2013年11 月26日 (火曜日)
佐々木則夫には苦い思い出があった。
佐々木には交際していた人が居た。
専門学校の帰りに立ち寄った飯田橋の喫茶店で、その人は働いていた。
佐々木の一目惚れであったが、相手の気持ちに感応したのであろうか、佐々木が訪れると微笑むようになった。
ある日、レジで意を決して声をかけてみた。
「外で会えるかな?」 断られて当然と思っていたが「いいですよ」と相手は首肯いたのだ。
「やった!」佐々木は心の中で小躍りしたい気分となった。
喫茶店は日曜日が休みであったので、「今度の日曜日に」と打診した。
「ハイ、わかりました」と相手は応じた。
「新宿御苑に行きませんか?」
「ハイ」
「佐々木則夫です。午後2時に正門のところで」
「分かりました」相手は名乗らなかった。
「こんなにうまくいっていいものか?」佐々木は半信半疑であったが、胸を高ぶらせながら30分前に新宿御苑に着いた。
相手は15分後にやってきた。
喫茶店の制服ではないその女性の姿は大人びて見えた。
喫茶店ではポニーテールであったが、当日はロングヘアになっていた。
灰色のロングスカートにグリーンのトックリのセーターを着ていた。
ハイヒールを履いていて、いつも見るより大柄に見えた。
「来てくれて、ありがとう」佐々木は率直に言った。
「私、新宿御苑は初めてです。新宿駅から何度も人に聞きながら来ました。方向音痴なの」 その言葉で佐々木は心が軽くなった。
「桜が満開です」佐々木は入園しながら言った。
「三鷹公園の桜も満開です」
「三鷹に住んでいるの?」
「そうです。私は飯野遥です。遥彼方の遥」と言って微笑んだ。
「遥さんか、遥さんに出会えてよかった」佐々木は握手を求めた。
「私もお会いできて光栄です」社交辞令とは思われない、言葉の響きがあった。
御苑の散策を終えて、中村屋でケーキを食べた。
それからしばし、とりとめのない話をした。
お腹が空いてきたので店伝統のインドカリーを食べた。
「美味しい」と遥は満足そうであった。
午後8時に二人は新宿駅で別れた。
佐々木は小田急線に乗って経堂駅から徒歩5分のアパートへ戻った。
「これは恋の始まりなんだ」と車内で佐々木は満たされた気持ちになった。
2013年11 月24日 (日曜日)
創作欄 真田と純子 5)
人を好きになる感情は、抑え難いものだと純子は改めて思った。
能動的にもなれた。
「純子さん、生き生きとしてきたわ」と多田房江から指摘された。
二人は不動産屋の裏路地を歩いていた。
近くにある大学の学生食堂へ入り昼食を食べたあとだ。
「大学生は、楽しそうでいいな」と房江は言う。
房江は茨城県の取手の中学を出ると東京・上野の印刷会社で働いていたが、人間関係の疲れからそこを辞めていた。
「房江さんは印刷工場ではどんな仕事をしていたの?」
「文選工の助手のような仕事よ」
「文選工?」
「鉛でできた活字を拾って文章にするの。文選工さんが小さな木の箱に活字を並べていくのよ。それがすごい速さなの」
「活字を拾うの?」
「そうなの。漢字や平仮名の活字は棚に並んでいて、原稿を見ながらその活字を素早く探して木の箱に並べていくの」
「印刷はそうやって完成するのね」
房江は微笑んで首肯く。
仕事は嫌いではなかったが、意地悪な女性社員からいじめにあったのだ。
可愛い顔立ちの房江は、「房江ちゃん」とみんなから呼ばれ文選工たちに可愛いがられていたが、それが先輩社員の反感を買ったのだ。
露骨にいじめられた。
ある時には足を踏まれたのだ。
それでつまずいて、せっかく組んだ活字を床に落としてしまった。
房江は意気消沈していた。
上野駅の常磐線のホームで背後から「房江しばらく」と中学校の先輩であった北島銀次から声をかけられた。
房江は微笑んだが、直ぐに硬い表情となった。
「何か元気そうでないね。後ろから見て想ったのだ」
背が高い北島は小柄な房江の顔を上から覗き込むように見詰めた。
「職場で嫌なことがあってね」
「まあ、社会へ出ると、色々あるもんさ」
房江は職場でいじめにあっていることを明かした。
就職して8か月が過ぎていたのだが、房江は今の職場から去りたいと思っていた。
「そんな職場なんか辞めちゃえ」あっさりと北島が言う。
「他に行くところ、いくらでもあるさ」
「そうかな?」
「あるよ、俺が探してやってもいいけど」
結局、房江は先輩の北島が勤めていた水道橋の不動産屋で働くことになった。
「純子さん、男性と交際をしているのね」房江は真顔で言う。
「なぜ、分かったの?」純子は戸惑いなながら大きな目を見開いた。
房江は二人が水道橋駅のホームで肩を並べて電車を待っているのを反対側のホームで見かけていた。
房江は秋葉原方面へ向かい電車を待っていた。
純子と佐々木則夫は新宿へ向かう時であった。
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<参考>
文選工のお話です。
印刷屋から活字が消えたのは30年ほど前のことでしょうか ?
受注した原稿を最初に手にするのは活字を拾う文選工でした。
鉛合金の活字は、天地30センチ、左右60センチ、奥行2センチほどの木製の箱に収められています。
活字の大きさによって3段か4段に仕切られ、ケースと呼んでいました。
頻度の多い50ほどの文字は視線の正面に据えられ、その下に平仮名ケースがあります。
文字は、人偏、草冠など「部首」の「一」から「龍」まで、字画の少ない順に配置されています。一時間1,000字に拾えるようになると、いっぱしの職人(文選工)と言われていました。
しかし、その域に達するのは4、5年待たなければなりません。
出版社が顧客の印刷会社には、高名な作家の原稿を読み下せる、作家専属の文選工も居ました。
佐々木則夫には苦い思い出があった。
佐々木には交際していた人が居た。
専門学校の帰りに立ち寄った飯田橋の喫茶店で、その人は働いていた。
佐々木の一目惚れであったが、相手の気持ちに感応したのであろうか、佐々木が訪れると微笑むようになった。
ある日、レジで意を決して声をかけてみた。
「外で会えるかな?」 断られて当然と思っていたが「いいですよ」と相手は首肯いたのだ。
「やった!」佐々木は心の中で小躍りしたい気分となった。
喫茶店は日曜日が休みであったので、「今度の日曜日に」と打診した。
「ハイ、わかりました」と相手は応じた。
「新宿御苑に行きませんか?」
「ハイ」
「佐々木則夫です。午後2時に正門のところで」
「分かりました」相手は名乗らなかった。
「こんなにうまくいっていいものか?」佐々木は半信半疑であったが、胸を高ぶらせながら30分前に新宿御苑に着いた。
相手は15分後にやってきた。
喫茶店の制服ではないその女性の姿は大人びて見えた。
喫茶店ではポニーテールであったが、当日はロングヘアになっていた。
灰色のロングスカートにグリーンのトックリのセーターを着ていた。
ハイヒールを履いていて、いつも見るより大柄に見えた。
「来てくれて、ありがとう」佐々木は率直に言った。
「私、新宿御苑は初めてです。新宿駅から何度も人に聞きながら来ました。方向音痴なの」 その言葉で佐々木は心が軽くなった。
「桜が満開です」佐々木は入園しながら言った。
「三鷹公園の桜も満開です」
「三鷹に住んでいるの?」
「そうです。私は飯野遥です。遥彼方の遥」と言って微笑んだ。
「遥さんか、遥さんに出会えてよかった」佐々木は握手を求めた。
「私もお会いできて光栄です」社交辞令とは思われない、言葉の響きがあった。
御苑の散策を終えて、中村屋でケーキを食べた。
それからしばし、とりとめのない話をした。
お腹が空いてきたので店伝統のインドカリーを食べた。
「美味しい」と遥は満足そうであった。
午後8時に二人は新宿駅で別れた。
佐々木は小田急線に乗って経堂駅から徒歩5分のアパートへ戻った。
「これは恋の始まりなんだ」と車内で佐々木は満たされた気持ちになった。
2013年11 月24日 (日曜日)
創作欄 真田と純子 5)
人を好きになる感情は、抑え難いものだと純子は改めて思った。
能動的にもなれた。
「純子さん、生き生きとしてきたわ」と多田房江から指摘された。
二人は不動産屋の裏路地を歩いていた。
近くにある大学の学生食堂へ入り昼食を食べたあとだ。
「大学生は、楽しそうでいいな」と房江は言う。
房江は茨城県の取手の中学を出ると東京・上野の印刷会社で働いていたが、人間関係の疲れからそこを辞めていた。
「房江さんは印刷工場ではどんな仕事をしていたの?」
「文選工の助手のような仕事よ」
「文選工?」
「鉛でできた活字を拾って文章にするの。文選工さんが小さな木の箱に活字を並べていくのよ。それがすごい速さなの」
「活字を拾うの?」
「そうなの。漢字や平仮名の活字は棚に並んでいて、原稿を見ながらその活字を素早く探して木の箱に並べていくの」
「印刷はそうやって完成するのね」
房江は微笑んで首肯く。
仕事は嫌いではなかったが、意地悪な女性社員からいじめにあったのだ。
可愛い顔立ちの房江は、「房江ちゃん」とみんなから呼ばれ文選工たちに可愛いがられていたが、それが先輩社員の反感を買ったのだ。
露骨にいじめられた。
ある時には足を踏まれたのだ。
それでつまずいて、せっかく組んだ活字を床に落としてしまった。
房江は意気消沈していた。
上野駅の常磐線のホームで背後から「房江しばらく」と中学校の先輩であった北島銀次から声をかけられた。
房江は微笑んだが、直ぐに硬い表情となった。
「何か元気そうでないね。後ろから見て想ったのだ」
背が高い北島は小柄な房江の顔を上から覗き込むように見詰めた。
「職場で嫌なことがあってね」
「まあ、社会へ出ると、色々あるもんさ」
房江は職場でいじめにあっていることを明かした。
就職して8か月が過ぎていたのだが、房江は今の職場から去りたいと思っていた。
「そんな職場なんか辞めちゃえ」あっさりと北島が言う。
「他に行くところ、いくらでもあるさ」
「そうかな?」
「あるよ、俺が探してやってもいいけど」
結局、房江は先輩の北島が勤めていた水道橋の不動産屋で働くことになった。
「純子さん、男性と交際をしているのね」房江は真顔で言う。
「なぜ、分かったの?」純子は戸惑いなながら大きな目を見開いた。
房江は二人が水道橋駅のホームで肩を並べて電車を待っているのを反対側のホームで見かけていた。
房江は秋葉原方面へ向かい電車を待っていた。
純子と佐々木則夫は新宿へ向かう時であった。
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<参考>
文選工のお話です。
印刷屋から活字が消えたのは30年ほど前のことでしょうか ?
受注した原稿を最初に手にするのは活字を拾う文選工でした。
鉛合金の活字は、天地30センチ、左右60センチ、奥行2センチほどの木製の箱に収められています。
活字の大きさによって3段か4段に仕切られ、ケースと呼んでいました。
頻度の多い50ほどの文字は視線の正面に据えられ、その下に平仮名ケースがあります。
文字は、人偏、草冠など「部首」の「一」から「龍」まで、字画の少ない順に配置されています。一時間1,000字に拾えるようになると、いっぱしの職人(文選工)と言われていました。
しかし、その域に達するのは4、5年待たなければなりません。
出版社が顧客の印刷会社には、高名な作家の原稿を読み下せる、作家専属の文選工も居ました。