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富山市・富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる

2009年07月11日 | Weblog
 富山市埋蔵文化財センターが昨年8~9月に行った試掘調査で、富山城址公園内の佐藤記念美術館の近くで16世紀中頃に作られたとみられる井戸跡(直径5・4m、深さ1・6m以上)が見つかった。同センターは、「戦国期の富山城の生活ぶりを知る遺構」としている。
 かつて富山城があった場所からは北東部の位置。この井戸は、「堀り方」と呼ばれる大きな穴を掘り、そこに木枠や石壁などの構造物を入れて作られたといい、今回発見されたのは堀り方の部分に相当する。
 井戸跡からは、16世紀後半~17世紀前半の多数の陶磁器の破片が見つかった。井戸が使用されなくなったため、生活道具の陶磁器が捨てられたと推察されることから、井戸は戦国期の16世紀中頃に作られたとみられる。
[参考:読売新聞]
写真は平成13年に撮影

富山城
天文12年(1543)越中守護代・神保長職(じんぼう ながもと、?-1572?)が、家臣の水越勝重に命じて築城したとされる。
 近年の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡る可能性がある。
永禄3年(1560)富山城は上杉謙信勢に攻められ、長職は西の増山城(砺波市)へ逃れる。
天正6年(1578)上杉謙信の死後、織田信長に身を寄せていた神保長住が飛騨国から侵攻して富山城に入った。
天正9年(1581)織田信長の家臣佐々成政(1536?-1588)が富山城主となり、大規模な改修を加える。
天正13年(1585)秀吉軍に富山城を攻囲されて降伏。実質的な前田支配がここに始まる。前田利長が大改修を行い隠居。
慶長14年(1609年)建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には津田刑部義忠が城代として入る。
寛永16年(1639)加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。
[参考:富山市埋蔵文化財センター]

備考
 2009.7.10読売新聞の文化欄で面白い記事があった。
 富山藩の歴代藩主11人の墓は富山市の長岡御廟にあり、墓の銘すべてが仏教式戒名から、明治末から大正期にかけて贈位された神道式官職名に改刻されていたことがわかったという。
 前田家の菩提寺の一つ、富山市の大法寺で、銘が戒名で書かれた歴代藩主の墓の拓本が7年前に見つかった。その拓本の大きさや輪郭が長岡御廟の墓とほぼ一致した。
 例えば、名君と言われた2代藩主正甫(まさとし)の場合は、拓本は「正甫殿従四位大府侍即天心日菅大居士」という戒名だが、墓には「贈従三位大蔵大輔菅原朝臣正甫之墓」と刻まれている。
[参考:2009.7.10読売新聞]

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