創作欄 美登利の青春 5

2018年03月16日 12時11分33秒 | 医科・歯科・介護
2012年2 月19日 (日曜日)

拘置所の面会室は、3人も入れば一杯といった感じであった。
美登利が席に着いたと同時に、扉が開いて女性の係官に先導されて、峰子が姿を現わした。
ガラスの窓越しに見た峰子は、一瞬、笑顔を見せたが、直ぐに涙を浮かべた。
化粧をしていない峰子の頬は青白く、目の周囲は赤く泣き腫らしたままであった。
小さな丸い穴があいたプラスチック製の窓越しに二人は相対した。
「来てくれて、ありがとう」
美登利は黙ってうなずいた。
「来週の火曜日に、初公判があるの。来られたら来てね」
「火曜日なのね?」
「午前中なの」
面会時間は約20分。
峰子の背後に座る係官が二人の会話をメモしていた。
「私のこと、驚いたでしょ」
「驚いたわ。私、新聞読んでいないの。それにテレビもあまり見ていないし、峰子のことは手紙をもらって初めて知ったの」
「そうなの。何も私のこと知らなかったの? 誰かに聞かなかったの?」
峰子は思い出したのだろう、肩を震わせて泣いた。
頭を深く垂れたので長い髪が顔を覆った。
抑えた嗚咽がいかにも悲しい。
美登利は峰子が哀れれに思われ、咽び泣いた。
そのまま、暫く時間が経過した。
あれを言おう、これを言おうと電車の中で思っていたが、美登利の頭は真っ白になった。
特に美登利は、自分が信奉している宗教の教えを峰子に伝えようとした。
係官はペンを止めて二人の姿を冷やかに見ていた。
やがて面会終了の時間が告げられた。
「頑張ってね」
扉の向こうに峰子が姿を消す瞬間、美登利は声をかけた。
峰子はラフな水色のジャージ姿であった。
美登利が3番の面会室の外へ出るとほとんど同時に、和服姿の女性たちも5番の面会室を出てきた。
「あんた、松戸駅まで行くんだろう?」と背後から声をかけられた。
「はい、そうです」
美登利は振り向いて和服姿の女性を見つめた。
「駅まで車で送って行っておげる。遠慮はいらないよ」
強引な言い方であった。
美登利はうなずく他なかった。
「三郎、車を玄関によこしな」
「ハイ、ねいさん。直ぐに車とってきます」
三郎と呼ばれた男が駐車場へ走り出していく。
もう1人の男は、紙袋を抱え和服姿の女性の背後に立っていた。
この男も角刈り頭で三郎ほど背丈はないが、がっしりとした体形である。
「孝治 今度の公判は何時と言っていた?」
「親分の後半は、来週の火曜日、午後1時です」
「そうだったね」
和服姿の女性が玄関の外でタバコをくわえると、男が素早く脇からライタを取り出した。
間もなく、拘置所の玄関の外に黒塗りのベンツが横付けされた。
男二人が前の席に乗り、美登利は和服姿の女性の隣に座った。
「面会の相手は、誰なの?」
和服姿の女性は横目に美登利を見た。
「友だちです」
「男だね?」
「女性です」
「女? 罪は?」
前の席の男二人が背後に目を転じた。
「親子心中です。子どは亡くなり、友だちは死ねなかったのです」
「そうかい。じゃあ、殺人罪だね」
和服姿の女性は眉をひそめた。



2012年2 月19日 (日曜日)
創作欄 美登利の青春 6
「私の名前は、米谷明美。あんたと拘置所で会うなんてね」
和服姿の女性は名乗ると頬だけで笑った。
大きな瞳は人を射るようであった。
厚化粧で隠されていたが、左頬にナイフでの切り傷があった。
「お茶、ご馳走するから、私の店へ寄っていって」
松戸駅が近くなった時、米谷明美が美登利を誘った。
深く関わりたくない人たちであるから、美登利は断ろうとしたが、言い出せなかった。
松戸駅の傍のデパートの裏側の道路に面したビルの1階にその店はあった。
男二人は店の前で米谷明美たちを降ろすと走り去って行った。
後で知ったのであるが、広域暴力団S連合箱田組の男たちであり、組事務所は新松戸駅から歩いて10分ほどの商店街沿にあった。
明美の店の名前は、「パブ新宿」。
夜の営業時間は午後7時から午前2時までであった。
午前11時から午後5時まで軽食喫茶店として営業されており、女子高校生たちの溜り場となっていた。
「私ね。高校生の頃は、東京の新宿歌舞伎町で遊んでいてね。今は流れ流れて松戸。この店ご覧のとおり、女子高生が多いでしょう。私と波長は合うのね。彼女たち私に色々相談ごとするの」
女子高校生たちを見つめる明美の瞳が優しくなった。
「窓際に居るあの声が大きい子、スケ番なの。昔の私のよう」
美登利はその女子高校生を見た。
よく動く大きな目が特長で、明美のように人を射るような輝きをしていた。
20歳で子ども産んだ明美には19歳の息子がいた。
フェザー級のプロボクサーであった。
「今度の土曜日、午後7時に後楽園ホールで試合があるの。来てね」
明美はチケットをカウンターのテーブルに置いた。
美登利はコーヒーカップを置き、そのチケットを手にした。
ボクシングの試合を見たことがなかった。
「ボクシングですか? 試合見るの、怖くありませんか?」
美登利は病院の医療事務職であるが、血を見るのは苦手である。
明美は肉弾がぶつかり、激しく打ち合う迫力に血がたぎる思いがして、試合にはいつも興奮した。
美登利は断りきれず、後楽園ホール行く約束をして明美の店を出た。

2012年2 月21日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 7
松戸の裁判所での初公判の光景は、美登里にとって衝撃的であった。
傍聴人は男性が2人、女性は美登里を含めて3人、地元の千葉の新聞社など報道関係者が2人であった。
表面の扉が開き裁判長らが入廷して、全員が起立した。
そして、右側の扉が開き、手錠、腰縄の姿で刑務官に先導されて峰子がうな垂れて入廷してきた。
席に着く前に、峰子の手錠、腰縄が外された。
峰子はうつむいたままで、一度も傍聴席に目を向けることはなかった。
美登里は濃紺の地味なスーツ姿であり、化粧もしていなかった。
初めに検事が詳細に罪状を述べた。
それから国選弁護人が医師の診断書に基づき峰子の弁護をした。
峰子は犯行半年前から地元松戸市内病院の精神科に通院していた。
さらに、東京・四谷に住んでいた時には、信濃町の大学病院の精神科にも通院していた。
弁護士は、犯行時に峰子が心神喪失状態であったと主張した。
裁判官3人が顔を見合せながら言葉を交わしていた。
そして、裁判官が、「次回公判は3月24日、火曜日、午前11時、それでいいですか」と弁護人に尋ねた。
弁護人は、手帳を確認してから、「結構です」と答えた。
裁判所を出て、美登里は前回と同様に本とチョコ―レートとバナナを差し入れるために、拘置所の所定の店へ行った。
その店で美登里は、暴力団員の三郎に再会した。
「親分の裁判が、午後1時にあるんだ」と三郎が言う。
美登里は罪状が何だろうと思った。
拘置所へ行くと三郎が「ねいさん」と呼ぶも米谷明美が居た。
「2週続けて、拘置所に来るなんて、あんた、偉いね」と明美は微笑んだ。
明美はこの日は和服姿ではなく、豊か胸が大きく開いた花柄模様のワンピース姿であり、妖艶な感じがした。
明美は39歳であり、19歳の息子が居る母親の姿とは思われない。
明美は和服姿の時は髪をアップにしていたが、この日は長く髪は下ろしていたので、若く見える。
美登里は、後楽園スタジアムでのボクシングの試合の観戦に誘われ、チケットまでもらったのに、その試合に行かなかったことを明美に謝罪した。
「いいよ。気にしなくとも。息子は判定で試合に負けた。あの子は性格が優しいから、ボクシングに向いてないかもしれない。攻めきれなかった」
美登里は、どのように言うべき分からずうなずいた。
美登里はその日、休むわけにいかず、午後から病院の勤務に向かい、その日は午後8時まで残業をした。

創作欄 鼻息だけは強かった専門紙の同僚の真田

2018年03月16日 12時05分15秒 | 創作欄
2012年2 月13日 (月曜日)

「心の中に何か抑圧があるのでしょ。でもそれが、どんな形で作品に表われるのか自分ではわからない」
田中慎弥さんが読売新聞の「顔」の取材で述べていた。
芥川賞受賞作が20万部に達し反響を呼んでいる。
徹は記事を読んで、昔の専門誌時代の同僚の真田次郎を思い出した。
真田は小説を書いていた。
だが、作品をどこにも発表していないと思われた。
「この程度の作品で芥川賞なんか、来年はわしが賞を取ったる」
真田は鼻息だけは強い。
「谷崎の文体、三島の文体、志賀の文体、川端の文体どれでも書ける。今週の病院長インタビューは、三島の文体でいくか」
文学好きの事務の渋谷峰子はペンを止めて、真田に微笑みながら視線を送った。
徹は峰子が真田に恋心を抱いていることを感じた。
現代流に言うと真田はイケメンで、知的な風貌をしていた。
そして、声は良く響くバスバリトンで、声優にもなれるだろうと思われた。
特に電話の声には圧倒された。
徹は学生時代を含め、真田のような美声に出会ったことがない。
声優の若山弦蔵の声にそっくりなのだ。
真田は憎らしいほど女性にもてる男で、夕方になると女性から会社に電話がかかってきた。
「真田、たくさんの女と付き合って、名前を間違えることないいんか?」と編集長の大木信二がやっかみ半分「で言う。
「ありませんね」真田は白い歯を見せながら、朗らかに笑った。
「お前さんは、その笑顔で女をたらしておるんだな。俺に1人女を回さんか」
冗談ではなく、大木の本気の気持ちである。
真田は大木を侮蔑していた。
「大木さんは新宿2丁目あたりで、夜の女を相手に性の処理をしておる。不潔なやっちゃ。金で女を買う奴はゲスやな。徹は性をどうしておるんや」
露骨に聞いてきた。
真田はそれから3年間、どこの文学賞も取らなかった。
そして、反動のように女性関係をますます広げていった。
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<参考>
若山 弦蔵(わかやま げんぞう、1932年9月27日 - )は、日本の男性声優、俳優、 ナレーター、ディスクジョッキー。
フリー。 ... 1973年より1995年までTBSラジオ『若山弦 蔵の東京ダイヤル954』(当初は『おつかれさま5時です』)のパーソナリティーを務めた。

文化欄はジャーナリズムだ

2018年03月16日 11時35分57秒 | 社会・文化・政治・経済
「芸術家になれない者が批評家になる」G・フローベル
「最高の文学はジャーナリズムである」G・バーナード・ショー

批評が文化を育てることの重要性は否定できない。
ショーの言葉をなぞえるなら、最高の文化欄にはジャーナリズムの本質が宿る。
関西大学教授・谷本奈穂さん

日本の思想史家・渡辺京二さんの献身

2018年03月16日 10時50分03秒 | 医科・歯科・介護
日本の思想史家・渡辺京二さんは、20年以上、石牟礼道子さんのために、台所に立って食事を作り続けた。
しかし、2013年に石牟礼さんは、台所のない住居に引っ越していまし、渡辺さんの食事作りは終わった。
石牟礼さんの資料整理役でもあった渡辺さん
深い「孤独」を終生抱いていた石牟礼さんに渡辺さは寄り添っていたと想われるのだが、二人はどのような関係、立場であったのか?
石牟礼さんの資料整理役でもあった渡辺さん
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渡辺 京二(1930年8月1日 - )は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。

京都府出身。碩台小学校、大連一中、第五高等学校を経て、法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。
2010年、熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就任。

活動写真の弁士であった父に従い、少年期の7年間を中国・大連で過ごす。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、熊本市の縁者のもとに身を寄せる。

1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。
1998年、近世から近代前夜にかけてを主題とし、幕末維新に訪日した外国人たちの滞在記を題材として、江戸時代を明治維新により滅亡した一個のユニークな文明として甦らせた『逝きし世の面影』を公表した。
『北一輝』により第33回毎日出版文化賞受賞。
『逝きし世の面影』により第12回和辻哲郎文化賞を受賞。
『黒船前夜』により第37回大佛次郎賞(2010年度)を受賞。
総合情報誌『選択』誌上で、『追想 バテレンの世紀』を長期連載した。2017年完結
熊本県に本拠を置く「人間学研究会」は、渡辺が組織した勉強会であり同会が発行する雑誌『道標』にもエッセイ、評論等を寄稿することがある。

孤独との闘いは普遍的テーマ

2018年03月16日 10時07分31秒 | 社会・文化・政治・経済
パーソン病であった石牟礼道子さん
「(健康な)他の人には感じとれないことを感じます。考えます。病気は神からいただいたものと思うこともある。だからこそ、生きている時間をおろそかにしてはいけない」
暗い方向に考えが行きがちだった私は、救われる思いがした。石牟礼さんから離れられなくなった。
毎日新聞西部学芸グループの米本浩二記者
石牟礼さんに密着し、その肉声を基本にした連載を続け、今年2月65回に至った。
400字詰め原稿用紙に換算すると合計358枚。
この連載は、5年目に入る。
10代で戦災孤児を保護し、中年期以後水俣病患者の救済に奔走。
2016年の熊本地震で心痛に倒れた石牟礼さんの孤独は何であったのか?
周囲みんなと仲がいいのに、結局は分かり合えないと感じる孤独なので、事態は深刻である。
自殺未遂を繰り返した石牟礼さんに、深い「孤立」があった。
石牟礼さんは、「水俣病」だけの作家ではない、と感じる。
孤独との闘いは普遍的テーマである。
石牟礼道子は生きるのがつらいと感じる人に向いている、と思えてならない。米本記者

お遍路さん 新四国八十八ヶ所相馬霊場

2018年03月16日 07時10分31秒 | 社会・文化・政治・経済
取手市観光ガイド

江戸時代の頃、巡礼が流行となり、各地に大小さまざまな巡礼地ができました。
一般に四国の八十八カ所霊場を巡礼することを「遍路」といい、巡礼者を「お遍路さん」と呼びます。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現存する250年もの歴史のある巡礼地です。
相馬霊場総本地; 八十八ヶ所のなれそめ. この霊場は観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したといわれています。
長禅寺住職の弟子となり、余生は琴平神社 ...
巡拝札所: 第87番愛宕神社、第1番第5番第88 番長禅寺、第3番八坂神社、第2番 念仏院、第6番薬師堂、第10番、第4番不動堂、第20番薬師堂、第31番井野天満宮 第61番大日堂、第7番吉田の本泉寺、第14番、第11 番、第13番. 【重複札所】 第1番、5番、4番、20番、31番、61番は、偶数年2月にも巡拝致します。

①取手西地図 :常総線沿線の寺原、新取手、稲戸井、戸頭駅の周辺地図です、 ②稲拡大地図 :寺原駅と稲地区を拡大した地図で取手西地図の続きです、 ③取手地図 : 取手駅周辺の井野、台宿、白山地区と吉田地区です、 ④小文間地図 :小文間(おもんま)の地図です、市内で最もローカルな所です、 ⑤柏久寺家地図:千葉県柏市布施地区と我孫子市久寺家の地図です。 ⑥我孫子地図 :我孫子駅と天王台駅の周辺地図です、 手賀沼遊歩道があります、 ⑦我孫子東地図:成田線沿線布佐、新木、湖北駅迄の地図です、 ...


印西市から足を伸ばして弘法大師の修行遍歴にあやかっ江戸時代に流行し「移し」である取手、柏、我孫子市周辺の「新四国相馬霊場八十八か所」を気ままに巡っています。
250年の歴史があるそうです。 新四国霊場は日本全国に展開するが利根川流域は、日本で一番多く新四国霊場が存在する地域だそうです。
取手市内からは全長約60kmくらいで割りとお手軽。

新四国巡礼の話

2018年03月16日 06時53分15秒 | 日記・断片
今朝の取手は強風で、ゴーゴ―と空気が唸りをあげている。
電線や樹木、家に風が当たる音だ。
植木鉢が倒れ、路地に根を逆さにした松の木も。
「松の逆立ちか」と苦笑する。
ブロック塀に植木鉢を幾つも置いている家だ。

道路工事が行われ、工事中を明示する、電光掲示板は太陽の光のようにまぶしい。
1㌔先からも見えるだろう。
時間は午前3時40分、電灯で明るい家が多い。
高齢者も多く、早起きの家が増えているようだ。
新道も芸大通りも何時もより車が多い。
コンビニに向かう保冷車、工事現場へ向かうダンプカーや荷を運ぶ大型車、新聞配達のバイクは販売店に戻って行く。
タクシーや代行車も通る。
約1時間の散歩で、家戻り再び猫を探しに行く。
母子4匹の野良猫は、何時の間にか2匹となる。
猫好きなので、東3丁目の猫や東6丁目の猫に声をかけている。
餌をやらないでくださいと、表示されているのは、井野団地の駐輪場。
西田さんが、パンとカリカリ(猫の餌)が入って袋を手にやってくる。
猫のタマが着いてくるので、回り道をしてタマが着いて来るのを諦めるまで待機。
「タマ、居なくなったかい?」と西田さんは路地ら聞く。
「どうやら、帰りましたね」
「どこまでも、着いてくうんだもん。芸大通りは車が多いからね」
今日はシマオが姿を見せ、クロオがいない。
ビッグAの前に鈴村さんが居た。
車の免許書き換えで、認知症であるかどうかを明らかにするテストを受けた話をする。
「面倒だね」
「嫌だね」
「偶然だけど、席の周りの3人が4月1日生れ。そんな偶然もあるんだね。驚いた」
「3人も」
「<カンニングするよ>小声で言う人が4月1日生まれで、その隣の人も4月1日生れと後で分かった。目がいいんで、私もカンニング」
「取手ですまないんで、龍ヶ崎までテストを受けに行った。テストの点数が悪いと再度テスト、それから取手警察へ行く」
「次は月曜日、取手警察は土日休み」
「そうなんだ」
「公務員だからね」
「昼間はどうしているの」と西田さんが聞く。
「テレビですね」
「そうだね。やることないからね。テレビ。株も気になるのでね」
家人がシェル石油の株を持っている話をしたら、「上がるのかな。合併のこともあるし」と言うので、企業の動きを知っているようであった。
戻って来たらタマが走ってきた。
「昨日はトカゲを咥えてきた。殺さず遊んでいるんだね。鳥は食べてしまうんだ。嫌だね」
風はやんでいた。
午前5時25分、バイクでパートでキャノンへ向かう家人とすれ違う。
新四国巡礼の話をしたら、「やってみようかな」と鈴村さんが関心を示した。
傘を手にした西田さん「雨、降らずによかったね」と空を見上げた。
「雲が薄くなっているね」と鈴村さんも東空を見た。
昨日は東の空に三日月が見えた。
「月の砂漠」を連想させるような美しい輝きを放っていた。