明日香村・檜隈寺(ひのくまでら)跡 白鳳-天平期の金銅仏出土
明日香村教委が10日発表。
飛鳥時代の有力渡来系氏族東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる明日香村・檜隈寺跡(国史跡)で、7世紀後半~8世紀に鋳造された金銅製仏像の手首から指先までの右手部分(長さ2.3cm、幅1cm)が出土した。一部指が欠け、金がはがれているが、金の発色、指を1本ずつ彫る技法などから、白鳳~天平時代の仏像で中国か朝鮮半島製の可能性が高い。
仏像本体は全長25cmほどの小型の金銅仏と推測され、僧侶や信者たちが念持仏として持っていたとみられる。
檜隈寺跡の北西約70mの谷で、中世の瓦などとともに出土。寺は11世紀から15世紀にかけて徐々に廃れたようである。
6世紀中ごろの仏教伝来に力を尽くしたとされる東漢氏の貴重な資料になりそうだとしている。
出土した金銅仏の右手は明日香村平田の国営飛鳥歴史公園館で6月11日~7月10日の間に展示される。
檜隈寺
7世紀後半の創建。西にある中門をくぐると、正面に塔があり、右手側に金堂、左手側に講堂が建っていたらしい。
堂宇は現存しておらず、境内区域内にある「於美阿志(おみあし)神社」に十三重石塔だけが残っている。
金堂、講堂、塔跡のほか、6世紀頃の飛天が浮き彫りされた金銅製の光背が発掘調査で見つかっている。
周辺は東漢氏の拠点で、約500m南にはキトラ古墳、約500m北には高松塚古墳がある。
東漢氏
東漢氏は、5世紀の応神天皇の時代に日本に渡ってきたとされ、大陸の最新文化や技術力を背景に、飛鳥時代の権力者・蘇我氏と結びつき、外交や軍事面などで大きな影響力を誇った。
592年には蘇我馬子の命により崇峻天皇暗殺をするなど、蘇我氏の群臣として活躍。
大化改新(645年)によって関係の深かった蘇我氏が滅び、一時は存亡危機があったが、その技術が重要視されて滅亡を免れた。今回出土の金色に輝く仏像片は、一族の盛衰ぶりを浮かび上がらせる。
大化改新に次ぐ危機は、677年に天武天皇から「七つの大罪を犯した」として叱責されたことだった。しかし、壬申の乱での戦功と、都を飛鳥に戻したため、飛鳥周辺一帯の東漢氏一族の勢力を侮れなかったためであろうか、ここでも許された。
平安時代には征夷大将軍、坂上田村麻呂(758~811年)も輩出した。
参考 「日本書紀」
応神天皇20年・秋9月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り。
雄略天皇16年・冬10月に、詔して、「漢部を聚へて、其の伴造の者を定めよ」のたまへり。姓を賜ひて直と曰ふ。(一に云はく、賜ふとは、漢使主等に、姓を賜ひて直と曰ふぞ。)
崇峻天皇5年(592)・冬11月に、馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調(みつき)を進る」という。乃ち東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。
天武天皇6年(677) 6月に、東漢直等に詔して曰はく、「汝等が党族、本より七つの不可(あしきこと)を犯せり。是を以て、小墾田の御世より、近江の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以て事とす。今朕が世に当りて、汝等の不可しき状を将責めて、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大きなる恩を降して原(ゆる)したまふ。今より以後、若し、犯す者有らば、必ず赦さざる例に入れむ」
今年の2月には、東漢氏の墓と見られる6世紀中頃築造の巨石を使用した穹窿状の横穴式石室を持つ真弓鑵子塚古墳が公開されたばかりであった。
[参考:産経新聞]
「小金銅仏」の公開については6月11日より飛鳥歴史公園館にて実施中。
明日香村教委が10日発表。
飛鳥時代の有力渡来系氏族東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる明日香村・檜隈寺跡(国史跡)で、7世紀後半~8世紀に鋳造された金銅製仏像の手首から指先までの右手部分(長さ2.3cm、幅1cm)が出土した。一部指が欠け、金がはがれているが、金の発色、指を1本ずつ彫る技法などから、白鳳~天平時代の仏像で中国か朝鮮半島製の可能性が高い。
仏像本体は全長25cmほどの小型の金銅仏と推測され、僧侶や信者たちが念持仏として持っていたとみられる。
檜隈寺跡の北西約70mの谷で、中世の瓦などとともに出土。寺は11世紀から15世紀にかけて徐々に廃れたようである。
6世紀中ごろの仏教伝来に力を尽くしたとされる東漢氏の貴重な資料になりそうだとしている。
出土した金銅仏の右手は明日香村平田の国営飛鳥歴史公園館で6月11日~7月10日の間に展示される。
檜隈寺
7世紀後半の創建。西にある中門をくぐると、正面に塔があり、右手側に金堂、左手側に講堂が建っていたらしい。
堂宇は現存しておらず、境内区域内にある「於美阿志(おみあし)神社」に十三重石塔だけが残っている。
金堂、講堂、塔跡のほか、6世紀頃の飛天が浮き彫りされた金銅製の光背が発掘調査で見つかっている。
周辺は東漢氏の拠点で、約500m南にはキトラ古墳、約500m北には高松塚古墳がある。
東漢氏
東漢氏は、5世紀の応神天皇の時代に日本に渡ってきたとされ、大陸の最新文化や技術力を背景に、飛鳥時代の権力者・蘇我氏と結びつき、外交や軍事面などで大きな影響力を誇った。
592年には蘇我馬子の命により崇峻天皇暗殺をするなど、蘇我氏の群臣として活躍。
大化改新(645年)によって関係の深かった蘇我氏が滅び、一時は存亡危機があったが、その技術が重要視されて滅亡を免れた。今回出土の金色に輝く仏像片は、一族の盛衰ぶりを浮かび上がらせる。
大化改新に次ぐ危機は、677年に天武天皇から「七つの大罪を犯した」として叱責されたことだった。しかし、壬申の乱での戦功と、都を飛鳥に戻したため、飛鳥周辺一帯の東漢氏一族の勢力を侮れなかったためであろうか、ここでも許された。
平安時代には征夷大将軍、坂上田村麻呂(758~811年)も輩出した。
参考 「日本書紀」
応神天皇20年・秋9月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り。
雄略天皇16年・冬10月に、詔して、「漢部を聚へて、其の伴造の者を定めよ」のたまへり。姓を賜ひて直と曰ふ。(一に云はく、賜ふとは、漢使主等に、姓を賜ひて直と曰ふぞ。)
崇峻天皇5年(592)・冬11月に、馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調(みつき)を進る」という。乃ち東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。
天武天皇6年(677) 6月に、東漢直等に詔して曰はく、「汝等が党族、本より七つの不可(あしきこと)を犯せり。是を以て、小墾田の御世より、近江の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以て事とす。今朕が世に当りて、汝等の不可しき状を将責めて、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大きなる恩を降して原(ゆる)したまふ。今より以後、若し、犯す者有らば、必ず赦さざる例に入れむ」
今年の2月には、東漢氏の墓と見られる6世紀中頃築造の巨石を使用した穹窿状の横穴式石室を持つ真弓鑵子塚古墳が公開されたばかりであった。
[参考:産経新聞]
「小金銅仏」の公開については6月11日より飛鳥歴史公園館にて実施中。
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