創作欄 徹の過去の人生 7)

2017年01月02日 22時33分07秒 | 創作欄
2013年10 月18日 (金曜日)

徹は約2時間余、王子駅でその人を待った。
待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか。
だが、徹は湧き上がった恋心に賭けた。
「きっと、約束を守り来てくれるはず」
だが、虚しい確信であった。
苛立ちの中で、拳骨で駅の掲示板に怒りをぶつけた。
結局、心が荒み徹は真田から貰った2万円手にして、赤羽駅を経由して池袋駅へ向かった。
午後4時であったが秋の陽射しは、頭上から照りつけており体が汗ばむ。
徹は繁華街をうろつき回っている間に客引きの女に腕を取られた。
「お兄さん! いい男、何処へ行くの? 遊ばない」
相手の年齢は40代と思われたが、何処か徹の母親に似ていた。
不思議な感情が徹を支配した。
徹が5歳の時に、父親は暴力団の抗争に巻き込まれ亡くなったいた。
母親は水商売に転じてから、自宅に男を引き入れていた。
その男が理不尽にも暴力的であり、母親も徹も些細なことで、殴る蹴るの暴行を受けていたのだ。
「大きくなったら。仕返ししてやる」暴力に耐えながら徹は心に誓った。
徹は40代と思われ女性に主導権を握られた様でホテルへ向かった。
近くに立教大学があったので、卑屈な徹は女とホテルに入る時、左の片手で顔を覆った。
ホテルに入りまずお茶を飲む。
それから、女は風呂場へ向かう。
しばらくして湯かげを確かめながら女は振り吹きながら問う。
「あんた、いくつなの?」
「20歳です」
「若いのね。25歳くらいに見えたけど・・・」
徹は無造作に女が衣服を脱ぎ始めたので、仰天した。
「あら、どうしたの?もしかして、あんたは童貞なの?!」
徹は言葉を失った。
性行為が終わって女が3000円を求めた。
実は女が母親の面影に似ていたので、徹は罪悪感に似た感情に支配された。
「あんた、私の別れたタクシーの運転手に似ているのよ。あなんの方がハンサムだけど、私の旦那にならない、食べさせてあげる」
女はホテルの前で、徹の手を強く握った。
2013年10 月17日 (木曜日)
創作欄 徹の過去の人生 6)
思わぬ人との出会いがある。
そして、その存在が心占め、徐々に膨らんでいく。
「人を好きになる感情は、不思議なものだ」と徹は思った。
後楽園競輪場の食堂で働いていた姉さんかぶりの女性に徹は心が惹かれたのである。
父親の戦友であった真田に貰った2万円の大金を持って後楽園競輪へ行く。
幸いその日は競輪場で真田の姿を見かけることはなかった。
「あら、お一人なの?社長さんは?」
心がどぎまぎしていた徹は黙って肯いた。
一度きりの出会いであったのに、相手は徹のことを覚えていてくれた。
「君に会いに来たんだ」
徹は予め言うべきことを用意してきた。
「わたしに!」
大きな瞳が戸惑いを示した。
そして、お盆を握りしめため息をついた。
食堂は昼前であり、まだ客の姿はまばらであった。
運ばれてきたコップの水を一口飲んで、徹は前回と同じカツ丼を注文した。
カツ丼を運んできたは「もったいないような、何か、不思議な気持ちよ」と小声で言う。
徹はその言葉で、勇気を得た。
「外で会えないかな?」
「いいわよ。社長さんのお知り合いなら、断れないもの」
徹は受け入れられたのだ。
鼓動が高鳴った。
後楽園競輪は最終日であり、翌日は食堂も休みである。
「明日、映画でも一緒にどうかな?」
「私、映画大好きなの。嬉しい」
実は断られても元々と思って、徹は予め映画の入場券を2枚買っていた。
「私、王子のアパートに住んでいます」
「では、王子駅で午後2時に」
「分かりました」
食堂の手前、会話は短く切り上げた。
だが、翌日にその人は王子駅で待ったが相手は姿を見せなかった。
2013年10 月17日 (木曜日)
創作欄 徹の過去の人生 8
昭和40年秋、徹は就職活動が思わいくなく、挙句の果てに父親の戦友であった真田を頼った。
それは心情的に不本意であったが、結局は生活に窮したのである。
「この1年、徹君、何をしていたの?」
問われて徹は「就職が駄目なんです」と率直に述べた。
「そうだろう、世の中甘くない。うちで働け」真田は相変わらずパイプの煙を燻らせていた。
真田は、部屋の広さに不釣り合いな大きなデスクに座っていた。
徹は社長さんと呼ばれていた真田の職場を想像していたが、訪ねれば渋谷の道玄坂の古びたビルの10坪ほどの部屋であった。
個室から若い女性がお茶を運んできて、徹は驚いた。
その女性は後楽園競輪場の食堂で働いていた女性であった。
鋭い眼光の真田の瞳が緩んだ。
「徹君、覚えているかい?」
「ハイ!」徹は相手の視線を受けながら、その女性に上目づかいに視線を注いだ。
相手の女性は頭を下げながら屈託なく微笑んだ。
あの時の姉さんかぶりお女性は肩に被るような黒髪の長髪の人であった。
徹は黒髪で日本的に映じる長髪の女性を好ましく思っていた。
その人こそ徹の伴侶となる大迫静香であった。
静香は山形県山形市の出であり、多少の東北訛りと人柄の素朴さが徹には好ましく思われた。
「私のこと、選んでくれたんですね」静香は鎌倉でのデートの時、率直に心情を吐露した。
徹は静香の過去は知る由もない。
だが、そのことは徹にとってどうでもいいことに思われた。


後楽園競輪
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<参考>
競輪再開反対総決起集会
更新日 2006年10月01日


東京都知事の後楽園競輪再開表明に対して、個性ある文教都市のまちづくりを進めている我が区にとって不適当との考えから、区と区議会は速やかに反対を表明し、都知事や都議会議長へ要請書を提出するなど競輪再開を撤回させる運動を展開して参りました。また、こうした区や区議会の考えに賛同された、地域活動団体や多くの区民が参加する「(仮称)競輪再開反対文京区民連合」は、9月26日に設立総会が予定されています。
区民連合設立総会の後、区民、区及び区議会が一体となった競輪再開反対総決起集会を開催し、後楽園競輪再開の撤回を多くの区民の結集の下で働きかけていきたいと考えています。皆様のご参加をお待ちしています。
2013年9 月29日 (日曜日)
創作欄 続・徹の青春 4
月曜日、徹が地下鉄丸の内線の赤坂駅から赤坂プリンスホテルへの道を歩いていると先輩の近藤兼が背後から声をかけた。
「木村、昨日、見たぞ銀座でいい女を連れていたな! おまえさんも案外やるじゃないか。どこで女のを見つけたんだ!」
近藤は黒縁メガネの奥を光らせた。
徹は近藤の深く響くバリトンの声に気圧される。
近藤は実にハンサムである。
メガネはダテであり、自分を知的に見せるための小道具の一つだった。
近藤は電車内でいい女を毎日、物色している。
そして意図も簡単に女を魚のように釣り上げるのだ。
「女と寝るのは1回きり、後腐れがない」と豪語して憚らない男だった。
「近藤は何時か女で墓穴を掘る」と編集長の田丸勝志が釘を刺していたが、近藤の女漁りは相い変わらず継続していた。
結局、目敏い近藤は徹が恋をした八代由紀をも寝取ったのだ。
徹は近藤に憎悪を燃やしたが、八代由紀も1回切りで捨てられる運命にあった。
徹はそれ以来、女性不信に陥る。
そして新しい恋を求めたが、何時もうまく事は運ばなかったのだ。
徹は転職して、病院関係の専門新聞から薬業関係の専門新聞に勤め始めていた。
そして、東京の医薬品の小売団体の事務局に勤務する真田真理子に恋をした。
だが、真理子には既に婚約者がいたのだ。
「告白されて私、複雑な気分だけど・・・何処かにきっと、木村さんを好きになる人いるはずよ」
東京・御茶ノ水駅に近い音楽喫茶店の仄かな明かりの下、真理子の慰めは徹に虚しく聞こえた。

創作欄 徹の過去の人生 4)

2017年01月02日 22時28分16秒 | 創作欄
2013年10 月16日 (水曜日)

行楽園競輪場へ入り、徹は目を丸くした。
祭日ではないのに、場内は人の群れで溢れていたのだ。
この人たちはいったい何をしている人たちなのか?
自分のように失業でもしているのか?
同時に真田憲にも疑問がわいた。
道玄坂で出会った時には「うちで働かないか」と言っていたが・・・
真田憲の仕事はそもそも何であるのか?
場になれない徹は何度も人の肩にぶっかった。
街中なら喧嘩を売っているとことであったが、徹は場内の喧騒に圧倒された。
2万人いるのか3万人いるのか、検討が付き兼ねる。
多くの人が興奮し、喧嘩でもしているように声高に話していた。
そしてレースが始まると柵によじ登るようにして熱狂していた。
「これは、まったく狂気の世界だ」徹は呆れかえる。
だが、真田はあくまでも沈着冷静であり、鋭い視線を競争する選手たちに注いでいた。
それは、地獄や修羅場を見てきた冷徹な男の視線であった。
真田は車券が当たっても外れても顔色を変えることはなかった。
「徹君、競輪は初めてなんだね。競輪は極めて人間臭い競技なんだよ。徹君、腹が減っただろう何か食おう」
真田は徹を促し食堂へ向かった。
食堂へ入ると店の若い女性が茶を運んで来た。
競輪場で若い女性が働いていることに徹は目を見張った。
「社長さん、何時ものカツ丼ですね。勝ち運が着くように・・・」と言い愛嬌を振りまく。
「徹君もカツ丼でいいかね」
「ハイ、ご馳走になります」徹は飲みかけの茶碗を置きながら、ああねさんかぶり(姉さん被り)の女性の顔に視線を注いだ。
真田は背広のポケットからパイプを取り出しながら、ニヤっと笑った。
「徹君、いい女だろう? ああいう女はいいよ」
実は暴力的な徹は、中学生のころから女生徒たちから敬遠されていた。
切れ長であり三白眼の徹の目はいわる座っていて、若い娘の立場として視線を向けれること自体が怖いのだ。

☆あねさんかぶり【姉さん被り】
女性の手ぬぐいのかぶり方の一つ。
手ぬぐいの中央を額に当て左右の端を後頭部へ回し、その一端を上に折り返すか、その 角を額のところへ挟むかする。

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<参考>

在りし日の後楽園競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。
右隣の施設は、後楽園球場。
競輪場左隣の緑地は小石川後楽園。
基本情報
所在地:東京都文京区後楽1-3


戦後福岡県小倉市(現北九州市)でスタートした競輪を戦後復興の一助にしようということで1949年、東京都が主催して後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。
同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。
1958年1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。
また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、オリンピック予選を始めとするサッカー日本代表の試合が開催されたり、ボクシングやプロレスの興行、1958年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)が開かれたこともあった(同イベントは翌1959年~1987年まで晴海・東京国際見本市会場で開催)。

しかし1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。ちなみに京王閣競輪場は都営が廃止された今日も競輪の開催を調布市など周辺市に主催を移譲して開催している)。
2013年10 月15日 (火曜日)
創作欄 徹の過去の人生 3)
20歳の徹は一度も向学心に燃えたことがなかった。
タクシーは九段坂を下ると白山通りへ出た。
近くに専修大学や日本大学があり、爪入りの学生服を着ている生徒の姿も見られた。
徹はタクシーの中から、屈託なく笑う学生たちの姿を見ると舌打ちをした。
素早く真田憲の視線が注がれた。
街は東京オリンピックへの期待に包まれていたが、徹はオリンピックに全く興味を示していなかった。
日々、就職活動に明け暮れていたのだ。
70社ほど企業を回っていたが、どこも徹を採用しない。
「俺はダメな人間か?!」心はますます荒んできて、暴力的となり喧嘩を仕掛けては憂さを晴らした。
徹は中学生のころ薪で自宅の風呂を沸かしていた。
薪を斧で縦に裂き、釜に入れる長さにするため、薪を拳骨で二つに分断した。
手刀でも試みた。
血豆や裂傷もできたが、2年余続けると自分でも驚くほどの威力を増したのだ。
徹は空手を習ったわけではないが、廃屋の瓦でも拳骨や手刀の威力を試したら、重ねて6枚ほどまでなら瓦は割れた。
歩いて5分ほどの高等学校の校庭へ夜忍び込み、鉄棒で毎日懸垂を試みる。
それも2年続けると腕や肩、胸板に筋肉が着いてきた。
徹は自宅へ戻ると畳の上で腕立て伏せを繰り返した。
体を鍛えあげることは快感ともなった。
父親寿吉の戦友の真田憲は戦地から引き上げてきて、妻子が東京大空襲の犠牲で死んだことを知る。
妻子は実家へ身を寄せていて、義父も義母も空襲の犠牲で昭和20年3月10日亡くなったのだ。
妻の真理子は31歳、息子の清は昭和18年生まれでまだ2歳、娘の里子は昭和16年生まれで4歳だった。
あまりにも戦争は理不尽であった。
妻の真理子は両国の駄菓子屋の娘であり、3人の兄はいずれも戦死した。
音楽家の道を志していた真田憲は長野県の上田から上京し、縁戚であった駄菓子屋の児玉家へ下宿した。
真田憲は昭和14年、真理子と恋愛関係となり結婚した。
戦前は中学校の音楽教師をしながら声楽家を目指していたが、妻子の死で虚無的な心情となった。
徹に渋谷の道玄坂で出会った時、真田憲は自分の若いころの姿を重ね見る思いがした。
自分も徹のような荒んだ目つきをして、闇市をうろつき回っていたのだろうかと・・・
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<参考>
東京大空襲(は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。
都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
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参考
東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月10日~24日に日本の東京で開かれた

創作欄 徹の過去の歩み 2)

2017年01月02日 22時25分28秒 | 創作欄
2013年10 月14日 (月曜日)
創作欄 徹の過去の歩み 2)
徹は東京・渋谷の道玄坂で父親の戦友の真田憲から声をかけられた。
「おお! 寿吉の息子ではないか?」
俯いて歩いていた徹は驚いて立ち止まった。
相手は縦に白筋が入った上下黒の服装で、背広の下には薄いピンクのシャツを着ていた。
普通の勤め人の姿ではない。
頬に5cmほどの傷もあった。
口もとは微笑んだでいるようであるが、大きな二重の目は人を射るように鋭い光を放っていた。
「今、何をしているの?」声は顔貌から想像できないほどソフトであり鼻腔あたりで響いた。
いわゆる美声なのだ。
音楽の道を志していた真田憲を狂わしたのは戦争であった。
「職探しです」
徹は当時、怖い者なしで強気であったが真田からは言い知れぬほどの威圧感を感じた。
「職探しか、うちで働くか?」
徹は真田の目を改めて凝視した。
人を信用しない徹は、誘いに簡単に応じない男であった。
「今日、行くところないなら、俺に付き合え、いいか?!」
徹は懐に2000円しかなく、朝食は喫茶店のモーニングコーヒーと食パンのトーストですませていた。
真田は右手を大きく挙げタクシーを停めた。
そして、乗るように徹を促した。
「行楽園競輪頼むわ」
真田は背広のポケットからパイプを取り出した。
徹はタバコの煙が苦手であるが、パイプの香りに違和感を持たなかった。
死んだ父の寿吉もパイプの愛好家であり、いくつも所持していた。
幼なかった徹はパイプをいじっては父親に怒られた。
真田はタクシーの窓のガラスを少し開いた。
タクシーは青山通りを抜け、赤坂から皇居の半蔵門を通り、九段方面へ向かった。
「行楽園へ行く前、運ちゃん、靖国へ寄ってくれ、勝負運を付けねばな」
真田は真剣な眼差しで言う。
徹は靖国神社へ行くのは初めてであった。
「徹君、お前さんはタクシーで待っておれ」真田は一人靖国神社へ向かい歩み出した。
真田の身長は180cmに近いが、遠ざかる真田の後ろ姿は大鳥居を背景にすると小さく見えた。
参拝に訪れ人は高齢者ばかりであった。
徹はタクシーの外へ出て、身をほぐすように手足を伸ばしたり、膝を屈伸させた。
風はほとんどなく、秋の陽射しは明る照りつけており、徹は気だるさを覚えた。
たくさんの桜の葉は照り輝くように紅葉していた。
大村益次郎の銅像に徹は目を留め、その像に向かって歩みだした。
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<参考>○大村益次郎・・・・・・長州藩出身。靖国神社の創始者、日本陸軍の祖。
蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。
「戊辰戦争」では、その手腕により新政府軍を勝利に導く。
明治維新後は、文字通り、軍権の全権を担い、軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築く。明治2年に過激な攘夷派による襲撃を受けて、その傷がもとで死去する。
その性格は頭脳明瞭で合理的な思考であるが、堅物で人当たりが下手であったため、人から誤解を招くこともあったであろう。
愚直なまでに新しい時代を作り上げようとした男であった。


ttp://www.geocities.jp/douzouz/epsord/oomura.htm

創作欄 徹の過去の歩み 1)

2017年01月02日 22時22分12秒 | 創作欄
2013年10 月13日 (日曜日)

徹の父は彼が5歳の時に、暴力団の抗争に巻き込まて死んでしまった。
彼が住む街は、戦後の荒廃を何時までも引きづっているような荒んだ場所であった。
スラム街とも言えただろう。
ゴミの山、違法なバー、ドラム缶のたき火、タイヤのない放置された自動車。
痩せ細った野良犬も多かった。
ドブ川沿いの空き地には掘っ立て小屋が立ち並び、鶏や豚を飼う人々もいた。
小屋からはニンニクの臭いが常に漂っていた。
男たちは、ドブ川に向かって放尿する。
日雇い労働者たちは仕事にあぶれると昼間から1升瓶を抱えて路上で飲んでいた。
些細なことで喧嘩が始まる。
ヒロポンなどの麻薬に溺れる人もいる。
体を売る女性たちは昼間から客引きをしている。
パチンコ屋から出て来る男にまとわりつく女も居る。
競輪場も電車で3駅先にあった。
驚くことに競輪のノミ屋もいたのだ。
背後に暴力団の姿があった。
徹の母親は居酒屋で働きだし、間もなく男ができて同居した。
この男が冷酷な男で、母も徹もしょっちゅう殴られた。
中学を卒業した徹は街工場の工員として働きだしたが、少年のころに負った心の傷は残った。
徹は些細なことで同僚と衝突して、殴り合いのケンカになった。
当然、暴力的な徹は職場での嫌われ者となった。
解雇されては転職を繰り返していた。
母親は徹が19歳の時にくも膜下出血で死んでしまった。
まだ、38歳の若さであった。
母の加奈子は何かを予感をしていたのだどうか、「私に何かがあったら、いいかい徹、秩父のおじさんに相談するんだよ」と言っていた。
世事に疎い徹は母の死に困り果てたが、母親の言葉を思い出した。
結局、埼玉県の秩父に住む母親の弟が葬儀を出してくれた。
昭和19年生まれの徹は、昭和20年の東京空襲で家を焼けれ、母の実家の秩父へ疎開をしていた。
父は召集令状(赤紙)来て高崎連隊へ入隊した。
そして南方派遣で戦地パラオへ向かい、運良くペリリュー島で終戦を向かえ無事日本の国土を踏むことができたのだ。
「俺は運が良かった」と父親寿吉は言っていたが、戦後は元の八百屋に戻らず戦友に誘われいわゆる闇屋になった。
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<参考>
終戦直後の日本では、兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度が麻痺状態に陥り形骸化していた。
都市部に居住する人々が欲する食糧や物資は圧倒的に不足していた。

まず駅前などに空襲による焼跡や建物疎開による空地が不法占拠された。
工場や作業場などにまだ残っていた製品を持ち出すなど、家々からは中古の日用品、農家から野菜や穀物・イモなどの食糧など、各人がてんでに持ち込んだ品を扱う市場が成立した。次第にそれらの個人店は寄り集まり、小規模な商店街のような様相を呈するようになった。

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<参考>
日本の公営競技では配当金の決定、控除率が概ね25パーセント前後に設定されている。

これはその中から関係者や開催する自治体などへの配分金をまかなうために設けられているが、ノミ屋はこの控除分を減らすことで客に対する配当金を増やす。
つまり正規の投票券を買うよりも配当が増える。

またタネ銭がないときに立て替えてもらえる、当選金は即日支払うがタネ銭の集金は次週まで猶予するなどの個別サービスをすることによって客を集める。
例えば「ハズレ券の購入金額の10%を払い戻す」といった、特別なサービスを行っているノミ屋は少なくないという。

ノミ屋は競馬法第30条・自転車競技法第56条・小型自動車競走法第61条・モーターボート競走法第65条によって5年以下の懲役刑もしくは500万円以下の罰金刑が規定されている。
ノミ屋の利用者は競馬法第33条・自転車競技法第58条・小型自動車競走法第63条・モーターボート競走法第68条によって100万円以下の罰金刑が規定されている。

また、競馬法第29条の2・自転車競技法第54条・モーターボート競走法第13条・小型自動車競走法第58条の規定により、公営競技施行者職員は担当大臣の許可を得てノミ屋の利用者となって公営競技のノミ行為に関する情報を収集するおとり捜査をすることができる。

この様に、現在ではノミ屋の排除は主催者・警察により積極的に実施されている。
そのきっかけになったのは1985年2月23日に高知競輪場の場内で発生したノミ屋の縄張り争いも一因となった暴力団抗争による発砲事件で、これにより死者2名重傷1名が出た事である。

創作欄  ドストエーフスキイの影響

2017年01月02日 22時14分52秒 | 医科・歯科・介護
2013年3 月 8日 (金曜日)

「人を非難、中傷するのは善くない」と先日、知人の歯科技工士と懇談した時に、ズバリ指摘された。
「“田沼の奴を一生飼い殺しにしてやる”。と社長が言ってたよ」と同僚の太田一雄が徹に告げた時、徹は「世の中には傲慢、不遜な人間が存在するのだ」と怒りを覚える前に、何故、そのような屈折した性格になったかを想像してみた。
過去に何かがあって、性格、人格を歪めたのではないかと類推してみた。
問題は育った家庭環境に起因しているのではないか?
母親か父親との幼児からの関係に原因があるのかとも考えてみた。
徹は自称「ドストエーフスキイ」の研究家であり、信奉者であった。
「ドストエーフスキについてなら、誰よりも多くを語れる」と自認していた。
純粋で献身的な魂の持ち主であると映じていたドストエーフスキの母親マリアは彼が16歳の時、37歳の若さで亡くなっている。
また、父親ミハイルは領地の農民たちに惨殺された。
これは彼が18歳の時の出来事だった。
この領主殺害事件の詳細は、正確にわかっていない。
二つの説がある。
一つは彼の弟アンドレイがのちになって「父が村にでかけたとき、村はずれで野良仕事をしていた農民たちが不手際をしでかしたのでどなりつけた、すると彼らのひとりがが乱暴な口ごたえをした。領主の報復を恐れて全員で襲いかかって父を殺害したという意味のことを書き残している。
また、一説には、娘を慰みものにされた農奴が首謀者となって領主殺害を計画し、父親が村へ来るのを待ち伏せして襲いかかり、かねて用意していたアルコールを喉に流し込み、さらに布切れを口の中に詰め込んで窒息死させた。
だから外傷がなかったのだとも伝えられている。
精神分析家のフロイトは、この事件を取り上げて、「ドストエーフスキの父殺し」という論文を書いている。
フロイトの推理によると、ドストエーフスキにはエディプス・コンプレックスがあった。
つまり、青年によくある心理だが、異性としての母親と父親の仲を無意識のうちに嫉妬して、ひそかに父親の死を願っていたというのである。
ドストエーフスキは父の惨殺の知らせを聞いた時、18歳の青年は潜在的父親殺しの願望が実現っされたのを知るが、同時にあたかも自分が犯罪者のような罪悪感におそわれた。
フロイトはドストエーフスキののちの癲癇や異常な賭博熱、作品に表れた父親殺しのテーマ、罪の意識、苦しみの甘受などを説明している。
「作品はしばしば作者より雄弁に作者自身を語るものだ」
徹はフロイトの分析に感嘆した。
徹はドストエーフスキの小説に学生時代にのめり込んだ。
特に「カラマゾフの兄弟」のなかで父親殺しの悲劇を取り上げていることに注目した。
ドストエーフスキは自尊心が強く、交際べたの性格であり、サロンで哄笑と罵倒を買った。
彼の初期の小説が批評家たちに痛罵された。
若いツルゲーネフが先頭に立って、貧乏で不器用な青年をからかったという記録もある。
サロンで嫌われたドストエーフスキは、空想的社会主義の集まりである会合に接近していく。
だが深い内省を通じて以前の社会主義的な信念を放棄したと思われる。
徹は人を分析するのが趣味ともなっていた。

創作欄 チェーホフの影響

2017年01月02日 21時48分50秒 | 創作欄
2013年3 月 8日 (金曜日)

あれほどドストエーフスキを信奉していたのに、徹は23歳の時期からドストエーフスキに息苦しさを感じ始めていた。
自分が目指す方向は別にあるのだと思いはじめていたのだ。
きっかけはチェーホフを知ってからだ。
自分の感覚はドストエーフスキよりチェーホフに近いことを認識した。
「かれ(ドストエーフスキ)は、疑いもなく、大きな才能だ。しかし、ときどき感覚に欠けるときがある」とチェーホフは個人的印象を記していた。
わずかそれだけの印象であり深く論評しているわけではないが、チェーホフの印象に注目したことで徹はドストエーフスキに違和感を抱き始めていた。
つまりドストエーフスキの病的な側面である『常人を超えたような』非日常的な作品の人物像を受け入れ難くなったのだ。
「医学の勉強がぼくの文学活動に重大な影響をもっていることは疑いありません。医学の勉強はぼくの観察をいちじるしく広げてくれましたし、さまざまな知識でぼくをゆたかにしてくれました。作家としてのぼくの医学知識がもっている真の価値は医師であるひとだけがわかってくれるでしょう。それらの意識は決定的な影響をもっています」
「自分の知恵だけで何でもわかると思っている連中の仲間に入りたくもありません」
「ぼくが生き、考え、闘い、悩むとしたら、それはみな、ぼくの書くものに反映します」
「小説は回想してこそ書けるのです。ぼくは、過去のことを回想してしか書けないんです」
「現代の文化は―偉大な未来のための仕事の端緒なのです。遠い未来において人類が本当の神の心理を認識するために、ドストエーフスキのなかに神を推測したり求めたりしないでも・・・」
「この世は平静であることが必要です。ただ平静な人だけが事物をはっきり見ることができ、公平であることができ、はたらくことができるのです」
思えばドストエーフスキの作品の世界は平静な空間ではないのだ。
つまりドストエーフスキの世界観が、徹を平静な日常生活から遠避けるように思われた。
徹はチェーホフの言葉をノートに書き留めながら、ドストエーフスキの影響から脱していきたいと念じ初めていた。

創作欄 フランス人の若者アンドレー

2017年01月02日 21時37分28秒 | 医科・歯科・介護
2013年5 月 2日 (木曜日)

25歳の徹は、新宿の歌舞伎町のゲイムセンターでフランス人の若者アンドレーと出会った。
徹はアンドレーの稀に見る美貌に着目した。
「ハンサムだね」と声をかけた。
「ハンサムと違うね!」アンドレーは顔をしかめた。
米国を嫌うアンドレーは、英語をも嫌っていたのだ。
5人の子どもの家庭に育ったアンドレーは実はホモであった。
美人姉妹4人のなかで一番末に生まれた男のアンドレーは、一番の美貌の持ち主であった。
「神様は間違えたのかもしれない。アンドレーを女の子にしたい」と父親は思いを募らせながらアンドレーを溺愛した。
アンドレーは幼児から長い髪で育てられた。
徹はアンドレーの告白を聞きながら、想像を膨らませた。
「日本に来た目的は何なの?」徹は取材するように聞く。
「浮世絵に若かれたことが一番! それから、日本は戦国時代から武将は同性愛だったこと。興味わきました」
「武将が同性愛?」徹は怪訝な顔をした。
「そうです。キリスト教では、同性愛禁止です。日本の戦国時代はみんなが同性愛でした」
徹はアンドレーから日本が特殊な国であったことを知らされた。

創作欄 仏教徒になった徹の母親 

2017年01月02日 21時20分40秒 | 創作欄
2013年5 月 3日 (金曜日)

徹は幼児期から、母親から虐待されていたので母親を恨み、その死を願っていた。
だが、母親は40代になって仏教徒になってから性格が一変したのだ。
信仰に導いたのは、女学校の恩師であった。
「道子さんは少しも変わっていないのね。相変わらず皮肉屋さんね!」」
同窓会で再開した恩師の長嶋ツネは微笑みを浮かべていたが、厳しい指摘であった。
道子は相手の言葉の揚げ足とりに終始していたので、相手を不愉快な気分にしていたのだ。
道子はわがまま育ちで、老舗の和菓子屋の使用人(従業員)たちを顎で使うような傲慢さがあり、性格が屈折していたのだ。
母親は道子が3歳の時に亡くなり、父親は道子が8歳の時に後妻を迎え入れていた。
店は長男が受け継いだので、道子は26歳の時に2歳年上のサラリーマンと見合い結婚をした。
夫の真一は大手企業の東京・大田区の製造工場に勤めていた。本社は東京・丸内にあった。
だが朝鮮戦争が休戦状態になった頃に、会社の業績は急速に傾き、銀行の支援も受けられなくり結局、倒産に至った。
そして会社更生法の適用を受ける中で、夫は人員整理の対象にされていた。
事務職の多くがその対象にされ、残ったのは営業と技術職であった。
道子は憤慨して、家を売りに出した。
会社の寮の脇にあった会社の借地80坪に2年前に家を建てていた。
和菓子屋の兄が頭金を出してくれたのだ。
夫の同僚たち6人が会社から土地を借り同じように家を新築していた。
だが、夫だけが人員整理され、ほかの同僚5人が会社に残ったのだ。
同じ場所に住み続けることは道子にとって屈辱であった。
性格が温和な夫の真一は、お人よしで無能に思われてきた。
「あんた!これから、どうするのよ?!」
大田区の雪谷町から世田谷の上町の借家住まいとなった道子は夫を責め立てた。
夫は職業安定所に毎日足を運んだが、45歳になっていたので、なかなか職は決まらなかった。
そのようなある日、女学校の同窓会の案内の葉書が届いたのだ。
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<参考>
仏教は、人間自身に至高の価値を見いだす究極の宗教であると評価されている。
だが、奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われてしまった。
真の仏教の信者は、自らが本来、仏であると確信している。
そして人間だれもが仏であると信じているので人を敬う。
仏教で説く、生命の因果の法則を、わが信念としている。
自身が仏なので何ものも恐れない。
また、仏を敬うように人を大切にする。
嬉々として労苦を担い、人に尽くす生き方をする。
信心即生活、即社会となり、信心で人格は輝きを放つ。
釈尊は民衆のなかに常に居た。
つまり仏教は民衆のなかに生まれ、民衆を組織化し広まっていった。

創作欄 自業自得 2)

2017年01月02日 21時18分06秒 | 創作欄
2013年5 月21日 (火曜日)
創作欄 自業自得 2)
フィリピンパブ「再会」への同伴出勤をジェシカにお願いされ、それに応じた徹は土曜日の午後2時に、上野駅前のデパートの並びの喫茶店で待ち合わせをしてコーヒーを飲んでいた。
ジェシカはバッグから小さな聖書を取り出した。
「徹さんは神を信じていますか?」
「神?」
「そうです。神様のことです」
徹は図らずもジェシカから聖書について教えられた。
ジェシカは実はレイテ島・パロ市にあるフィリピン国立大学大学医学部出身の産婦人科医であったのだ。
レイテ校:通称UPM-SHS (University of the Philippines Manila-School of Health Sciences)である。
UPM-SHSは、フィリピンの東大といわれるフィリピン大学のれっきとした分校。
とはいえ、レイテ島にあるパロと呼ばれる田舎町にあるこの学校は、とても小さくてこぢんまりとしたもので、外見からは「フィリピン国立大学」の威圧感を全く感じることができない。
それでも、この大学は主に2つのことで日本国内も含めて知る人ぞ知る、とても有名な医学校。
UPM-SHSは、医師・看護師・助産師の不足する地域(特に貧困地域)に尽くす医療人材の育成を目的に、1976年に創設された。
ご存知の方も多いかもしれないが、フィリピンでは高給を求めて、海外への頭脳流出が深刻な問題となっている。
医師や看護師も同じような状況で、毎年1万人近くの優秀な人材が海外に流出している。
アメリカなどでは、医師が看護師として働いているような話もあるくらいだ。
このような状況は、フィリピン国内における医療人材の不足に繋がり、特に貧困地域においては慢性的な問題になっている。
こうした人材不足に対して、UPM-SHSは地域のために尽くす優秀な人材育成のため、とてもユニークなプログラムを提供していそうだ。
1990年代の初頭、ジェシカは日本の病院で学びながら働きたいと願っていた。
だが、ジェシカは日本への渡航を斡旋した業者に騙されたのだった。
「私は騙されましたが、神様が犯罪をなくしてくれると確信しています」
「なぜ?」神を信じない徹はたたみかけるように聞いた。
ジェシカはコーヒーを一口飲んでから徹に微笑みかけた。
「神様は邪悪な人を滅ぼし、正義の人を生きながらせることを約束しています」
徹は聞いていられないと即座にジェシカの言葉を遮った。
「神は無力であり、神には犯罪をなくす力なんかないよ」冷笑して言い放った。
「徹さん 一度、聖書を読んでください。聖書ほど実際的な知恵に満ちている本はありません。また、聖書ほど犯罪のない将来について確かな希望を与える本もありません」
ジェシカは身を乗り出すようにして言葉に力を込めた。
徹は「屁理屈だ。神を信じる者たちは、盲目だ」と言いたかったが、ジェシカの澄んだ瞳で見つめられると言葉を飲み込んだ。
2013年5 月18日 (土曜日)
創作欄 「自業自得」 1)
徹の周囲にいる人たちは、身勝手に生きてきた。
徹だって大差ない生き方をしてきたので、人様のことをとやかく言える立場ではない。
外資系の商社に務めていた木嶋康夫は、35歳の時に香港支店の業績を大幅に伸ばした業績で本社に呼び戻され、取締役第一営業部長に抜擢された。
同社では一番若い役員として注目されたが、銀行から派遣されやってきた新任の専務取締営業本部長と取締役会議でしばしば意見が衝突した。
木嶋は2年後、小子会社の社長となったが、専務の前田晃に疎まれて、結果的に子会社に追いやられたのだ。
木嶋の当時の年収は1200万円であり、待遇的には不満はなかったが、親会社の出世コースから外れた挫折感を紛らわせるため、湯島界隈の夜の街を飲み歩き回った。
徹が木嶋と知り合ったのは、韓国人たちがホステスをする店であった。
店の経営者は木嶋の愛人の大橋優香で、元は銀座7丁目のクラブのホステスをしていた。
徹は店に通って間もなくホステスの一人と親しくなった。
木嶋は「木村君、なかなかやるじゃないか」と冷やかし気味に言った。
ママの優香は店のホステスが客と深い関係になることを嫌っていた。
そのことを敏感に感じとった徹は、優香の店「詩音」から足が遠退いた。
そして、フィリピンパブの「再会」の常連客となる。
その店でジェシカに出会った。
ジェシカの祖父はスペイン人と言っていたが、エキゾチックは風貌に徹は心惹かれた。
この店に木嶋も来ていたのだ。
「木嶋さん、さすが湯島の夜の帝王ですね」徹はトイレに立った時に、木嶋の席に近づいて声をかけた。
「木村君も相変わらずだね」木嶋はホステスの腰を抱きながら微笑んだ。
「この笑顔が憎めない」 徹は木嶋の全身から男の色気が漂うのを改めて実感する想いがした。
舞台ではフィリピンの音楽に合わせてホステスたちによるショーダンスが始まっていた。
トイレから出るとジェシカがおしぼりを手にして待っていた。
真っ赤なボディコンスーツはジェシカの豊満な腰周りを際立たせていた。
おしぼりからジャスミンの香りが漂ってきた。

創作欄 城山家の人々 11

2017年01月02日 21時15分47秒 | 創作欄
2013年8 月 6日 (火曜日)

「人を好きなる情念とは、このようなものなのか」と今さらながら三田村幸三は思った。
35歳の幸三は、これまで恋愛経験らしきものを体験していなかったのだ。
性愛を重ねるうちに君子に心が引きづられ、囚われていく状態であり「これは浮気だ」とは割り切れない情况に陥っていった。
迂闊にも君子は妊娠していた。
2人は避妊をしていたが君子は「今日は大丈夫」と言って日があった。
そんな日が何回かあったので、油断をしたのである。
「私は段々我がままになっていきます」と君子は唐突に言った。
「我がまま?」意味が分からず幸三は問い返した。
「私はあなたから離れられなくなりそうです」君子は思いつめた瞳で視線を注いだ。
癒し系の女性である君子は、身を焦がすような女に変貌していた。
「何時までも、私はあなたの陰の女で居たくないのです」
幸三は思いがけないその言葉に、肺腑をえぐられる想いがした。
狭い下仁田の街であり、2人の深い関係が、幸三の妻の玲子の耳にも届いた。
幸三の乗用車の助手に乗っている君子の姿が妻の玲子の知人にも目撃されていた。
「見かけたのは1回きりではないの、気を付けなさい。玲子さんは旦那さんに浮気されているのじゃないの?」
玲子の知人は信頼を寄せる地元の議員の妻であった。
それを聞いて即座に妻の玲子は「あんたは、浮気をしているのね!相手は誰!」と夫を問い詰めた。
幸三は最早、弁解したり嘘をつくつまりはなかった。
「じつは恩師の娘さんと関係ができたんだ」
「相手は恩師の娘さん?それで、あんたはどうするの?」
蝉時雨の時節であった。
幸三は吹き出す汗をタオルで拭う。
妻の玲子は、まゆを釣り上げ団扇で顔をあおいだ。

2013年7 月31日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 10
昼間、下仁田の街中で三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた日の夜、京子はあれこれ頭を巡らせると眠れなくなった。
浩一との夜の生活のことも思い出された。
若い2人は毎夜のように、交わってきた。
そして昭和34年、京子は3人目を妊娠した。
テレビはまだ六合村には普及していない時代である。
娯楽とは無縁の山間地の夜は常に森閑としていた。
浩一の母の恒子は稲棚や山の斜面を開墾した僅かな畑を一人で耕しているため、午前4時30分には起き、5時には家を出て行った。
朝が早い母の恒子は夜は9時前には寝入っていた。
2人の娘を寝つかせると浩一と京子は風呂を共にした。
浩一は京子に頭と背中を洗わせた。
素肌かのまま先に風呂を出た浩一は、床に腹ばいながら京子を待った。
浴衣姿の京子は下着を付けていないので、艶かしかった。
「今度は、男の子を生んでくれ」
浩一は京子から身を話すと京子の長い髪に指を絡ませた。
京子は少女時代から短髪であったが、結婚後に浩一に請われて髪を伸ばした。
浩一は子煩悩であり、「5人にくらい子どもをつくろう」と言っていた。
浩一は3人目の種を宿して亡くなるとは皮肉であった。
軽井沢からドライブの帰途、京子は眠気に襲われた。
「私、疲れたので寝てもいいですか」
「どうぞ」幸三は微笑んだ。
可憐な少女時代を連想するような京子の寝顔であった。
幸三の2人の兄は大東亜戦争下中国の戦地で戦死していた。
「大東亜戦争」は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、公文書で使用することが禁止された。
だが、兄2人を中国大陸で失った幸三にとっては、強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったことが不満であった。
2人の兄は士官学校を出た職業軍人であった。
当時の家が貧しく進学することが叶わない向学心旺盛な 子供にとって、職業軍人になることこそが最高の憧れだった時代であった。
目覚めた京子は何を思ったのか、過去の自分を告白するように唐突に言った。
「私は、中学生の頃、不良少女だったのですよ」
それは黙っていてもいいことであった。
夫の浩一にも明かさなかったことであったから、京子は自身の心の大きな変化を意識しながら自らを怪しんだ。
「京子さんが、不良少女だったのですか?!」幸三は目を見開き驚愕の表情をした。

昭和12年生まれの京子は、昭和の歌謡界を代表する歌姫美空ひばりと同世代であり、昭和26年14歳になっていた。
きっかけは些細なことだった。
「京子は頭もいいし、可愛いから先生に贔屓をされている。いいわね。先生の子どもあるし、特別扱いされている」
一番仲よしと思っていた山口夏子に言われたことが深く京子の心を傷つけた。
京子は何かと仲間外れにされることが多くなってきた。
そんな京子に不良少女のレッテルを貼られていた篠崎栄子が接近してきたのだ。
京子は篠崎栄子に真似て極端に髪の毛を短くし、裾を刈り上げのようにした。
「その髪はどうしたの?何があったの!」
母親はびっくりして質したが、京子は不貞腐れたように横を向いた。
父親は「馬鹿者!おまえは何を考えているんだ」と怒り、初めて京子の頬に平手打ちを食らわせた。
「高校受験を控えているんだぞ、一番大事な時期じゃないか!」
京子を居間に正座させ、「しばらく、そのままで反省しているんだ」と告げると書斎に向かった。
そして、聖書を持参しそれを京子の前に無言のまま置いた。
父に反発した京子は結局、聖書を一行も読まなかった。
学校をさぼり篠崎栄子とその仲間たちと渋川の街で遊び歩いた。
飲酒も覚え、シンナーにも手を出した。
だが、「桃色遊戯」だけには抵抗があり、それはやらなかった。
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<参考>
昭和26年(1951).2.6〔中学生の桃色グループ 読売新聞引用〕
 近頃「男女中学生が桃色グループをつくって性遊戯にふける」との記事が目につく。
警視庁少年課でも取り締りに頭を痛めている。
だんだん集団化する傾向があり、捕導された少年の親は「うちの子に限って……」という自信から警察に呼ばれて始めて事実を知って驚き嘆く例が多い。
原因は大半家庭の不注意が一番多く、学校のあいまいな性教育、社会の挑発的な出版物や興業にあるという。
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昭和34年
4月10日:【皇太子と正田美智子が結婚】 皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子の結婚式が皇居で行われた。夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には53万人が詰めかけた。皇太子が民間人と結婚したのは初めて。
皇太子結婚パレード実況中継 (NHKと民放テレビ各局、4月10日)
黒い花びら(水原弘)[作詞:永六輔、作曲:中村八大](10月発売)  第1回(1959年度)レコード大賞
6月25日:プロ野球初の天覧試合、巨人対阪神戦が後楽園球場で行われ、長嶋茂雄が村山投手からサヨナラ・ホームランを打った。
9月26日:【伊勢湾台風】 台風15号が紀伊半島に上陸して北上、東海各地に深いツメ跡を残して27日日本海へ駆け抜けた。 全国の被害は、死者・行方不明者5098人、負傷者3万8921人、被害家屋83万3965戸。

創作欄 城山家の人々 9

2017年01月02日 21時10分26秒 | 創作欄
2013年7 月29日 (月曜日)

小学校の教師の三田村幸三は、30歳の時に、新前橋に住む伯母の野田菊子から見合い話を持ち込まれた。
それは3度目のことであった。
和服姿がとても凛としていて、顔立ちが実に美しい人の見合い写真もあり、「このような美しい人を妻に迎えいいれることができたら」と密かに期待をした。
だが、見合い話が叔母から持ち込まれて、1週間後には、その女性は前橋の内科医との縁談が進んでいた。
「幸三、あんな美しい人を逃して残念だったね。でも、女の人は容姿ではなく、気立てだよ。まだまだ、見合いの話はあるよ」と菊子を甥の幸三を慰めた。
「姉さん、30歳にもなって幸三が独身で、私は肩身が狭いよ」と母親の稲子が語調を強めた。
「肩身が狭いだなんて稲子、男の30歳はけして、遅くはないよ」
「だって、裏の大島さんの息子は25歳で結婚して、表の佐藤さんの息子だって27歳で結婚して、もう子どもが2人もいるよう。結婚できない幸三には欠陥でもあるんだろうかね?」と眉を曇らせた。
「稲子、人様の家はそれぞれだよ。幸三にけして欠陥があるわけない。結婚は縁だよ」と菊子は妹を諭した。
結局、4度目の伯母菊子の見合い話が進展して、幸三は31歳の春に新前橋の医薬品の卸会社に務めていた27歳の三倉玲子と結婚した。
玲子は3人姉妹の次女で顔立ちは幸三が満足できる範囲の女性であった。
実は幸三はいわゆる面食いであったが、彼の周囲に彼の心を捉える女性が居なかったのだ。
35歳になった幸三には3歳の娘と1歳の息子が居た。
結婚生活に不満があったわけではない。
だが、幸三は恩師戸田恵介の娘の君子の存在を同僚の教師である大塚正子から聞いた。
正子も恵介の教え子であった。
「三田村さん、戸田恵介先生の娘さんが、本校の給食員として勤めているのよ。ご存じ?」
「ええ! 戸田先生の娘さんが?」それは心外であった。
幸三は中学生時代に戸田恵介を影響を強く受け心から尊敬しており、戸田の姿を追うようにして教職の道を目指した。
その戸田恵介の娘は伊勢湾台風の災禍で夫を亡くし、3人の娘を抱え、実家に身を寄せる立場となっていた。
娘を不憫思った父親は、娘の独り立ちを願い君子が小学校の給食員として働けるように尽力したのだった。
夫の浩一が亡くなった時、君子は身重であった。
3女の朝子が2歳になった時に、君子は働きだした。
美形の君子は男好きのするタイプで、甘い顔立ちで癒し系の女であった。
幸三は恩師戸田恵介に顔立ちが似ている君子を初めて観て、「何かを予感した」、それは言い知れぬ感情であった。
一方、君子も亡き夫の浩一のような優しい雰囲気を醸し出し、柔らかい物腰の幸三に好感を抱いた。
幸三には恋愛らしい恋愛の経験がほとんどなかった。
35歳にもなって湧き上がってくる少年のような心のときめきを、むしろ怪しんだ。
「私は、どうかしている。分別を失う年齢ではないはずだ」と邪念を払うように幸三は頭を振った。
2013年7 月28日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 8
「人の出会いは不思議なものだ」と君子は3人の幼い娘たちの寝顔を見て思った。
長女の玲子は顔のえらが張り男の子のような顔立ちであり、一重目蓋で亡くなった夫似であった。
次女の菜々子と三女の朝子は瓜実顔であり、二重目蓋で君子に似ていた。
君子は中学校の教師の娘であったが、中学生2年生の頃から悪い仲間と遊び歩くような女の子であった。
反抗期に口煩い父親の啓介に厳しく育てられ、厳格な父にことごとく反発していた。
思い余った父親は、娘を悪い仲間から引き離すために六合村の恩師の島田節道の寺に預けた。
島田節道は前橋高校の国語教師であったが、僧侶の父親が亡くなると教師を辞して寺を継いだ。
「娘の君子の性根は、私には直すことはできません。先生何とか面倒をお願いします」憔悴した教え子の顔を見て、節道は「親元を離れて暮らすのもいいだろう」と理解を示し君子を預かることにした。
「君子、親孝行が一番だ。人間の基本だよ。今は分からないだろうが、親孝行の娘になりなさい。斯く言う坊主も親孝行の息子とは言えんかったがな」節道はニヤリとして坊主頭を撫で回した。
君子は節道に対して祖父のような親しみを覚えた。
「人間、学問が全てではない。高校へ行きたければ行けばいい。中学を卒業して、働ききに出てもいい。若くして社会に出ても、それはそれで有意義で、何でも学べるものだ」
君子は寺での日々の修行のような生活で素直であった生来の性格を呼び覚ました。
午前5時には起きて、小僧とともに寺の掃除をした。
小僧の幸太郎は13歳であり渋川の親の寺を離れ修行に来て、昼間は六合村の中学校へ通学していた。
結局、君子は転校した六合村の中学を卒業すると六合村の役場に就職した。
そして役場で人生の伴侶となる山城浩一と出会ったのだ。
その浩一が昭和34年の伊勢湾台風の災禍で亡くならなければ、親子4人の平穏な生活を六合村で送っていただろう。
また、実家の下仁田の実家に戻らねば、妻子がある35歳の教師三田村幸三とも出会うことはなかっただろう。
居間に掲げてあるフクロウの柱時計が「ホッホッ」と午前1時の時を告げた。
10歳の誕生日に買ってもらった柱時計が、今も正確に時を刻んでいることが、奇跡のようにも思われた。
君子は娘たちの寝息から背を向けると、突き動かさるような体の衝動を感じ始めた。
三田村幸三によって数年ぶりに女の性を呼び覚まされたのだ。
2013年7 月21日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 7
軽井沢へのドライブへ誘われた時、24歳の3人の母親である君子は、妻子がある35歳の教師三田村幸三とただならぬ男女の関係になることを予感していた。
「たまには息抜きをしませんか」と言われた時、乾いていた心ばかりではなく、女の体の潤いを呼び戻して欲しいという期待に突き動かされていた。
父親は昭和34年の伊勢湾台風の思わぬ被害者となり夫を亡くした一人娘の君子が、自分のもとへ戻って来たことを歓んでいた。
だが、母親は3人の娘がいるものの24歳の娘が再び良縁に結ばれることを願っていた。
「母さんはお前の娘たちの面倒を見てもいいって思っているんだよ。君子は再婚しなさいね」
「私は古いタイプの女ではないので、亡くなった浩一さんに操を立てる気持ちはないの。でも、私を貰ってくれる男の人なんかこの下仁田にいるのかしら?」
確かに若い男たちの多くは東京へ働きに出て、群馬県の山間地である下仁田も過疎化が進んでいた。
「何時までも寡婦の身なんて惨めだよ」娘の運命を不憫に思っていたので、再婚を真剣に勧めた。
「そうね。寡婦で終わりたくはないわ。こんな自分の立場でも、私に興味を持ってくれる男がどこかに居るはずね」
具体的にその姿が浮かんだのは、小学校の給食員として働き出してから1か月後であった。
給食室を出た時に、廊下で出会った人から声をかけられた。
「戸田恵介先生の娘さんですね。自分は三田村幸三です。実は私は戸田先生の中学時代の教え子なんです。」三田村幸三は20代の青年のような清々しい笑顔であった。
「そうでしたか!私は娘の君子です。三田村さんのこと父に言っておきましょう」君子は三田村に親しみを感じた。
「君子さんは、目の当たりが戸田先生に似ていますね」まじまじと見詰められた。
「そうですか」三田村から注がれる視線に君子は何故か気恥ずかしい思いがした。
父親の恵介は目が大きく二重目蓋である。
母親の信恵は切れ長の一重目蓋であった。
その年の学校の夏休み、下仁田の街中で買い物をしていた時に、三田村から声をかけられ軽井沢へのドライブへ誘われたのだ。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
常日頃から“息抜”をどこかで欲していたので君子は二つ返事でドライブに応じた。
だが、運命は思わぬ方向へ向かうものであるが、その時点で死への逃避行までは予見できなかった。

創作欄 城山家の人々

2017年01月02日 21時07分23秒 | 創作欄
2013年7 月18日 (木曜日)

昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一が亡くなった時、妻の君子は身重であった。
3歳の娘と2の娘がいたので君子は父親の戸田恵介の勧めに従い下仁田の実家に戻った。
下仁田ネギで有名な下仁田町(しもにたまち)は、群馬県の南西部にあり、町面積のうち山林が約84%を占めている。
昭和30年(1955年)下仁田町・小坂村・西牧村・青倉村・馬山村が合併し、下仁田町が誕生した。
戸田恵介は中学の校長をしており、娘の君子の3女の朝子が2歳になった時に、娘が小学校の給食員として働けるように尽力した。
君子の母信恵は元尋常小学校の代用教員をしていた経験から父親がいない5歳、4歳、2歳の孫娘を不憫に思い預かり、父親代わりの立場でしつけた。
色々な絵本の読み聞かせをしながら、情操教育に努めた。
君子は22歳で未亡人となり、23歳で3児の母親となっていた。
再婚してもいい年齢であったが、田舎町には3児の女と結婚する男は居なかった。
だが、美形の君子は男好きのするタイプでもあった。
君子は甘い顔立ちで癒し系の顔立ちであったのだ。
だが、愛された男には妻子がいたのだ。
35歳の教師三田村幸三は亡くなった夫の浩一を思い出させる優しいタイプの男であった。
夏休みのある日、君子は三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
君子は買い物をしていた時に、下仁田の街中で出会った幸三から声をかけられた。
軽井沢は浩一と住んでいた六合村からも比較的近かったが君子は一度も行ったことがなかった。
浩一の妹の福江が夫の銀次とともに吾妻郡長野原町北軽井沢の浅間牧場の近くで観光客相手の休憩所を経営していたので、浩一と何度か行って浅間牧場の大自然を満喫した。
浅間家畜育成牧場は、浅間山(2569メートル)の東北東山麓の標高約1300メートルに位置し、草津白根山一帯の地域と同じ中央高原型気候(北海道北部に匹敵する気候)で、総面積約800ヘクタールの牧場だ。
牛たちは浅間山の麓で雄大な自然の中で伸び伸びと育てられていた。
浩一と君子は結婚前にも浅間牧場を訪れていた。
そして雄大な景色を見ながら、浩一の妹の福江が運んできた牛乳を飲んでその濃さに感嘆したのだった。
実は性的に早熟な福江は14歳で妊娠して、村人から白い目で見られていたが、17歳の銀次と結婚し幸せな家庭を築いていた。
想えば、村人から生き神様と崇められていた忠平さんの娘の福江のふしだらさに、保守的な村人立ちは納得ができなかったようだ。
2013年7 月17日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 4
生き神様と村人から崇められた忠平は72歳で逝った。
酒を飲まないし、タバコを吸わない健全な生活を送っていたが、祈祷中に脳梗塞で倒れそのまま逝った。
10歳年下の弟の紳助は「兄さんはもう少し長生きすると思ったが」と安らかな死に顔を見て呟いた。
思えば妻のマツが57歳で脳溢血で死んだ時も、夫の忠平は托鉢の僧侶ように旅に出ていた。
「どうか、お布施をお願いします」
榊を手にして、家々を訪問する。
門前払いに合うばかりであるが、忠平にとってはそれが修行の一貫だった。
全国行脚の途次に全国各地に点在する親類の家も訪ねた。
極論すれば、姪や甥などから1000円、2000円のお布施をもらい受けるために、5000円の旅費、宿泊費を使うのである。
「忠平さんお布施は送るから、わざわざここまで来ることないよ」と岐阜県の中津川に住む甥の浩史は恐縮した。
だが昭和40年の始めに死をもって忠平の全国行脚は終わった。
ところが、姪の娘の一人の陽子は忠平の魂が乗り移ったように信仰にのめり込んで行く。
「陽子はどうしたんだ?」
叔父の紳助は群馬県渋川の姪の正子から陽子を預かっていたので心配した。
陽子は東京の短大へ入学して、東京・大田区雪谷の紳助の家に間借りをしていた。
陽子は短大から宗教団体の会館へ直接向かう。
そして毎日のように深夜まで宗教活動に邁進していた。
「この宗教は絶対よ!忠平さんの宗教とは全然違うわ。おじさんも是非、入信してね」
紳助はそれを聞いて呆れ返った。
紳助は大手企業に務める立場であり、世間体も憚ったので陽子の存在が段々疎ましくなってきた。
また、紳助の妻伸枝はミッション系の女子大学を出ていてクリスチャンであった。
「あなた、陽子に部屋を出て行ってと言ってくださいね。私、陽子が家にいるだけで神経は疲れるの」と露骨に顔をしかめた。

創作欄 城山家の人々 3

2017年01月02日 20時59分23秒 | 創作欄
「コウイチ コス」
配達された電報の短い電文を見て紳助の妻の伸枝は「浩一さんが、実家からどこへ越したかしら」と夫に尋ねた。
「何?浩一が越した?!」
紳助は妻の手から電報を抜き取るようにしてから電文を凝視した。
「“コウイチ コス”か、この電報は何なんだ?電話で確かめよう」紳助は実家に電話をした。
浩一の妻の君子が電話に出た。
「おじさん? 紳助おじさんね!浩一さんが崖崩れで埋まって死んでしまった」
君子が泣き崩れ、電話が途絶えた。
「もしもし、もしもし、君子、君子」紳助は叫ぶように電話で呼びかけた。
「コウイチ コス」は「コウイチ シス」の間違いだった。
伊勢湾台風の被害が群馬県の吾妻郡六合村にまで及ぶんだとは紳助は想像だにしなかった。
まだ、26歳の若さの甥の浩一が死んでしまったのだ。
妻の君子は24歳で身重であった。
しかも、3歳の娘と2の娘がいた。
すでに記したとおり浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
「兄貴は、生き神様と崇められた宗教者だ。それなのに、神の加護はないのか?!」紳助は宗教に不信を募らせた。
思えば城山家の次男(紳助の兄)は関東大震災の時に、住み込みで働いていたが東京の墨田界隈の倒崩した家で死んでいた。
後年、城山家の人々は交通事故で3人が亡くなっている。
さらに、城山家の2人の娘が婦女暴行などを受けて殺されているのだ。
紳助の娘は皮肉にもミシン会社に務めた2年後、夜勤の帰りに襲われて、強姦された後に絞殺された。
浩一が六合村の役場から就職する姪のために送った戸籍謄本のことが、娘を失った紳助の脳裏から消えることはない。

創作欄  山城家の人々 2

2017年01月02日 20時55分45秒 | 創作欄
2013年7 月 8日 (月曜日)

昭和34年、女子高校を卒業した徹の姉の真紀子は、東京・有楽町にあったミシン会社に就職した。
就職するに際して戸籍謄本を会社側から求められた。
真紀子の父親が甥の浩一が勤めていた群馬県吾妻郡六合村の役場に電話をかけて、戸籍謄本を送ってもらうこととなった。
電話に出た甥の浩一の声は明るく弾んでいた。
「おじさん、真紀子が就職したんですね。おめでとうございます。それで戸籍謄本が必要なんですね。喜んで直ぐに送ります。
おじさん、たまには赤岩に戻って来てください。おじさんが好きな日本酒を用意して待っていますからね」
「浩一、元気そうだね。ところで、兄さんは相変わらずなのかい?」叔父の紳助は尋ねた。
「忠平さんなら、元気そのものです。何たって生き神様ですから、疫病神も一目散に退散です」
浩一は父親を「忠平さん」と呼んでいた。
「大工の三郎はどうだい?」紳助は弟の近況をたずねた。
「三郎おじさんは、草津温泉の旅館の建てかえで忙しんで、息子の朝男も手伝っています」
「朝男はまだ中学生だろう?」紳助が心外なので聞いた。
「朝男は学校は好きでないと、この春で中退しました」
「中退した?馬鹿な、それで三郎は怒らなかったのかい」
「三郎おじさんは、“大工に学問はいらない”と言っていました」
「親子揃って、どうしょうもないな!」紳助は舌打ちをした。
紳助は旧制中学を出てから商業の専門学校へ通いながら働き、さらに夜間の大学を卒業していた。
紳助は叔父の立場から甥の浩一が中学3の年間をトップの成績を修めたことを聞き、高校への進学を助言してきた。
だが、浩一は貧しい家庭を支えるために村の役場に就職をした。
「お前はそれで本当にいいのか?」
正月休みに実家に戻ってきた紳助は浩一に質した。
「俺は、妹や弟も居るから、役場で働くよ。何も悔いないから大丈夫」
浩一はキッパリと言ったので、紳助は黙る他なかった。

創作欄 山城家の人々 1

2017年01月02日 20時52分26秒 | 創作欄
2013年7 月 7日 (日曜日)
群馬県吾妻郡六合村(くにむら)大字赤岩の山城徹の伯父の忠平は熱心な宗教者であった。
2人の娘たちは草津温泉の旅館にお世話となり住み込みで働いていた。
浩一は気丈な母を常に気遣う親孝行の息子で、生真面目な人柄であり性格は父親に似て温厚だった。
浩一は中学校では3年間トップの成績であったが高校へは進学せず、彼のことを惜しんだ校長の推薦で村役場に就職していた。
そして休みの日は母親の農作業を手伝っていた。
浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
農民の一人が血相を変えて村役場に駆け込んできた。
「俺の家が土砂崩れで、今にも流されそうだ!」
受付に近い席に座っていた浩一が素早く席を立った。
「作造さんの家で土砂崩れだね。直ぐ行くからね」
浩一は倉庫に雨合羽とヘルメットを取りに行く。
同僚で2歳年下の佐藤朝吉も素早い行動に出た。
「浩一さん大変のことになりましたね」
「朝吉、土砂崩れなんか過去に一度も起こっていないんだ。傾斜が急勾配な丘陵地ばかりだが、赤岩は名前のとおり岩盤に覆われた頑強な地盤の村なんだ」
浩一は土砂崩れが起こったことが半信半疑に思われた。
村役場から徒歩20分程の山道で、山の傾斜の太い立ち木が不気味な音を立てて軋んでいた。
見上げると急勾配の切り通しの斜面が雨水を含んで大きく盛り上がっていた。
昨夜の豪雨が止み、小雨が止んだり降ったりで、重なる山々の嶺と嶺の間の雲間に青空さえ見えていた。
朝吉は「明日は台風一過、快晴になりそうですね」と空を見上げた。
その時、山道の真上の山の切り立った傾斜が太い杉の木々などを巻き込みながら一気に崩れたのだ。
浩一は後ろに逃げ、土砂の下に埋まった
朝吉は前に逃れ、幸いにも難を逃れたのだった。

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<参考>
伊勢湾台風
昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日
死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名
住家全壊40,838棟、半壊113,052棟
床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟など
(消防白書より概要
 9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴った。最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、26日18時頃和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。
 勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き、伊良湖(愛知県渥美町)で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。
 紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となった。また、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受け、死者・行方不明者が1,200名以上となった。この他、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者があった。
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<参考>
六合村(くにむら)赤岩温泉・長英の隠れ湯(日帰り温泉施設)
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている赤岩地区にある温泉です。
つるつるとした肌ざわりの温泉で、日帰り入浴が楽しめる施設が1軒あります。
幕末に赤岩地区に隠れ住んだと伝えられる蘭学者高野長英にちなんで、「長英の隠れ湯」と名付けられました。
 館内は入口から浴槽まで、バリアフリーの安心設計です。
施設へ食べ物を持ち込めるので、入浴後は大広間でゆっくりとくつろげます。
アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復健康増進
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赤岩は数多くの養蚕農家などが残っている集落です。
赤岩は、山村の養蚕集落として平成18年(2006年)に国から群馬県初の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
赤岩では明治時代以前から養蚕が営まれ、養蚕に適した頑丈な農業建築が行われ、「サンカイヤ」と呼ばれる湯本家、関家の3階屋の建物が残っています。
さらに、上の観音堂・毘沙門堂・向城の観音堂・東堂・赤岩神社などの小さな宗教施設が点在し、蔵・小屋や道祖神、石垣や樹木、通り沿いの景色、農地や森林が一体となって、幕末や明治時代の景観を今に伝えています。