競輪ファン 柔軟な発想が不可欠

2017年01月16日 21時36分58秒 | 未来予測研究会の掲示板
利根輪太郎の欠点と言うか、限界が見えてきた。
多くの競輪ファンは既成観念に縛られているのである。
柔軟な発想が不可欠なのであるが、壁を自ら作ってしまっている状態なのだ。
競輪を知れば知るほど、常識的な観念にはまり込んでしまうのだ。
例えば地域のラインで組んで競輪選手は走るのであるから、風圧を受けながら先頭を走る選手は不利である。
3番目を走る選手は、格下の選手が多いので、まずは車券に絡む頻度が少ない。
2番手にいる選手が別のラインが追い込んでくるのを阻む立場なので、間隙を突く可能性がある。
だが、その可能性は稀だ。
展開のアヤでラインが分断されることもある。
逃げ争いによって、二つのラインが力をロスすれば、第三のラインが漁夫の利を得ることもある。
そこまで、レースのアヤを読めるどうかなのだが、意地を張ってまで逃げ争いする選手がいるかどうかで展開は180度違ってしまうのだ。
「競輪で金儲けをしよとは思わないね」と工務店を経営している大澤悟は言っていた。
彼は株で金儲けをしてきた。
そこで、競輪では3000円以上は使わない。
後半の3レースをそれぞれ1000円買い楽しんでいるのだ。
あくまでも、競輪レース予想を楽しむ姿勢を貫いているのだ。

病苦に打ち勝て

2017年01月16日 10時52分21秒 | 社会・文化・政治・経済
[●]たとえ勤行唱題しても御本尊不信にあたるため願いが叶わず功徳を受けられないのはどういう場合か。
方策や方法に走った場合はカラ回りして行き詰まる。
題目を上げながらどうしたらいいだろうかと悩みを解決する方法ばかりを考えている(迷っている)のは御本尊に祈っても解決すると思っていないから願いが叶わない。
信心の根本は祈りである。
いざという時には、無理だから、方法がないから、不可能だからこそ御本尊に強くお願いすることで不可能が可能になる。

御本尊への強き祈りで病苦に打ち勝て。
病苦を乗り越えるためには絶対に治すと決めて強く強く祈り抜くこと。
病気は医師の診断に任せるのは当然だが、自身の願いをひたぶるな唱題に込め祈念していくことが何よりも肝要である。御本尊は私ども衆生の主であり、師であり、親である。三徳具備の仏様であられる。ゆえに子供が一心に親を慕うようにおすがりし、強盛に祈り抜いていくことである。上野殿(南条時光)は23歳の時、大病にかかっている。大聖人は時光のために真剣に祈念され、時光自身も生き抜きたいと強盛に祈った。時光の弟は16歳で他界しているが、時光は51年間命を延ばしたのである。このように御本尊への信と祈りを根本に病苦を乗り越え堂々たる人生を歩んでいただきたい。(1987年7月18日)

御本尊 信心に励む自身の胸中にある

2017年01月16日 10時46分21秒 | 社会・文化・政治・経済
原理主義(げんりしゅぎ)は英語の「fundamentalism」(ファンダメンタリズム)の日本語 訳である。
キリスト教の文脈においては「根本主義」と呼称されることが多い。
本尊とは?
礼拝の対象
信心の基本
「万人を必ず幸福に」―この仏の願いを実現するため、日蓮大聖人は、末法の民衆を救う御本尊を顕わした。
この御本尊を拝して南無妙法連華経の題目を唱えることで、自身の仏界の生命を現すことができる。
“未曽有の御本尊”であり、大聖人が初めて「法華弘通(ほっけぐつう)のはたじるし」として末法広宣流布のために顕されたと示されている。
この御本尊と決して別の所に求めてはならない。
御本尊を曼陀羅(まんだら)という。
曼陀羅とはインドの言葉であり、訳すと輪円具足とも功徳聚ともいう。
輪円具足(りんねんぐそく)(全が欠けることなく具わっている)
功徳聚(くどくじゅ)(功徳の集まり)
この御本尊も、ただ信心の二字に納まっている。
「信によってこそ入ることができる」(以信得入・いしんとくにゅう)とこことである。
「御本尊」つまり根本として尊敬すべき当体(とうたい)は自分自身を離れて、どこか別の場所にあるのではなく、信心に励む自身の胸中にある。
この御本尊の偉大な功力を引き出すのは、どこまでも「信心」。
「勇気も、智慧も、慈悲も、希望も、確信も、忍耐も幸福へ前進していく、全ての力の源泉は、わが胸中にある」
私たちの生命それ自体が尊極の“妙法の当体”であると確信する。

法華経の題目を以て本尊とすべし
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聖書の起源

聖書は、非常に古い本で、今から約3500年前に中東で書きはじめられた。
3500年前と言えば、中国では強大な商王朝(殷王朝)の時代であり、インドでは仏教が始まる1000年ほど前の時代。

西暦前1513年に書き始められ、1600年以上かけて、西暦98年に書き終えられた。
40人ほどの人が、神の導きを受けて書いた。

1月15日(日)のつぶやき

2017年01月16日 02時13分30秒 | 医科・歯科・介護