「過度に期待してはいけない」
「過度に期待してはいけない」
円谷幸吉さんの持病の腰痛は東京五輪後再発。
思うように走れず苦しんだ。
約2年後、長兄に手紙でつづった。
「披露困憊でいささかの余裕すらありません。一線クラスとしてこれ以上続けるには無理であります。強いてやっても無駄飯を食らうだけならなんの役にならぬと考えます」
次のメキシコ五輪への重圧に加え縁談も進まず、気持ちを立てなおせなくなり自殺した。
1964年10月21日、大学生の沼田利根は学友たちと道路でマラソンを観戦していた。
目の前をアベベ選手が軽快な走りで通過。
まもなく、円谷選手が2位で通過。
「やるじゃないか?あれは誰だ!」友人が驚嘆するように言う。
日本大学の体操部の先輩たちや教官が体操で東京オリンピックに出ていたが、マラソンには疎くアベベ選手だけしか知らなかったのだ。
2人は日本選手を応援するよりもアベベ選手を見に来ていたのだ。
12月31日の毎日新聞の1面の記事で、円谷選手に縁談があったが破談になったことを知る。
円谷選手の所属していた自衛隊体育学校の校長が結婚はメキシコ五輪に障害になると結婚に反対したのだ。
「世界の円谷だ。結婚すると記録が伸びない」などと勝手な判断で反対したそうだ。
円谷家は結婚式の日程まで決めていたが、約半年後の1966年末、もらった指輪や手紙を女性は返送。
円谷側との関係は途絶え、1967年女性は地元の男性と結婚。
1968年1月円谷選手は自ら命を断った。
「過度に期待してはいけない」
円谷幸吉さんの持病の腰痛は東京五輪後再発。
思うように走れず苦しんだ。
約2年後、長兄に手紙でつづった。
「披露困憊でいささかの余裕すらありません。一線クラスとしてこれ以上続けるには無理であります。強いてやっても無駄飯を食らうだけならなんの役にならぬと考えます」
次のメキシコ五輪への重圧に加え縁談も進まず、気持ちを立てなおせなくなり自殺した。
1964年10月21日、大学生の沼田利根は学友たちと道路でマラソンを観戦していた。
目の前をアベベ選手が軽快な走りで通過。
まもなく、円谷選手が2位で通過。
「やるじゃないか?あれは誰だ!」友人が驚嘆するように言う。
日本大学の体操部の先輩たちや教官が体操で東京オリンピックに出ていたが、マラソンには疎くアベベ選手だけしか知らなかったのだ。
2人は日本選手を応援するよりもアベベ選手を見に来ていたのだ。
12月31日の毎日新聞の1面の記事で、円谷選手に縁談があったが破談になったことを知る。
円谷選手の所属していた自衛隊体育学校の校長が結婚はメキシコ五輪に障害になると結婚に反対したのだ。
「世界の円谷だ。結婚すると記録が伸びない」などと勝手な判断で反対したそうだ。
円谷家は結婚式の日程まで決めていたが、約半年後の1966年末、もらった指輪や手紙を女性は返送。
円谷側との関係は途絶え、1967年女性は地元の男性と結婚。
1968年1月円谷選手は自ら命を断った。