「病院へ戻りたい」

2017年01月04日 13時42分10秒 | 創作欄
「例えがんになっても、治療せずに死ぬ」と徹は、友人、知人たちに公言していた。
がんで逝った徹の母親は、がんの手術後に急速に体力が衰えていった。
張りのあった特徴のある声が失われていた。
腹筋を使って発せられる力強い声であるから、ヒソヒソ話はできない。
その声が失われ、ささやくようなか細い声になっていた。
さらに、術後体重が減少していく。
小柄で小太りであったが、やせ衰え顔の皺も増え老婆そのものの容貌になっていた。
1日も早い退院を望んでいてのに、退院して1か月後は、「家は寒くて、病院へ戻りたい」と言い出したのである。
「病院へ戻りたいの?!」徹は半信半疑の気持ちで聞き返した。
「暖かな病室はいいよ」
確かに3月に雪が降り、この年の春は寒かった。
「7月生まれなのでね。夏は好きだけど冬は嫌いだ」と母は言ってた。
群馬県の沼田に生まれ育った母であったが、故郷を出たのは19歳の時で、67歳までずっと東京暮らしである。
新潟生まれで新潟に育った坂口安吾が、一時期在住した茨城県の取手町の冬の寒さに耐えかねて、小田原へ逃げるように移住したことが、思いだされた。
思えば大学時代に北海道出身の同期生の親友の戸田勉が、「寒いな今日は、早く春が来ないかな」と体を震わせていたので、「戸田、北海生まれのくせに情けないぞ。そんなに寒いはずないだろう」と冬の新宿御苑に誘ったことがあった。
戸田が新宿御苑行きを固辞するので、奄美大島出身の玉城美貴を誘った。
「私、何時か新宿御苑へ行って見たかったの。連れて行ってね」と応じたのだ。
母が「病院へ戻りたい」と言った時、実家の部屋が病室のように温暖であったらと徹は考えてみた。
取手市内の団地の南向きの4階は3月の陽射しを受け暖かであった。
それに比べ相模原市御園の実家は、南側に家が立ち並び、昼間でも薄暗かった。
71歳の父親は当時、東京・西新宿の農協へ勤めていた。
母は一人で寒さを堪えながら居間で過ごしていたのである。
がんの手術をして半年、他の臓器にがんは転移し、68歳を迎える1か月前に母は逝く。
「果たして、手術は必要であったのだろうか」医療ジャーナリストの立場で徹は想ってみた。
「人は、使命を果たして亡くなるんです」と友人の中安次郎が徹を慰めた。
「母の使命は?」徹は考えてみた。
母の死後、徹の姉夫婦が実家の住人となる。
徹は取手から相模原へ戻ることを断念した。

分断・対立でなく、同苦を

2017年01月04日 12時22分00秒 | 社会・文化・政治・経済
経済のグローバル化が進み分断と対立が深刻化する中で、置き去りにされ生活に困窮した人々の不満や怒り、異議申し立てが渦巻いていた。
にもかかわらず、人々の苦しみをわが苦しみと受け止め、同苦して救いの手を差し伸べるべき政治が、機能不全に陥っていたのである。
激しい変化の時代には現場主義こそ全てを制するということだ。
政治の役割として、徹して現場に入り、人々の苦しみに同苦し、住民の声を汲み上げて政策立案する現場力が期待される。
世界の動きと比べると、まだ日本は分断や国際的な孤立を招くような事態に至っているとはいえない。
とはいえ、急速な少子高齢化による人口減少の中で、わが国でも格差や貧困の問題が国民生活に深刻な影響を落としつつある。
経済や年金・医療・介護・子育て支援など社会保障に甚大な影響を及ぼす社会・人口構造の大変動に、どう対処していくか。
激震が続く世界情勢に、どう向き合っていくか。
不安をぬぐい去り、希望と安心を創ることが政治の責務とすれば、日本政治も今、かつてない試練に立たされていると言えよう。

こそ「賃金ターゲット」を導入すべき

2017年01月04日 11時52分24秒 | 社会・文化・政治・経済
物価が上がっても賃金が追い付かない結果、実質賃金が下落し、消費者は生活防衛のたに消費を抑えた。
これがデフレ脱却への好循環を阻んだ。
一方、企業サイドでは価格を前年並みに据え置く一向が改まっていない。
コストをかけ優れた新製品を開発したとしても、製品価格に転嫁できないとすれば、企業の新商品開発の意欲は失せるだろう。
経営者の関心はビジネスの拡大ではなく費用の削減に向くことになる。
そうなればマクロの生産性にも影響が及ぶ。
デフレ脱却は日本経済再生の前提条件だ。
では今後どうすべきか。
カギを握るのは賃金だ。
賃金が毎年、安定的に上昇する状況を作れれば、物価上昇下で消費者が消費の抑制に向かうことはない。
また企業も、賃金上昇が定着すればそれを価格に転嫁するはずだ。
日銀の目標変数を物価上昇率ではなく賃金上昇率に切り替える「賃金ターゲティング」などへの思い切った変更が必要だ。
東京大学大学院経済研究科教授・渡辺努さん