今朝の読売新聞の文化面で表題の記事が掲載されていた。 他にもと探してみると、7日の朝日新聞にもあったし、江戸東京博物館のHPにも3月15日から開催される企画展「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺」(3/15~5/29)の新発見資料として載っていた。
1月末に、江戸東京博物館「江 姫たちの戦国」展で、次回の企画展「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺」のパンフレットをもらっていた。それを見返してみると、浄土三部経・尊光法親王(1645-1680)筆・大本山増上寺蔵と記され写真が載っている。 それが、尊光法親王でなく、奈阿姫筆と分かったわけである。
奈阿姫は江姫のひ孫に当る。(下記参照)
江姫(崇源院、徳川秀忠継室、1573-1626)→千姫(天樹院、豊臣秀頼正室のち本多忠刻正室、1597-1666)→勝姫(円盛院、池田光政正室、1618-1678)→奈阿姫(慈雲院、本多忠平正室、1634-1697)と続く。
増上寺の「紺紙金泥浄土三部経」は奥書(おくがき)から、千姫が父・2代将軍徳川秀忠の供養のため施主となり、千姫の孫・奈阿姫が一人で書き写したものだったことがわかった。寛文五年(1655)に作られ、秀忠の廟所・台徳院に奉納された。
千姫は、その翌年に亡くなった。
そこで、奈阿姫は千姫を弔うために、千姫の菩提寺である茨城県常総市の弘経寺(増上寺別院)に紺紙金泥浄土三部経を書写し奉納している。 常総市HPでは、寛文年間(1661~1673)に書写されたものであるとしている。
[参考:読売新聞、2011.3.7朝日新聞、江戸東京博物館HP、常総市HP、1992.5.1浄土宗新聞]
備考:
■ 浄土三部経(阿弥陀経)とは、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』から成る。
■ 奈阿姫は、池田光政の長女として生まれる。承応3年(1654)7月に、本多忠平に嫁ぐ。子が出来なかった。
■ 豊臣秀頼と側室・小石の方(成田助直の娘)との間に生まれた、同じ名前の奈阿姫(天秀尼、1609-1645)がいる。豊臣秀頼の正室・千姫(天樹院)がこの奈阿姫を自らの養女とした。大坂夏の陣(1615)による大坂城落城後は、出家し、「駆け込み寺」あるいは「縁切り寺」といわれる鎌倉の東慶寺に入り、その後、20世住持となる。東慶寺のHPでは、1616年、7歳のときに寺に預けられたとしている。
写真は東慶寺(鎌倉)の庭園に咲くミツマタ(三椏)2004.4.1撮影
1月末に、江戸東京博物館「江 姫たちの戦国」展で、次回の企画展「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺」のパンフレットをもらっていた。それを見返してみると、浄土三部経・尊光法親王(1645-1680)筆・大本山増上寺蔵と記され写真が載っている。 それが、尊光法親王でなく、奈阿姫筆と分かったわけである。
奈阿姫は江姫のひ孫に当る。(下記参照)
江姫(崇源院、徳川秀忠継室、1573-1626)→千姫(天樹院、豊臣秀頼正室のち本多忠刻正室、1597-1666)→勝姫(円盛院、池田光政正室、1618-1678)→奈阿姫(慈雲院、本多忠平正室、1634-1697)と続く。
増上寺の「紺紙金泥浄土三部経」は奥書(おくがき)から、千姫が父・2代将軍徳川秀忠の供養のため施主となり、千姫の孫・奈阿姫が一人で書き写したものだったことがわかった。寛文五年(1655)に作られ、秀忠の廟所・台徳院に奉納された。
千姫は、その翌年に亡くなった。
そこで、奈阿姫は千姫を弔うために、千姫の菩提寺である茨城県常総市の弘経寺(増上寺別院)に紺紙金泥浄土三部経を書写し奉納している。 常総市HPでは、寛文年間(1661~1673)に書写されたものであるとしている。
[参考:読売新聞、2011.3.7朝日新聞、江戸東京博物館HP、常総市HP、1992.5.1浄土宗新聞]
備考:
■ 浄土三部経(阿弥陀経)とは、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』から成る。
■ 奈阿姫は、池田光政の長女として生まれる。承応3年(1654)7月に、本多忠平に嫁ぐ。子が出来なかった。
■ 豊臣秀頼と側室・小石の方(成田助直の娘)との間に生まれた、同じ名前の奈阿姫(天秀尼、1609-1645)がいる。豊臣秀頼の正室・千姫(天樹院)がこの奈阿姫を自らの養女とした。大坂夏の陣(1615)による大坂城落城後は、出家し、「駆け込み寺」あるいは「縁切り寺」といわれる鎌倉の東慶寺に入り、その後、20世住持となる。東慶寺のHPでは、1616年、7歳のときに寺に預けられたとしている。
写真は東慶寺(鎌倉)の庭園に咲くミツマタ(三椏)2004.4.1撮影
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