創作欄 芳子の青春 3

2018年03月07日 22時28分34秒 | 創作欄
2012年4 月16日 (月曜日)

渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街は起伏が多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きでなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子

創作欄 芳子の青春 2

2018年03月07日 22時21分48秒 | 医科・歯科・介護
2012年4 月13日 (金曜日)

芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けてており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。

創作欄 芳子の青春 1

2018年03月07日 22時14分47秒 | 医科・歯科・介護
2012年4 月12日 (木曜日)

小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となてっいる。
利根川が東側に流れいて、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で! 
何卒ご自愛ください。

創作欄 芳子の青春 17

2018年03月07日 21時59分48秒 | 創作欄
2012年6 月22日 (金曜日)

世の中には、あまりにも理不尽と思われることが多い。
芳野教授は戦後クリスチャンとなっている。
昭和20年、34歳での人生の大きな転機を迎えることとなった。
戦時下の大学人も戦争に徴用され、 芳野も陸軍技術本部第9研究所で秘密兵器研究を行っていた。
芳野教授は芳子の告白を聞きながら、国家権力に蹂躙される国民の弱さを痛感した。
「あなたたは、大変な目にあったのですね。涙なくして語れないことですが、あなたは泣きません。何故ですか?」
芳野教授はパイプの煙の行方を追うようにしながら訊ねた。
芳子は幼児のころから、「泣かない子」と近所で瞠目されていた。
悲しい感情がなかったわけではないが、泣かなかったのである。
「お前は不思議な子どもだね」と祖母も感嘆していた。
その祖母が死んだ時も泣かなかった。
そして、定時制高校の時に婦女暴行事件に遭遇しても泣かなかった。
悲嘆に暮れて地面を手で叩いて泣き叫ぶ人もいるであろう。
また、芳子は怒らない子どもでもあった。
イジメにあっても、ただ、悲し気に眉を潜めてきた少女だった。
「ところで、あなたの現在の住まいのことですが、私が中野にあなたの住まいを探がしますから、1日も早く出ることです」
芳野は語気を強めるように言った。
芳子が約半年、働いていた店は表向き酒場であったが、その実態は売春目的の店であった。
「私はそういうことができる女ではないの!」
芳子は4人の女が働くの店のなかで唯一、男の誘いを拒絶していた。
「ママ、しばらく、私に任せてね。芳子は高校生のころ強姦された女だ。男を拒絶するの、私も分かる気がするんだ」
働く場所を世話してくれた園田里美が、気をつかって芳子をかばってくれた。
「そうかい、そんな過去が芳子にはあったのかい」
元従軍慰安婦であった店のママは、青森県の寒村から13歳の時に浅草の吉原に売られたという悲惨な過去をもつ女だった。



創作欄 芳子の青春 22

2018年03月07日 21時53分39秒 | 創作欄
2012年7 月 5日 (木曜日)

東京・中野区中央、芳子が芳野教授の世話で住んだのは、中野区のほぼ中央部に位置する中央5丁目であった。
いわゆる、木賃ベルト地帯の一角でもあり、一戸建ての住宅や木造・モルタルのアパートも多く見られた。
昭和38年の当時も一人暮らしをしている若年層の多い町であった。
幹が太く葉が茂った大きな桜の木を見上げては、芳子の気持ちをほっとさせた。
その4本の桜が隅に植えてある敷地内に、2棟の平屋のアパートが南向きに建っていた
6畳間の部屋の脇の板の間に小さな台所が付いていた。
家賃は6000円であった。
トイレは共同、風呂がないので、芳子は神田川に近い銭湯へ行っていた。
芳子がアパートへ越して来た日に、玄関で親し気に挨拶をした真田雪子が銭湯へ案内をしてくれた。
「私は、広島出身なの。体内被曝をしたけれど、何でもなくてこうしていられるのはとても幸せ」
「そうですか」
芳子は芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている話を聞いていたので、改めて雪子の顔を見直した。
体内被曝とはどのようなことなのか?と想ってみた。
芳子は昭和16年生まれで、雪子は昭和20年生まれであったが、体が大きい雪子は同年代のように見えた。
雪子は地元の信用金庫に勤めていた。
地域内を中野通りと山手通りが縦貫しており、山手通り沿いに雪子が勤めている信用金庫
があった。
銭湯の帰りには、中野通り沿いの小さな食堂へ寄ってシロップのかき氷を食べた。
雪子は浴衣姿で、赤い鼻緒の下駄を履いていた。
芳子は雪子と親しくなれたことを心から喜んだ。
「黒い雨、知っている?」
雪子はスプーンを口に運びながら聞く。
「知らないわ」
「私の従姉が黒い雨を浴びて、小学校6年生の時、白血病で亡くなっているの」
目をテーブルに伏せた雪子の目が潤んできた。
芳子は何も知らないので、相手の悲しみを受けとめようがなかった。
----------------------------
<参考>
黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
『黒い雨』は、井伏鱒二の小説である。
新潮社の雑誌「新潮」で1965年1月号より同年9月号まで連載され、1966年に新潮社より刊行された。
連載当初は『姪の結婚』という題名であったが、連載途中で『黒い雨』に改題された。
1966年に第19回野間文芸賞を受賞した。

創作欄 芳子の青春 23

2018年03月07日 21時49分51秒 | 創作欄
2012年7 月 6日 (金曜日)

広島に興味をもった芳子は、何時かは広島へ行こうと思った。
1962年(昭和37年)6月に、山陽本線は広島駅まで電化が完成された。
急行「宮島」は東京駅 - 広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。
それまでの、急行「安芸」は、東京駅 - 広島駅間は呉線経由であった。
そして1963年(昭和38年)熊本行きの「みずほ」はブルートレイン化した。
運転区間は東京~熊本・大分間となった.
大阪までなら、2等料金は1980円であった。
家賃を月に6000円を払っている芳子は、広島行きは経済的にとても無理だと思った。
ところが、芳野教授が旅費を出してくれることとなった。
「私は学会もあるので、広島へは帰れないが、大学は夏休みです。是非、広島を見てきなさい。何かを感じることがあるでしょう。平和の原点となる被爆地広島ですからね」
芳子は芳野教授の好意に甘える気持ちとなった。
熊本行き寝台特急「みずほ」は東京駅を18時20分に発車した。
寝台列車で芳子は時々目を覚ましたので、寝不足であった。
初めは、大垣駅、そして、京都駅、大阪駅、神戸駅、岡山駅、到着するたびに車内放送に耳を傾けていた。
夏なので、午前4時ころから外は白み出していた。
芳子の席は3段ベッドの1番下であったので、上で眠る乗客の気配にも時折目を覚ました。
誰かの寝ごとや鼾も聞こえてきた。
「これが、寝台列車の旅なのね」
芳子は手枕をしながら、左右の上のベッドの気配に耳を傾けた。
真上のベッドには30代と想われる女性と60代であろうか白髪頭の女性が寝ていた。
母親と想われるその女性が何度かトイレに行った。
「すいませね。起こしてしまって」
梯子に手をかけながら女性は芳子に頭を下げた。
「気になりませんよ」
芳子は微笑んで首をふった。
豆電球が灯る車内が明るんできていた。
広島駅まで892.1㌔、翌朝、午前6時28分、ブルートレイン「みずほ」は定刻どおり広島駅に到着した。

創作欄 俺は、キャストミス

2018年03月07日 21時30分27秒 | 創作欄
2012年8 月20日 (月曜日)

あのころ、青春の迷い道の中に居るようであった。
何時ものスナック「藤」で、幸雄は、竹川武雄や奈良久と飲みながら、寺山修司について論じていた。
「俺たちが寺山に拘るのは、何だろうね?」幸雄は2人に問いかけた。
「天才は、羨望の的だからね」
ウイスキーのロックを飲む竹川武雄は元俳優であった。
「俺は、キャストミスと、演出家に言われたことがショックで、役者の道を断念したんだ」
竹川は自嘲気味に言う。
わずかな望みで寺山にも接触した竹川は、その念願を果たせなかった。
「竹さん、その話は何度も聞いたけどね、演出家をギャフンと言わせてやれなかったの?」
奈良は強気な人間なので、竹川が役者の道を諦めたことに納得していない。
幸雄は映画評論家の道を断念していたで、竹川が役者の道を断念したことに、異議を唱える気持ちにはなれない。
「まあ、色々あるからね」
竹川はグラスを回すように言った。
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<参考>
寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の詩人、劇作家。
演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。
メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と返すのが常だった。

創作欄 続・芳子の青春 1)

2018年03月07日 21時27分51秒 | 創作欄
2012年9 月 1日 (土曜日)

芳子は広島から帰ってから、大学の図書館へ足を運ぶようになった。
あるいは、早稲田通りにある古本屋へ足を向けることもあった。
「なぜ、日本は戦争をしたのだろうか?」
そして、原爆の投下へ至った経緯を知りたいと思った。
同時に、未だアメリカの軍政下にある沖縄についても関心を深めていった。
アメリカに対する理解も深めていきたいと考えていた。
「パパは何でも知っている」 は人気テレビ番組の一つだった。 
芳子は父が戦死しているので、父親を知るらない。それだけに、テレビで見た父親像に憧れを抱いた。テレビ映画で知ったアメリカは、生活がとても豊かで魅惑的な憧れの国のようにも映じていた。
そのようなテレビの世界を嘲るように、事態は大きく転換した。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・フィッツジェラルド "ジャック" ケネディが、1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。
その衝撃的な映像が日本のテレビでも放映され、芳子は驚愕を覚えた。
「アメリカは、どのような国なのだろう?」
銃を規制できないアメリカ。
ある意味でそれは宿命的であり、アメリカには深い闇が横たわっていて、暗殺の謎は深まるばかりであった。
芳子は文学もいいが、社会学を学びたいと考えはじめていた。
社会は、政治、経済、科学技術、文化など様々な面で世界との結びつきがある。
人間社会においては様々な利害が重なり複雑に絡み合っている。
「多くの問題を解くカギは社会学にあるのではないだろうか?」
芳子は大学の食堂で出会った大学院生の梅村早苗から、共産党への入党を勧められた。
「共産党が、日本の社会を大きく変えるのよ」確信に満ちているように早苗が語る。
いつも微笑みを絶やさない早苗は、いわゆる「好い人」と思われた。
1963年、早稲田大学には社会科学部はまだなかった。
社会科学系専門分野は当時、政治経済学部、法学部、商学部といった学部に分科された形で教育が行われていた。
早苗は政治経済学部の大学院生だった。
芳子は早苗の話を聞きながら、実社会で学ぶべきか大学で学ぶべきかを考え始めた。
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<参考>
パパは何でも知っている(原題:Father Knows Best)は1949年4月25日から1954年3月25日までアメリカのNBCラジオで、同年10月3日から1960年9月17日までNBC(テレビ)とCBSで全203話が放送され、人気を博したロバート・ヤング主演のテレビドラマ。
シチュエーション・コメディ。

日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで日本テレビ系列で日本語吹替版で放映された。
アメリカ中西部の架空の街、スプリングフィールドのメープル通り南607番に住む中流家庭、アンダーソン一家(ゼネラル保険会社の部長で営業マンのパパと賢明なママ、3人の子供達:ベティ、バド、キャシー)に巻き起こる事柄を描いた、1話:25分のホームドラマ。

創作欄  「屈辱」 1)

2018年03月07日 21時18分38秒 | 創作欄
2012年10 月30日 (火曜日)
創作欄  「屈辱」 1)
「存在することに意義がある」
奈々瀬幸雄は、その言葉を拠り所に今日まで生きてきた。
左の目の視力を失い片目となった時は忌々しい思いに苛まれた。
慣れない間は駅のホームの柱に頭をぶつかったこともあった。
毎日のように人ともぶつかった。
それで、苛立ちをぶつけ人と喧嘩にもなった。
肩が触れたという些細なことに過ぎなかったが、傷害事件にも発展した。
その日は、大事な営業の話で取引先へ急いでいた。
東京・丸の内の新築ビルの窓枠の製作を請け負う交渉であった。
相見積り(提案書と見積書の提出)を依頼されたのだ。
だが、殴った相手は何時ものように反撃してこなかった。
「あれ、どうしたんだ?!」幸雄は改めて右目を相手の眼前に据えた。
「傷害罪、現行犯逮捕する」その体格のいい男は毅然とした声を発した。
信じ難かったが、殴った相手は唇の脇に少し傷ができた私服警官だった。
警察署に連行される間に幸雄は、「これで仕事を失うな。何て運が悪いんだ」と歯ぎしりをしていた。
「オイ、お前、何時までも黙っていて、済むと思うなよ」
2人の若い警官に尋問された。
20代の後半と想われる1人の警官は定期券を取り上げ中を調べていた。
「この女は、誰だ!」
定期券から愛人の優子の写真が出され、幸雄の鼻の先に突き付けられた。
幸雄は黙って冷笑を浮かべた。
「ウン、女(愛人)か」警官は冷笑を浮かべた。
それは屈辱であった。
もう1人の30代前半と想われる警官は、バックの中を探っていた。
「オイ、お前は47歳だな。分別もあるだろう。理由もなく人を殴るんじゃないよ」
「悪かったです」
幸雄は苦笑した。
「人を殴っておいて、薄ら笑いか。オイ、ふざけるな!」
バックを探っていた警官が怒声を発した。
「前科はあるのか?」若い警官は幸雄の顔色の変化を探るように聞きながら睨み据えた。
「ありません」
「オイ、嘘をついても、分かるんだからな」
バックの中身を全部机の上に出しながら、警官は鋭く言い放った。
前の会社でリストラされた幸雄は、今の企業に勤めてまた1年余であった。
前職では部長で年収は約1000万円あったが、今はその半分以下となっていた。
「こんな若造の警官になめられる身か。口も利きたくない。情けない」
一刻も早く解放されたいと思ったが、甘くはない。
調書を取られ、指紋も採られ、会写真も撮られ、幸雄は形式のとおりに傷害罪で送検された。

創作欄 過酷な日々 1)

2018年03月07日 21時06分05秒 | 創作欄
2012年11 月 8日 (木曜日)
どうすれば最少の日本語で最大の世界を見せられるか? 
金沢紀夫は短歌、俳句の世界に高校生のころから遊んでいた。
石川啄木は短歌を「悲しみの玩具」と表現した。
だが、次第に虚無的な気持ちから、それらの玩具から距離を置きたいと思った。
長男の常雄が筋ジストロフィーを発症したのは、4歳の時であった。
同じく次男の実も5歳で筋ジストロフィーを発症した。
筋ジストロフィーとは、筋肉自体に遺伝性の異常が存在し進行性に筋肉の破壊が生じる様々な疾患を総称。
筋力低下や 筋萎縮して行く。
3~6歳で発症し、歩行障害が初発症状であった。
初期には、ふくらはぎに筋肥大が生じるのが特徴。
歩き方がおかしい、転びやすいなどの症状で発症が確認されることが多数である。
治療法が確立していない過酷な難病であり、30歳くらいが平均寿命。
遺伝子の異常で進行性の筋力低下を示す筋原性疾患であり、検査の結果妻が遺伝子を持っていたことが判明した。
妻のより子は3人姉妹の長女であったが、次女、三女には遺伝子の異常がなかった。
夫婦は思い余って信仰にすがった。
結局、長男は18歳で逝き、次男は16歳で天に召された。
思い返せば過酷な日々であり、息子二人の介護が夫婦の生活のリズムを大きく変えた。
妻は午前3時まで息子の身体介護をし、紀夫が午前3時に起きて面倒をみた。
夕食の時には酒を2合飲み、午後7時30分にはベッドに入り寝た。
動かずにいると筋力低下や筋肉の萎縮、関節の拘縮にも拍車がかかって、病気の進行が早まるという側面もあった。
寝たきりの息子二人は寝返りが打てないので、体を動かしてやるのだ。

無信者を任じていた徹が神に祈った

2018年03月07日 20時29分42秒 | 創作欄
2012年12 月 2日 (日曜日)
創作欄 無神論者の徹が神に祈った
アメリカの指揮者メニューインは、「南無妙法蓮華経」は本当に口ずみやすいし、心地よい音律です」と語っていたそうだ。
徹は、「南無妙法蓮華経」が脈拍の規則正しいリズムに合致していることを悟った。
それは実に不思議な体験であった。
迂闊にも海の高波に飲まれたのだった。
台風が迫っていた神奈川県の茅ケ崎海岸の遊泳禁止の海岸では6、7人ほど泳いでいた。
[なぜ、ここが遊泳禁止なのだ]
強風に激しくはためく「遊泳禁止」の幟を無視し、「大丈夫じゃないか」と足を踏み入れると直ぐ、3歩4歩くらい歩いた時に、遠浅だと思い込んでいた砂浜はずぼっと徹の身体を呑み込んだ。
それでまずパニックになった。
泳ぎには自身があったし、スタミナは抜群と思い込んでいたのだ。
それは愚かな過信であった。
それからは自然の脅威に翻弄される身となっていた。
高波に呑み込まれように沖へ沖へと徹の身体はどんどんと流されていく。
必死に荒波に抵抗した。
だが成すすべもなく段々虚しさに覆われ出した。
その時、何処からもなく、「南無妙法蓮華経」と唱える誰かの声がしたのだ。
「自分はこのまま死ぬのだろうか?まだ25歳ではないか!」
無信者を任じていた徹であるが、神に祈った。
「神さま。悔い改めますから、どうか僕を助けてください」
徹は交際をしていた女医の芳子から「徹ちゃん、よしなさい。お友だちが誘っているのね?でも、台風が接近しているのよ。海へ行くこと絶対にダメ!」と反対されていた。
結局、その日は芳子と口喧嘩別れをした。
「まるで、子どものようね!勝手になさい」と突き放された。
「南無妙法蓮華経」
誰かの声は母の声であった。
母親との確執から、家を出たいと思っていた。
「私と住む?」と芳子が言っていたが・・・。
徹は迷っていた。
何故なら、芳子から「徹ちゃんは私の母親の生まれ変わりだから、絶対に結婚できないのよ。いいわね、私の本当の気持ちを理解してね」と宣告されていたのだ。
それは25歳の男にとっては非常に辛いことであった。
結局、徹は救われた。
徹は無信論者を任じていたのであるが、その時は必死になって神に祈った。
「神さま。悔い改めますから、どうか僕を助けてください」
徹は「南無妙法蓮華経」と唱え続けていた。
実に不思議な体験であった、徹がダメだと身を任せた波が岸へ向かって、ぐんぐんと勢いを増しながら徹の身を運んだのだった。
異変に気づいた友人たちの人工呼吸によって徹は蘇生したのだった。
その日、茅ケ崎海岸で死んだのが4人、行く方不明者が3人であったこと新聞で読んで愕然とした。
そして芳子には海で泳いだことを伏せていたのだ。
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<参考>
ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク - 1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身のユダヤ系ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。
イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。
爵位名は、メニューイン男爵(Baron Menuhin of Stoke d'Abernon。なお、音楽家でロードの称号を授与された。

共生の社会を築く源泉

2018年03月07日 19時37分33秒 | 社会・文化・政治・経済
人間の可能性を信じられるかどうかだ。
「もっと自分を高めることだできる」

「この世には、人のために尽くす」とい生きがいもある。

「共生の社会を築く源泉となるのは、一人一人が尊厳を輝かせいく姿を互いに喜び合う生き方にあるのではないか」

日々、苦難に負けない人の挑戦をたたえ、わが事のように喜び、<私はも同じように>と誓い共有する。
それが遠回りのようで、実は最も確かな平和の道んおである。

世界市民の育成

2018年03月07日 13時47分12秒 | 社会・文化・政治・経済
精神の継承は、言葉だけでなされるこのではない。
それは、行動を通して、教え、示してこそ、なされていく。

現代は混沌と動乱の世界であり、対立と矛盾に満ちている。
戦争、紛争、核の脅威、テロリズム、圧政、宗教的不寛容性、貧困、飢餓、難民問題、病気等によって多くの人々が苦しめられている。
さらに母なる地球は野放図な経済活動によって、自然のリズムと調和が乱され、その結果、台風、津波、竜巻、洪水、土砂崩れという形で、<自然の怒り>を引き起こしている。
平和は混沌、対立、不寛容、抑圧、利己主義、基本的人権の軽視などとは相いれない。
平和は理解、調和、連帯、融和の状態であり、人類および世界の完全な成長、発展、安定と安全を築く鍵だ。
しかし「言うは易く行うは難し」である。
全ての人に弱い心があり、誘惑や不健全な欲望に惑わされる可能性があるからだ。
全ての人の中には悪意も存在する。
そして個人は何が善で、何が悪なのかを選択する自由を持っている。
「一人」の心の変革こそ、平和の基本条件となる。

教育と自由なくして、いかなる改革も成し遂げることはできない―ホセ・リサール

若者こそ<変革のための重要な主体>と位置づけ、その力の発揮が期待される。

深刻な危機にさらされいる人類。
「誰も置き去りにしない」との理念に基づく平和で安定した地球社会の実現は、使命に目覚めた青年たちの
情熱と創造力の連帯にかかっている。
原動力は「喜びの共有」
「智慧」と「慈悲」の連帯を展望するうえで、世界市民の育成が期待される。

真の「楽観主義」

2018年03月07日 13時08分39秒 | 医科・歯科・介護
健康寿命と、平均寿命の間には、男性約9年、女性13年の開きがある。
今や5600万人が利用する健康食品・サプリメントの国内市場規模は、約1兆5600億円。
しかし、サプリメントは成分が濃縮されており、毎日飲み続けることで過剰摂取となりやすく、肝機能障害を引き起こしたり、最悪の場合、死に至るケースもある。
厚生労働省も監視を強化する方針。
栄養(食事)・運動・休養・睡眠のバランスこそ、健康の根本。
さらに禁煙が大切。
多くの長寿研究では、生きがいを持って前向きに生きることが、長寿の大きな要因の一つと考えられている。
他者への思いやり、ボランティアなどの奉仕活動。
心の充実、満足、喜び。
「病は気から」
病気で落ち込んだり、家に引きこもり、人との接触を避けるよになると悪い方向へ向かう。
いろいろな心配事が精神的ストレスを引き起こし、血圧を上げたり、胃潰瘍の原因ともなる。
体の不調から心の変化を来たしやすくなる。
認知症に、音楽療法で症状の改善につながった、という話も聞く。
被災地での音楽演奏、合唱、歌謡なども心の復興になるだろう。
「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」アラン
楽観主義は、「なるようになるさ」「明日には明日の風が吹く」などのなげやりな態度や諦めではなく、積極的な生き方に通じる。
主体的・能動的に現実の問題に立ち向かうのが、真の「楽観主義」
過去にとらわれずに未来を切り開いていく、明るく力強い生き方だ。
病苦の克服に、生命力が関与。
その生命力を如何に引き出すかである。
生命力とは心である。
つまり強き一念。

猫のタマが迎えに来る

2018年03月07日 12時31分45秒 | 日記・断片
朝の散歩でお酒の話となる。
「お酒飲める人は、羨ましいですね」村山さん
「そうでしょうか。飲めない人が羨ましいです」当方
「営業の仕事をしていたので、飲む場は多かったのですが、全くだめで。会社の旅行でも一人だけ覚めてました。飲んでいる同僚たちは楽しそうに騒いでましたが、こちらは食べるだけ」
「奥さんは飲むの」と西田さんが聞く。
「日本酒が美味しいと、冷やで飲んでますね」村山さん
「ビールもいいですが、日本酒が一番。特に大吟醸ですね」当方
「父方の従兄弟たちは酒が飲めないですね。母方の従兄弟は飲みます」村山さん
「村山さんは健康的でいですね」当方
「おかげで、どこも悪いところはない」村山さん
「そうかい。年で色々、体にガタが出てくるね」西田さん
「毎日飲むんですか?」村山さん
「毎日だね。飲む量は減ったけど」西田さん
「私も毎日」当方
そこへ、猫のタマが迎えに来る。
声を聞き付けたのだ。
今日は、野良猫のクロオが姿を見せたが、シマオは見ない。
タマは松の木に登り、大きな枝で爪を研ぐ仕草をする。
「タマはスズメを先日3羽も捕るだから、困ったもんだ。タマ降りろ、帰るよ」と西田さんが声をかける。