越前町教育委員会は7日、同町天王の八坂神社北側の山中で、同町宝泉寺にまたがる標高155mの尾根にある栃川古墳群の番城谷(ばんじょうだに)山5号墳について、5世紀半ばの前方後円墳と確認したと発表した。全長は55m、円形部分の直径は38m、南東側に長さ約17mの前方部があり、西には造出部も備えており、同時期の古墳としては県内最大級。同古墳は従来弥生時代の墳丘墓とされ、具体的な調査はされてこなかった。 分布調査は昨年5月に実施し、同7~9月に測量調査した。
古墳の裾から円筒埴輪の底部が発見され、突起などの形態から築造された時期が判明した。付近に散乱していた15~30cmの川原石は古墳の葺石として全面を覆うため、麓の天王川から約140mの標高差を運んできたとみられ、計算上では11万個の石が必要だったと推定する。
県内には4世紀末に築造され、越の国の盟主を埋葬したとされる北陸最大の前方後円墳である六呂瀬山1号墳(坂井市丸岡町、全長140m)などがある。しかし古墳は年代を追って小型化しており、番城谷山5号墳は5世紀中ごろの古墳の中では県内最大級。同時代の前方後円墳には、永平寺町の泰遠寺山古墳(全長62m)や鳥越山古墳(同54m)などがあり、番城谷山5号墳はこれらに匹敵する。
これまで高所で川原石や埴輪が見つかった古墳は北陸最大級の六呂瀬山一号墳(坂井市丸岡町)や手繰ケ城山古墳(永平寺町)など、いずれも首長級だったことから古代の『越の国』の盟主的な政治権力者に匹敵する人物だった可能性が高いとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、読売新聞]
古墳の裾から円筒埴輪の底部が発見され、突起などの形態から築造された時期が判明した。付近に散乱していた15~30cmの川原石は古墳の葺石として全面を覆うため、麓の天王川から約140mの標高差を運んできたとみられ、計算上では11万個の石が必要だったと推定する。
県内には4世紀末に築造され、越の国の盟主を埋葬したとされる北陸最大の前方後円墳である六呂瀬山1号墳(坂井市丸岡町、全長140m)などがある。しかし古墳は年代を追って小型化しており、番城谷山5号墳は5世紀中ごろの古墳の中では県内最大級。同時代の前方後円墳には、永平寺町の泰遠寺山古墳(全長62m)や鳥越山古墳(同54m)などがあり、番城谷山5号墳はこれらに匹敵する。
これまで高所で川原石や埴輪が見つかった古墳は北陸最大級の六呂瀬山一号墳(坂井市丸岡町)や手繰ケ城山古墳(永平寺町)など、いずれも首長級だったことから古代の『越の国』の盟主的な政治権力者に匹敵する人物だった可能性が高いとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、読売新聞]
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