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睡眠負債 がん細胞は活性化

2018年06月13日 12時36分42秒 | 医科・歯科・介護
睡眠負債(英: Sleep debt)は、William C. Dement 教授(スタンフォード大学)により提唱された言葉で、日々の睡眠不足が借金のように積み重なり、心身に悪影響を及ぼすおそれのある状態である。
最近よく耳にする「睡眠負債」という言葉。少しの睡眠不足が借金(負債)のように積み重なってしまうことですが、なぜ負債が溜まるのか、溜まると心身にどのようなリスクがあるのかなどを分かっている方は、意外と少ないようです。注目されている今だからこそ、しっかり知っておきましょう。

睡眠時間6時間未満が増加。日本は世界の中でも睡眠が短い国
厚生労働省が毎年実施している「国民栄養・健康調査」によると、1日の平均睡眠時間「6時間未満」という人が、2007年には28.4%だったのが2015年は39.5%と、10%以上も増えています。逆に平均睡眠時間「7時間以上」の人は33.8%から26.5%にダウン。日本人の睡眠は少しずつ短くなり続けているのです。

また、経済協力開発機構(OECD)が2014年に行った調査によると、日本人の1日の平均睡眠時間は7時間43分で、1位の南アフリカより1時間30分も少なく、29カ国中、韓国に次いで2番目に短い国という結果でした。

日で見れば少しの睡眠不足でも、借金(負債)のようにだんだん蓄積されていき、体と心と脳にダメージを与えるようになります。それが「睡眠負債」です。
普段、睡眠不足気味な方は、休みの日に遅くまで寝て不足分を補おうとしがちです。しかしこの方法では、疲れを根本からとることはできません。睡眠は、単純な引き算・足し算のようにはいかないのです。

脳の指示を意志の力で無視すると「負債」が溜まる
そもそも睡眠は、発達した大脳を効果的に休めるために進化してきた生命現象と言われています。私達人間の脳は、他のほ乳類や鳥類などと比べても圧倒的に大脳が発達しています。そのぶん、他の動物よりも眠りが必要なのです。

筋肉の疲れは横になって休むだけでも解消しますが、脳の疲労は睡眠によってしか回復しません。そして、脳の「休み方」にも、部分によって違いがあります。

脳には「眠る脳」と「眠らせる脳」があります。前者が大脳、後者が脳幹です。
脳幹は大脳がオーバーヒートしないよう、「眠りなさい」と指示を出します。それがいわゆる「眠くなる」状態です。
このとき、脳幹の言うことを聞いて眠ればベストなのですが、人は意志の力で睡眠を削ることができてしまいます。つまり、大脳が「眠いけどもうひと頑張りしよう」などと判断できてしまうのです。

こうした日々が続くことで、じわじわと「睡眠負債」が溜まっていくことになります。
大脳がムリをすると、創造的な思考作業や論理的な判断は難しくなります。
記憶力も落ちてきて、学習した内容も定着しません。
睡眠を削って勉強するのは、ある意味逆効果なのです。

睡眠負債は体だけでなく、心の状態も崩すことに
睡眠負債による体への影響で、第一にあげられるのは免疫力の低下です。睡眠が不足すると風邪を引きやすいと言われるのはそのためです。
同様に、アレルギー性疾患も発症しやすくなります。
さらには、肥満、糖尿病、心臓病のリスクも高まるなど、さまざまな悪影響が出てきます。
特にがん細胞は活性化する。

同じく、心と脳のコンディションも崩れてきます。睡眠が不足すると交感神経を過剰に活動させてしまうため自律神経が失調し、心のメンテナンスが不十分になるのです。
集中力が低下したり、注意維持が困難になったり、意欲が落ちたり、イライラしやすくなったり。
これらは、睡眠不足が脳の機能を低下させるために起こる現象なのです。

自分にとっての必要な睡眠の「量」(=睡眠時間)が不足して、累積した睡眠負債を週末で一気に返そうと寝だめをしようとすると、「リズム」が乱れて睡眠の「質」が悪くなってしまい、かえって逆効果です。
睡眠が不足していることが分かった場合は、週末で一気に取り戻そうとせず、寝る時間を毎日少しずつ早める方法をおすすめします。


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夜間の診療に特化上原淳さん(川越救急クリニック院長)

2018年06月13日 12時22分46秒 | 医科・歯科・介護
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結果から学び
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つなげる

今から5年前、埼玉県川越市に全国初の救急に特化したクリニック「川越救急クリニック」が開業しました。
このクリニックの開業までには数々の壁が立ちはだかりました。
保健所から開業許可が下りない、医師会からの入会拒否、埼玉県からの救急告示の拒否―――。
なぜそんなに大変な思いをして上原 淳先生は川越救急クリニックを立ち上げたのでしょうか。
開業に至るまでの道のりと想いを伺ってきました。

学んだことを生かせる場に行きたい
はじめに、上原先生が医師となるまでの経緯を教えていただけますか?
入学した私立中学の同級生たちが、中学1年、2年ですでに自分の将来の夢について語っていたことに焦りを感じ、自分の将来について考えるようになりました。
そして出した答えが「こんなに苦労して勉強しているのだから、大人になったら他の人の人生に影響を与える仕事がしたい。」そこで、得意な理系科目を生かして医師を目指そうと決めたのです。

また、実家が経営している小さな本屋で店番をしながら様々な本や漫画を読んでいて、それらにも影響を受けました。
中でも新宿区歌舞伎町路地裏の汚い長屋のようなところで開業している医師を描いた漫画が好きでした。
歌舞伎町周辺で活動している人たちが患者として来て、先生と患者が向き合って対話を重ねる中で診察していくのが面白かったのです。
だからあまり大病院には興味がなく、「町医者」それも「社会的弱者の主治医」のような存在に憧れているところがありましたね。「こんな人たち相手に開業したら面白いだろうな」「こんな医者になりたい」と思っていました。

福岡県北九州市の産業医科大学に進学し、本当は心臓外科に進みたかったのですが、当時の産業医科大学病院の心臓外科には魅力が無く、外科系に何かしら関わるために麻酔科を選びました。
そして麻酔科で2年程経験を積んで、どこか東京の心臓外科で有名な大学病院へ移ろうと思っていました。

そこでなぜ救急へ進まれたのですか?
麻酔科3年目ごろから、患者さんの全身を見て管理する麻酔科医の仕事が心臓外科より面白いと思うようになりました。
そして6年目から取得可能な指導医まで取りましたが、そこで「苦労して指導医を取ったのに、麻酔は指導医がかけても研修医がかけても、手術自体が無事に終われば結局患者さんにとっての予後はほとんど変わらないし、何か新しいことができるようになるわけでもない。せっかくあんなに勉強したのだから、その結果が直接患者さんに出てくるところに行きたい」と思い、初めて集中治療や救急に興味を持ちました。

最初の勤務地は、福岡市立こども病院の新生児集中治療室でした。
さらに違う病院を経験した後、産業医として働きながら週2日、救急の当直アルバイトを始めました。
そこで初めて、救急に触れました。

二人の患者との出会いから、本格的に救急の道へ進む
救急の現場は心臓手術等の現場と比べて、どのような違いがありましたか?
救急の当直アルバイト先では当初、右も左も分からず看護師さんの言う通りに動いていましたが、救急って感謝されるのです。
ある時、交通事故で骨盤骨折をした高齢の女性が運ばれてきました。
どんどん血圧が下がる中で処置し、他の病院に入院してもらっていたところ、退院後わざわざご挨拶に来てくれたのです。
それも一家総出で。
「入院先の先生に『いつ死んでもおかしくない状態だった』と言われました、ありがとうございます」と言うのです。
麻酔科医は血圧が下がっていたり死にかけたりしている患者さんを維持させるのは得意なので、自分としてはたいしたことをやったつもりはなかったのですが、すごく感謝さたのです。
それまでは麻酔をかけたことで感謝されることは一度もありませんでしたから、感謝される医療に初めて接することができて、その面白さにのめりこんでいきました。

九州で救急に携わり、なぜ埼玉県の救急救命センターへ行くことにしたのですか?
九州厚生年金病院の救急担当医として呼ばれて3年目に、バイク事故で運ばれてきた17歳の少年が亡くなったことがきっかけでした。
550床ある九州厚生年金病院は、一次二次救急の比較的軽症者は受け入れていましたが、時々三次救急病院に運ばれるべきではと思う重傷者が運び込まれることもありました。
しかし、三次救急の重症患者が来たときに、救急を専門でやってきた人が一人もいないので、誰も対応できないのです。
そして年に1、2例「これはもしかしたら助けられたのでは」と思う患者さんが亡くなっていきました。

その17歳の少年は、最初は「痛い、痛い」「胸が痛い」と言っていたのに、検査をしているうちに段々と血圧は下がり、意識は落ちてきて、レントゲン写真を見ると肺の外側に出血していました。
これほどの重傷者を診たことがなかったので救急医学の本を見ながら処置をし、最終的には呼吸器外科医に手術をお願いしたところ、肋間動脈が4本切れていました。しかし2本は止められましたが、「あと2本は位置が奥すぎて止められない」と外科の先生が言うのです。
止められないと言われても自分は何もできるはずがなく、そうこうしているうちにその少年は亡くなってしまいました。

「この少年は自分のところに来ないで、他の救命センターに運ばれていたら死ななくて済んだのではないか」と、彼に対してすごく罪悪感を抱きました。
そして、その子がこの世に生きていたから変わったという何かがないと、彼の17年の人生は何も意味がなくなってしまう。
彼の人生を意味あるものにするには「自分が何かしないと」と思ったのです。

それまでは救急が好きで携わってきましたが、救急救命センターに行くのは自分で控えていました。
なぜなら当時の救命センターは、朝から夜まで寝ずに働いてぼろぼろになって辞めていくのが定評だったので、少し逃げているところがありました。
しかしここで続けていても何も進歩はないと、患者数が多くさまざまな経験ができる大都市郊外の救命救急センターに行くことを決意しました。

一次二次救急を充実させる
東京で埼玉医科大学の堤 晴彦先生の講義を聞いたのがきっかけで、埼玉医大高度救急救命センターへ行くことになったのですよね。そこではどのような経験をなさったのですか?
埼玉医大の救急救命センターでは患者さんが運ばれてくると、救命センター所属の各科のスペシャリストが一斉に集まってきて自分の診られるところだけを処置しておのおの帰っていくのです。
各専門の先生がどのように処置するのかを観察するのはすごく楽しかったですし、これぞチーム医療という印象で、救急のスペシャリストたちの処置を見るのはとても勉強になりました。

一方自分はというと、最初の半年程は救急での自分のアイデンティティにすごく悩みました。
救命センターの医師たちは、麻酔科医が得意とする全身管理や気管挿管などの呼吸管理、ちょっとした麻酔に至るまで、全て自分たちでできてしまっていたからです。
そのため自分は完全に役に立たない、ただの見学者状態でした。
しかし半年程見ていると麻酔や呼吸管理は、やはり本職の自分が行った方が絶対上手いと自信が出てきて、大きな顔をしてチームの中に入っていくようになりました。
そしてチームの一員であることが楽しく、誇らしく、2年程勉強して九州の一次二次救急に戻ろうと思っていたのですが、8年もいてしまいました。

その後九州に帰らず、川越救急クリニックを立ち上げた理由はどこにあるのでしょうか?
3年目に救命センター医局長になったことがきっかけです。
医局長になると対外的な関係ができ、そこで初めて埼玉県の現状を見るようになりました。
埼玉県の救急搬送はどこの病院も断り合い、押し付け合いで、最終的に行き場のなくなった一次二次救急の軽症者も三次救急の埼玉医大に運ばれてくる状態でした。

救命センターは重傷者を診るので、軽症者は大学病院内の各科に診てもらいます。
そうすると、自分の専門分野を研究したくて大学病院にいる先生たちから研究どころではないと、救命センター医局長の自分に対して次々と文句が述べられるのです。
一次二次救急患者を受ける病院がないからこういうことになるのですが、周りの病院を見ても救急を頑張ろうという病院なんてありません。周りに一次二次救急を受け入れる病院がないのなら作ってしまえということで、救急に特化したクリニックを立ち上げました。

二人の患者との出会いから、本格的に救急の道へ進む

救急の現場は心臓手術等の現場と比べて、どのような違いがありましたか?
救急の当直アルバイト先では当初、右も左も分からず看護師さんの言う通りに動いていましたが、救急って感謝されるのです。
ある時、交通事故で骨盤骨折をした高齢の女性が運ばれてきました。
どんどん血圧が下がる中で処置し、他の病院に入院してもらっていたところ、退院後わざわざご挨拶に来てくれたのです。それも一家総出で。
「入院先の先生に『いつ死んでもおかしくない状態だった』と言われました、ありがとうございます」と言うのです。
麻酔科医は血圧が下がっていたり死にかけたりしている患者さんを維持させるのは得意なので、自分としてはたいしたことをやったつもりはなかったのですが、すごく感謝さたのです。
それまでは麻酔をかけたことで感謝されることは一度もありませんでしたから、感謝される医療に初めて接することができて、その面白さにのめりこんでいきました。

川越救急クリニックは5年目を迎え、医師も上原先生を含め3名となりました。
今後の、クリニックとご自身の展望を教えていただけますか?
メディアに取り上げられたことで一般の方への周知がされてきていますが、自分もやってみようという医師はあまりいないと思います。なぜなら運営自体が大変だし、絶対黒字が出ないと思うから。
だから今は、自分の負担を減らしつつ黒字を出すことを使命としています。
それも皆がやりたくなるような大黒字です。

救急クリニックは今後増えそうですので、日本救急クリニック協会というNPO法人から、新しく救急のクリニックを開業しようとしている医師をサポートしていこうと思っています。
そして自分自身は、社会構造的に夜中の受診がとてもしにくくなっていると思うので、どのような患者さんでも受け入れ診られる医師になりたいですね。漫画のような「町医者」が原点ですから。

インタビュー・文 / 北森 悦


川越救急クリニック

上原 淳さん

1983年産業医科大学に入学。1989年に麻酔科医として、産業医科大学病院、門司労災病院(現・九州労災病院門司センター)、九州厚生年金病院(現・JCHO九州病院)に勤務し、麻酔科指導医を取得。福岡市立こども病院・感染症センターなどに勤務した後、1998年から九州厚生年金病院で救急担当医となる。2001年から埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センターに勤務する。2010年に国内初、救急科に特化した川越救急クリニックを開業。
2015年NPO法人日本救急クリニック協会を設立し理事長を務めている(http://www.japan-emergency-clinic-association.org/)。

救急医療の現実

2018年06月13日 11時57分22秒 | 医科・歯科・介護
からだの情報館

執筆者: 特任副医院長 瀬口雅人
★掲載年月:ふれあいH24年6月号

急病患者の受け入れ先がなく、救急車が何軒もの病院をたらい回しになったあげく、患者が死亡した。という事件がある度に、救急医療と医療崩壊についてマスコミが新聞紙上をにぎわします。この先進国日本で急病になった時に、受け入れ先がなくて、助からないとはなんとお粗末な状況なのでしょう!

 日本の救急医療が崩壊してしまったのは何故でしょうか?

 全国の救急救命センターの数245施設(2011.12現在)、救急専門医の数3374名(2012.1現在)人口当たりに換算すると、欧米諸国に比べ、かなり低い数値であり、日本は救急医療後進国といわれています。

 救急医の数が足りず、実際の現場で救急患者を診ているのは、他の専門を持つ内科や外科の医師が時間外に救急医療も行っているのが現状であり、夜間当直後も翌日休み無く働かなくてはならない。

 医師はどんどん疲弊していく。
更に一昔前は、夜間、休日に専門を問わず、救急患者さんを診れば、感謝される時代でしたが、現在は、専門外の患者の救急患者の診察でアクシデントがあれば、訴訟される時代となり、また経営上もメリットがなく、割の合わない救急医療から手を引く病院が相次ぐ事となり、結果救急病院が減少し、更に救急医療崩壊が進むという悪循環となっています。

 医療訴訟はなぜ増えているのでしょうか?マスコミの無責任な医療報道もひとつの要因と思います。
冒頭のたらい回しという言葉にしても、病院間を救急車が走り回ったイメージがつきまとう言葉ですが、現実は、救急車は受け入れ先の病院決定のために、打診の電話を何軒かけたかと言うことで、受け入れ不能の理由は、空きベッドがない、専門外の医師が当直、医師が手術中や他の重病患者の対応中で対応不可などというもので、決して責められる理由ではないのにも関わらず、マスコミはたらい回しという言葉を用い、断った病院に責任があるように報道します。

 また医療にとって大切な事のひとつは医師と患者、患者家族の信頼関係ですが、救急の現場では、突然患者さんはやってきて、みるみる容態が変わることもあり、家族と十分な信頼関係を得る時間もなく、治療に奔足しなければならない。
その結果が悪い場合、医療訴訟に発展する例も多いとされています。

 過去の救急に関する医療訴訟でも、たしかに医師側に明らかな落ち度があるケースもありますが、ほとんどが、患者家族に適切な説明がなされていたならば、訴訟にならなかったケースの様に思えます。

 急病になっても安心できる医療体制は、国を上げて取り組んでいただかないと解決しない問題です。医師の増員、救急医療に対する適切な診療報酬制度。
救命センターの充実など、いつになったら実現するのでしょうか?

 当院も救急科の事実上の撤退で、まさに医療崩壊のまっただ中です。
しかし患者さんが減るわけではありません。
できうる限り、急患を断らずに診るというポリシーのもと全医師で一致団結して救急診療にあたっています。

 医師にとっても患者さんにとっても、早くこの現状が好転する事を切に願う今日この頃です。

日本救急クリニック協会、始動

2018年06月13日 11時50分01秒 | 医科・歯科・介護
特定非営利活動法人(NPO法人)日本救急クリニック協会は、2014年6月24日に、上原淳医師を代表として東京都北区に事務局を設置、協会を設立いたしました。


本団体は、日本でも数少ない救急クリニックという「しくみ」を知りたい方へ、取り組んでみたい方へ向けた情報の発信・共有・展開を目的としたさまざまな活動を行なうための組織です。

コンテンツ
救急病院には1次、2次、3次のそれぞれの救急体制がありますが、最後の3次に集中する傾向が強く、救急を専門で診ている医療機関は病院以外ではほぼありません。

そのため、本来なら生命の危機に関わる緊急性の高い処置を行なう3次救急に、1次、2次の病院で処置可能な患者さんも集中してしまう状況が生じてしまいます。

そこで、1次救急、2次救急の患者さんを少しでも救急科として引き受けることで、3次救急で助かる人をより増やしたいという想いから救急クリニックを開院したのが、代表の上原淳先生です。

新しい取り組みであり、実際に救急車の受入れや実際の急患の対処なども含めて、その情報を開陳していき、24時間でなくとも当番制での参加も含めてやり方を模索していきながら、救急の受け皿をより広げていきたい医療従事者や支援者の方々の共通の土台のひとつとして設立いたしました。

コンテンツ
日本救急クリニック協会、キックオフイベントを開催!
NPO法人日本救急クリニック協会は、2015年1月25日(日)に主婦会館(東京都千代田区六番町15)にて、「日本救急クリニック協会 キックオフ」イベントを開催いたします。
当日は、当団体理事長の上原淳氏(川越救急クリニック院長)、亀崎高夫氏(茨城西南医療センター病院 院長)をお招きして講演を行なっていただきます。
また、第2部ではさらに2名の方をお迎えして「救急クリニックの意義と高齢化社会に於ける役割」についてパネルディスカッションにご参加いただきます。
当日の詳しいご案内内容については、下記URLにてご確認ください。
イベントの申込みも下記URLにて受付しております。
https://toukon.izakura.jp/event/detail/36
NPO法人日本救急クリニック協会、正式に発足
2014年7月31日(木)、特定非営利活動法人 日本救急クリニック協会(JECA)が正式に発足しました。
NPO法人としては珍しい、救急科を軸とした救急専門のクリニックのノウハウを伝えるための活動母体となります。
代表理事の上原淳医師は、すでに川越救急クリニックを設立しており、そのノウハウを蓄えつつあり、もっと救急クリニックのような存在が広がることを期待して、このNPO法人を設立いたしました。

市民グループが行うヘイトデモ件数減少

2018年06月13日 11時30分31秒 | 社会・文化・政治・経済
市民グループが行うヘイトデモ件数

2012年4月から2015年9月までの3年半に1152のヘイトスピーチを伴うデモと街宣活動が発生。
東京・新宿にある韓国料理店では、デモ行為の影響で客が減り、売り上げが半減する深刻な打撃を受けたという。
「在日は出ていけ」と罵る人たち。
ビラを配り、大きな声を上げながら商店街を練り歩いた。
「○○を殺せ」などの脅迫的な言動。
「○○は祖国へ帰れ」といった排除を先導。
外国人に対する著しく侮蔑する不当な差別的言動。
右派系の市民グループが行うデモは、2014年約120件だったが、2017年は約50件に減少。

ヘイトスピーチに川崎市が指針
2018年3月30日 - 川崎市が策定した市立公園や公民館など公的施設でのヘイトスピーチを事前規制するガイドラインが31日、施行される。
他の利用者への危険性が明らかな場合、施設利用の不許可と取り消しが可能になる。

インターネット上で起きたヘイトスピーチを含む人権侵犯の事件件数は2017年2217件、2013年から5年連続増加。

ネットの深刻な人権侵害
法務省の人権擁護機関では,「インターネットを悪用した人権侵害をなくそう」を強調事項として掲げて啓発活動を行っています。
インターネットを悪用にご相談ください。
インターネットによる人権侵害のほか、様々な人権問題についても相談を受け付けています。

「ヘイトスピーチ対策法」から2年 

2018年06月13日 11時06分46秒 | 社会・文化・政治・経済
朝日新聞座談会

排他的な言動で差別感情をあおるヘイトスピーチのデモが都内で問題化してから5年になる。
2年前には「ヘイトスピーチ対策法」=キーワード=が施行された。
しかしヘイトデモは止まらず、ソーシャルメディア上の言動はときに先鋭化して当事者を傷つける。
排外主義は止められるのか。
互いのルーツを認め合って暮らせる社会は築けるのか。
在日コリアンや米国など、様々なルーツを持つ在日外国人と日本人が語り合った。

金村詩恩(26) 作家。
在日コリアン3世。
小学生のとき家族で日本国籍を取得

木村元彦(56) フリージャーナリスト。
ロヒンギャなど難民問題を取材

バイエ・マクニール 作家・コラムニスト。
米国出身で日本在住14年

林原圭吾(42) 翻訳業。昨年9月に反差別啓発イベント「あなた、ここにいてくれますかフェスティバル」を主催

梁英聖(リャンヨンソン)(35) 大学院生。
在日コリアン3世。「反レイシズム情報センター」代表
   ◇
――ヘイトスピーチ対策法ができて2年。
何か変わったでしょうか。

梁 ほとんど歯止めになっていない。
首都圏ではヘイトデモが続いている。
以前のような数百人規模のデモは減っているかもしれないけれど、リピーターが着実にやっている。

金村 ヘイトデモが注目される中で、普通の人たちが日常の中で交わしている発言が見逃されている。本当に対策法の効果はあったのだろうか。

木村 昨年8月からバングラデシュにロヒンギャの難民が約80万人逃れています。ミャンマーでは無国籍扱いで、合法的に迫害を逃れ国外に脱出する手段がない。今の日本の対策法では対象を「適法居住」者に限っているため、こういった人たちを守れない。

マクニール 公民権運動時代の米国と似ている。大きな事件があれば、人々は関心を払い、行動を起こすようになる。

――マクニールさんは年末にお笑いタレントの「黒塗り」=キーワード=を批判しました。

マクニール 私は2004年に来日した。実は2年前にも歌手グループの「黒塗り」を指摘した。
テレビ局は謝罪せず編集でカットしただけ。ほとんど知られず、2年後、まったく同じ問題が起きた。今回は反響の大きさに驚いた。
多くの日本人が支持してくれたのは素晴らしい。

木村 ブラックという単語、すごくネガティブに流通していますね。「ブラック企業」「ブラックバイト」……。

マクニール 黒人に対する日本のレイシズムの根源は、白人を優位に置き、その他を見下す文化的、社会的な階層構造だ。
日本人はそれをわかっていない。

 ――なぜ解決されないのでしょうか。

林原 「とりあえず差別はいけません」という規範が日本に存在しないことが、そもそもスタート地点を遅らせている。

梁 悪意を持ってヘイトクライム(差別的動機にもとづく犯罪)を扇動しようとする極右勢力が出てきている。政治家が差別発言で人気を博し、市民社会に差別が増える。
レイシズムはピラミッド構造で、先入観や偏見が積み重なってヘイトクライムやジェノサイド(集団虐殺)に至る。
ハイレベルの部分だけは撲滅しなければ。
そう教育しないと本当に危ない。

木村 ロヒンギャに関しても国連の監視団が報告書で、SNSの影響を指摘しています。
「仏教徒の女性をレイプしようとしている」といった言説が流布され、インド洋を挟んだスリランカにも飛び火し、イスラム教徒のモスクや居住地域が焼き打ちされた。ヘイトスピーチはドミノ現象のように国を壊していく。
ここから学ばなくては。

――20年東京五輪に向けて、行政の対応は進むでしょうか。
東京都は小池百合子知事が「差別禁止条例」の検討を打ち出しました。

金村 街があれば差別があり、差別がないところはない。
差別と向き合った上で、私たちは何ができるのか。

梁 東京五輪でテロ対策が叫ばれている。日本で危ないのは極右テロ。
実際に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)への銃撃事件が起きている。

マクニール 日本を訪れた旅行者たちはよい印象を残して帰ってくれると信じている。
ただ「黒塗り」のようなことが起こると、世界から「日本はレイシストの国」と烙印(らくいん)を押されてしまう。
人種問題における唯一の懸念は、無知から来る誤解を生むことだ。

木村 民主化のために戦ってきたミャンマー難民が、東京で「ロヒンギャは5年前から増えた不法移民」といったことを語っている。
軍事政権の教育しか受けていないから先に進めない。
付け焼き刃でなく、共生の思想の教育を若い頃からやらないといけない。

マクニール 外見からいかなる先入観も持ってはならない。しかし日本はそうした先入観が強い。どうすれば緩和できるか? 教育しかないだろう。

金村 「あなたの隣にもこういう人がいる。自身の問題として考えよう」と、どう提示していくか考えないと、かけ声だけで終わってしまう。低レベルの偏見・先入観の層が大きすぎて、この人たちをどうにかしないと。

梁 いや、極右を止めるのが差し迫った課題。そこに関連して「偏見が危ない」と言っていかないと、逆にお説教みたいに聞こえる。

林原 ポジティブに「内に閉じこもるより外に目を向けた方が楽しい」と発信していきたい。

梁 「これが差別だ」という定義を行政や市民運動が示さないと、差別が起きて批判されても謝って終わる。定義を社会に埋め込む運動をしないといけない。

マクニール 誰もが無意識に恐ろしい考えを持っている。自らの思い込みを自覚し、減らそう。
レイシズムというとみんな怖がるけど、思い込みならみんな認められるし、誰もが語れるんじゃないか。

(聞き手・吉野太一郎)

<ヘイトスピーチ対策法>
2016年5月に参院本会議で可決、成立し、6月に施行された。
罰則を定めず「不当な差別的言動は許されない」と規定し、国や自治体に解消のための施策を講じるよう定めたが、対象を「適法に居住する」「本邦外出身者」やその子孫としたことで、不法入国者の子孫や日本国籍を持つマイノリティーが対象外になるなどの課題も指摘された。


 <「黒塗り」問題>

昨年12月31日放送の日本テレビの番組で、お笑いコンビ「ダウンタウン」の浜田雅功さんが、黒人俳優にふんして顔を黒く塗って登場。
マクニールさんは1800年代の米国で、白人が顔を黒く塗って踊り、黒人を笑いものにする「ミンストレル・ショー」を想起させるとして批判し、海外メディアなどでも注目された。





 


ヘイトスピーチ対策 法務省

2018年06月13日 10時43分01秒 | 社会・文化・政治・経済
■背景
 近年,特定の民族や国籍の人々を排斥する差別的言動がいわゆるヘイトスピーチであるとして社会的関心を集めています。こうした言動は,人々に不安感や嫌悪感を与えるだけでなく,人としての尊厳を傷つけたり,差別意識を生じさせることになりかねません。
 近時,このヘイトスピーチが,マスメディアやインターネット等で大きく報道されるなど,更に社会的な関心が高まっている上,平成26年7月の国連自由権規約委員会による日本政府報告審査における最終見解【PDF】※及び同年8月の国連人種差別撤廃委員会による同審査における最終見解【PDF】※で,政府に対してヘイトスピーチへの対処が勧告されています。
 また,このような情勢の中,国会において,「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立し,平成28年6月3日に施行されました。

■法務省の人権擁護機関の取組
 法務省の人権擁護機関では,これまでの「外国人の人権」をテーマにした啓発(「外国人の人権を尊重しましょう」)に加え,こうしたヘイトスピーチに焦点を当てた啓発活動に取り組んでいます。
 具体的には,特定の民族や国籍に属する人々を排斥する差別的言動,例えば

 (1)特定の民族や国籍の人々を,合理的な理由なく,一律に排除・排斥することをあおり立てるもの
  (「○○人は出て行け」,「祖国へ帰れ」など)
 (2)特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えるとするもの
  (「○○人は殺せ」「○○人は海に投げ込め」など)
 (3)特定の国や地域の出身である人を,著しく見下すような内容のもの
  (特定の国の出身者を,差別的な意味合いで昆虫や動物に例えるものなど)
                                                 (注)
などは,それを見聞きした方々に,悲しみや恐怖,絶望感などを抱かせるものであり,決してあってはならないということを,皆さまに御理解いただき,かつ,他人事ではなく自分自身の問題として捉えていただけるよう,下記の手法により,効果的でわかりやすい各種啓発・広報活動を行っています。
■具体的活動内容
(1) 新聞広告による啓発
 (2)ポスター【PDF】・リーフレット【PDF】による啓発※
 (3) 啓発冊子による啓発※
 (4) 交通広告(駅構内広告)による啓発
 (5) インターネット広告による啓発
 (6) スポット映像による啓発(YouTubeでご覧になれます。)
 (7) 人権教室等の各種研修における啓発機会の充実
 (8) 相談窓口の周知広報の充実(「人権相談窓口」)

 ※ポスター・リーフレット及び啓発冊子は一切改変せずご使用願います。
 ※一部の団体・個人において,当局が作成したポスター等の文言を改変して,インターネット上で掲示したりデモ・集会等で使用したりする事案が発生しておりますが,当局としてこのような改変は一切許可しておりませんので,ご注意願います。

            

思春期・若年成人(AYA世代)に発症するがん診療

2018年06月13日 10時34分00秒 | 医科・歯科・介護
はじめに

「小児がん」とは、一般的に15歳未満のお子さんに発生するがんを指しますが、東病院小児腫瘍科では、15歳から30歳前後の思春期・若年成人(Adolescent and Young Adult, AYA)の患者さんに発症する「がん」を特に専門的に治療しております。

AYA世代に発生するがんは、15歳未満の小児に発生する場合に比較して、一般的に予後不良とされます。
AYA世代のがん診療の専門家が少なく、特にわが国では未だAYA世代に発生するがんの現状が正確に把握されていません。

当センターでは、AYA世代に特有のさまざまな問題点に配慮し、豊富な治療経験を生かし、各成人診療科・先端医療科やサポーティブケアセンターなどとの協力体制の下、最善の医療を提供しております。
特に、AYA世代の患者さんに発生する固形腫瘍を対象とした多施設共同臨床研究も複数計画しております。

国内でも数少ない「専門家」の意見をお聞きになりたい方は、当センターまでご相談ください。

AYA世代に発生するがんの特徴
15歳未満の小児に多く発生するがんと、成人に多く発生するがんのいずれも発生し得るため、小児腫瘍科と成人診療科の密な連携が必須となります。
東病院では乳腺・腫瘍内科、血液腫瘍科、頭頸部外科、骨軟部腫瘍・リハビリテーション科、放射線治療科などと連携し、成人領域の専門家の意見も取り入れながら最適な治療を選択します。
成人がんと異なり、進行の早い肉腫などは診断が遅れることがあり、注意が必要です。
患者さんの数がきわめて少ないため、最適な治療法が確立していません。このため、十分な情報・経験を有するチームによる治療が必須です。

AYA世代のがん患者さんが抱える問題・対策

小児期と成人期の間にあたるAYA世代の患者さんは、さまざまな問題を抱えています。例えば、病気の治療が生殖機能に及ぼす影響や晩期合併症、通勤や通学に及ぼす影響、思春期という多感な時期に病気に罹患することによるさまざまな精神的ストレス、将来への不安などです。

これらの問題を可能な限り解決し、それぞれの患者さんのニーズに応じた医療を提供するため、当センターでは院内の連携(サポーティブケアチーム)に加え、院外にネットワークを形成し(外来診療ネットワーク、妊孕性温存ネットワーク、緩和医療ネットワーク)、積極的に取り組んでいます。

AYA世代の患者さんを取り巻くさまざまな問題

精神的なストレス

病気や治療への不安、入院のストレス、治療の副作用によるストレス、
外見の変化(脱毛や色素沈着など)に伴うストレス

家族の問題

親子関係、同胞との関係

社会の問題

学校の問題、友人との関係、仕事・職場の問題、経済的な負担

将来への不安

進学、就労、結婚、出産など晩期合併症について

AYA世代のがん患者さんに対する東病院の取り組み

外来管理中心の治療

通勤・通学への影響を最低限とするため、地域医療機関と連携し外来管理を中心とすることで、入院期間を可能な限り短縮する取り組みを行っております。がんに罹患しても日常生活を可能な限り維持し、「社会復帰」が必要ない医療を目指しております。
東日本外来小児科学研究会と連携し共診ネットワーク形成(外部サイトにリンクします)

豊富な治療選択肢の提示

AYA世代に発症するがんは、しばしば難治であることを経験します。
標準治療も確立されていないなか、再発した患者さんや、治療しても効果が得られない患者さんに対する治療選択は限られてしまいます。
このような問題を解決するため、当センターでは先端医療科との協力体制の下、企業治験や医師主導臨床試験により、新しい薬の選択肢を提供しております。
特に成人年齢に達する患者さんで治療にお困りの方を全国から受け入れております。

妊孕性の温存・生殖サポート

がんの治療を開始すると、妊孕性(にんようせい)が失われる可能性があります。我々は、小児内分泌医や産婦人科、泌尿器科など生殖医療の専門家とネットワークを形成し、妊孕性を温存するための取り組みを行っています。
二次性徴の発来しているAYA世代の患者さんには、ご希望に応じて治療開始前に精子保存や卵巣凍結保存などが可能な施設への紹介を行っております。
また、治療終了後に出産を希望される場合、適切な生殖医療機関への紹介がスムーズに行えるよう、ネットワーク形成に取り組んでおります。
厚生労働科学研究補助金がん対策推進総合研究事業 小児・若年がん長期生存者に対する妊孕性のエビデンスと生殖医療ネットワーク構築に関する研究(外部サイトにリンクします)

心理・社会的支援

サポーティブケアチームと連携し、心理的支援や外来管理中の指導、経済的負担を軽減するための社会資源に関する情報提供、就労サポートなど、幅広い支援を行っています。
また、患者さん同士の交流によるピアサポートを支援しています。

お問い合わせ先 肉腫・小児がん電話相談

ウナギ2・7トン破棄

2018年06月13日 10時29分37秒 | 社会・文化・政治・経済
かば焼き 1万3650匹に相当 - 毎日新聞

2018年6月4日 - 2017年に消費者に販売されず廃棄された絶滅危惧種のニホンウナギのかば焼きが、 少なくとも2.7トンにも上るとの調査結果を、国際環境NGOグリーンピース・ジャパン( GPJ)が4日、発表した。ウナギ1万3650匹に相当するという。
滅の恐れがあるニホンウナギなど。

日刊ゲンダイ
もったいない話と思うだろう。
2.7トンものウナギが廃棄されているという。
これから夏の土用にかけて、ウナギが最も売れる時季だけに見逃せないデータだ。調査したのは、環境保護団体グリーンピースジャパンで、イオンやイトーヨーカ堂、ダイエーなど小売り大手18社にニホンウナギを廃棄したかについてアンケート。
16社が回答し、そのうち5社が廃棄した量を答え、その合計は2.73トンに上ったという。

 ウナギといえば夏の風物詩で、絶滅危惧種に指定されている。今回の調査結果を受けて、ネット上には「けしからん」といったコメントが相次いでいるが、果たしてそうか。水産ジャーナリストの西潟正人氏が言う。

「廃棄した量を足し算するとものすごい量に思えますが、ウナギはもちろん、水産物はほとんど廃棄しません。流通業者は薄利多売ですから、廃棄する量が多いと、経営に響く。
環境保護団体の発表だけに、調査結果は印象操作に思えます」
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食品ロス推計646万トン 
15年度外食など事業系増える
2018年04月18日 日本農業新聞
農水省と環境省は17日、食べられるにもかかわらず捨てられている「食品ロス」が2015年度で646万トンに上るとの推計値を発表した。飢餓に苦しむ人に向けた世界の食糧援助量をはるかに上回る量だ。
推計値を公表し始めた12年度以降で最も多く、14年度に比べて25万トン増えた。
農水省は「外食産業の市場規模が拡大し、それに伴ってロスも増えている。外食での食べ残しなどの対策が重要になっている」と分析する。

 646万トンのうち、外食産業や食品製造業など事業系の食品ロスは推計357万トンと55%を占めた。
残り45%は家庭系。
事業系の食品ロス量は、14年度に比べて推計18万トン増えた。内訳は、食品製造業が39%、外食産業37%、食品小売業19%、食品卸売業5%だった。

 同省は、食品製造業での食品ロス対策は一定の成果を上げているとしており、今後は“川下”である外食産業やスーパーなど小売店で食品ロスを減らすことが課題となる。
外食店では食べ切りを促すとともに、食べ残した料理は自己責任で持ち帰ってもらうなどの対策を広げていく考え。
小売店では手前から商品を取る、見切り品を買うなどを消費者に推奨する。

 農水省は「消費者を巻き込んで、いかに対策に取り組むことができるか。
それが食品ロスを減らす鍵になる」とみる。
同日は、食品ロス削減に向けた新たな啓発資材も発表した。
食品ロス646万トン もったいない どう共有?

「君の椅子」プロジェクト

2018年06月13日 10時17分18秒 | 社会・文化・政治・経済
「誕生する子どもを迎える喜びを地域の人々で分かち合いたい」

旭川大学大学院 磯田ゼミのそんな会話から始まった「君の椅子」プロジェクトは、「新しい市民」となった
子どもたちに「生まれてくれてありがとう」の思いを込めて居場所の象徴としての「椅子」を贈る取り組みです。
 「君の椅子」はデザイナーが心をこめて描いたデザインをもとに、北海道が誇る家具製作技術でつくられた
オリジナルの手づくり椅子です。
デザインは毎年変わり、座面の裏に名前や生年月日、プロジェクトロゴや
一連番号が刻印された“世界に一つだけの椅子”です。
 長い歳月をかけて育まれてきた森、そこから伐り出された木材が、確かなデザインと職人の技によって
「君の椅子」に生まれ変わります。 
子どもたちの元に届いた小さな椅子は日々の暮らしにそっと寄り添いながら、
たくさんの思い出をその身に刻んでいくことでしょう。
 「君の椅子」は思い出の記憶装置。 それは子どもたちの未来への贈り物です。
新しい生命が人々のあたたかな眼差しに見守られて健やかに成長することを願いながら私たちはこの北海道の
大地から「君の椅子」を贈り届けていきます。

「君の椅子」は...
・ 名前やロゴ、一連番号が刻印された世界でひとつだけの椅子です。
・ 無垢(むく)の木材でつくります。
・ 確かな技を持つ旭川家具の職人が作ります。
・ 暦年ごとにデザインが変わるオリジナルの手づくり椅子です。

「君の椅子」プロジェクトは、市町村などコミュニティ単位の取り組みとして2006年から始まりましたが、当初から
「個人でも参加したい」との要望をいただいていました。
そうした声にお応えして、2009年秋から新しい取り組みが
加わり、「君の椅子倶楽部」の活動がスタートしました。
 「君の椅子倶楽部」は、「君の椅子」に込めた思いに共感された皆さんが個人で参加することの出来る新たな
コミュニティ。 地域の枠を超えたゆるやかなネットワークです。
暮らしの場は異なっていても、共通の思いで結ばれたコミュニティとして育つことを願っています。
 身近に誕生した子どもに「君に椅子」の贈呈を希望される方は、「君の椅子倶楽部」への参加をお願いいたします。
正式に参加登録された方に、「君の椅子倶楽部」を通じて椅子をお届することになります。
[お問い合わせ先]
旭川大学事務局庶務課
〒079-8501 旭川市永山3条23丁目1-9
TEL:0166(48)3121 FAX:0166(48)87

朝鮮動乱を背景に苦悩する知識人

2018年06月13日 09時57分18秒 | 社会・文化・政治・経済
多大な犠牲を出しながら米国民の朝鮮戦争への関心は低かったとされる。
「希望も解決策も見えないまま、ずるずるとつづいた戦争、現地で戦った兵士とその直近の家族以外のほとんどのアメリカ人はできるだけ知らないでいたい戦争だった。(ジャーナリスト・デヴィッド・ハルバースタム「ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争」
テレビニュースが力を発揮する前の時代。
当時のニュース番組は一晩に15分間。
ニュースの素材が届くのも通常深夜。
影響は限られていた。
情報化社会に入った後年のベトナム戦争との違いだ。
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「広場の孤独」
広場の孤独- 堀田善衛の短編小説。
昭和26年(1951) 発表。
朝鮮動乱を背景に、歴史のうねりの中で苦悩する知識人の姿を描く。
同年、「漢奸」とあわせ第26回芥川賞受賞。
当時十五年戦争が終わって再び朝鮮戦争という時期、昭和26年(1951年)に発表した作品で、翌年昭和27年1月に芥川賞を受けた。
これは、もちろん、堀田善衛の処女作ではない。
しかし、この時期、戦後にただよっていた漠然たる平和と自由の雰囲気を一挙に吹きとばし海峡をひとつ隔てた隣の国で起こった新たな戦争に、当時置かれていた日本の立場、あるいは日本人が漠然と感じていた気持ちに深く通じ合うものが「広場の孤独」という表題に合ったといわれている。
日本はアメリカ軍基地としての重要な役割をはたした。
人間として、どのようにこの時代の中で生きていけばよいのかという事を「時代の動き」を主人公にしてその中で揺れ動くものを表現しようとした作品である。
「広場の孤独」は、冒頭、主人公の木垣が勤める新聞社に飛び込んできた南北朝鮮の動乱情報を伝える電文から始まる。


 電文は二分おきぐらいに長短いりまじってどしどし流れ込んできた。「えーと、(戦車5台を含む共産軍タスク・フォースは)と。土井君、タスク・フォースって何と訳すのだ?」「前の戦争中はアメリカの海軍用語で、たしか機動部隊と訳したと思いますが・・・・」「そうか。それじゃ、戦車五台を含むタスク・・いや敵機動部隊は、と」
副部長の原口と土井がそんな会話をかわしていた。
木垣は「敵」と聞いてびっくりした。敵?敵とは何か、北朝鮮軍は日本の敵か? 
昭和26年朝鮮戦争勃発によって起きた新たな内外の情勢の中で新聞社の渉外部に臨時雇いになった主人公木垣が外信のテレックスを翻訳する仕事をする。そのなかで北朝鮮共産軍を「敵」と訳すべきかどうか自己決定を迫られる。木垣は、自らの戦争体験によって「人間というものはたまらない」という人間に対する深い絶望感を抱いていた。彼はそのためあらゆることへのコミットを極度に恐れていた。彼の妻もまた、戦前の上海時代の過酷な体験から同じであった。
彼の周囲にはこの戦争を日本再建の絶好のチャンスと考える物欲丸出しの上司や、この機会を革命に転化しようと考えている若い生真面目な共産党員たちがいた。前の戦争で死んでいった多くの若者たち(それは、長編「若き日の詩人たちの肖像」に詳細に書き込まれているが)を見てきた主人公木垣はただうろうろと迷うばかりであった。


 新聞はこの戦争に積極的にコミットし日本の世論も「米国人が血を流して持ちこたえている」としてしか見ていない。主人公木垣にとっては、この朝鮮戦争は地獄の朝鮮戦線から戻った米国特派員がいうような「人間の幸福」のためではなく、人間の「惨劇」としか映らなかった。日本は再び人殺しの行為を始めようとするのか、そして自分もまた・・・。


 しかし最後になって、木垣は戦争のない外国へ逃げようと企てる妻を押しとどめて、旧オーストリ-貴族が亡命資金としてよこした千三百ドルの紙幣を(それはこの貴族が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で稼いだ金であったが)を自らの手で焼いたのだった。彼は、日本の現実に踏みとどまろうと決心したのだった。

朝鮮戦争

2018年06月13日 09時37分57秒 | 医科・歯科・介護
朝鮮戦争は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。
1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。
1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。
北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。
しかしこれらの推計は発表者によって数値にかなりの差がある。

アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。
また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。
これに対して、中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している。

また西側の推定によれば中国軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者を出している。
一方中華人民共和国側の公式発表によれば、北朝鮮軍は29万人の犠牲を出し、9万人が捕らえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされ、中国軍については戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人となっている。
これらの捕虜のうち約1万4000人が中華民国(台湾)へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。
毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した。

戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人〜500万人の犠牲者が出たという説もある。
内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。
民間人に対する惨劇の最悪の実行者は韓国警察であった。
開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたもののアメリカ軍による報道検閲の実施により隠ぺいされるようになった。
また、ソウルにいた金億や朴烈らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。

第二次世界大戦後の理想主義や新しい理念が、朝鮮戦争という現実の前に色あせ、変質する。

閉ざされた扉・袴田事件52年

2018年06月13日 09時01分37秒 | 社会・文化・政治・経済
/上 心の拘禁、自由阻む 

繰り返し「うそだ」
毎日新聞2018年6月12日 東京朝刊

散歩中に「再審開始取り消し」の知らせを支援者から聞かされる袴田巌さん(左)=浜松市で11日(代表撮影)

52年前の6月に静岡市で起きた4人殺害事件を巡って死刑判決が確定した袴田巌元被告(82)について、東京高裁は11日、裁判のやり直しを認めない逆転判断を示した。即時抗告審の波紋を追った。
「残念な結果。良い知らせなら巌にも味わわせたかった」。高裁決定を受け、袴田さんの弁護団が東京都内で開いた報告会。二人三脚で「無実」を訴えてきた姉の秀子さん(85)は肩を落とした。自宅がある浜松市内にいた袴田さんは決定を知らされると、繰り返した。「そんなのうそなんだよ」

袴田さんが82歳の誕生日を迎えた3月10日。自宅で開かれた誕生会には、約10人の支援者とマスコミ関係者が参加し、ちらしずしやケーキを食べながら歓談した。
自身の年齢を「23歳」と信じ込む袴田さんは、支援者から「100歳まで生きたい?」と問われると「200!」と答え、周囲からは笑いが起きた。

 逮捕から釈放まで約48年。1980年の死刑確定後、東京・小菅の東京拘置所で袴田さんは「(自分に対し)電気を出すやつがいる」などと意味不明な発言を繰り返すようになった。釈放から4年がたった今も「(自分は)ローマ法王になった」などと口にする。

 秀子さんは「巌の妄想の世界なんでしょうね。40年以上も(拘置所などに)入っていたのだから、そうなるのも仕方ない。でも、最近はみんなと話ができるようになって、明るくなった。それだけこっち(現実)の世界に戻ってきている」と、前向きな変化の兆しを感じている。

 釈放直後は自宅に籠もりきりだった袴田さんだが、今では日常的に外出するようになった。
当初は目的地にまっすぐ歩くだけだったが、今では寄り道をしたり、一人で買い物をしたりもする。
だが、事件について袴田さんは「そんなものはない」「再審は終わった」と、事実と異なる認識を示す。心の拘禁症状が続く弟に代わり、秀子さんは東京高裁で開かれてきた3者協議(裁判官、検察官、弁護人が参加)に欠かさず足を運び、姉弟での「二人三脚」を続けてきた。

 秀子さんは今年2月8日、ごく短い「陳述書」を大島隆明裁判長宛てに提出した。

 <巌に一番効く薬は、自由しかございません どうぞ、ぜひ自由をお与えくださいませ>

 陳述書に込めた願いは完全にはかなえられなかったが、大島裁判長は死刑と拘置の執行停止を取り消すことはしなかった。
報告会で、秀子さんは「(決定文は)身柄を拘束しないと書いてあって、一安心」と述べ、振り絞るように続けた。
「これまで50年もたたかってきた。『再審開始』と言われる日が来ると信じて頑張りたい」

袴田事件 凶器の刃物を静岡県内で入手

2018年06月13日 08時57分22秒 | 社会・文化・政治・経済
冤罪の証拠 くり小刀

くり小刀は凶器なのか?

確定判決(一審静岡地裁判決)によれば、袴田さんは木工用のくり小刀1本で、専務・妻・子供2人を次々と刺して瀕死の重傷を負わせたうえ、混合油を4人の体に撒いて火を放ち殺害したとされています。

凶器とされたくり小刀
凶器とされたくり小刀の刀身は全長17.2cm、刃長12.1cm、刃幅2.2cmで、7月2日午後2時30分頃、専務宅の現場検証を行っていた警察によって、二女の死体の足元付近から発見されました。
発見時は柄も鞘もない状態で、全体的に黒く焼け焦げていました。
なお、鞘はくり小刀発見以前の6月30日に、専務宅中庭に落ちていた雨合羽の右ポケットに入っていたのを警察が発見したとされています。

被害者4人の死体には形や長さ・深さが様々な刺傷や切傷が多数残されており、その数は専務が15か所、妻が7か所、二女が9か所、長男が10か所に上ります。
専務と二女には肋骨を切断する傷があり、そのうち二女の傷は肺と心臓を貫通して胸椎まで達していました。