競輪の一時代を築く

2017年01月18日 15時31分27秒 | 医科・歯科・介護
中野浩一元選手

輪での主な獲得タイトルと記録
1976年 競輪祭(新人王)(小倉競輪場) 1977年 賞金王(66,139,600円)
1978年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(82,385,200円)
1979年 オールスター競輪(岸和田競輪場) 賞金王(92,186,200円)
1980年 オールスター競輪(いわき平競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破)
1981年 日本選手権競輪(千葉競輪場 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(107,685,711円)
1983年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く)
1985年 KEIRINグランプリ(立川競輪場。初代優勝者)
1987年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場。同大会最多優勝記録(5回)達成) 1988年 全日本選抜競輪(青森競輪場) オールスター競輪(岸和田競輪場) 1989年 全日本選抜競輪(前橋競輪場) 年間賞金王6回
通算出走回数1236回中1着666回
優勝回数 169
1985年……優勝
1986年……3着
1987年……2着
1988年……5着
1989年……中止
1990年……2着

世界選手権個人スプリント10連覇
特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。

途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(浩一ダッシュとも言われた)。高橋健二は浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が付いた」と評している。
浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで0発進と呼ばれ、長塚智広が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、吉岡稔真のF1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、長塚智広は並のS1選手であり、吉岡稔真は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
競輪競走1236走中9着は僅か4回で、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。
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吉岡稔真元選手
1992年 日本選手権競輪(前橋競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) KEIRINグランプリ'92(平塚競輪場)
1993年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
1994年 寛仁親王牌(前橋競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
1995年 KEIRINグランプリ'95(立川競輪場)
1996年 日本選手権競輪(千葉競輪場) 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1997年 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1998年 日本選手権競輪(西武園競輪場)
1999年 全日本選抜競輪(大垣競輪場)
2006年 日本選手権競輪(立川競輪場)
優勝回数 106
年間賞金王3回 - 1992年、1994年、1996年
S級最多連勝(18連勝) - 1994年
ちなみに、A級なども合わせた連勝記録は、ロサンゼルス五輪銅メダリストの坂本勉(青森)の31連勝。 競輪祭新人王戦にはペナルティと特別競輪優勝者除外規定により出場していない。特別優勝による規定を受けたのは、ヤンググランプリを通しても現時点では吉岡稔真が唯一である。

デビュー時には圧倒的なトップスピードと持久力で競輪の頂点に上り詰めた。
一旦かかってしまえばタレない(スピードが充分に乗ってしまえば、最後の直線でもほとんどスピードが落ちない)という、典型的な地脚(じあし)型の選手。
だが短距離の加速に弱点があり、他の選手が突然ダッシュよく仕掛けた場合、後方に置かれるケースがしばしば見受けられた。
しかし全盛時はそれをも巻き返す強烈な脚力を誇っていた。
引退時まで自力でのトップスピードは衰えることなく、後方からの「F1捲り」が決まる時は全盛期を彷彿とさせる圧勝を演じた。
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滝沢正光元選手
1984年 - 日本選手権競輪(千葉競輪場)
1985年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1986年 - 日本選手権競輪(平塚競輪場)、高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1987年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)、全日本選抜競輪(京都向日町競輪場)、オールスター競輪(宇都宮競輪場)、KEIRINグランプリ'87(平塚競輪場)
1988年 - 日本選手権競輪(立川競輪場)
1989年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1990年 - オールスター競輪(宇都宮競輪場)、競輪祭(小倉競輪場)
1992年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1993年 - KEIRINグランプリ'93(立川競輪場)
年間賞金王4回 - 1985年、1986年、1987年、1988年
S級年間最多勝利数(80戦64勝) - 1986年
デビュー時から果敢に先頭で走る徹底先行に徹し、最後の直線では力を入れるためか首を上げる独特のフォームでペダルを踏み込んでいる。最初の頃には後ろの選手に捲られたり追い込まれたりすることが多かったが、いつの間にか相手がどれだけ強かろうとも逃げ切ってしまうだけの脚力を身に付けていた。また他の選手との並走や追走についてもほとんど苦にせず、全てにおいてパワフルな走りと滝澤自身が大柄であった事から連想されたのか、いつしか他の選手やファンからは「怪物」と呼ばれるようになり、後に出た漫画のタイトルの由来にもなっている。

競輪選手/プロとしての気魄を体現

2017年01月18日 15時09分36秒 | 未来予測研究会の掲示板
競輪ファンとして、利根輪太郎は、一番驚いたのは吉岡稔真選手(65期、福岡)の存在であった。
まったくスポーツ経験がなかったが、中学時代、友人に連れられて行った競輪祭で中野浩一選手を見て競輪に憧れた。
サラリーマンにはなる気がなかった。
競輪学校では59勝(2位)の成績で卒業している。
また、村上義弘選手(73期、京都)は花園高校で自転車で活躍、1000㍍独走で山形国体で優勝。
4000㍍団体追い抜きでも都道府県大会で優勝。
競輪学校は36勝(16位)の成績で卒業。
花園高校の3年先輩の山本真矢選手(65期、京都)は、インタハイの独走1000㍍で優勝。
競輪学校では76勝(1位)の成績で卒業している。
かなり期待されていた山本真矢選手は、さほど目立った実績がないまま引退している。
さらに注目すべきは、怪物と言われた滝沢正光選手(43期、千葉)は自転車経験がなく、高校時代はバレーボールをやってきて、適性組で競輪学校を受験、学校成績は13勝(42位)の成績で卒業している。
どうして、滝沢選手は多くのタイトルを獲得するまで大成したのか?
学校成績トップが、プロの世界でそれほど活躍できないのはプロ野球も同じである。
村上選手はデビューしたころから完全燃焼、練習でも手を抜かないをモットーに努力を続けてきた。
良き先輩の松本整選手(45期、京都)の影響もあっただろう。
松本選手はファンからサインを求められれば、「気魄」の言葉必ず書き添えていた。
村上選手こそ、競輪選手、プロとしての気魄を体現してきているのである。

競輪界でも有数の知識の深さ 岡本 新吾さん

2017年01月18日 14時28分50秒 | 未来予測研究会の掲示板
元競輪選手42期の岡本 新吾さん

岡本さんの予想は、展開予想と独自の車券理論「ABC法則」を組み合わせた正に博士ナイズされた超車券術で、数々の大穴を的中させておられます

岡本さんと言えば競輪界でも有数の知識の深さと引き出しの多さで、正に競輪博士の名に恥じない方なんですが


真の競輪人 村上義弘選手

2017年01月18日 14時16分59秒 | 未来予測研究会の掲示板
紀州の競輪博士 岡本新吾

35年競輪人生を終えて現役時に経験した独自の体験を生かし、選手の心理・レースの流れを読み調子状態を判断してレース予想し、ヒューマンスポーツ競輪のおもしろさをわかりやすく伝えたい競輪命の競輪博士です。
CS・イベント・ガイダンスやってます!
ファンのみなさんと和を持ってやって行きたいのでよろしくお願いします。
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2016年の締めくくりの年末グランプリ立川は、大歓声の中、嵐の感動を呼び、村上義弘選手(京都・73期)が42歳で劇的に優勝を飾りました。去年、京都嵐山のホテルで行なわれた村上選手のファンイベントでお話をさせてもらった時、かなり厳しい身体の状態と競輪の状況で、岸和田GⅢレースの時も疲労困憊で私も見ていて心が痛かったです。村上選手はSS班のトップ選手の自覚と責任を果たすために、競輪界と全国のファンのために、身を削り日々自分自身に鞭を打ち、気力で頑張って来ました。

2016年ファイナルレース年末グランプリ決勝戦、レースは予想通り同郷の稲垣選手が先行態勢に入り、残り1周から上手く仕掛けて万全でした。先の競輪祭を優勝して年末グランプリ出場を決めベストナインの中で一番調子が良かった平原選手の中団捲くりを残り半周の2センター過ぎから2番手捲くりで村上選手が合わせ切りました。立川競輪場は400mバンクの中でも直線が長く、風がきつくて、バンク自体が凄く重いです。はっきり言って私はレース状況から言って平原選手の2番手を追走していた武田選手のスピードが良かったので完全に差されたと思いましたが、1/4輪抑えて村上選手の持って生まれた気迫と闘争心で1億円を捥ぎ取りました。和歌山競輪場の特別観覧席のガイダンスで思わず「ワアー」と声を出してしまいました。表彰式での村上選手のインタビューを聞いていますと胸が熱くなり、涙が溢れるばかりでした。村上選手に何度感動を与えてもらったか分かりません。村上選手の年齢が過ぎれば過ぎるほど感動が大きくなって来るように思います。


 時代、時代にNo.1の実力を持ち全盛期で競輪ファンに感動を与えられた選手は数人といました。村上選手の全盛期は何が何でも先行主体にレースをして日本一になった頃だと私は思います。戦法が自在になって近畿の絆を固めた結果、周りの若い選手達が強くなり、村上選手自身も向上をして来たのだと思います。


 今年1年間、1番車のチャンピオンシャツを着る重圧を深く感じて一戦一戦、死にもの狂いでレースをすると思います。全国のみなさん、村上選手の生きざまと勇姿をストレートに感じて応援してあげてください。私も村上選手の行き着く所がどうなるのか楽しみです。村上選手は苦しくても辛くても重圧に耐えられなくても、何とか向って行き、打破した時の喜びが競輪にあるから無我夢中になるのだと思います。本当に競輪が大好きで真の競輪人だと思います。

2016年の締めくくりの年末グランプリ立川は、大歓声の中、嵐の感動を呼び、村上義弘選手(京都・73期)が42歳で劇的に優勝を飾りました。去年、京都嵐山のホテルで行なわれた村上選手のファンイベントでお話をさせてもらった時、かなり厳しい身体の状態と競輪の状況で、岸和田GⅢレースの時も疲労困憊で私も見ていて心が痛かったです。村上選手はSS班のトップ選手の自覚と責任を果たすために、競輪界と全国のファンのために、身を削り日々自分自身に鞭を打ち、気力で頑張って来ました。


 2016年ファイナルレース年末グランプリ決勝戦、レースは予想通り同郷の稲垣選手が先行態勢に入り、残り1周から上手く仕掛けて万全でした。先の競輪祭を優勝して年末グランプリ出場を決めベストナインの中で一番調子が良かった平原選手の中団捲くりを残り半周の2センター過ぎから2番手捲くりで村上選手が合わせ切りました。立川競輪場は400mバンクの中でも直線が長く、風がきつくて、バンク自体が凄く重いです。はっきり言って私はレース状況から言って平原選手の2番手を追走していた武田選手のスピードが良かったので完全に差されたと思いましたが、1/4輪抑えて村上選手の持って生まれた気迫と闘争心で1億円を捥ぎ取りました。和歌山競輪場の特別観覧席のガイダンスで思わず「ワアー」と声を出してしまいました。表彰式での村上選手のインタビューを聞いていますと胸が熱くなり、涙が溢れるばかりでした。村上選手に何度感動を与えてもらったか分かりません。村上選手の年齢が過ぎれば過ぎるほど感動が大きくなって来るように思います。


 時代、時代にNo.1の実力を持ち全盛期で競輪ファンに感動を与えられた選手は数人といました。村上選手の全盛期は何が何でも先行主体にレースをして日本一になった頃だと私は思います。戦法が自在になって近畿の絆を固めた結果、周りの若い選手達が強くなり、村上選手自身も向上をして来たのだと思います。


 今年1年間、1番車のチャンピオンシャツを着る重圧を深く感じて一戦一戦、死にもの狂いでレースをすると思います。全国のみなさん、村上選手の生きざまと勇姿をストレートに感じて応援してあげてください。私も村上選手の行き着く所がどうなるのか楽しみです。村上選手は苦しくても辛くても重圧に耐えられなくても、何とか向って行き、打破した時の喜びが競輪にあるから無我夢中になるのだと思います。本当に競輪が大好きで真の競輪人だと思います。

最高の結果より最高のパフォーマンス

2017年01月18日 13時47分09秒 | 社会・文化・政治・経済
★祈り―それは、あきらめない勇気だ。
自分に無理だと、うなだれる惰性を叩き出す戦いだ。
“現状は変えられる!必ず!”
確信を命の底に刻み込む作業だ。
★人生の岐路に立った時、一緒に悩み、道を切り開いていく友人がいる。
★皆、自分自身を磨く方途を求めている。
“生命の鏡”を如何に磨くかである。
★どんな偉大な指導者がいても、皆がその本当の心を知り、力を合せなければ、偉業の成功はない。
★「報恩」こそ、人間の証しである。
報恩は、自分が受けた恩恵を、次世代に贈ることによって完結する。
★人間が人間らしく生きていく、正しい生命の軌道がある。
★勝つことが使命であり、責任なのだ。
★「最高の結果(成績)より最高のパフォーマンスを」
競輪の村上義弘選手
★主張すべき時は、誰にも遠慮はいらない。
★一人一人が人材となり、人材育成を。
★新しい人材を見つけ、新しい力を結集する。
そこに勝利のカギがある。
★たった一人でもいい。
その人が真剣に立ち上がれば、どれほど大きな力を出して、地域活動の波を起こしてくれることか。
そのたゆみない積み重ねからこれまでにない大きな勝利の勢いが生まれていくのである。

「共助の力」の大切さを

2017年01月18日 10時18分29秒 | 社会・文化・政治・経済
★「血のにじむような苦労を重ねなければ『本物の人間』ができるわけがない」
人を如何に励ますかである。
★「心のケア」や「地域コミュニティー」の重要性が、阪神・淡路大震災を機に、社会に定着した」
また、1995年は「ボランティア元年」と呼ばれ、この年から、被災地に全国から救援へ向かう運動が定着した。
現在。1・17は「防災とボランティアの日」と定められ、15日から21日までは、「防災とボランティア週間」として、啓発運動も行われている。
★地域のおける“つながり”や絆の重要性が再確認される。
★物質的豊かさを一瞬にして奪った震災は、被災した人々に“本当に価値ある人生とは何か”との問いを投げかけた。
★また、被災地に限らず、超高齢社会や過疎化など、迫り来る地域の難題に誰もが直面する時代に入った。
★慈愛の声、同苦の心、苦難に負けない人間の歩みは、万人に生きる力をもたらす。
★今年、国際交流の拠点・神戸は開港150年という新しい時代を迎えた。
“心の絆”“励ましの力”が地域を潤し、発展させていく。
★自他共の幸福を目指す「共助の力」の大切さを社会、世界に日本から発信していく時代が来た。

「沖縄戦とは、いかなるものか」

2017年01月18日 10時16分53秒 | 社会・文化・政治・経済
★普遍的な教養と豊かな人間性を磨く。
★論理的な思考力、世界の人々と意見を交わせるコミュニケーション技術、異文化理解の力。
世界のどこへ行っても通用する実力を付ける。
★多角的に物事を捉える力を磨き、誰かの意見に左右されることのない、自律した思考力を鍛える。
★世界の舞台で活躍できる本物の人材を育て送り出す。
★不動の心構えの人だけが真の優しを持つ―ラ・ロシュフコー
★沖縄戦の本質に迫る証言集
声なき声を記録
「沖縄戦とは、いかなるものか」を浮き彫りにしてきた。
沖縄戦を生き抜いて14人に取材し、編さんした反戦出版である。
沖縄戦の特徴は、住民を巻き込んだ戦争であった。
軍隊の編成や動き、陣地の場所などが軍事機密に当たる。
これを外国人(米兵)に漏えいすると死刑になるというのが軍機保護法。
日本軍との軍民雑居を強いられた住民は陣地づくりに駆り出され、兵士と同じように軍事機密をいや応なく知る状態にあった。
つまり、住民が米軍に捕まったら軍事機密を漏えいすることになる。
住民は全員、死が前提になっていた。
日本軍は米軍への投降を絶対に許さなかった。
なぜなら、住民に軍事機密を知られているからだ。
迫り来る米軍を前に、皇民化教育、軍国主義教育をベースに「軍官民共生共死」の方針が徹底されたため、沖縄の各地で軍の命令や指導、誘導、強制により、集団死が発生した。
住民は迫り来る米軍(前門の虎)と、投降を絶対に許さない日本軍(後門の狼)に挟まれ、絶体絶命の絶望状態に追い込まれていた。
日本軍や米軍による目を覆うばかりの残虐行為、一つ一つの証言に沖縄戦の真実が凝縮されている。
間もなく沖縄戦の体験者は一人もいなくなる。
戦争体験を「継承すると」は、戦争を体験しない者が「追体験すること」である。
「追体験すること」で、真に「戦争否定の心」が養われる。
この平和の心を子ども時代に育むことが何より大事だ。
未来へ世界へつなげる「平和のウムイ(思い)」ために、想像力を働かしてどう生かしていくか―そこが求められている。
沖縄国際大学名誉教授・石原昌家さん

1月17日(火)のつぶやき

2017年01月18日 02時11分02秒 | 医科・歯科・介護