創作欄 兄弟 3)

2018年03月20日 22時50分52秒 | 創作欄
2012年11 月17日 (土曜日)

父親の幸吉は小金を貯めた。
当時は金利も高かったのだ。
金利が一番高かったのは郵便局の3年以上定額貯金で、石油ショック後の1974年8.0%、1980年は7.25%だった。
1984年には5.75に落ちた。
定額10年利回り12%。

これは年8.0%半年複利で、10年後に約2.2倍になって戻って来る。
また、証券会社の人から勧められて、国債も買った。
株も勧められ、5社の株を買った。
上がった株もあったが、下がった株もあり全体として資産の運用は若干のプラスとなった。
だが、金利は1992年に4.07%、1993年2.05%、1995年1.15%、2001年0.07 %と下がる一方となった。
父親の幸吉が生きていたらがっかりしただろうが、バブルが弾ける前に幸吉は逝った。
本人は「21世紀まで生きたい」と願っていたのだが、自宅の風呂の洗い場で倒れ呆気ない最後であった。
通夜の席で幸太は、「親父の人生は、まあまあで良かったのではないか?」と弟の浩二に問いかけた。
「人に迷惑をかけるな」と2人の息子を諭してきた。
町内会の役員や老人会の会長として最後まで責任を全うしていた。
そして児童公園の管理をしたり、民生委員を務めたりして堅実な生活態度だった。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっているので父親を反面教師としてきた。
通夜には、幸吉の弟の佐吉と妹の鶴が居た。
「兄貴は道楽者の親父を嫌っていた。苦労をした母親思いだったからな」
佐吉は通夜の席で酒をかなり飲み、赤ら顔になっていた。
「兄さんは、俺は宵越しの金は持たないなんて、バカなことを言っていてね」
鶴は甲府から駆けつけてきた。
痛風で正座ができないと喪服姿で小さな折りたたみ椅子に座っていた。
浩二は黙々とビールを何倍も飲んでいた。
「自分は自分、親父の生き方は親父の生き方」
クールに父親の人生を受けとめていた。
「ところで、兄貴は堅実だから金を残したんだろうな」
叔父の佐吉は幸太に尋ねた。
孝太は何て答えてよいのか口ごもり苦笑しながら、「小金は残したと思いますよい」と答えた。
「小金?」叔母の鶴は意味がわからないのだろう怪訝な顔をした。
「兄貴は俺にも、“小金を貯めないと金は残らない”と言っていたな」と唇を強く結びながら苦笑を浮かべた。
佐吉は酒代で小金を残さなかった。
大衆的な雰囲気の居酒屋で酒を飲むより、色気を好みバーやスナック洋酒を飲んでいた。

2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄弟 2)

競馬、パチンコなどと幸太は無縁であった。
父親の幸吉は「小金を貯めないと、金は貯まらないよ」と言っていた。
「小金?」幸太は父に聞き返した。
50歳を境に幸吉は酒を飲むのを止めた。
酒は定期検診で肝機能が低下していることを医者から指摘された。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっている。
「親父のように死にたくない」と幸吉は酒を絶った。
そして煙草は息子の浩二が小児喘息であったので止めた。
タバコの煙によって炎症を起こした気道が、冷気など色々な刺激に対して過敏に反応してしまい、収縮することで喘息の発作が誘発される。
気道の炎症が慢性的に続いてすまうと、気道の壁が狭くなってしまい、どんな治療をしても気道が拡張しなくなってしまう。
幸吉は医者の説明と忠告を真摯に受け止めたのだ。
酒と煙草を止めた幸吉は、それまでの酒代、煙草代を貯蓄に回した。
煙草は37歳の時から吸わなくなったが、あっさりと止められたわけではない。
ニコチン中毒は薬物依存症の一つである。
幸吉はピースを好んで吸っていた。
だが、妻の鶴子が40歳でクモ膜下出血で亡くなった時、そのショックから再び煙草を吸い始めた。
だが、それを1か月後に決心して断った。
妻の鶴子の死を自分の宿業と捉えていたのだ。
鶴子は山登りが好きであった。
女友だちと半年に1回くらいのペースで、山へ向かっていたが、幸吉は商売に専念していたので一度も妻の山登りに同行したことがなかった。 
幸吉は山に登ったつもりで、貯蓄に金を回した。
幸太は父親の話を聞いてから、自分も小金を貯める決意をした。

2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄と弟 1)

結局のところ、人生をどのように生きるかである。
兄弟が2人なら、2人の違った人生がある。
長男である幸太は、父親のように商売の道を歩んだ。
次男である浩二は、農協に勤めていたが競馬をライフワークにした。
ネットを使って自らレースの予想をし、情報を発信していた。
どれくらいのファンがいるのだろうか?
冷やかしに聞いてみた。
「まあ、1000人といいたいけれど、100人くらいかな」
まんざらでもなそうに、浩二はネットの画面を兄に見せた。
画面には縫い繰る身の馬たちがユーモラスな姿で走っている様子が見えていた。
「“かわいいわね”」と言ってくれる女性ファンもいるのだ」
37歳となったが浩二はまだ独身である。
幸太は39歳で娘が4人いた。
娘は2人で十分と思ったが皮肉なもので、次は男の子と期待したのに生まれたのはまた女の子だった。
娘たちは叔父の幸太になついて、競馬場まで幼児のころから着いて行った。
商売人の幸太は、土日も休まず働き、月曜日を定休日としていた。
浩二は金曜日になると職場から一刻も早くと気がせくように自宅に戻り、競馬新聞やスポーツ新聞を並べて予想に没頭する。
過去の競馬のレースをビデオで見ていることもある。
その目は真剣であるというより、探るような目となっていた。
何度も繰り返しレースの内容を点検し、敗因や勝因を探っていく。
「オイ、浩二、それだけの情熱をもっと、健全な方面で発揮できないのか?」
兄として幸太が忠言した。
「健全?! 競馬はおれのライフワークなのだから、健全も不健全もあるものか!」
浩二は憤慨した。
幸太は舌打ちをして、弟の部屋を出た。
本棚は本好きであった母親の言わば遺品だった。
その本棚は、競馬関係の本や雑誌、ノート類ですべての棚が埋まっていた。
別の本棚には競馬のビデオテープがぎっしりと埋まっている。
40歳の春にクモ膜下出血で亡くなった母親の鶴子は、競馬にのめり込んでいる息子のことを心配していた。
鶴子の父親は競輪に狂って、家と田畑を失っていた。
このため勉強好きであったのに鶴子は、不本意にも中卒で働きに出た。

創作欄 「存在する意義と価値」

2018年03月20日 22時44分39秒 | 創作欄
「存在することに意義がある」
人生の途次に出会った人が、発した言葉を何気なく聞いていた。
だが、その人の言葉が脳裏に深く残り続けていた。
人生の岐路に立って考えた。
「自分の存在価値は?」
高校の教師はいみじくも言った。
「相手から大嫌いだと言われたら、喜んでもいいんだ」
「先生、何故ですか?」
「相手はね、君のことを意識しているんだ。つまり、君の存在は相手にとっては無視できないんだよ」
「よくわかりません」
「分からないかい?相手にとって君は無ではない。つまり君は相手の心を占めている。影響を及ぼしているんだよ」
「影響ですか?」
「良くも、悪くも影響するのが人間関係。君の手相を見てみようか。左手を出して」
直樹は詩人でもあるその教師を崇拝していたので率直に従った。
「君は芸術家タイプだね。40歳以降、運が開けるね。頑張りなさい」
「先生、40歳以降ですか?」直樹は落胆して聞き返した。
直樹は広島の原爆で父母と兄弟を失っていた。
家族を全て失い、原爆手帳を持って身であり、自分は長生きできないと思って生きてきた。

創作欄 真田と栄子 4)

2018年03月20日 22時30分55秒 | 医科・歯科・介護
2013年12 月12日 (木曜日)

若い倉持由紀江ととりとめのない話をしていたが、真田は突然、メランコリーな気分となる。
尿意をもようしたのでトイレへ向かう。
そして戻ってくる間に異変が起こった。
右足がつるような感じがした。
トイレから戻ってくるまでおしぼりを手に由紀江が立ったまま真田を待っていた。
その笑顔が揺れているように見えた。
ボックス席に着いた真田は受け取ったはずのおしぼりをテーブルにおとした。
右手がまるで骨折したようにだらりと重く垂れ下がった。
そして手首に痺れが走った。
それは電流が走ったような軽い痛みであったが、脱力感で手首の辺りが重くなっていた。
酒を飲めば収まるだろうと盃を右手でつかんだが、それを床に落とした。
「真田さん、どうかしましたか」 由紀江は真田の顔を覗き込むよに見詰めた。
「大丈夫、疲れが溜まったたんだ。徹夜麻雀もしたしね」
頭を何度も振りながらボックス席に背中をもたげると、真田の意識が遠のいていく。
結局、真田は取手駅前の通りに面した取手協同病院に運ばれた。
「俺は、いったいどうしたんだ」 ベッドに横たわっている自分の姿に真田は愕然とした。
「ここはどこだ?」真田は豆電球が灯る天井を見上げながら身を起こした。
古い部屋であり木製のガラス窓の外は闇に包まれていていた。
腕時計を見ると午前2時であった。
実はこの病院に戦前のことであるが、作家の坂口安吾が住んでいたのである。
真田は翌朝、看護婦から脳梗塞を起こしたことを聞かされた。
「真田さん、運がよかったですよ。比較的軽い脳梗塞だったのよ」
40代と思われる小太りの看護婦は、検温をしながら言う。
「脳梗塞だったんだ。気を失って何も覚えていない」
「この病院が、駅前でよかったのよ」
「病院は取手駅前にあるのか」
「そうね。駅まで1分ほどよ」
午後2時ころ、元女子競輪選手だった大田栄子が真田のことを心配して病室にやってきた。
「真田さん、昨夜は驚いたわ。倒れた時はどうなるかと思って・・・」
「俺は倒れたんだ」
「席から床に転げ落ちたのよ」
「そうだったのか」
栄子は何時ものように午前2時に店を閉めて、起きてからすぐに銭湯の朝湯に入り、掃除、洗濯をしてから真田の見舞いに来たのである。
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<参考>

茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院 (旧・茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院
1976年 9月 旧取手協同病院と旧龍ヶ崎協同病院とが合併 現在地に新築移転し取手協同病院となる

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坂口安吾(小説家)1938年から2年間、取手病院に住み込む。
1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで小田原に移住する。

2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子3)

「居酒屋では、日本酒を飲んでいましたね。やはり日本酒ですね」
栄子はおしぼりを出しながら尋ねた。
「取手の地酒があれば、それがいいな」
「それなら、田中酒造の君萬代ですね」
「ユキちゃん、君萬代をお願い」と大田栄子は立ち上がってカウンター内の倉持由紀江に声をかけた。
間もなく由紀江が日本酒を運んできた。
20代と思われた由紀江はまだ18歳であった。
男好きのする顔立ちであり愛想が良くて由紀江を目当てにバー「ジャン」に通ってくる客の多かった。
髪をアップにしているので大人びて見えた。
「ユキちゃんお願いね。私は向こうへ行くから」と栄子はカウンター内へ入った。
常連客はみんなかつての栄子の競輪ファンたちであった。
「お客さんは、どこからいらしたんですか?」
真田は濃紺のスーツを着ていて、地元取手の人間には見えなかったようだ。
「東京の自由が丘から」真田は日本酒を一口飲んで答えた。
口あたりはまろやかで思いのほか美味しい地酒であった。
「日本酒を美味しそうに飲むですね」
由紀江が微笑むと幼さが漂った。
「君はまだ、高校生みたいに見えるね」
「来月、19歳になるの」
「若くていいな」
「お名前、お聞きしていいですか?」
「真田、生まれは長野県の松本だけど、残念ながら真田幸村の子孫ではない」
由紀江には真田幸村が何者であるか知識がなかったので、話が通じなかった。
「真田さんは取手競輪に来たのですね」
「そう、往年のスター選手だった松本勝明が出ていたのでね」
由紀江は競輪の知識がないので、松本勝明の名前を出しても反応がない。
「ママが元女子競輪の選手だなんて、すごいことようね。お風呂に一緒に入って太腿を見てびっくりしたの」
由紀江は両手で輪を作りながら、「ママの太腿は、私のウエストくらいあるのよ」と無邪気な笑顔となる。
真田は栄子の太腿を見てみた衝動にかられた。
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<参考>
真田 信繁 / 真田 幸村 は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。

江戸時代初期の大坂の陣で活躍し、特に大坂夏の陣では、寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追いつめた。
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。
そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。

創作欄  真田と栄子 2)

2018年03月20日 22時26分42秒 | 創作欄
2013年12 月11日 (水曜日)

競輪好き人間であれば、競輪女王であった田中和子元選手のことを誰もが知っているであろう。
田中選手は1955年に「全冠制覇」達成し女子競輪における唯一の選手であった。
特別競輪を実に15回制覇している。
驚愕ともいえる強さであり、落車を1回した以外は全て1着だったという年まであった。
神奈川の渋谷小夜子も強かったが、渋谷が引退すると田中和子は独擅場の強さを誇るようになった。
後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れなかった。
「田中和子は強かったね」真田は田中和子の走る姿を思い浮かべた。
「本当に、田中さんは強かったです。とても私には勝てませんでしたね」
元女子競輪選手の大田栄子の目が輝いた。
まさか取手駅前の居酒屋で元女子競輪の選手と出会い、女子競輪時代の昔話ができるとは真田は思わなかったので気持ちも高揚してきた。
大田栄子は実はバー「ジャン」という店を経営していて、居酒屋で客引きをしていたのだ。
居酒屋の店主は競輪好きであり、選手時代の大田栄子のファンの一人であったので、店内での客引きを大目に見ていた。
競輪帰りのファンの常連客でその居酒屋は競輪開催日には賑わっていた。
「私の店に来ませんか?バーですが日本酒も置いています」
真田は喜んで誘いに応じた。
通称祇園横丁にバー「ジャン」はあった。
カウンター席とボックス席二つがあり、10数人で一杯になるほどの広さである。
店には、20代の女性と40代と思われる女性が居た。
カウンター席に6人の男性客が居て、その日の競輪の話などをしていた。
大田栄子はビックス席に真田を招き、接客した。

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<参考>
取手地区はかつて、陸前浜街道の宿場町として栄え、本陣をはじめ、旅館や茶屋が並ぶ陸上交通の要所であった。
また、江戸時代中期から明治時代にかけて諸藩の産物を運搬する利根川水運が盛んであった時代には、宿場町として河岸を中心に発展した。
昭和22年取手町に井野村を編入し、昭和30年、取手町、稲戸井村、寺原村、小文間村と高井村の一部が合併し、取手町が誕生した。
昭和40年を転機に日本住宅公団、民間の宅地開発、大手企業の進出などで人口が急増し、同45年10月、取手町は、県内17番目の市制を施行した。
1970年(昭和45年)取手町は取手市となった。
取手は、地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
1970年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加。
1971年(昭和46年)上野―取手間は複々線化により輸送力が上がっている。

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<参考>
女子競輪
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。
また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。
そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。
なお、女子選手が男子選手と結婚し、その子供も競輪選手になったという例もある。
女子競輪が衰退していった理由としては、男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、 ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
女子の強豪選手は西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。
最初から選手の質の維持に問題があったことなど。

2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)

競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だっ選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪

創作欄 徹の青春 35

2018年03月20日 22時02分31秒 | 創作欄
2012年4 月 7日 (土曜日)

蒸気機関車の汽笛が鳴って、ゆっくりと滑るような速度で芳子を乗せた列車が沼田駅のホームを出て行く。
深夜の闇が広がるこの鉄路の先に上野駅がある。
徹は17歳まで、東京へ行ったことがなかった。
中学の同級生の多くが、既に東京へ集団就職をしていた。
みんなが貧しい家庭に育っていた。
高校へ進学できた徹は恵まれた立場であった。
小学生のころ、妹を負ぶって通学した女の子も居た。
そんな遠い記憶を徹は思い起こしていた。
滝坂の急斜面を登りながら「高校を卒業したら東京へ行こう」と徹は決意をした。
結局、強姦罪の勝海には懲役7年の判決が下った。
そして徹は前橋への足も遠のいていた。
勝海ら3人に強姦された妹の君江には幸せになって欲しかった。
そして将来、君江の前に好きな男が現れ、結婚すれば徹は救われると思った。
芳子は高校を卒業したら、働きながら看護婦を目指したいと将来の夢を語った。
徹は大学を目指すつもりであった。
芳子と徹は学校で毎日顔を合わせているのに、手紙を書き手渡していた。
徹には沖縄の女子高生はじめ4人のペンフレンドが居たが、それに芳子も加わった。
芳子の手紙には短歌が添えられていた。
○ 四年間 通える坂(滝坂)に寄り添いて 指にからめる 君が温もり
徹は詩を添えた。
私たちの故郷は母なる故郷
紅葉した桜葉が散るここは奥利根の入り口
秋が日々深まり上州路も沼田城址も紅色に染まっています
18歳の私に夢を語る君が眩しく映じます
21歳の君は子持山を仰ぎ見て、何を想っているのですか?
寡黙さを微笑で埋めている君の憂えるような黒い瞳は謎を深めます
昨日の君に、そして今日の君に魅せらている若者の私は、無垢の少年のようです
私の旅立ちに、姉のように寄り添って欲しいのです

2012年4 月 8日 (日曜日)


創作欄 徹の青春 36

徹は高校2年の2学期に中退して、翌年の4月に定時制高校へ編入学した。
定時制高校は4年生なので2年間で卒業するものと徹は思っていた。
だが、翌年の3月に卒業できることになった。
4年間学んだ芳子と1年間学んだ徹は定時制高校を揃って卒業した。
卒業式の日、紫の下地に桜の花柄もようの和服、濃紺の袴姿の芳子は一際、徹には美しく映じた。
「これは母が沼田高女の卒業式で着ていた和服と袴なの」
芳子は徹の隣の席に座って言う。
徹は爪入りの学生服姿であるが、定時制高校の同期生たちの男性は誰も学生服を着ていなかった。
一番年上でみんなから慕われていた30歳の佐々木幸助が背広姿で答辞を読んだ。
「私たちはここに晴れの日を迎え、それぞれが新しい道へ向かい歩みだして行くのですが、これまでの四年間が・・・走馬灯のように蘇ってきます・・・」
幸助は感極まって、声を震わせると言葉をしばし詰まらせた。
会場の静まり返った空気のなかでみんなが固唾を飲んだ。
ハンカチを目頭に押し当てている女性たちも、四年間の想いが込み上げてきたのだろう、肩を震わせていた。
それぞれの生活のなかで夜間学んできた労苦は、昼間は遊んでいた徹には想像がつかなかった。
芳子も深く頭を垂れて肩を震わせていた。
強姦された忌まわしい夜のことが想起されたのだ。
校長の塚越幸造の挨拶は、徹の胸に深く残った。
「皆さんの晴れの門出にあたり、指針を贈らせいただきたい。今年は昭和36年であり、戦後16年が経過しました。昨年12月には国民所得倍増計画が閣議で決定されました。貧しかった戦後日本社会の転換期を向かえようとしています。一方、日本の同盟国である米国ではジョン・F・ケネディ大統領が1月に就任しました。新しい時代の年明けになると大いに期待をしております。そこで、みなさんの“青春の誓い”を大切にしてください。みなさんは社会の荒波に翻弄されてはなりません。どのような過酷の運命に直面しようと、努力によって必ず道が切り開かれることを確信してください。揺ぎない信念が大切なのです。それから親に感謝をしてください。親に感謝ができないような人生を歩むことがないように心から願っています。
私の心は卒業生のみなさんと常に一緒です。どうか悔いのない人生を歩んでください。そして幸福になってください。幸福になるために我々は生まれてきたのです。どうか希望を抱いて歩んでください。以上が私の祝福の言葉です」
卒業式の帰りに二人は、沼田城址公園へ行った。
校長の挨拶にあった“青春の誓い”徹はそれを脳裏に浮かべながら、芳子に笑顔で語りかけた。
「芳子さんと一緒に東京へ行きたいですね」
「私もそのように想っているのよ」
芳子は徹の手を握りながら、微笑み返した。
3月の上州路の日陰には残雪も残っていた。
沼田の桜は4月の中旬に咲くので、桜のつぼみはまだ膨らんではいない。
徹は蒸気機関車の汽笛が聞こえる方角に目を転じ、「来年は大学へ進学します」と芳子に告げた。
「私、実は東京に就職が決まったのよ」
芳子は徹に初めて明かした。
「就職?」
芳子の東京行きはより現実的であり、徹はその段取りに今更ながら驚いた。
それは郵便局で働いている社会人の21歳の芳子と、遊んでいて社会生活には疎い18歳の徹の大きな差であった。
「私は心細いので、徹さんに傍にいてほしいと願っているの」
芳子は懇願するように言ったんので、徹の心は打ち震えるような想いがした。































創作欄 徹の青春 33

2018年03月20日 21時52分34秒 | 創作欄
2012年4 月 5日 (木曜日)

定時制高校の試験に徹は30分遅れてしまった。
その日も前橋裁判所の公判のあとに図書館に寄っていたのであるが、思わぬ上越線の汽車の事故であった。
同じ汽車に岩本駅から乗った同級生の小金井芳子が居た。
芳子の年齢は20歳であったが、17歳の徹の眼にはもっと年上に見えた。
芳子は昼間、地元の郵便局で働いていた。
顔立ちが整っていて、いわゆる美人系であるが長い黒髪の前髪も長めであり瞳を覆っているので、何処となく性格が暗い感じがした。
芳子を初めて見た時、誰かに似ていると思った。
想いを巡らせると、子どもの頃に母と沼田の映画館で観た「君の名は」のヒロインの氏家真知子のような憂いを秘めたような寂し気な面影であった。
定時制高校の教室は席順が決まっているわけではなく、時には徹は芳子の隣の席に座ったが、芳子は人との会話を拒絶しているようで、ほとんど2人の間に会話は成立していなかった。
だが、岩本駅から乗った芳子は他に席が空いていたのに、徹の姿を見かけると笑顔を見せて徹の前の席に座った。
「困ったわ、試験に遅れるわね」
芳子は腕を返して時計を見つめた。
「仕方ないです。汽車の事故ですからね」
徹は苦笑を浮かべた。
「木村さんは、お勤めの帰りですか?」
芳子に問われて徹は戸惑った。
同級生はみんな昼間働いていたのに、徹は昼ブラブラして遊んでいたのだ。
「用事があって前橋へ行ってきました」
徹は何の用事かを芳子から聞かれたら、どうのように返事をすべきかと想いを巡らせた。
「そうなの」
芳子はうなずくとそのまま沈黙して車窓に目を転じた。
汽車の煙は白く雲のように車窓に流れていた。
徹はその瞳を見詰めながら、疎遠となった加奈子のことを思っていた。
まだ未練を断ち切れずにいた。
憂いを秘めた芳子には、暗い過去があった。
定時生高校の1年生の時に、男から強姦されたのだ。
芳子は自分に落ち度があったと自己を責め続けていた。
明るい道を帰ればよかったのに、近道を選んで雑木林の小道を歩いていた時に突然、背後から男に飛びかかられ首を絞められたのである。
「騒ぐと殺すぞ」男はぐいぐいと首を絞めてきた。
背後から荒い息遣いとともに煙草の臭いがした。
芳子は3度も男から犯されて、ようやく解放された。
「警察に行った、殺すぞ。いいな。分かったか」
ドスのきいた声が脳裏に残った。
芳子は男に犯されたことを深く閉ざした。
特に母親を悲しませたくないので胸に深く秘めた。
父親は戦死したので、母親は早朝から深夜まで働きづめで苦労をして、1人で5人の子どもを育ててきていた。
芳子は長女であり、中学を卒業すると地元の郵便局で働いていた。
2012年4 月 6日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 34
定時制高校は万事、おおらかであった。
昼間、口うるさい数学の教師の児玉源太は試験に30分も遅れてきた徹と芳子を咎めなかった。
また、厳格な漢文の教師高橋保も居眠りをしている生徒を叱ることはなかった。
普通高校に通っていた徹は同じ人間なのかと思って教師の態度に瞠目した。
昼は遊んでいる徹は疲れていないので居眠りはしないが、机に両手と頭を突いて寝ている生徒もいた。
中には鼾をかいている男子生徒もいて、女子学生はクスクス笑った。
普通高校は1クラス55人、定時制高校は17人であった。
芳子は上越線の汽車で徹と偶然一緒になって以来、自分の方から徹の隣の席に座るようになった。
それからの感情は不思議なものであった。
疎遠となってしまった恋人の加奈子のことが段々と徹の気持ちから遠うのき、彼の心を3歳も年上の芳子が占めるようになっていった。
沼田は盆地であり、沼田駅前の滝坂は急斜面である。
沼田の街は海抜470㍍ほどで、戦後石油不足の時代は、木炭自動車が走っていたが、滝坂の途中でを登れずエンストした車も見かけた。
徹は授業が終わると芳子を沼田駅まで送って行くようになる。
電車が来るまで沼田駅の待合室で芳子と話をするのが楽しみとなった。
そして、夏には尾瀬沼へ行くことを約束した。
徹は芳子から、歌人の若山牧水が沼田へ来たことを聞く。
芳子の戦死した父親の兄が短歌をやっていて、若山牧水が沼田の富士見旅館に泊っていることを聞きつけて会いに行っていた。
牧水が主宰していた短歌雑誌「創作」の沼田の同人たちが富士見旅館へ集まったのだ。
徹は興味を抱き芳子の話に目を輝かせた。
芳子は伯父の影響で短歌をやっていた。
「徹さんは、日記を書いている?」
沼田駅の待合室で、芳子は唐突に言う。
「書いていません」
芳子は微笑みながら、鞄を開けてノートに記した日記を取り出した。
「最近は日記に毎日、徹さんのことを書いているの。中は見せられないけど・・・」
徹は不思議な感情が芽生えた。
自分のことを日記に記す人が居るんだ。
徹は思わず芳子の手を握った。
芳子は徹の手を握り返した。
その時、上野行きの上越線が沼田駅のホームへ到着した。

#歌手 黒木じゅん 3月29日放送

2018年03月20日 21時28分09秒 | 【お知らせ】
3月22日放送
#74「心に残る名曲集20」
北原ミレイさんの歌う「石狩挽歌」、冠二郎さんの歌う「傷だらけの人生」など、番組の名曲・名シーンをお届け!
出演:ロス・インディオス、大川栄策、神野美伽、菅原洋一、美樹克彦、岩本公水、原田悠里、東京大衆歌謡楽団、川中美幸、冠二郎、北原ミレイ
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3月29日放送には、歌手 黒木じゅん
歌手 黒木じゅん(本名:唐木 政宜(からき まさよし)、1966年4月13日 - )は、日本の演歌、ムード歌謡の歌手。
18歳~25歳まで、浜口庫之助・吉田正の内弟子や音楽学院生として7年間レッスンを重ね、1991年5月21日、唐木淳の名でビクターより「やせがまん」でデビュー。第33回日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ新人賞全13タイトル受賞。
2008年4月、EMIに移籍。
父・黒木憲の名を襲名し「黒木憲ジュニア」に改名。
父の名曲「霧にむせぶ夜」のB面「別れても」のカバー曲を発売。
2016年5月、テイチクレコードに移籍。
移籍にあたり「霧にむせぶ夜 / 別れても」の作曲家で父・黒木憲の恩師でもある鈴木淳の門下生となり日々猛レッスンを受け、
「黒木じゅん」に改名鈴木の「淳」を頂戴した。
「淳」はデビュー時の芸名でもあり初心にかえるという意味も含む)。
新たなスタートをきる。
シングル[編集]

唐木淳[編集]
1.やせがまん (1991.5.21) 作詞:阿久悠/作曲:吉田正/編曲:高田弘 (c/w 別れのリクエスト)
2.湾岸暮色 (1992.4.21) 作詞:阿久悠/作曲:吉田正/編曲:川口真 (c/w 涙まじりのラブソング)
3.えれじい (1993.5.21) 作詞:阿久悠/作曲:吉田正/編曲: (c/w だれもが誰かを愛してる)
4.愛が泣いてる (1993.10.21) 作詞:荒木とよひさ/作曲:浜圭介/編曲:今泉敏郎 (c/w 悲しい唇)
5.時代屋の男たち (1995.2.22) 作詞:荒木とよひさ/作曲:浜圭介/編曲:川村栄二 (c/w 夢のあとさき)
6.たった二年と二ヶ月で (1997.8.21)※デュエット鶴田さやか 作詞:阿久悠/作曲:水森英夫/編曲:伊戸のりお (c/w おもいやり)
7.もどっておいでよ (1998.11.21) 作詞:下地亜記子/作曲:叶弦大/編曲:今泉敏郎 (c/w 時代屋の男たち)
8.よこはま物語 (2000.4.21) 作詞:なかにし礼/作曲:浜圭介/編曲:高田弘 ※石原裕次郎のリバイバル (c/w あなたのホクロ)
9.白蓮 (2002.2.21) 作詞:小田めぐみ/作曲:武市昌久/編曲:伊戸のりお (c/w 萌葱坂)

黒木憲ジュニア[編集]
1.別れても (2008.4.16) 作詞:有馬三恵子/作曲:鈴木淳/編曲:竜崎孝路 ※黒木憲のリバイバル (c/w 六本木恋ものがたり(デュエット月山れな))
2.変わらぬ笑顔にありがとう (2012.6.8) 作詞:もろとみ和/作曲:国安修二/編曲:若草恵 (c/w かすみ草の恋)
3.懐かしのダイアナ (2013.9.25) ※男D's ~ダンディーズ(黒木憲ジュニア・一条聖矢・赤井銀次・木戸たつよし)名義 作詞:引地賢治/作曲:引地賢治/編曲:猪俣義周 (c/w ジェラシーLOVE)
4.待たせた分だけ倖せに (2015.5.15) 作詞:もろとみ和/作曲:大谷明裕/編曲:義野裕明 (c/w 今夜だけでも)

黒木じゅん[編集]
1.いのちの花だから (2016.5.18) 作詞:悠木圭子/作曲:鈴木淳/編曲:前田俊明 (c/w 濡れて神戸)

アルバム[編集]
唄いつぐ吉田メロディー「哀愁」(1991.10.21) 哀愁の街に霧が降る
二人の星をさがそうよ
霧の中の少女
東京の女
泣かないで
街灯
シンガポールの夜は更けて
江梨子
白い制服
泣きぼくろ
やせがまん

えれじい(1993.05.21) 夜霧よ今夜も有り難う
港町、涙町、別れ町
粋な別れ
恋の町札幌
ブランデーグラス
北の旅人
他オリジナル

愛が泣いてる(1993.12.26) 愛が泣いてる
あなたのホクロ
悲しい唇
心凍らせて
誰もが誰かを愛してる
やせがまん
湾岸暮色
涙まじりのラブソング
北の旅人
別れのリクエスト
おもいやり
えれじい

白蓮(2000.11.21)
あなたのホクロ
愛が泣いてる
萌葱坂
夢のあとさき
えれじい
湾岸暮色
やせがまん
別れのサンバ
霧にむせぶ夜
よこはま物語
哀愁の街に霧が降る
おもいやり
ブランデーグラス
北空港
君こそわが命
受賞[編集]
第33回日本レコード大賞 歌謡曲・演歌部門 最優秀新人賞
第18回横浜音楽祭 最優秀新人賞
第22回日本歌謡大賞 放送音楽新人賞
第24回全日本有線放送大賞 新人部門入賞

他8タイトル 全13タイトル 新人賞受賞

テレビドラマ[編集]
風の刑事・東京発!(テレビ朝日系列、連続刑事ドラマ、1995年10月~1996年3月、刑事役レギュラー)










 



天国の門 || 洋画専門チャンネル

2018年03月20日 19時39分22秒 | 社会・文化・政治・経済
CSテレビの洋画専門チャンネル「シネマ」で観た。
午後3時30分から7時すぎまで。

アメリカの恥部と言われている移民殺し(内戦:ジョンソン郡戦争)を描く。
フランス人女優イザベル・ユペールは、この当時アメリカを活動の舞台にしていたのだろうか。
何故この映画に出演しているか謎だ。
贅沢な時間. 映画にとって一番贅沢なのは時間である。
時間をたっぷりかけて、群集が動く円運動のスペクタクルを描き、 登場人物のエモーショナルなぶつかり合いがしっかり描かれているので、画面の強度とともに大きな物語のうねりが、真に迫ってくる。
映像叙事詩を眺めるのではなく、体感できるの ...
『ディア・ハンター』のマイケル・チミノ監督が、西部開拓時代の悲劇を映画化した壮大な歴史ドラマ。
興行が失敗してハリウッドの老舗スタジオを潰した問題作としても有名。
19世紀末のワイオミング州を舞台に、ロシア・東欧系の移民への粛清と全面対決を迫力の映像美で映し出す。
1870年に共にハーバード大学で学んだ親友、エイブリルとアーヴァインが主人公である。
そして20年後に保安官となったエイブリルはワイオミングで小規模移民牧場主となっていたアーヴァインと再会する。
そして大規模WASP牧場主リーダーによる牛泥棒根絶に名を借りた移民農民皆殺し計画を知ったアーヴァインは、エイブリルに相談を持ちかけ、エイブリルの恋人のフランス系移民エラ、エラを愛する牧場主の雇われガンマンのネートを中心に、ストーリーが展開する。

本作は、牧畜業者組合の牧場主達が、入植者達を殺すために傭兵を雇うという事件ジョンソン郡の土地紛争である「ジョンソン郡戦争(英語版)」(Johnson County War)をモチーフにしているが、実際には劇中のような激しい戦闘は起きなかった。
また実在の人物名を使っているが、実際の立場とは違う。
ジェームズ・エイブリルは実際は保安官ではなく店の主人であり、牛泥棒の嫌疑でエラ・ワトソンと共に、1889年にリンチされて殺害されている。
ネイサン・チャンピオンは実際は雇われた殺し屋ではなく、ジョンソン郡のNWFSGA(北ワイオミング農業家畜協会)を結成したリーダーであり、牧畜業者組合と対立した為に殺されたのである。
フランク・カントンは実際は裕福な牧童主ではなくジョンソン郡の元保安官であり、傭兵たちをまとめる為に、WSGA(ワイオミング家畜生産者協会)に雇われた男だった。
傭兵たちが、入植者たちの所に進行中にネート・チャンピオンとその友人を殺したのは事実であり、また劇中で焼け落ちる小屋から出る時に、ポケットに手紙を入れたのも事実である。
ただし、その後はフランク・カントンとその傭兵たちが進行中に、現保安官に捕らわれてしまい、逃げた一部の傭兵たちが州知事に嘆願し、州知事がアメリカ大統領に救いを求めて、仲裁が成立している。劇中のような激しい戦闘が起きることはなかった。




初公開:1974年5月23日
監督:マイケル・チミノ
上映時間:219 分

受賞:ゴールデンラズベリー賞 最低監督賞
『サンダーボルト』は、マイケル・チミノ監督、クリント・イーストウッド主演の1974年の映画作品である。1981年9月。


当初の制作費は1100万ドル。
しかし、完成していた通りのセットが「馬が通れないから」との理由で改築させたり、ほんの一部しか映っていない機関車を撮るために当時走っていた実際の機関車を調達させたり、エキストラを大幅に増やしたり、撮影では撮り直しを繰り返したため、制作費を大幅にオーバーした。それでもユナイテッド・アーティスツは撮影を続けたために予算は4400万ドル(約80億円)[1]にまで膨れ上がった。撮影されたフィルムは約46万メートルに及ぶ。

最初に編集されたバージョンは5時間30分というあまりに長すぎるものだった。
そのため、UAは難色を示し、多くのシーンが削られ219分にまとめられプレミアム公開された。しかし、あまりの評判の悪さに、急遽149分の短縮版が作られ、一般公開はそれに差し替えられた。

この上映時間の大幅短縮による構成の破綻、アメリカ人の神経を逆撫でするようなテーマに対するマスコミの酷評などが祟り、映画は全くヒットせず1週間で興行を打ち切られ、チケットの払い戻しが殺到した。また台詞が音楽に隠されるなど不備も多く、第2回ゴールデンラズベリー賞の最低監督賞を受賞するなど評価も散々だった。映画の興行成績は3,484,331ドルであり[1]、莫大な赤字を出した。これによって制作会社ユナイテッド・アーティスツは倒産においこまれた。新聞には「Heaven turns into Hell(天国の門から地獄の門へ)」という見出しが載った。なお、一時期『ギネスブック』に「史上最悪の赤字を出した映画」として掲載されている。ユナイテッド・アーティスツはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が救済合併してMGM/UAとなったが、そのMGM/UAも『インチョン!』で大赤字を出すこととなった。ちなみに2013年現在では1995年の映画『カットスロート・アイランド』が同記録を有する映画として掲載されている。

しかし、撮影や美術の美しさ、壮大な物語構成など注目すべき点も多く、公開後数十年経った現在ではやや再評価の兆しもあり、ヨーロッパや日本では公開時から高い人気を得ている作品である。なお、ヨーロッパでは概ね、オリジナルの219分版が公開された。日本では一般に公開されたのは短縮版だったが、数年後、219分版も上映された。また、2012年にはディレクターズカット版として、216分に再編集された物が公開されている。

新潟大学 日本酒学

2018年03月20日 17時27分53秒 | 社会・文化・政治・経済
日本酒に係る文化的・科学的な幅広い分野を網羅する学問分野「日本酒学」を構築し, 国際的な拠点の形成とその発展に寄与することを目的に,醸造試験場を所管する新潟県及び新潟県酒造組合と本学は連携協定を締結しました。
その一環として,本学は, 平成30年4月1日に世界で初めて日本酒に関連する全学問分野が参画する国際拠点「 新潟大学日本酒学センター」(SCNU: Sakeology Center, Niigata University)を設置し,日本酒に係る文化的・科学的な広範な学問分野を網羅する.

本学は、醸造試験場を所管する新潟県及び新潟県酒造組合と、平成29年5月9日(火) 新潟市内のホテルにおいて、日本酒に係る文化的・科学的な幅広い分野を網羅する学問分野「日本酒学」の構築について、国際的な拠点の形成とその発展に寄与することを目的として、連携協定を締結しました。
連携協定締結の様子 左:新潟県酒造組合大平会長/中央:新潟県米山知事/右:新潟大学髙橋学長. これまで三者は、経済学部や農学部との共同研究や、講義において講師として協力いただくなど、継続的 ...
新潟大学が「日本酒学」の創設に乗り出した。
醸造や発酵を学ぶ学科はあるが、日本酒そのものを学問の対象にする試みは全国初という。
日本酒離れが進む中、文化やビジネスなど幅広い視点で日本酒に精通した人材を育成する。

新潟県で、酒造りの技術や文化などの幅広い分野を学問として学ぶ新たな拠点が来月、新潟大学に設置されることになりました。
新たに設置されるのは、「新潟大学日本酒学 センター」で、新潟大学と新潟県、それに県酒造組合が連携して運営します。 9日は新潟市で式典が開かれ、新潟大学の高橋姿学長と米山知事、それに県酒造組合の大平俊治会長などが出席しました。
この中で、高橋学長は、「日本酒にかかわる教育、研究、情報発信、国際交流の4本柱を推進して新潟にとどまらず日本酒業界

新潟県内には約90の酒蔵があり、3月上旬に新潟市で開催される地酒を味わうイベント「にがた酒の陣」には、2日間で全国から約14万人が来場。...

インドの良心

2018年03月20日 14時58分13秒 | 社会・文化・政治・経済
ジャイプラカシ・ナラヤンは、民衆から敬愛されているインドの精神的指導者である。

インド社会の主だった問題は、カースト制度による身分差別の弊害だった。
身分や階層に関係なく、全ての人が向上する社会を理想とし、「サルボダヤ(全ての人々に善を)運動」を展開する。
<釈尊の国>インドで、人間を生れで差別するカースト制度が残っていることを嘆いた。
「変革を望む者はなんらかの行動に出る前に自分自身をも変革すべきである」
「ガンジーの思想が私の生活信条です」
かつては、ガンジーの非暴力闘争に異を唱え、武力革命を掲げたこともあった。
民族独立運動に参加した後、アメリカに渡り、マルクス思想に傾倒。
ガンジーを否定し、急進的な社会革命を訴えたのだ。
だが、ガンジーの高弟との議論を経て、再び非暴力革命の道を選ぶ。
行き着いた結論は「二重革命」である。
すなわち「人間革命を経て之社会革命」である。
人間自身の変革なくして、いかなる改革を唱えても、それは絵空ごとにすぎない。
インドの社会運動家・ジャイプラカシ・ナラヤン

近代国家を担う人材を欧米へ派遣

2018年03月20日 13時20分49秒 | 社会・文化・政治・経済
黒田清輝は明治17年(1884年)2月、横浜港から法律を学ぶためにフランスに旅立った。
それが日本の西洋絵画の展開の画期になつとは、誰も予期しなかっただろう。
その数か月後には、森林太郎が衛生学を学ぶため、陸軍派遣留学生としてドイツへ向かう。
彼が帰国後、森鴎外として文学者として名を成すことも、誰も予見しなかった。
一方で、彼らより16年後に夏目漱石は文部省から英文学研究のためにロンドンへ派遣されたが、研究の重圧からついに解放されることなく、神経衰弱となる。
幕末から、明治政府は文明開化、富国強兵を推し進める政策の一環として、近代国家を目指して国を担う人材を欧州へ派遣したのである。
開国から20年に満たない黒田たちと、30年余り過ぎた漱石の、それぞれの留学時代の西洋文化の受容の深さに思い至る。
明確な目標を担ってになって留学した漱石。
黒田のように法律より、絵画へによる西洋文化の摂取が意識にあった留学生もいた。
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1871年(明治4年)、日本で初めての女子留学生が太平洋を渡り、アメリカへと向かいました。

この女子留学生たちは岩倉使節団に随行という形で渡米しました。
使節団首脳が戊辰戦争での官軍(勝者)側なのに対し、女子留学生の親たちは全て賊軍(敗者)側だった。
女子留学生を募集したのは北海道開拓使という役所だった。
開拓使次官の黒田清隆(後の総理大臣)は、北海道開拓の参考にと、西部開拓の実績を持つアメリカを調査に行った。
黒田がそこで見たのは、 男性と対等に活躍する女性の姿だった。
黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
日本の近代化のためには女子にも教育を受けさせる。
選ばれたのは下は6歳から上は16歳までの、5人の少女です。
彼女たちは、日本が欧米諸国と肩を並べるためには女性の地位、学力向上が不可欠という考え、つまりは日本の将来のために、アメリカへの留学を果たしたのです。

5人の少女たちを年齢順に紹介します。津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子(14歳)、上田悌子(16歳)の5人です。年齢がかなり若いのに驚きますね。
しかし、この5人のうち上田悌子は体調不良、吉益亮子は眼病を患ったことが原因で、1872年(明治5年)に日本に帰国してしまいます。
一説にはホームシックが原因ともいわれています。

永井繁子は10年間の留学生活を無事に終え、帰国後は海軍大将男爵の瓜生外吉と結婚しました。
その後は女子高等師範学校、東京音楽学校で教員として勤めました。

津田梅子 津田塾大学の創始者であり、女子教育の先駆者。
山川捨松 日本の華族、教育者。大山巌の妻。
旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。
大山巌陸軍大将・日露戦争参謀総長

今、挑戦を続けている姿

2018年03月20日 11時53分40秒 | 社会・文化・政治・経済
もっと学びたい、知りたい。
そんな時期のこどもに必要なのは、<わかっている人>ではなく、今でも<分かろうとしている人>。
その存在自体が<教材>になる。絵本作家・五味太郎さん

<今まで活動してきた人>より、<今、真剣に活動している人>
<知識が豊富な人>よりも<日夜学び続ける人>の方が刺激となる。
今、挑戦を続けている姿が、後輩にとって最良の模範となる。

映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』

2018年03月20日 07時36分38秒 | 社会・文化・政治・経済
巨匠スティーブン・スピルバーグ監督

7000枚に及ぶ最高機密文書=ペンタゴン・ペーパーズアメリカ政府がその存在すらも ひた隠しにしていたのは一体なぜなのか?国民に絶対に知られたくなかった衝撃の事実とは!?
20世紀に起きた様々な出来事を映画にして後生に伝えることがライフワークだと語るスティーヴン・スピルバーグ。
彼がトランプ政権誕生の瞬間に製作を思い立ち、たった1年で撮り上げたという最新作。
本年度アカデミー賞®最有力!スティーブン・スピルバーグが現代社会に放つ強烈なメッセージ。
メリル・ストリープ×トム・ハンクスの、2大オスカー俳優が初共演!

アメリカで実際におきた機密文書流出事件をもとにした、スティーブン・スピルバーグ監督の話題の新作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』が、2018年3月30日から公開されます。
今の社会にスピルバーグが届けたいメッセージが詰まった本作。
『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』の物語の舞台となるのは、泥沼化するベトナム戦争に対して、アメリカ国内でも反戦ムードが強くなっていた1971年。
その時代、アメリカ国防省にはベトナム戦争の経過と客観的なデータをまとめた、通称「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれる機密文書がありました。

この存在を知ったNY タイムズと、そのライバルであるワシントン・ポストの面々は、真実を報道しようとしますが、政府によって報道の自由を規制され、記事の発行を止められてしまいます。
これに対して、NY タイムズ、ワシントン・ポスト紙の2つの新聞社は、時に争いつつもやがて連携し、真実を世間に伝えるための行動を開始します。
本作では、こうした事件の中で、立場を超えた人々の絆や葛藤のドラマが描かれるとのことです!
本作は、「ペンタゴン・ペーパーズ暴露事件」という実際の事件を題材にした作品です。この事件は、ベトナム戦争の客観的な記録をまとめた資料の一部をNYタイムズ、ワシントン・ポストが報道し、記事の差し止めを巡り、アメリカ政府と新聞社が法廷で争うことになったというもの。
「The New York Times」が政府の極秘文書“ペンタゴン・ ペーパーズ”の存在を暴く。ライバル紙である「The Washington Post」のキャサリン( メリル・ストリープ)と部下のベン(トム・ハンクス)らも、報道の自由を求めて立ち上がり… …。 メリル・ストリープとトム・ハンクスが共演し、スティーヴン・スピルバーグがメガホンを取った社会派ドラマ。実在の人物をモデル。
最終的に記事を差し止めようとした政府は敗訴し、この報道がアメリカ国内の反戦運動をさらに盛り上げる結果になりました。
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正式名称は "History of U.S. Decision-Making Process on Viet Nam Policy, 1945-1968"
「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」である。
報告書は47巻構成(資料を含め約100万語)で、ルーズベルト大統領時代にはじまるアメリカ合衆国のインドシナへの政策を網羅している。
報告の材料の多くは、ウィリアム・パットナム・バンディ国務次官補(前国防次官補)のファイルから出ていると言われており、ホワイトハウスの動きがあまり盛り込まれていない。

報告書は「アメリカは不十分な手段(インフラ未発達な国への兵力の逐次投入)を用いて、過大な目的(共産主義のインドシナ半島全体への拡散の防止)を追求した」と結論づけているが、あくまで目的をどう追求するべきなのかどうか?については、述べられていない。

特に「アメリカの帝国主義的野心」は、少なくとも官僚レベルでは存在せず、純粋に共産主義のドミノ理論への恐怖を防ごうとした様に読みとれる。アメリカ合衆国は終始北ベトナムの共産主義的性格にのみに心を奪われ、ベトナムの民族自決主義的・反植民地主義的性格を無視している様である。

アメリカ合衆国連邦政府は正確な情報(当初20万人規模の軍隊が必要とされた)を知りながら国民に隠し、政府高官はお互いの異なった思惑から、泥沼に引きずり込まれるように介入していった過程が明らかにされている。
特に、アメリカ軍約50万人を上限とする政治的限界(予備役招集が越えられない壁だった)と、ベトナム戦争勝利への見通しがないことが明らかになった。
この文書からアメリカ国民の「信頼性のギャップ」が深まり、後の撤退決断の遠因となった。

ニューヨーク・タイムズのスクープ

1971年、執筆者の1人であるダニエル・エルズバーグ(当時シンクタンクのランド研究所に勤務していた)が、アンソニー・ルッソとともにコピーを作成し、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者などに全文のコピーを手渡した。ニューヨーク・タイムズではシーハン記者を中心に特別チームを作り、1971年6月13日から連載記事として報道された。
これを受けてワシントン・ポストなども文書を入手し、編集者のベン・バグディキアン(英語版)(2016年3月11日死亡)らが中心となりペンタゴン・ペーパーズの報道を始めた。マイク・グラベル上院議員も入手した文書を議会で公表に踏み切る。

グラベルは当初、フィリバスターの一環として本会議場で読み上げようと試みたが阻止されてしまい、結局はグラベルが委員長を務める外交や国防とは全く関係のない議会上院の建設・土地利用小委員会で委員長権限で全文朗読し、公式記録として議事録に記録させている。文書は後に、ボストンの出版社ビーコン・プレス社から全文が出版された。

ニューヨーク・タイムズが記事を掲載すると、当時のニクソン大統領は事態を重視、司法省に命じて、記事の差し止め命令を求める訴訟を連邦地方裁判所に起こした。
アメリカ合衆国連邦政府は、ペンタゴン・ペーパーズの新聞への掲載を「国家機密文書の情報漏洩である」とし、アメリカ合衆国の安全保障に脅威を与えると見なしていた。

一審では訴えが却下され、控訴審のワシントン連邦高等裁判所で訴えは認められたが、連邦最高裁判所での上告審では「政府は証明責任を果たしていない」という理由で却下された。この裁判は憲法修正第1条(言論の自由)を巡る問題に関する以後の判例・政府活動に大きな影響を与えた。

エルズバーグとルッソは窃盗、情報漏洩などの罪で起訴されたが、後にホワイトハウスの情報工作を担当した「鉛管工(プラマー)」チームが信用を失墜させる目的で、エルズバーグのかかっていたロサンゼルスの精神科医ルイス・フィールディングの事務所に侵入し、カルテを盗もうとした事が、ウォーターゲート事件の余波として判明し、「政府の不正」があったとして裁判は却下された。

ニューヨーク・タイムズのスクープからちょうど40年後の2011年6月13日、ペンタゴン・ペーパーズの機密指定が解除され、国立公文書記録管理局などが全文を公式ウェブサイトで公開し、全7,000ページのうち、これまで明らかになっていなかった2,384ページも閲覧できるようになった。


子ども食堂の役割

2018年03月20日 07時23分23秒 | 医科・歯科・介護
居場所としての意義

子ども食堂(こどもしょくどう)は、子どもやその親、および地域の人々に対し、無料または安価で栄養のある食事や温かな団らんを提供するための日本の社会活動。2010 年代頃よりテレビなどマスメディアで多く報じられたことで動きが活発化し、孤食の解決、 子どもと大人たちの繋がりや地域のコミュニティの連携の有効な手段として、日本各地で同様の運動が急増している。

特にひとり親の方々は支援や制度、人や地域とつながる時間の余裕が全くありません。
問題はお金だけでなく「時間」と「つながり」の困窮による孤立です。
子ども食堂の意味は“単に子どもがご飯を食べる場所”ではありません。
子どもも大人も社会的孤立の状態にあって得られない情報や、支援、制度利用、つながりを得られる場が必要です。
日中は行政と学校というセーフティネットがあります。
もうひとつ、地域が「生きること」を支える役割を果たせるようになった。
子どもたちが学校生活を送る上で生じる問題が彼らの置かれた環境とどのように関係しているかを見極め、彼らの教育保障と生活改善を目指すことにある。 現在子どもたちが抱える次のような問題は、特定の地域だけで起こっていることではない。 ―

不登校の子どもの家庭訪問をすると、家の中がものであふれかえっている。
小さなきょうだいの世話もしていて、食事もあまり取れていない。

地域の大人が子どもに無料や安価で食事を提供する、民間発の取り組み。
貧困家庭や孤食の子どもに食事を提供し、安心して過ごせる場所として始まった。
そうした活動は古くからあるが、「子ども食堂」という名前が使われ始めたのは2012年。
最近は、地域のすべての子どもや親、地域の大人など、対象を限定しない食堂が増えている。
食堂という形を取らず、子どもが放課後に自宅以外で過ごす居場所の中で食事を出しているところもある。
貧困家庭や孤食の子どもたちに安心して食事できる場所を提供しようと始まった取組です。
しかし、現在は困窮世帯の学習支援を行ったり地域の人の交流拠点となっていたり、世代間を超えたつながりづくりなど、多面的な役割が期待されています。
行政の支援も始まりつつあります



廃校には無限の可能性が

2018年03月20日 07時11分16秒 | 社会・文化・政治・経済
廃校の活用

廃校には無限の可能性が秘められています.

廃校を活用した農業・自然体験型施設

公立学校は、少子化等を背景として過去10年間で2,000校以上が廃校になっている。
各自治体では、その廃校になった学校施設を有効に活用しようという取り組みが行われており、地域の活性化や都市と農村漁村との交流促進、創業の支援などを担う施設として生まれ変わっている。

体験交流施設や社会福祉施設など、地域の人々の工夫で、. 学校が新たな施設としてよみがえっています。
小学校を保育園に転用. 中学校を体験交流施設に転用 ...

廃校となる学校が増えるなか、廃校校舎を積極的に活用する地域が注目されている。
新潟県柏崎市の旧別俣小学校は「田舎の学校きらら」という農村体験交流施設に生まれ変わり、兵庫県・佐用町の旧長谷小学校は、給食室を「ふれあい加工所」として住民が米粉パンなどをつくり、道の駅で販売している。
そうした廃校活用の成功例を特集した季刊『地域』の編集長・甲斐良治さんは、成功の鍵は、「地域の合意形成、施設整備の財源確保、活用法、マンパワーの4つ」だという。

統廃合により閉校した中学校 2 校を活用して、映画やドラマ、CM、 テレビ. 番組などの撮影における協力・支援を行っています。狭山市を舞台とした映像. 作品をとおして、市の魅力を積極的にアピールし、市の知名度の向上を図ると. ともに、 市民の郷土愛の醸成につなげていくことを目指しています。

全国の廃校を利用したカフェやイベント・宿泊施設、ギャラリーを集めました。
廃校のフォトジェニックな雰囲気を活かしつつ、新しく活用される校舎に魅力を感じます。

深刻な少子化の影響で、この過去20年間に6,800以上もの学校が統廃合などで廃校となっているのだそうです。
一方で、これらの校舎のほとんどは取り壊されずに残されたまま。
そこで、「思い出のたくさんつまった校舎をずっと残していきたい」「違う形で活用 したい」という想いから廃校をリノベーションし、地域活性プロジェクトなどに活用する事例が普及してきました。
黒板、廊下、机なども再利用された施設は、行くだけでどこか懐かしい気持ちに。

廃校の活用が進まない理由として、活用を検討しているものの地域等からの要望がない、活用方法がわから. ないといったことが挙げられています。
このような課題の解消を図るため、文部科学省において、このたび、~未来につなごう~「みんなの廃校」プロ. ジェクトを立ち上げました。

児童の減少を受け、年間約500校もの学校が廃校となっている。
日本は超借金大国といわれる。だが一方で、国や地方公共団体が約570兆円もの膨大な「公的不動産」を持つことをご存じだろうか。この額は企業が所有する不動産470兆円よりも多い。
公園や学校など一等地の不動産も多いのに。

学校は地域のシンボルであり、 なくなってしまうことは、地域の元気が失われることになりかねません。
私たちは、都市と農山漁村を結ぶ拠点として、廃校を再活用したセミナーハウスを支援しています。
廃校を活用したノスタルジックなカフェ・レストラン
窓の外に見える校庭、使い込まれた黒板、ひんやりとした廊下・・・
今では使われなくなった廃校をリノベーションしたカフェ。ノスタルジックな気分に浸れちゃうこと間違いなしです。
懐かしい学校の雰囲気とぬくもりを残しながらも、 生まれ変わったカフェ

中学校は立地条件や構造的価値からも地域の拠点的な施設であるものの、少子化による. 児童・生徒数の減少や市町村合併などの影響により、多くの学校が廃校となり、その有効活用が. 求められております。

平成27年の1年間のみでも、全国で475の公立小中学校が廃校になっています。
そのうち小学校が368校! 誰もが“卒業生”であり、様々な“思い出”のある学校。地域で重要な役割を果たしてきた学校。

泊まれる学校 さる小|群馬県みなかみ町 廃校活用プロジェクト
東京から車で約2時間。群馬県みなかみ町「泊まれる学校さる小」は、木造校舎に「 泊まれる」学校です。しかも低価格を実現。グラウンドでは野球・サッカーなどでき、プールも有。校舎の中では吹奏楽やバンドの練習など行えます。
自然豊かな環境の中、合宿・ 研修・体験学習など目的に合わせてご活用ください。