創作欄 真田と純子 6)

2018年03月21日 12時40分36秒 | 医科・歯科・介護
2013年11 月26日 (火曜日)

佐々木則夫には苦い思い出があった。
佐々木には交際していた人が居た。
専門学校の帰りに立ち寄った飯田橋の喫茶店で、その人は働いていた。
佐々木の一目惚れであったが、相手の気持ちに感応したのであろうか、佐々木が訪れると微笑むようになった。
ある日、レジで意を決して声をかけてみた。
「外で会えるかな?」 断られて当然と思っていたが「いいですよ」と相手は首肯いたのだ。
「やった!」佐々木は心の中で小躍りしたい気分となった。
喫茶店は日曜日が休みであったので、「今度の日曜日に」と打診した。
「ハイ、わかりました」と相手は応じた。
「新宿御苑に行きませんか?」
「ハイ」
「佐々木則夫です。午後2時に正門のところで」
「分かりました」相手は名乗らなかった。
 「こんなにうまくいっていいものか?」佐々木は半信半疑であったが、胸を高ぶらせながら30分前に新宿御苑に着いた。
相手は15分後にやってきた。
喫茶店の制服ではないその女性の姿は大人びて見えた。
喫茶店ではポニーテールであったが、当日はロングヘアになっていた。
灰色のロングスカートにグリーンのトックリのセーターを着ていた。
ハイヒールを履いていて、いつも見るより大柄に見えた。
「来てくれて、ありがとう」佐々木は率直に言った。
「私、新宿御苑は初めてです。新宿駅から何度も人に聞きながら来ました。方向音痴なの」 その言葉で佐々木は心が軽くなった。
「桜が満開です」佐々木は入園しながら言った。
「三鷹公園の桜も満開です」
「三鷹に住んでいるの?」
「そうです。私は飯野遥です。遥彼方の遥」と言って微笑んだ。
「遥さんか、遥さんに出会えてよかった」佐々木は握手を求めた。
「私もお会いできて光栄です」社交辞令とは思われない、言葉の響きがあった。
御苑の散策を終えて、中村屋でケーキを食べた。
それからしばし、とりとめのない話をした。
お腹が空いてきたので店伝統のインドカリーを食べた。
「美味しい」と遥は満足そうであった。
午後8時に二人は新宿駅で別れた。
佐々木は小田急線に乗って経堂駅から徒歩5分のアパートへ戻った。
「これは恋の始まりなんだ」と車内で佐々木は満たされた気持ちになった。

2013年11 月24日 (日曜日)
創作欄 真田と純子 5)

人を好きになる感情は、抑え難いものだと純子は改めて思った。
能動的にもなれた。
「純子さん、生き生きとしてきたわ」と多田房江から指摘された。
二人は不動産屋の裏路地を歩いていた。
近くにある大学の学生食堂へ入り昼食を食べたあとだ。
「大学生は、楽しそうでいいな」と房江は言う。
房江は茨城県の取手の中学を出ると東京・上野の印刷会社で働いていたが、人間関係の疲れからそこを辞めていた。
「房江さんは印刷工場ではどんな仕事をしていたの?」
「文選工の助手のような仕事よ」
「文選工?」
「鉛でできた活字を拾って文章にするの。文選工さんが小さな木の箱に活字を並べていくのよ。それがすごい速さなの」
「活字を拾うの?」
「そうなの。漢字や平仮名の活字は棚に並んでいて、原稿を見ながらその活字を素早く探して木の箱に並べていくの」
「印刷はそうやって完成するのね」
房江は微笑んで首肯く。
仕事は嫌いではなかったが、意地悪な女性社員からいじめにあったのだ。
可愛い顔立ちの房江は、「房江ちゃん」とみんなから呼ばれ文選工たちに可愛いがられていたが、それが先輩社員の反感を買ったのだ。
露骨にいじめられた。
ある時には足を踏まれたのだ。
それでつまずいて、せっかく組んだ活字を床に落としてしまった。
房江は意気消沈していた。
上野駅の常磐線のホームで背後から「房江しばらく」と中学校の先輩であった北島銀次から声をかけられた。
房江は微笑んだが、直ぐに硬い表情となった。
「何か元気そうでないね。後ろから見て想ったのだ」
背が高い北島は小柄な房江の顔を上から覗き込むように見詰めた。
「職場で嫌なことがあってね」
「まあ、社会へ出ると、色々あるもんさ」
房江は職場でいじめにあっていることを明かした。
就職して8か月が過ぎていたのだが、房江は今の職場から去りたいと思っていた。
「そんな職場なんか辞めちゃえ」あっさりと北島が言う。
「他に行くところ、いくらでもあるさ」
「そうかな?」
「あるよ、俺が探してやってもいいけど」
結局、房江は先輩の北島が勤めていた水道橋の不動産屋で働くことになった。
「純子さん、男性と交際をしているのね」房江は真顔で言う。
「なぜ、分かったの?」純子は戸惑いなながら大きな目を見開いた。
房江は二人が水道橋駅のホームで肩を並べて電車を待っているのを反対側のホームで見かけていた。
房江は秋葉原方面へ向かい電車を待っていた。
純子と佐々木則夫は新宿へ向かう時であった。

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<参考> 
文選工のお話です。
印刷屋から活字が消えたのは30年ほど前のことでしょうか ?
受注した原稿を最初に手にするのは活字を拾う文選工でした。
鉛合金の活字は、天地30センチ、左右60センチ、奥行2センチほどの木製の箱に収められています。
活字の大きさによって3段か4段に仕切られ、ケースと呼んでいました。
頻度の多い50ほどの文字は視線の正面に据えられ、その下に平仮名ケースがあります。
文字は、人偏、草冠など「部首」の「一」から「龍」まで、字画の少ない順に配置されています。一時間1,000字に拾えるようになると、いっぱしの職人(文選工)と言われていました。
しかし、その域に達するのは4、5年待たなければなりません。
出版社が顧客の印刷会社には、高名な作家の原稿を読み下せる、作家専属の文選工も居ました。

創作欄 真田と純子 8 )

2018年03月21日 12時33分48秒 | 創作欄
2013年11 月27日 (水曜日)

人が心変わりをする。
それを咎めることができるのか?
「例えば、人を愛したり人を慕う。それは一時的なもので、永続しない場合が多いのではないだろうか」と佐々木則夫は思った。
「何時も誰かを愛していたい」と思う人もいるだろう。
それは「何時も誰かに愛されていたい」という願望と表裏であるのかもしれない。
だが、人の心は何かで変わってしまうのだから、現実は思うように運ばないものだ。
飯野遥に去られて佐々木の心にポッカリ穴が空いたのであるが、恨む気持ちは湧かなかった。
「こうなる運命だったんだ」と諦め自分を慰めた。
安保闘争のデモに参加したのは自分の意思であった。
だが、そのデモの中で、自分が脳挫傷を負うとは、想像すらできなかったことだ。
アクシデントは成り行きであり、怒りの矛先をぶつけようもないことであった。
「命を失わなかったことが儲けもの、人生の可能性が絶たれたわけではない」と則夫は思い直した。
純子を知った則夫は「会うべき人に巡り会えたのだ」と歓喜した。
「こんな、私でいいのかしら」 真田との関係が続いていた純子は心に引け目を覚えていた。
だが純子は日々、則夫に惹かれていく。
純子は親子ほど年齢が離れていた真田に恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。
「信頼していたのに・・・」湯島のホテルで一夜を真田と過ごした純子は真田に翌朝、抗議めいた感情をぶつけた。
真田は純子が既に男を知っていると思い込んでいたのだ。
準強姦罪で訴えられても仕方ないケースでもあった。
「二つ部屋を取るからね」と真田は確かに言ったが、「一緒の部屋でもいいですよ」と言ったのは純子であった。
真田は純子が一緒に寝ることを合意し、性行為もできると欲情を募らせたのだ。
真田は純子の体を浴衣越しに優しく愛撫した。
純子はそれを許した。
純子の呼吸は段々と荒くなっていく。
最後は僅かに一線を超えることに純子は抵抗したのであったが、下着を脱がされてしまった。
酒の酔いもあって、純子は成り行きに任せるように抗うことを止め真田に体を委ねてしまった。
行為が終わってから純子はうつ伏せになった泣いた。
「男、初めてだったんだな」
真田は起き上がり純子の背中に手をあてがった。
純子は大声を上げて泣き出した。

2013年11 月26日 (火曜日)
創作欄 真田と純子 7)
佐々木則夫の恋は長く続かなかった。
人生の皮肉と言うものであっただろうか?
飯野遥は文学少女のようであった。
新潟県の浦佐から上京し三鷹下連雀のアパートに住んだのも作家の太宰治に憧れていたのだ。
そして、遥が佐々木則夫に惹かれたのは面影が太宰に少し似ていたからだった。
遥は雪国育ちであり美し肌をしていた。
佐々木はその白い肌にも惹かれた。
遥は高校を卒業し、東京女子大学を受験したが不合格となり進路に迷っていたのだ。
故郷の母親は、「大学は諦めて働くようにしなさい」と手紙で諭してきた。
遥は4人姉妹の末っ子であった。
地元では美人の四姉妹とされて、3人の姉たちはすでに嫁いでいた。
自分もいっそうのこと結婚しようかとも思っていた。
佐々木と遥は三鷹公園や武蔵野面影が色濃く残る玉川上水などでデートを重ねた。
だが、佐々木は1960年6月15日、安保闘争に参加し、脳挫傷となってしまった。

外傷による局所の脳組織の挫滅・衝撃によって組織が砕けるような損傷を脳挫傷と呼ぶ。
脳挫傷の局所の症状として、半身の麻痺(片麻痺(かたまひ))、半身の感覚障害、言語障害、けいれん発作などが現れる。
加害者は警官であるが、抗議は受け入れなかった。
下半身に障害が残った佐々木から、遥の気持ちは離れていく。
薄情であるが、遥の恋心は覚めていたのだ。
佐々木は仕方ないと諦めるほかなかった。
佐々木は子どもの頃から、何かに強く執着するという質ではなかった。
「子どもらしくない子どもだな」と父親は皮肉を言っていた。
「全く、可愛げがない子だね」と母親も呆れていた。
いじめられての泣かない子であったのだ。
このため「いじめがいがない」と悪ガキたちも則夫を相手にしなくなった。
だが、遥に見放されてから、佐々木の心にすきま風が吹いたことは否めなかったが、それも時間が解決してくれた。
もう恋に縁がないと思っていた佐々木の前に現れたのが純子であった。
佐々木の障害に拘りを持たない純子は、心が広いで女であったのだろうか?
佐々木は純子の胸の内を怪しまないわけではなかった。
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<参考>
1960年6月15日、日米新安保条約批准阻止を叫ぶ全学連が国会構内になだれこみ、
弾圧する警察機動隊と衝突し、その混乱の中で樺美智子さん(東大文学部学生、22歳が亡くなった 70年安保闘争は、最も血塗られた闘争だった  
その7年後、佐藤首相(当時)の訪ベトナム阻止を目指す羽田闘争で、京大生、山崎博昭さんが機動隊との衝突の中で亡くなった。
例えば佐藤訪米阻止を目指し、69年の10-11月連続闘争の中でも、岡山大学生の糟谷孝幸さんが、大阪扇町公園で開かれたデモに襲いかかった機動隊に暴行され、10月14日に脳挫傷で亡くなったのは、ほんの一例である。22歳の死であった。
樺さんや山崎さんの名を知る人でも、糟谷さんの名を知る人は少ない。
死をもって安保条約に反対した樺さんや山崎さん、糟谷さんらは無名の犠牲者は、歴史という冷厳な審判で無駄死にであったことがはっきりした。
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11月13日、佐藤訪米阻止闘争を大阪の地において闘った岡大学友,法科2年生糟谷孝幸君は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され,21才の短い生涯を閉じた。
寝屋川署の機動隊員がデモの最前線に立ち闘っていた糟谷君に襲いかかり,暴行を加えながら逮捕した。
そして負傷している糟谷君を曽根崎署に連行し,取り調べを強行し,治療もせずに2時間以上も放置していた。 糟谷君は取り調べ後,気分が悪くなり倒れた。
午後8時45分に北区浮田町の行岡病院に運び込まれたが,糟谷君は手術台の上に放置され,簡単な応急処置がなされているだけであった。
しかも午前4時半までレントゲン撮影すら行れず,14日未明になってようやく,しかも完全な設備のないこの病院で,脳外科の門外漢の手で手術が行れた。
午前6時半頃,京大病院脳外科の佐藤医師が援助を申し出たが,病院は全くとりあっていない。
午後1時頃糟谷君の容態は悪化し,自力で呼吸することすらできない危篤状態に陥いり,そして午後9時,糟谷君は一言もしやべらぬまま死亡したのである。
弁護士,佐藤医師の立ち合いのもとで行れた司法解剖の結果,死因は脳機能障害,脳挫傷,脳種脹,頭部打撲であり,遺体の情況は硬い鈍体による打撲跡が十数カ所にあり,頭骸骨の縫合部にズレが生じている事が判明した。
この明確なる機動隊の虐殺に対し,警察側は路上衝突説,火炎ビン説,鉄パイプ説等で殺人事件としてデッチ上げ,60年安保の樺さん,66年羽田での山崎君虐殺と同じく自らの犯罪をインペイしようとしている。 虐殺弾劾,安保粉砕集会が開かれた。
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この脳の損傷によって起こる症状は、その損傷を受ける部位により様々ですが、代表的なものに脳卒中のような麻痺や感覚障害、手足が震えうまくコントロールできなくなる失調症状、記憶障害や言語、注意力の低下などの高次脳機能障害があります。
ただし一般に頭部外傷では脳の一部分の限局した場所のみがダメージを受けるということは少なく、受傷時の脳挫傷・低酸素・血腫による圧迫などによりダメージは広範にわたることが多いです。
これは、比較的病気の部位が限局している脳梗塞や脳出血と異なる点です。
そのため、頭部外傷で最も多い症状は「広範な前頭葉障害による高次脳機能障害」になります

創作欄 真田と千代 4)

2018年03月21日 12時20分16秒 | 創作欄
2013年12 月 6日 (金曜日)

千代は母が亡くなった時、遺品を整理した。
その中に桐の箱に入った金杯を見つけた。
「戦没者叙勲記念」と書かれていた。
千代の父親はアジアの南方で戦死していて、それが唯一の生きた証であった。
母と父の結婚生活はわずか2年であった。
その金杯を貴金属店で鑑定したみたら、ほとんど価値のないものであった。
母が誇りにしていた「お国にから頂い金杯」はそのようなものであったのだ。
終戦後まだ若かった母は再婚できたが、独身を貫き一人娘の千代を育てた。
真田は千代からそのようなことを聞かされ、切ない気持ちになった。
「お国のために・・・」 満蒙開拓団満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された。
中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
満蒙開拓青少年義勇軍は15歳~19歳の若者で編成された。
千代の母親の弟も15歳で満州に渡って命を落としている。
母親の長兄は教師の立場から教え子たちを送り込む立場にいた。
生き残って日本へ戻ってきた教え子は誰も居なかった。
長兄は罪悪感にとらわれ、戦後は教師を辞め農業に身を転じた。
真田と母親の長兄が偶然、同じ師範学校出身学校であった。
真田も戦後、教師に戻ることはなく闇市で無頼の徒に身を落とした。
教え子たちに言っていた「お国のために」が不遜であったのだ。
戦場では「天皇陛下万歳」と叫んで、「万歳突撃」で戦友のほとんどが無為な死を遂げた。 「戦争は、無謀だったのね」千代は真田から「万歳突撃」の実態を聞かされた。
「戦後、何度も戦場が夢に出てきて、うなされた。それを紛らわすため酒を無茶飲みし、賭博にものめり込んだ。ヒロポンもやった」
「ヒロポン?」
「ヒロポンは覚せい剤なんだ。一時的に疲労や倦怠感を除き、活力が増大に錯覚させられた。それで中毒になった奴もいた」
もはや戦後とは言えないが、戦争の傷が完全に癒えたわけではなかった。
1970年安保に多くの国民は距離を置いたが、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
1970年安保は1960年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。
還暦を迎え真田の戦後も終わったのである。
「60歳になったのね。お祝いをしなけば」と千代は言った。
「そんなものよしてくれ」と真田は苦笑した。
60歳まで生きてこられたことが奇跡のようにも思われた。
千代はバーの経営を続けていた。
「私には水商売が合っているの」
「そうかい。好きなようにしればいい」真田は千代を束縛するつもりはない。
女子大生であった竹内雅美は都市銀行に就職した。
時どき同僚たちと飲みに来て、店でカラオケを歌っているそうだ。
真田は千代と一緒に暮らし初めてから、店へ顔を出していない。

2013年12 月 3日 (火曜日)

創作欄 真田と千代 3)


「恋や愛に理屈はない―と誰かが言っていたけど、私が真田さんに、男として惹かれたのは理屈じゃないの」千代が言う。
「一緒に暮らそうか?」真田はホテルのベッドから身を起こしながら手枕をしている千代を見詰めた。
千代は左手を出して、「起こして」というので、真田はその手を握り引き寄せた。
「そうね。考えておくわ」 千代は女子大生の竹内雅美と自由が丘の一軒屋に暮らしていたので即答を避けた。
真田は原宿の分譲マンションで暮らしていた。
これまでずっと一人で暮らしてきた真田であったが、家で待ってくれる人がいることを欲する気持ちになっていた。
「俺も家庭の温もりや安堵を求めていたのか?」自分の気持ちの変化にむしろ驚いた。
真田は何時も誰かを好きになっていたい、という質の男であったが、好きになった女と暮らそうとは思っていなかった。
「会いたければ会いにいけばいい」と割り切っていた。
また、去って行く女を追いかける気持ちもなかった。
もし、戦争がなかったら、妻子と平凡に暮らしていただろう。
真田は何時の間にか、東京大空襲で失った妻子の夢を見なくなっていた。
それなのに、父母や兄弟たちの夢は見ていた。
夢の中の自分は旧制の中学生の姿のままである。
夢の中には初恋の人も出て来た。 相手はお寺の女の子で内気であった。
当時の女の子は着物姿であり、いかにも立ち居振る舞いがおっとりとしてた。
可憐で繊細であり大和撫子というイメージである。
初恋の子の姫木園子は出会うとうつむいて顔を赤らめていた。
真田が長い髪の女に好意を寄せるのは、初恋の女の子の思い出が原型になっていたと思われる。
里山の一本の田舎道にたたずみ、真田を帰りを待っていた少女の姿が夢に何度も出てきた。
「最近、真田さんの夢を見る」と千代は言っていたが、真田の夢は不思議と日本の戦前の原風景のなかで展開された。

2013年11 月30日 (土曜日)

創作欄 真田と公子 2)


看護婦の小西公子は、真田が考えているような女ではなかった。
上昇志向が強く、しかも優しさから不幸な人、悲惨な状態に置かれている人々に対して憐憫の情を注いだ。
公子はある日、ベトコンの若い女性兵士が囚われ、南ベトナムの兵士たちに川の中で責め苦にあっている写真を週刊誌で見て、大きな衝撃を受けた。
女性兵士は公子と同世代と思われた。
その1枚の写真が、女性兵士が置かれている立場を如実に物語っていた。
女性兵士は長い髪の毛を鷲づかみにされ、川の中にしばらく頭を埋められ窒息する瞬間に、頭を川面に引き戻された写真である。
片手を捻じ挙げられている。
別の兵士が憎しみの表情を浮かべ横から女性兵士のお尻を軍靴で蹴っていた。
女性兵士は泣き顔になっていた。
その写真を見てから数日後、先輩の看護婦に誘われて公子はベ平連に関わった。
真田は心の優しい公子と過ごすと気持ちが穏やかになった。
何時も傍にいてほしいと思ったが、公子には夜勤があった。
「公子、よく働くね。カラダは大丈夫かい?」
その日、公子は夜勤明けであったが、真田に会いに来てくれたが、だいぶ疲れているように見えた。
「今月は夜勤が10回なの」 と深いため息をついた。
「10回?! 3日に1回だね。それは酷いな」 真田は目を丸く見開いた。
公子は喫茶店の2階の窓から道ゆく人に視線を注いでいた。
「日本は、平和でいいわね」
「そうだね」真田はタバコを吸う。
「私にも、1本ください」
「公子はタバコのむのかい?」真田は怪訝な表情を浮かべた。
「看護婦はタバコのむ人多いの」
ピースを1本箱から出して真田は公子の口に近づけた。
そしてライラーで火を付けた。
「タバコは、どうすえばいいのですか?」
公子は指にタバコを挟みながら、火が着いた部分を確認するように見詰めた。
「たばこは、呼吸をするようにすえばいいんだ」
公子はタバコを口に含むようにして、煙を少し吸い込んだ。
真田はそんな公子を愛おしいと見詰めた。
まるで、子どもがイタズラをした時のような表情を浮かべ肩をすくめた。
「これが、タバコの味なのね。いいものね。先輩たちがタバコをのんでいるの、分かる気がする」
公子の笑顔は疲れを徐々に癒していくようにも映じた。
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<参考>1
ベトナム反戦運動ベトナムに平和を!市民連合
略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。ベトナム戦争(1960~75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。
それまでの反戦運動に比し、ベトナム反戦運動は、質的にも量的にも、はるかに際だったものであった。
とくに戦争当事国アメリカの中で、自国の戦争政策に反対して行われた運動は、軍隊内部での抵抗をも含めて、
第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であった。
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<参考> 2
二・八闘争】(ニッパチトウソウ) 1965年、人事院は夜勤制限の必要性を認め「夜勤は月平均8日以内」「1人夜勤の禁止」などの「判定」を出した。 この判定をテコに1968年、新潟県立病院における看護婦の実力行使を背景とした「夜勤協定」獲得のたたかいが始まり、それを皮切りに「2人以上・月8日以内」夜勤制限を要求する実力闘争が全国的に広まった。 「2人以上・月8日以内」の数字をとって「二・八(ニッパチ)闘争」といいます。
2013年11 月29日 (金曜日)
創作欄 真田と公子 1)
真田は何者かに背後から拳銃で撃たれ新宿の医科大学病院に救急車で搬送されていた。
幸い弾丸は22口径のものであり、しかも撃たれ場所が腰であった。
相手は真田を殺すつもりではなく、意図をもって警告を発したのだとも思われた。
色々とこじれている問題もあった。
真田は警察の事情聴取を受けたが、加害者には実際のところ心当たりがなかった。
真田は仕事の内容を根掘り葉掘り聞かれたが、コンサルタント業で通した。
いわゆる仲介業であり何でも屋でもあったのだ。
当然、警察は胡散臭い男だと目を付けただろう。
そんな真田に看護婦の小西公子は温かい心遣いで接してくれた。
真田は聞かずには居られなかった。
「あんたの、その優しさはどこから、くるんだろうか?」
「わたしは、自分が選んだ看護の仕事を忠実にしているだけです」
小西の微笑みは人の心を癒すものであった。
小西のネームプレートを見詰めながら「小西さん、あんたは独身かい?」と真田は聞いてみた。
「独身ですよ」と言いながら、小西は交通事故で入院している若い男の病床へ向かった。
「独身かい。結婚したら、いい奥さんになるよ」真田は小西の背後に言葉を投げた。
公子は父が戦死し、小学校4年生のころから、日雇いの仕事をしていた母に代わって家事などを担っていた。
弟や妹の面倒もよく見ていた。
公子は進路について相談したところ、中学校の担任の教師から「君は看護婦の仕事に向いているかもしれないね」と言われた。
そこで、家計を支えながら勉強できる看護の道を選んだ。
当時、競争率が高かった千葉県内の准看護学校へ進んだ。
人間関係は不思議なもので、公子は真田に好意を寄せたのである。
真田は50歳になっていたが、男の魅力を感じさせる男であった。
真田に父性を公子は感じたのである。
この感情は純子にも共通する情愛でもあった。

命懸けの勝負

2018年03月21日 12時13分12秒 | 社会・文化・政治・経済
武士は真剣の斬り合いで「時にはミスもある」などとは思わないはずだ。
「時代は違えど、命懸けの勝負をしているかどうかです」王貞治さん
野球に限らず、いずこにもそれぞれの舞台で真剣勝負に挑む。
頭では分かってつもりであるが、迷いがある。
迷いは自信のなさ。
つまり、自分を信じていないのだ。
構想を描き、実践するのみ。

父母や妹の墓参には行かない

2018年03月21日 11時55分50秒 | 日記・断片
午前2時に目覚めた。
映画チャンネルが放映されたままだ、映画の途中で寝てしまったのだ。
囲碁・将棋チャンネルやアニマルチャンネル、ヒストリーチャンネルの場合もある。
電気の無駄ばかりだ。
テレビをつけたまま寝むことが習慣化して家人に起こられている。
午前2時に目覚めた。
寝たら夢を見た。
20代のころの友人たちと中央線沿線をハイキングしている。
登山というより丘歩きであり、猟銃やライフルでキジなどを撃つ。
友人の誤射で胸を撃たれて、「ああ、死ぬんだな」と倒れながら富士山が見えた。
不思議に痛みが無い。
夏にはみんなで、初めて富士山に登る予定であった。
「富士山に登らずに死ぬのか」と残念に思っていたところで、目覚めた。
「嫌な夢を見た」と夢を回想する。
午前5時50分になって、散歩へ行く。
すでに、花が見える時間帯である。
遅咲きの梅の花、何と10月桜(正月桜)が東3丁目の友人の住むマンション裏の駐車場で咲いていた。
1年に2度も咲く桜である。
意外にボケの花も多いことに気づく。
家へ戻り、再び寝る。
彼岸であるが、父母や妹の墓参には行かない。
相模湖に近い、津久井墓苑は取手からは遠い。
自動車の免許を取得しておくべきであった。
相模原・御園の実家の姉に墓参を頼むほかない。

何を学ばなかったのか?

2018年03月21日 07時47分39秒 | 沼田利根の言いたい放題
第一次世界大戦、第二次世界大戦をへて、人類は何を学んだのか?
否、何を学ばなかったのか?
朝鮮戦争が起こり、ベトナム戦争まで起きた。
その後、ソ連によるハンガリー動乱、中国によるチベットへの侵攻などもあった。
さらに、イラン・イラク戦争、11の紛争もあった。
アフガニスタンに始まり、イラク、グルジア、コートジボワール、コンゴ民主共和国、スーダン、ダルフール、レバノン、コソボ、ハイチ、シリアへ続く。
無謀な介入主義と台頭する偏狭な排他主義。
破綻した政府、反政府集団などが闊歩する脆弱な国内政治や体制。
第二次世界大戦後、ヨーロッパから米国へと覇権が移行し、米国は世界の警察とされた。
米国はソ連の崩壊で影響力が絶大となった。
ソ連はロシアとなったが復権しつつある。
国連の役割が問われ、平和維持活動(PKO)への期待が高まっているものの、PKO派遣に影響力を有する米国やロシアなど常任理事国の動向などが紛争の背景を複雑にしている。
戦争・紛争で平和な日常生活や生存を奪われている無辜(むこ)の人々を前にして、平和の維持活動の道程は遠いとしか言いようがない。