芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれ沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子
芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であことから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野太郎教授宅は午前7時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前6時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。