友人からはげまいのメール

2017年01月31日 23時33分11秒 | 日記・断片
体の調子はいかがでしょう。
血圧が一時的に高くなったそうですが、落ち着きましたでしょうか。
お医者さんは副腎のことを心配していらっしゃったそうですが、腸の
悪いところを早く取って、次はそちらの心配をとり除かなくては
なりませんかね。
副腎そのものは様子がわかりにくいので、各種の
ホルモンの値をみて、状態を判断するようです。
ずっと高血圧が続いていれば、副腎や腎臓の可能性があるでしょうが、
一過性であれば、そう問題ないはずですが。

入院までカウントダウンの日数になってきて、気もそぞろかも知れませんね。
状況を受け入れて、不安を受け入れて、その上で、いかにベストの結果を
得るかを考えなければならない時でしょう。
病院はベストを尽くしてくれそうな病院を選んだのですから、自分もベスト
(体調を整え、精神を整えて手術に臨む)を尽くさねばならないのでしょう。

しかし、急に流れは変えられないのですが、自然の生命リズムに従うほうが
体にストレスがかからないと言いますので、日が落ちたら明日の準備をして
寝る、日が昇ったら体がスムーズに動く準備をして、動き出す、ということを
心がけてみてはいかがでしょう。

どのくらいで退院できるのでしょうか…。
またお会いできるのを楽しみにしています。

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明日、2月1日に、北柏の慈恵医科大学病院に午前9時に行きに、入院手続き。
長男はトラブルを院内で起こすことを懸念して、連帯保証人を断る。
大騒ぎした家人が、友人、知人、息子に色々伝えたので、悪評となってしまった。
自業自得と言えるのだが、正確に記す。
○ 取手東病院の経緯
3日ほど入院して、腸の内視鏡検査を告げられる。
「ええ、検査で入院。やめた」と入院を拒否。
外来でも腸の内視鏡検査ができることをネットで調べて知る。
次に北柏の慈恵医大病院へ行こうとしたら、友人が「紹介状がないと3000円くらい取られる。茨城県内だと医療費が安いはず、千葉県の病院お金がかる」と言われたので、「腸の内視鏡検査なら、県内の病院でもいいか」と北柏行きからJAとりで総合医療センターへ車で向かう。
○JA取手病院で腸の内視鏡検査で大腸がんがみつかる。
上行結腸がんであった。
その時点で、はっきり手術は別の病院と告げるべきところを曖昧にした。
ネットで調べると、JA取手病院では、がんの手術の実績があまりない。
たまたま、外科の待ち合い室で出会った元取手小学校の先生のご婦人が「娘は、大腸のがんを北柏の慈恵医大で手術しました。開腹手術ではなく、腹腔鏡下手術でしたよ」と言われた。
「そうか。腹腔鏡下での手術の方がいいな」と心が動く。
この時も、態度を曖昧した。
「手術はどうします?」と内科医に聞かれた時も態度を曖昧にしてしまった。
そこで入院日に行かなかったのだ。
上行結腸がんはかなり進行しており、腸閉塞、腸破裂の危険性を伝えられる。
だが、慈恵病院では、上行結腸は左側の下行結腸のように閉塞する危険は少ないと告げられたのだ。
右は水分の通る腸と言う。
それは幸運であった。
がんの位置は、盲腸の近くであった。
下血しているので、鉄を補う薬(貧血を改善する薬)、胃酸を抑える薬・便通をよくする薬で、目まい、息切れが改善。
「まずい」と飲めなくなった日本酒も飲み出す。
初めから自分の意思(希望)を貫き、慈恵医大病院へ行くべきだった、と反省している。
そうすれば、家人も大騒ぎしなかっただろう。
「心配なので、息子に言ったり、知り合いに相談するのは当たり前、あんたがいい加減だからじゃないの」と家人は言うが、プライベートの問題を詳細に他人に使える必要はないのだ。
家人は、何もかもぶちまける性格なのだ。
特に父親を軽蔑している息子に愚痴をこぼす必要はないが、それが性格なのだ。
「優柔不断、曖昧な態度」で過去に何度も失敗したり、人に迷惑をかけてきたのも事実。
あとになって、「あの時、こうすればよかった」と反省しているのだ。
結果的に、3病院で血液検査、CT検査、レントゲン検査を受けてしまった。
1割負担で助かった。




不可思議な文子と島田の関係 5)

2017年01月31日 22時44分31秒 | 創作欄
あの日以来、文子は急速に接近していった。
調査したり、資料を整理したり、情報集めを行動を共にして行うことが多くなった。
この二人の行動を見て、事務所内ではあらぬ取りざたされる存在となった。
しかし、文子はそれらの噂を黙殺していた。
「何て、心の狭い人たちなのでしょう。私を女として見ているうちは、本当の私を理解することはできないわ」
島田は文子の「本当の私」とは何を意味するかと想ってみた。
文子の態度は、以前にも増して傲慢さが加わってきた。
文子は心のなかで、厚生省の外郭組織で働く男性の同僚たちを評価していなかった。
本省の出世コースから外れ、出向してきた人も少なくなかった。
実際、彼女は補助的な自分の立場を忌み嫌い出していた。
そして段々、主体的に動ける業務に興味を示し初めていたのだ。
ある日、何時ものように食事のあと、深夜まで喫茶店で島田と過ごすことが多くなっていた。
それが日常生活の一つとして、二人の間に定着していく。
「貴方がそばにいると私、落ち着くのよ」と文子は微笑んだ。
そな時の文子は素直で愛くるしい女であった。
「貴方は、父親というより、母親みたいに感じることがあるの。不思議な気持ちになるのよ」
文子が14歳の時に乳がんで亡くなった母親は、40歳であったのに、70代の老婆のよう姿になっていたのだ。
「小さくやせ衰えて、ベットで寝た切りになって、付き添いの私がトイレに行っている間に、ベットから床に落ちて、目の周りを強く打ったのね。幽霊のお岩さんのように顔が腫れあがってしまって、薄情だけれど、妹は怖がってベッドに寄りつかなかったの」
島田は黙って聞いていた。
「末期がんの激痛に耐えかけかねて、のたうちまわったあげくにベットから落ちてしまったのね。苦しくて体全体のケイレンが始まった時に、食い縛った歯が何本も折れて、口から血が噴き出して、あんな苦しみに耐えて最後を迎えるなて非情だったわね」
「早く、死んで楽になりたい―と声にならない声でささやくように訴えたのよ」文子は涙ぐんでうつむいた。
「母の死に顔は凄い形相になってたの。眠るように亡くなる人もいるのにね」
島田は、「文子にそのような悲惨な体験があったのか」と心を動かされた。
文子の手を取ろうとしたが、それができず、伸ばしかけた手で自分の膝がしらを握りしめた。
「こんな話、本当はしたくなかったな」文子は喫茶店の窓に目を転じた。
「今度は、貴方が何かを話す番よ」文子の微笑みに促がされ、高校を2年で中退したあと、夜間の高校へ入り直した経緯を語ったのだ。

不可思議な文子と島田の関係 5)

2017年01月31日 22時44分31秒 | 創作欄
あの日以来、文子は急速に接近していった。
調査したり、資料を整理したり、情報集めを行動を共にして行うことが多くなった。
この二人の行動を見て、事務所内ではあらぬ取りざたされる存在となった。
しかし、文子はそれらの噂を黙殺していた。
「何て、心の狭い人たちなのでしょう。私を女として見ているうちは、本当の私を理解することはできないわ」
島田は文子の「本当の私」とは何を意味するかと想ってみた。
文子の態度は、以前にも増して傲慢さが加わってきた。
文子は心のなかで、厚生省の外郭組織で働く男性の同僚たちを評価していなかった。
本省の出世コースから外れ、出向してきた人も少なくなかった。
実際、彼女は補助的な自分の立場を忌み嫌い出していた。
そして段々、主体的に動ける業務に興味を示し初めていたのだ。
ある日、何時ものように食事のあと、深夜まで喫茶店で島田と過ごすことが多くなっていた。
それが日常生活の一つとして、二人の間に定着していく。
「貴方がそばにいると私、落ち着くのよ」と文子は微笑んだ。
そな時の文子は素直で愛くるしい女であった。
「貴方は、父親というより、母親みたいに感じることがあるの。不思議な気持ちになるのよ」
文子が14歳の時に乳がんで亡くなった母親は、40歳であったのに、70代の老婆のよう姿になっていたのだ。
「小さくやせ衰えて、ベットで寝た切りになって、付き添いの私がトイレに行っている間に、ベットから床に落ちて、目の周りを強く打ったのね。幽霊のお岩さんのように顔が腫れあがってしまって、薄情だけれど、妹は怖がってベッドに寄りつかなかったの」
島田は黙って聞いていた。
「末期がんの激痛に耐えかけかねて、のたうちまわったあげくにベットから落ちてしまったのね。苦しくて体全体のケイレンが始まった時に、食い縛った歯が何本も折れて、口から血が噴き出して、あんな苦しみに耐えて最後を迎えるなて非情だったわね」
「早く、死んで楽になりたい―と声にならない声でささやくように訴えたのよ」文子は涙ぐんでうつむいた。
「母の死に顔は凄い形相になってたの。眠るように亡くなる人もいるのにね」
島田は、「文子にそのような悲惨な体験があったのか」と心を動かされた。
文子の手を取ろうとしたが、それができず、伸ばしかけた手で自分の膝がしらを握りしめた。
「こんな話、本当はしたくなかったな」文子は喫茶店の窓に目を転じた。
「今度は、貴方が何かを話す番よ」文子の微笑みに促がされ、高校を2年で中退したあと、夜間の高校へ入り直した経緯を語ったのだ。

不可思議な文子と島田の関係 4)

2017年01月31日 11時05分30秒 | 創作欄
文子が住むアパートは、閑静な住宅街の邸宅の庭の一画にあった。
大家さんの老夫婦が老後の生活の糧にと建てたアパートで、6室の小じんまりとした平屋建であった。
住人は全員若い女性のみであった。
4畳半のその部屋は学生の部屋そのものように本箱と机だけで、他に家具らしいものは一つもなかった。
天井の下から壁に具えれている板に円形の衣装ケースが三個並べてあった。
それに部屋にそぐわぬ大きな机があるため、4畳半の部屋を3畳半くらいにしか感じさせなかった。
文子はガラス窓側に背をもたれ座り、島田には小さな折りたたみテーブルを出して壁側に座らせた。
島田は部屋に入るなり、文子の本棚を覗いてみた。
大半が哲学書で、他に翻訳の小説類や自然科学、心理学などの本が並んでいた。
島田の本棚の雑多さに比べるとそこには偏重なまでの堅さがあった。
「今日は、色々話せて、楽しかったわね」と文子は微笑んだ。
島田は本棚から受けた印象で、文子の心に暗部が潜んでいるように想われたのだ。
見た目の文子の容貌の美しさに尋常ではないものさえ感じた。
「島田さん今、何を考えているの?言っみてよ」文子の声は甘美であったが、人の心を射るような視線であった。
「文子さんは真面目な性格なのですね」
「島田さんも真面目なのよね」
「どうですかね。いい加減なところもあります。優柔不断だしね」と自嘲気味に言う。
「島田さん、帝国主義は、どんなことなの?」
「帝国主義?! 良く分かりませんね。ただ日本に例をとれば、戦争を中国に仕掛けたこと、アジアに戦争を拡大したことや朝鮮併合、台湾を日本の領土にしたことも、帝国主義の表れでしょうね」
「この間、西田さんと本村さんとお酒を飲んだ時に、そんな話になって・・・」
「本村技官ですか? あの人は天才的な閃けがあって、話が面白い人ですね。博識もあり、技官としては柔軟な思考をする人ですね」
「あの人に、変な意識を持ってしまったの」
「変な意識ですか?」
文子は沈黙した。
文子は如何にも勝ち気そうな目をして、物想いに耽ってしまった。
「島田さん、疲れたら横になってね。私は読み掛けの本を読んでしまうわ」
先ほどの勝ち気そうな目が信じられないほど魅惑的な瞳を島田に注いで、彼女は微笑んで見せた。
「今日は、ハプニングね。これも後で思い出して、楽しかったことになるでしょ」
「ええ、思い出になりますね」
彼はある種の想念を追い払うよに、丁寧な口調に終始した。
彼はその時、一時期であるが二人が同じ部屋に暮らすことになるとは想いもよらなかった。
比較的温暖な5月の夜は更け、やがて部屋が明るくなった。
文子は部屋の窓を開けるとバラの香りが漂ってきた。
庭はバラ園となっていたのだ。
結局、二人は一睡もせず、小さなテーブルを挟んで相対しながらとりとめのない会話を続けていた。
島田は心とは別の言葉を選んで、文子に迎合していた。

宿業の父と息子

2017年01月31日 06時18分53秒 | 未来予測研究会の掲示板
野口英世がアメリカへの渡航費を使い込んだ逸話は、利根輪太郎を自嘲させるものであった。
日本人の野口が世界的な偉人として尊敬を集めていたが、若き日の汚点は人間・野口英世の一部でもあったのだ。
少年・少女向けの「偉人伝」には、無論、汚点は省かれている。
輪太郎は息子の私立高校の入学金の振り込みを妻に頼まれたが、その金を持って大井競馬場へ向かい、夜のレースに賭けて全額失ってしまった。
このまま、家へは帰れないと実家へ向かった。
「俺は何て、愚かなんだ」輪太郎は4人がけの電車の車窓に映る自身の消沈した顔に嫌悪感を覚えていた。
「これでは、父親と同じ道を辿っているばかりではないか」
ヒステリックに夫を罵っている妻の姿。
当時、高校生だった輪太郎には、酷な家庭騒動であった。
「死んでしまえ」と母親の茂子は叫び、湯飲み茶碗を父親の体に投げつけた。
父親の胸で茶碗は弾み床で砕けた。
和服姿の父親は、テーブルにあった手拭きで茶水で濡れた衣服のあたりを拭っていた。
無口な父親は沈黙し、項垂れていた。
勤務先の農協の集金した金を父親は競艇レースで失ったことを明かし、母親に泣きついていたのだ。
「一度目、二度目は許したけど、三度目じゃないの。頭どうかしているね。恥を知れ!」今度は二本の箸を投げつけた。
高校生の輪太郎は、父親の上司である野村勇作に自宅に呼ばれた。
小学校の同級生であった裕子には、会いたくはなかったが、呼び鈴を押すと裕子は玄関に姿を見せたのだ。
「あら珍しい。輪ちゃんなのね。何年ぶりかしら、何で来たの?」裕子は秋田美人の母親に似て美しい顔立ちに成長していた。
3人姉妹はいずれも美人で特に長女は、作家の遠藤修作も惚れ込んだとされていた。
遠藤の妻と長女の美登理は女子大の同期生であったのだ。
応接間で和服姿の野村勇作がパイプをくわえて輪太郎を待っていた。
「父が大変、申し訳ないことをしました」輪太郎は母親に言われたように詫びた。
「君のお父さんには困ったものだね」野村は前かがみになって、輪太郎の顔を見詰めた。
「返す言葉がありません」
「本来なら君の親父さんは懲戒免職だ。妻の幸恵が何とか穏便にしてほしいと言っている。君のおかあさんと妻は親友同士なんだ。女の友情が長く続いているんだね」野村は表情を緩めた。
輪太郎は肯いた。
「そこでだ。君は誓うことができるかね。これが最後だと、親父さんに賭けごとの一切をやめせるんだ。君の力でね」
「はい、分かりました。誓います」
「確かだね」野村はパイプの煙を吐き出すようにして念をいした。
「ところで、君は詩を書いているそうだね。私も若いころ同人誌の驢馬に所属していてね。詩や小説を書いていた」
「そうなんですね」輪太郎は野村に対して親近感を抱いた


ちなみに、利根輪太郎は文芸評論家の窪川鶴次郎の教え子でもあったのだ。
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驢馬 (雑誌)

驢馬(ろば)は、1920年代の日本の同人雑誌。
中野重治や堀辰雄が中心となり刊行された。
ほかにも、窪川鶴次郎や西沢隆二、窪川と結婚した田島イネ(佐多稲子)らが集った。
当時のプロレタリア文学運動の盛行にあわせ、1926年に創刊した小説同人誌。
カフェー「紅緑」で稲子は『驢馬』の若き同人たちに出会う。

そのころ田端には室生犀星が住んでいた。
犀星のもとに出入りし、そこで親しくなった若者たちがつくった雑誌が『驢馬』である。
創刊から終刊まで続いた同人は5人。
中野重治が24歳、窪川鶴次郎と西沢隆二が23歳、堀辰雄が22歳、宮木喜久雄が21歳だった。
大正14(1925)年の暮れごろから、同じ田端に間借りしている宮木と窪川の部屋で発行の打ち合わせ会をやっていた。
芥川や犀星も寄稿していることに目をとめた稲子は、「立派なもの」だと思った。

1月30日(月)のつぶやき

2017年01月31日 02時09分35秒 | 医科・歯科・介護