「例えがんになっても、治療せずに死ぬ」と徹は、友人、知人たちに公言していた。
がんで逝った徹の母親は、がんの手術後に急速に体力が衰えていった。
張りのあった特徴のある声が失われていた。
腹筋を使って発せられる力強い声であるから、ヒソヒソ話はできない。
その声が失われ、ささやくようなか細い声になっていた。
さらに、術後体重が減少していく。
小柄で小太りであったが、やせ衰え顔の皺も増え老婆そのものの容貌になっていた。
1日も早い退院を望んでいてのに、退院して1か月後は、「家は寒くて、病院へ戻りたい」と言い出したのである。
「病院へ戻りたいの?!」徹は半信半疑の気持ちで聞き返した。
「暖かな病室はいいよ」
確かに3月に雪が降り、この年の春は寒かった。
「7月生まれなのでね。夏は好きだけど冬は嫌いだ」と母は言ってた。
群馬県の沼田に生まれ育った母であったが、故郷を出たのは19歳の時で、67歳までずっと東京暮らしである。
新潟生まれで新潟に育った坂口安吾が、一時期在住した茨城県の取手町の冬の寒さに耐えかねて、小田原へ逃げるように移住したことが、思いだされた。
思えば大学時代に北海道出身の同期生の親友の戸田勉が、「寒いな今日は、早く春が来ないかな」と体を震わせていたので、「戸田、北海生まれのくせに情けないぞ。そんなに寒いはずないだろう」と冬の新宿御苑に誘ったことがあった。
戸田が新宿御苑行きを固辞するので、奄美大島出身の玉城美貴を誘った。
「私、何時か新宿御苑へ行って見たかったの。連れて行ってね」と応じたのだ。
母が「病院へ戻りたい」と言った時、実家の部屋が病室のように温暖であったらと徹は考えてみた。
取手市内の団地の南向きの4階は3月の陽射しを受け暖かであった。
それに比べ相模原市御園の実家は、南側に家が立ち並び、昼間でも薄暗かった。
71歳の父親は当時、東京・西新宿の農協へ勤めていた。
母は一人で寒さを堪えながら居間で過ごしていたのである。
がんの手術をして半年、他の臓器にがんは転移し、68歳を迎える1か月前に母は逝く。
「果たして、手術は必要であったのだろうか」医療ジャーナリストの立場で徹は想ってみた。
「人は、使命を果たして亡くなるんです」と友人の中安次郎が徹を慰めた。
「母の使命は?」徹は考えてみた。
母の死後、徹の姉夫婦が実家の住人となる。
徹は取手から相模原へ戻ることを断念した。
がんで逝った徹の母親は、がんの手術後に急速に体力が衰えていった。
張りのあった特徴のある声が失われていた。
腹筋を使って発せられる力強い声であるから、ヒソヒソ話はできない。
その声が失われ、ささやくようなか細い声になっていた。
さらに、術後体重が減少していく。
小柄で小太りであったが、やせ衰え顔の皺も増え老婆そのものの容貌になっていた。
1日も早い退院を望んでいてのに、退院して1か月後は、「家は寒くて、病院へ戻りたい」と言い出したのである。
「病院へ戻りたいの?!」徹は半信半疑の気持ちで聞き返した。
「暖かな病室はいいよ」
確かに3月に雪が降り、この年の春は寒かった。
「7月生まれなのでね。夏は好きだけど冬は嫌いだ」と母は言ってた。
群馬県の沼田に生まれ育った母であったが、故郷を出たのは19歳の時で、67歳までずっと東京暮らしである。
新潟生まれで新潟に育った坂口安吾が、一時期在住した茨城県の取手町の冬の寒さに耐えかねて、小田原へ逃げるように移住したことが、思いだされた。
思えば大学時代に北海道出身の同期生の親友の戸田勉が、「寒いな今日は、早く春が来ないかな」と体を震わせていたので、「戸田、北海生まれのくせに情けないぞ。そんなに寒いはずないだろう」と冬の新宿御苑に誘ったことがあった。
戸田が新宿御苑行きを固辞するので、奄美大島出身の玉城美貴を誘った。
「私、何時か新宿御苑へ行って見たかったの。連れて行ってね」と応じたのだ。
母が「病院へ戻りたい」と言った時、実家の部屋が病室のように温暖であったらと徹は考えてみた。
取手市内の団地の南向きの4階は3月の陽射しを受け暖かであった。
それに比べ相模原市御園の実家は、南側に家が立ち並び、昼間でも薄暗かった。
71歳の父親は当時、東京・西新宿の農協へ勤めていた。
母は一人で寒さを堪えながら居間で過ごしていたのである。
がんの手術をして半年、他の臓器にがんは転移し、68歳を迎える1か月前に母は逝く。
「果たして、手術は必要であったのだろうか」医療ジャーナリストの立場で徹は想ってみた。
「人は、使命を果たして亡くなるんです」と友人の中安次郎が徹を慰めた。
「母の使命は?」徹は考えてみた。
母の死後、徹の姉夫婦が実家の住人となる。
徹は取手から相模原へ戻ることを断念した。