7月27日(日)埼玉県の第41回遺跡発掘調査報告会に出席する前に朝早く到着し、自転車で散策をする。
埼玉古墳群の中を乗り回して、少しでも当時の雰囲気を感じようと心掛けた。今は平坦だが、当時は低台地だったという。古代蓮の里にも寄ったが、今年も見事に咲いている。
また、途中で盛徳寺に通りかかる。このお寺に寄るのは初めてである。山門の前に石碑(写真右の柱)が建てられ、「天台宗総本山延暦寺第二代座主円澄生誕の地」と刻まれている。
この碑は、地元の川鍋重壽氏等の尽力により、行田市の発展と青少年の立志のためにとの目的で製作された。
そして、宗派の違いがありながら盛徳寺の許しを得て、門外であればよいとのことで建立された。(川鍋重壽氏「日本一幸運の男」より引用)
山門(仁王門)に掲げられている扁額には「埼玉山」と書かれている。真言宗智山派のお寺である。
山門を通り境内に入ると、きれいに整備され右に境内の説明板が立っている。そこには、下記が記されている。
「盛徳寺は、埼玉山若王院盛徳寺と称し、本尊は薬師如来である。縁起によれば、大同年間(806~810)の創建と伝えられ、保元ニ年(1157)に小松内府の心願により再建された。その後しばしば兵火にあい、天文年間(1532~1555)に再建されたものが最近まで遺されていたが、老朽化したので現在の本堂を建立したものである。境内には、円形の造り出しをもった奈良時代特有の礎石が数個現存しているが、当時の現位置とは異なっている。また、寺内には古瓦が多数残されているが、奈良時代末から平安時代初期頃のものはわずかで、ほとんどが平安時代中期から末期のものである。これまでの調査では礎石・瓦などから寺の縁起にいう大同年間創建を裏付けるものといわれている。本寺は埼玉県内発祥寺院で、万葉集で詠まれた小埼沼や埼玉古墳群があり、往時、この地方の中心地であったことを思わせるものがある。」
埼玉古墳群の中を乗り回して、少しでも当時の雰囲気を感じようと心掛けた。今は平坦だが、当時は低台地だったという。古代蓮の里にも寄ったが、今年も見事に咲いている。
また、途中で盛徳寺に通りかかる。このお寺に寄るのは初めてである。山門の前に石碑(写真右の柱)が建てられ、「天台宗総本山延暦寺第二代座主円澄生誕の地」と刻まれている。
この碑は、地元の川鍋重壽氏等の尽力により、行田市の発展と青少年の立志のためにとの目的で製作された。
そして、宗派の違いがありながら盛徳寺の許しを得て、門外であればよいとのことで建立された。(川鍋重壽氏「日本一幸運の男」より引用)
山門(仁王門)に掲げられている扁額には「埼玉山」と書かれている。真言宗智山派のお寺である。
山門を通り境内に入ると、きれいに整備され右に境内の説明板が立っている。そこには、下記が記されている。
「盛徳寺は、埼玉山若王院盛徳寺と称し、本尊は薬師如来である。縁起によれば、大同年間(806~810)の創建と伝えられ、保元ニ年(1157)に小松内府の心願により再建された。その後しばしば兵火にあい、天文年間(1532~1555)に再建されたものが最近まで遺されていたが、老朽化したので現在の本堂を建立したものである。境内には、円形の造り出しをもった奈良時代特有の礎石が数個現存しているが、当時の現位置とは異なっている。また、寺内には古瓦が多数残されているが、奈良時代末から平安時代初期頃のものはわずかで、ほとんどが平安時代中期から末期のものである。これまでの調査では礎石・瓦などから寺の縁起にいう大同年間創建を裏付けるものといわれている。本寺は埼玉県内発祥寺院で、万葉集で詠まれた小埼沼や埼玉古墳群があり、往時、この地方の中心地であったことを思わせるものがある。」
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