲市や雲南市の土地計1010石を、家臣6人にそれぞれ130~250石ずつ与えたことが記されている。
 慶長6年(1601)3月に作成されており、忠氏が合戦から半年という短時間で支配体制を整えようとしたことが分かるという。
 見つかった知行目録は松江歴史館で11月17日~来年1月17日に展示される。

 堀尾忠氏(1578-1604)は、堀尾吉晴(1543-1611)の次男。早世したため、忠氏の長男・忠晴(1599-1633)が継いだが、幼少のため、吉晴がその後見として事実上の藩主になった。忠晴は成人後も子供に恵まれず、死後堀尾家は改易となった。
[参考:共同通信、産経新聞]

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本能寺の変直後の秀吉 堀尾吉晴ほか家臣に宛てた書状発見 信長ゆかりの品の略奪を許さず

2017年10月26日 | Weblog
 織田信長が明智光秀に討たれた天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。
 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。
 東京大史料編纂所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。
同年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ、吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と直筆の花押がある。
 書状では、家臣の略奪を受け、「預ヶ物(預物)」や「乱妨物(強奪した物)」については「(今後)一切調査は行わない」と伝える一方、信長の所有物や、信長から賜った「上様御物(うえさまごもつ)」は返還を命じている。
[参考:読売新聞、NHK]


本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず

秀吉の書状 新たに発見 信長亡きあとの試行錯誤示す


キーワード: 堀尾吉晴,本能寺の変

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