2012年11 月17日 (土曜日)
父親の幸吉は小金を貯めた。
当時は金利も高かったのだ。
金利が一番高かったのは郵便局の3年以上定額貯金で、石油ショック後の1974年8.0%、1980年は7.25%だった。
1984年には5.75に落ちた。
定額10年利回り12%。
これは年8.0%半年複利で、10年後に約2.2倍になって戻って来る。
また、証券会社の人から勧められて、国債も買った。
株も勧められ、5社の株を買った。
上がった株もあったが、下がった株もあり全体として資産の運用は若干のプラスとなった。
だが、金利は1992年に4.07%、1993年2.05%、1995年1.15%、2001年0.07 %と下がる一方となった。
父親の幸吉が生きていたらがっかりしただろうが、バブルが弾ける前に幸吉は逝った。
本人は「21世紀まで生きたい」と願っていたのだが、自宅の風呂の洗い場で倒れ呆気ない最後であった。
通夜の席で幸太は、「親父の人生は、まあまあで良かったのではないか?」と弟の浩二に問いかけた。
「人に迷惑をかけるな」と2人の息子を諭してきた。
町内会の役員や老人会の会長として最後まで責任を全うしていた。
そして児童公園の管理をしたり、民生委員を務めたりして堅実な生活態度だった。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっているので父親を反面教師としてきた。
通夜には、幸吉の弟の佐吉と妹の鶴が居た。
「兄貴は道楽者の親父を嫌っていた。苦労をした母親思いだったからな」
佐吉は通夜の席で酒をかなり飲み、赤ら顔になっていた。
「兄さんは、俺は宵越しの金は持たないなんて、バカなことを言っていてね」
鶴は甲府から駆けつけてきた。
痛風で正座ができないと喪服姿で小さな折りたたみ椅子に座っていた。
浩二は黙々とビールを何倍も飲んでいた。
「自分は自分、親父の生き方は親父の生き方」
クールに父親の人生を受けとめていた。
「ところで、兄貴は堅実だから金を残したんだろうな」
叔父の佐吉は幸太に尋ねた。
孝太は何て答えてよいのか口ごもり苦笑しながら、「小金は残したと思いますよい」と答えた。
「小金?」叔母の鶴は意味がわからないのだろう怪訝な顔をした。
「兄貴は俺にも、“小金を貯めないと金は残らない”と言っていたな」と唇を強く結びながら苦笑を浮かべた。
佐吉は酒代で小金を残さなかった。
大衆的な雰囲気の居酒屋で酒を飲むより、色気を好みバーやスナック洋酒を飲んでいた。
2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄弟 2)
競馬、パチンコなどと幸太は無縁であった。
父親の幸吉は「小金を貯めないと、金は貯まらないよ」と言っていた。
「小金?」幸太は父に聞き返した。
50歳を境に幸吉は酒を飲むのを止めた。
酒は定期検診で肝機能が低下していることを医者から指摘された。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっている。
「親父のように死にたくない」と幸吉は酒を絶った。
そして煙草は息子の浩二が小児喘息であったので止めた。
タバコの煙によって炎症を起こした気道が、冷気など色々な刺激に対して過敏に反応してしまい、収縮することで喘息の発作が誘発される。
気道の炎症が慢性的に続いてすまうと、気道の壁が狭くなってしまい、どんな治療をしても気道が拡張しなくなってしまう。
幸吉は医者の説明と忠告を真摯に受け止めたのだ。
酒と煙草を止めた幸吉は、それまでの酒代、煙草代を貯蓄に回した。
煙草は37歳の時から吸わなくなったが、あっさりと止められたわけではない。
ニコチン中毒は薬物依存症の一つである。
幸吉はピースを好んで吸っていた。
だが、妻の鶴子が40歳でクモ膜下出血で亡くなった時、そのショックから再び煙草を吸い始めた。
だが、それを1か月後に決心して断った。
妻の鶴子の死を自分の宿業と捉えていたのだ。
鶴子は山登りが好きであった。
女友だちと半年に1回くらいのペースで、山へ向かっていたが、幸吉は商売に専念していたので一度も妻の山登りに同行したことがなかった。
幸吉は山に登ったつもりで、貯蓄に金を回した。
幸太は父親の話を聞いてから、自分も小金を貯める決意をした。
2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄と弟 1)
結局のところ、人生をどのように生きるかである。
兄弟が2人なら、2人の違った人生がある。
長男である幸太は、父親のように商売の道を歩んだ。
次男である浩二は、農協に勤めていたが競馬をライフワークにした。
ネットを使って自らレースの予想をし、情報を発信していた。
どれくらいのファンがいるのだろうか?
冷やかしに聞いてみた。
「まあ、1000人といいたいけれど、100人くらいかな」
まんざらでもなそうに、浩二はネットの画面を兄に見せた。
画面には縫い繰る身の馬たちがユーモラスな姿で走っている様子が見えていた。
「“かわいいわね”」と言ってくれる女性ファンもいるのだ」
37歳となったが浩二はまだ独身である。
幸太は39歳で娘が4人いた。
娘は2人で十分と思ったが皮肉なもので、次は男の子と期待したのに生まれたのはまた女の子だった。
娘たちは叔父の幸太になついて、競馬場まで幼児のころから着いて行った。
商売人の幸太は、土日も休まず働き、月曜日を定休日としていた。
浩二は金曜日になると職場から一刻も早くと気がせくように自宅に戻り、競馬新聞やスポーツ新聞を並べて予想に没頭する。
過去の競馬のレースをビデオで見ていることもある。
その目は真剣であるというより、探るような目となっていた。
何度も繰り返しレースの内容を点検し、敗因や勝因を探っていく。
「オイ、浩二、それだけの情熱をもっと、健全な方面で発揮できないのか?」
兄として幸太が忠言した。
「健全?! 競馬はおれのライフワークなのだから、健全も不健全もあるものか!」
浩二は憤慨した。
幸太は舌打ちをして、弟の部屋を出た。
本棚は本好きであった母親の言わば遺品だった。
その本棚は、競馬関係の本や雑誌、ノート類ですべての棚が埋まっていた。
別の本棚には競馬のビデオテープがぎっしりと埋まっている。
40歳の春にクモ膜下出血で亡くなった母親の鶴子は、競馬にのめり込んでいる息子のことを心配していた。
鶴子の父親は競輪に狂って、家と田畑を失っていた。
このため勉強好きであったのに鶴子は、不本意にも中卒で働きに出た。
父親の幸吉は小金を貯めた。
当時は金利も高かったのだ。
金利が一番高かったのは郵便局の3年以上定額貯金で、石油ショック後の1974年8.0%、1980年は7.25%だった。
1984年には5.75に落ちた。
定額10年利回り12%。
これは年8.0%半年複利で、10年後に約2.2倍になって戻って来る。
また、証券会社の人から勧められて、国債も買った。
株も勧められ、5社の株を買った。
上がった株もあったが、下がった株もあり全体として資産の運用は若干のプラスとなった。
だが、金利は1992年に4.07%、1993年2.05%、1995年1.15%、2001年0.07 %と下がる一方となった。
父親の幸吉が生きていたらがっかりしただろうが、バブルが弾ける前に幸吉は逝った。
本人は「21世紀まで生きたい」と願っていたのだが、自宅の風呂の洗い場で倒れ呆気ない最後であった。
通夜の席で幸太は、「親父の人生は、まあまあで良かったのではないか?」と弟の浩二に問いかけた。
「人に迷惑をかけるな」と2人の息子を諭してきた。
町内会の役員や老人会の会長として最後まで責任を全うしていた。
そして児童公園の管理をしたり、民生委員を務めたりして堅実な生活態度だった。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっているので父親を反面教師としてきた。
通夜には、幸吉の弟の佐吉と妹の鶴が居た。
「兄貴は道楽者の親父を嫌っていた。苦労をした母親思いだったからな」
佐吉は通夜の席で酒をかなり飲み、赤ら顔になっていた。
「兄さんは、俺は宵越しの金は持たないなんて、バカなことを言っていてね」
鶴は甲府から駆けつけてきた。
痛風で正座ができないと喪服姿で小さな折りたたみ椅子に座っていた。
浩二は黙々とビールを何倍も飲んでいた。
「自分は自分、親父の生き方は親父の生き方」
クールに父親の人生を受けとめていた。
「ところで、兄貴は堅実だから金を残したんだろうな」
叔父の佐吉は幸太に尋ねた。
孝太は何て答えてよいのか口ごもり苦笑しながら、「小金は残したと思いますよい」と答えた。
「小金?」叔母の鶴は意味がわからないのだろう怪訝な顔をした。
「兄貴は俺にも、“小金を貯めないと金は残らない”と言っていたな」と唇を強く結びながら苦笑を浮かべた。
佐吉は酒代で小金を残さなかった。
大衆的な雰囲気の居酒屋で酒を飲むより、色気を好みバーやスナック洋酒を飲んでいた。
2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄弟 2)
競馬、パチンコなどと幸太は無縁であった。
父親の幸吉は「小金を貯めないと、金は貯まらないよ」と言っていた。
「小金?」幸太は父に聞き返した。
50歳を境に幸吉は酒を飲むのを止めた。
酒は定期検診で肝機能が低下していることを医者から指摘された。
幸吉の父親は肝臓を悪化させて、47歳で亡くなっている。
「親父のように死にたくない」と幸吉は酒を絶った。
そして煙草は息子の浩二が小児喘息であったので止めた。
タバコの煙によって炎症を起こした気道が、冷気など色々な刺激に対して過敏に反応してしまい、収縮することで喘息の発作が誘発される。
気道の炎症が慢性的に続いてすまうと、気道の壁が狭くなってしまい、どんな治療をしても気道が拡張しなくなってしまう。
幸吉は医者の説明と忠告を真摯に受け止めたのだ。
酒と煙草を止めた幸吉は、それまでの酒代、煙草代を貯蓄に回した。
煙草は37歳の時から吸わなくなったが、あっさりと止められたわけではない。
ニコチン中毒は薬物依存症の一つである。
幸吉はピースを好んで吸っていた。
だが、妻の鶴子が40歳でクモ膜下出血で亡くなった時、そのショックから再び煙草を吸い始めた。
だが、それを1か月後に決心して断った。
妻の鶴子の死を自分の宿業と捉えていたのだ。
鶴子は山登りが好きであった。
女友だちと半年に1回くらいのペースで、山へ向かっていたが、幸吉は商売に専念していたので一度も妻の山登りに同行したことがなかった。
幸吉は山に登ったつもりで、貯蓄に金を回した。
幸太は父親の話を聞いてから、自分も小金を貯める決意をした。
2012年11 月15日 (木曜日)
創作欄 兄と弟 1)
結局のところ、人生をどのように生きるかである。
兄弟が2人なら、2人の違った人生がある。
長男である幸太は、父親のように商売の道を歩んだ。
次男である浩二は、農協に勤めていたが競馬をライフワークにした。
ネットを使って自らレースの予想をし、情報を発信していた。
どれくらいのファンがいるのだろうか?
冷やかしに聞いてみた。
「まあ、1000人といいたいけれど、100人くらいかな」
まんざらでもなそうに、浩二はネットの画面を兄に見せた。
画面には縫い繰る身の馬たちがユーモラスな姿で走っている様子が見えていた。
「“かわいいわね”」と言ってくれる女性ファンもいるのだ」
37歳となったが浩二はまだ独身である。
幸太は39歳で娘が4人いた。
娘は2人で十分と思ったが皮肉なもので、次は男の子と期待したのに生まれたのはまた女の子だった。
娘たちは叔父の幸太になついて、競馬場まで幼児のころから着いて行った。
商売人の幸太は、土日も休まず働き、月曜日を定休日としていた。
浩二は金曜日になると職場から一刻も早くと気がせくように自宅に戻り、競馬新聞やスポーツ新聞を並べて予想に没頭する。
過去の競馬のレースをビデオで見ていることもある。
その目は真剣であるというより、探るような目となっていた。
何度も繰り返しレースの内容を点検し、敗因や勝因を探っていく。
「オイ、浩二、それだけの情熱をもっと、健全な方面で発揮できないのか?」
兄として幸太が忠言した。
「健全?! 競馬はおれのライフワークなのだから、健全も不健全もあるものか!」
浩二は憤慨した。
幸太は舌打ちをして、弟の部屋を出た。
本棚は本好きであった母親の言わば遺品だった。
その本棚は、競馬関係の本や雑誌、ノート類ですべての棚が埋まっていた。
別の本棚には競馬のビデオテープがぎっしりと埋まっている。
40歳の春にクモ膜下出血で亡くなった母親の鶴子は、競馬にのめり込んでいる息子のことを心配していた。
鶴子の父親は競輪に狂って、家と田畑を失っていた。
このため勉強好きであったのに鶴子は、不本意にも中卒で働きに出た。