戦前の亡霊のような靖国神社

2017年01月17日 23時39分31秒 | 沼田利根の言いたい放題
一億総懺悔

軍国主義日本は、当時の日本国民全体の問題でもあったと思われるのだ。
命を賭してまで、流れ止めることができなかった国民ばかりであり、むしろ戦争の流れに協力したのだ。
権力に怯えて、沈黙する構図。
日本は破滅する道へ突き進む。
敗戦するのは当然の帰結であった。
厳密に言及すれば、愚かさ、無知は罪悪なのだ。
戦前の亡霊のような靖国神社に参拝する閣僚の無知で愚かな姿は、日本の政治風土そのものの程度の低さの表れ!
沼田利根

「いったい私が何をしたというんだ」

2017年01月17日 23時22分49秒 | 社会・文化・政治・経済
「赤狩り」(マッカーシズム)

トランプ次期大統領をめぐる現象は、つい、戦後間もない一時期、アメリカを席巻し、西側諸国にも影響した「赤狩り」(マッカーシズム)を思い起させる。
ウィンコンシンー州出身の上院議員マッカーシーが、一躍脚光を浴びることになったのは1950年。
ある集会で語った、国務省に多数の共産党者が潜んでいるという爆弾発言からだった。
根拠を示したわけではない。
だが。メディアが取り上げげ、国民の反響の大きさに議会、政府も動く。
当時40代初めのマッカーシーは、精力的に告発をエスカレートさせ、政府内にスパイが巣くっているなどとして要人も名指しで糾弾した。
その勢いに反論ものまれたように乏しく、政界、経済界もおびえ、マッカーシズムという言葉も生まれた。
この異様な現象の背景には、当時の東西冷戦の緊迫、核戦争への不安などがのしかかる時代の「空気」がある。
赤狩りはハリウッドにも及び、ゆえなき追求にチャップリンをはじめ多くの映画人が失意と言滅のうちにアメリカを去った。
マッカーシズムには思想体系としての気概も実体もなく、組織もなかった。
そして支持者は多数で、マッカーシーの言うことを特に信用するわけではなく、おおむんrばかげたこととさえ思う者もいたという。
マッカーシーの威勢は5年ともたなかった。
嘘偽が露呈し、手法もあせ、世論も離れた。
赤狩りの混乱は、マッカーシーが独り起こし、振り回したのではない。
無数の人々の反応と「空気」が押し上げたといえるだろう。
「いったい私が何をしたというんだ」マッカーシーの言葉は、示唆深い。
毎日新聞専門編集委員・玉木研二さん

大岡昇平著「中原中也」

2017年01月17日 19時36分19秒 | 日記・断片
書棚から、大岡昇平著「中原中也」と取り拾い読みする。
昭和49年初版発行、50年八版発行、角川書店

ページを開いて、どこにも読んだ痕跡を見つけることができなかったので驚く。
買って一度も目を通さなかった本はあり得ないはずだが、あったのである。
大学(国文科)で近代・現代文学を専攻し、一応、卒論を書いた時の習性でどこかに書き込みや、棒線などを引いていた。
この「中原中也」は買った時のままの状態であり、目を通した功績がどこにもなかったのだ。
昭和50年は、徹夜麻雀に明け暮れ、神奈川県の相模相模原市かた取手市に移住してきた前後であり、職場も日本薬業新聞社から協同農業新聞社に移籍した時期でもある。
「農業も面白いではないか」と真剣に考えていた日々であり、文学的な興味からは離れた時期であった。
さらに競馬にも、のめり込んでいたのだ。
この本をどこで、とんな時に買い求めたのか、その記憶もないのだ。
25歳~30歳までの時期、つまり結婚前、引き摺っていた一方的な恋愛問題もあったのだが・・・
彼女の死で、心の区切りができたのは、実に皮肉な結果であった。

「ふるさと出島の会」いちごを

2017年01月17日 13時21分16秒 | 日記・断片
昨日、ふるさと出島の会から自宅に宅急便でいちごが届く。
お世話になった前職場の社長宅や家人の姪の家にも注文していちごを贈っている。
とても美味しく、皆から喜ばれるので毎年、家人が届けているのだ。
長男の友人の一人が出島にいたので、「ふるさと出島の会」のいちごを知った。
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かすみがうら市はおいしい野菜・果物の宝庫です。

「地元のおいしいものを皆さんに安く提供し、夢のある農業を目指したい」という思いを持つお店。
「ふるさと出島の会」
住所かすみがうら市西成井1938-3
電話番号029-898-2855
営業時間10:00~18:00
定休日月曜日
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いちご
女峰
とちおとめ
ひたち姫

りんご
陽光
王林
富士


西村
松本
富有






メディアの活動基盤が揺らいでいる

2017年01月17日 12時16分46秒 | 社会・文化・政治・経済
閣僚や行政機関の不手際が報道されても、追い詰められずに忘れ去られていく。
むしろ時間と手間をかけて報じられるのは、芸能人の不祥事だ。
(「そのとおり」である)

権威におもねた情報発信をしていないか、との問いに正面から答え切れるメディアはほとんど見当たらないのだろう。
ネットを批判する資格が既存メディアにないとみる読者・視聴者も数多くいる。
最近、多くの公文書が役所の勝手な判断で黒塗りされたり、改ざん・破棄されたことが報道で明るみに出た。
個々の記者の頑張りはあっても、問題は改善されるばかりかむしろ闇は深まっている。
実際、表現の自由の領域を広げるために最前線でたたかっているのは、市民やフリージャーナリストたちだ。
ここ数年、「政治性」などを理由に多くの集会や芸術作品展示が中止や変更を余議なくされている。
市民の抗議活動を力ずくで抑えつけることも正当化されている。
単発のニュースで伝える結果、むしろ取り締まる側に理がある印象を与え、市民の表現活動の領域は狭まる事態を生んでいる。
メディアの活動基盤が揺らいでいることにほかならない。
市民的自由の守り手でいるため、一歩踏み込む勇気を示せるかどうかの瀬戸際に、報道機関はいま立たされている。
専修大学教授(言論法)・山田健太さん

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「これは日本のことなのだろうか?」
と思われる指摘である。