沖縄戦 死者は1日あたり千人以上

2018年06月26日 12時43分42秒 | 社会・文化・政治・経済
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。
この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。
その壕を掘ったのが学徒達であった。
米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。
ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。
ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。
しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。
沖縄守備軍は この間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。
日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。
使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。
このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。
地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと表現される。
残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。
1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。
その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人。
そのうち94,000人が民間人である日本側の負傷者数は不明。
アメリカ軍側の死者・行方不明者は20,195人、戦傷者 55,162人。
イギリス軍の死者85人で、アメリカ軍戦闘外傷病者は26,211人であった。







ありったけの地獄を集めた沖縄戦

2018年06月26日 11時53分16秒 | 社会・文化・政治・経済
“ありったけの地獄集めた”沖縄戦とは 坂東太郎・早稲田塾講師の時事用語

米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」 と刻まれた沖縄戦は、日米合わせて20万人以上が亡くなり、沖縄県民の死者数も約12万人以上と推計されています。
1945年3月末から始まり、6月23日に事実上の戦闘が終わりました。
天皇陛下も皇太子時代に「記憶しなければならない日」として挙げた4つのうちの一つを「沖縄の戦いの終結の日」としています。
「70年前の今日」という節目で改めて振り返ってみます。

日本で唯一の地上戦?
沖縄戦のことをよく「日本で唯一の地上戦」と言いますが、それは現在の日本国の領土に限ってのことです。
だとしても、硫黄島の戦いがあるので正しい表記とは言えません。
民間人に多数の死者が出たのは作戦上のさまざまな錯誤があったからと思われます。
神社や寺、琉球王国の象徴であった首里城守礼門など8つの国宝が焼失、焼損しました。

 慶良間(けらま)諸島への米軍上陸に始まり、4月1日からは沖縄本島へと展開、激闘の末、首里(那覇市)から司令部が移った摩文仁(まぶに、糸満市)の陣営が陥落したのが6月20日。米陸軍と海兵隊を相手に激闘を繰り広げた沖縄の主力である第三二軍の最高司令官であった牛島満(うしじま・みつる)中将が自決したのが23日とされています(※)。
この日を沖縄県は「慰霊の日」と定めました。

本土決戦を遅らせるための持久戦
 1945年、前年のレイテ沖海戦の勝利でフィリピン奪還のめどが立った米軍は、次に日本本土空爆拠点や船舶の寄港地、および九州上陸作戦への展開などを総合的に勘案し、至近の台湾を飛ばして沖縄に着目しました。
現在でもそうであるように沖縄は東シナ海における要衝で日本軍の飛行場もあったので、それをわがものにしようという計画でした。

 一方、日本の最高統帥機関である大本営は次が台湾か沖縄かで悩み、台湾の可能性を見越して第三二軍から兵力の一部を回しました。
このあたりから第三二軍と大本営のコミュニケーション・ギャップが生じ、沖縄戦全体を覆うようになります。

 第三二軍は44年半ばごろから首里を中心とした南部で、固いサンゴ礁の土地柄を生かした堅牢な地下陣地を張り巡らして米軍来襲に備えました。
目的は本土決戦を少しでも遅らせる持久戦です。
大本営は米艦隊の接近もしくは米軍上陸の際に、航空戦力で大打撃を与え戦意を喪失させる「天号作戦」を準備していました。
ところが沖縄戦に先立って米軍が仕掛けてきた九州沖航空戦で、海軍機が大幅に摩耗するなどの誤算があり、また大本営が航空戦の戦果を過大視したのもあって、4月1日の本島上陸に間に合わず、ほぼ無血のまま上陸を許しました。
第三二軍は来るはずの友軍大編隊が現れず、不可解な思いを抱いたまま当初の予定通り地下陣地を中心とする守りを固め待ち構えます。
その結果、中北部にある北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納市)の守りが手薄になり、あっという間に敵の手に落ちてしまいました。
ちなみに後者が現在の米軍嘉手納飛行場です。

 大本営は慌てました。「天号作戦」は航空兵力による作戦なのに、飛行場をあっさり奪われたのではたまりません。そこで第三二軍にしきりと「攻勢に出よ」と督促します。しかし、そうしたら肝心の陣地守備がままなりません。
結局、すでに分断されてしまった北部の攻勢は行ったものの、かなりの兵力を失ったに過ぎず、以後押し寄せる米兵と海からの猛烈な艦砲射撃と空爆に耐えながら、陣地を死守する方針に一本化されます。

 4月5日ごろから陸戦が始まりました。米陸軍を率いるバックナー中将があくまで正面突破にこだわったため、地下通路を自在に往来し、ゲリラ戦のような戦いを挑んでくる日本軍に何度も手痛い思いをさせられました。また砲兵が、太平洋戦争の島をめぐる戦いの中ではかなり充実していたのも米軍の心胆を寒からしめた要因です。

 艦砲射撃で援護し、物資を輸送する米海軍は、九州や台湾から発する日本の航空部隊の特別攻撃(体当たり作戦)で甚大な被害を受けました。
それでも戦力に圧倒的な差があり、地下陣地の入り口をふさいで通気口からガソリンなどを流し込んで火災を起こさせる戦法が功を奏し、次第に日本軍は追い詰められていきます。
多くの住民の犠牲や集団自決
 沖縄戦の悲劇として語られる第一は、一般住民の多くが戦火に巻き込まれた事実があります。実は沖縄戦が始まる以前から学童を中心とした疎開は進められてきました。
しかし輸送船が狙われるのではないかという恐怖や本土の根深い沖縄への差別意識で容易にはかどらず、多くの人が首里周辺から今の南城市や糸満市へと避難していました。
その糸満に司令部が移ってきて、バックナー中将も手を緩めなかったので、結果として多くの住民が命を落としました。

 集団自決も報告されています。「鬼畜米英」とすり込まれていたからとか、捕虜の保護を定めたハーグ陸戦条約などの知識が不足していたとか、諸説存在します。近年最も問題になっているのは軍による強制があったか否かで両論あります。

 象徴的な悲劇として語られるのが、ひめゆり学徒隊でしょう。教師を育成する沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(15~19歳)222人や引率の教師18人によって編成され、第三二軍直下の病院で負傷兵の看護などにあたりました。
戦局が絶望的になった6月18日に解散命令が出され、行き場を失った多くが摩文仁などに追い詰められ、戦場をさまよっているところで砲弾などを受けて教師13人、生徒123人が犠牲になりました。
戦場は誰にとっても悲惨ですが、学徒隊はまだ若い女子生徒であったので悲劇性がひときわ高く、戦後になって注目されるようになりました。

 多くの民間人の死者を出した沖縄県民にとって、沖縄戦は本土の犠牲にされたという思いがあります。
確かに陸軍の宮崎周一参謀本部第一部長は、沖縄戦について「結局敵に占領せられ本土来寇(らいこう)は必至」と捨て石にするかのような発言をしています。
ただ宮崎部長は熱心な本土決戦論者で、彼の思い通りにことが運んでいたら本土も沖縄同様の災厄に見舞われていた可能性が高く、昭和天皇の「聖断」で回避されるとは、予想だにしていなかったでしょう。

 第三二軍の司令部移動とそれに伴う多くの住民の死も「日本軍は県民を守らなかった」という気持ちにさせました。
首里を去る際に戦局は決まっていたのに続行したと。攻める側のバックナー中将にも同じような指摘がアメリカでもなされており「不要だった」という声もあります。

(※)牛島中将の自決の日をめぐっては6月22日説もある。


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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】

難民が過去最多

2018年06月26日 11時17分31秒 | 社会・文化・政治・経済
2017年末には、6850万人に上った。
2秒に1人の割合で発生。
強制移住を強いられている53%が子ども。
その多くは家族を伴わない。

世界の難民・避難民、過去最高の6560万人=国連

BBC 2017年06月19日

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、世界中にいる国外に逃れた難民や難民申請者、国内で住まいを失った避難民の合計が、昨年末時点で過去最高の推計6560万人に上ったとする報告書を発表した。
2015年末時点と比べて30万人増加した。
500万人増えた2014年末からの1年間と比べると小幅の増加となった。
しかしフィリッポ・グランディ難民高等弁務官は、今回の統計は依然として各国外交の失敗を物語っていると指摘した。
同氏は、「世界は平和を実現できなくなってしまったようだ」と語った。
「古い対立があとを引く一方で新たな対立が噴出し、その両方が難民・避難民を生み出している。
(中略)強制的な立ち退きは、終わりを知らぬ戦争を象徴している」
グランディ氏はさらに、難民・避難民の問題が世界の最貧国の多くにとって重荷になっていると警告した。
難民・避難民の84%が低・中所得国に集中しているという。

同氏は、「より豊かな国が拒否するのなら、資源がずっと限られたアフリカや中東、アジアの国々に何百万人もの難民を受け入れるよう、どうやって求めることができるのか」と述べた。

国連は、過去最高を更新した今回の数字が、先進国が単に難民受け入れを増やすだけでなく、平和推進や復興に投資することを促していると指摘した。
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難民・避難民の数
■難民数は2250万人
■国内で避難を余儀なくされた人の数は4030万人
■難民認定を申請している人の数は280万人

難民の主な出身国
■シリア:550万人
■アフガニスタン:250万人
■南スーダン:140万人

難民の主な受け入れ国
■トルコ:290万人
■パキスタン:140万人
■レバノン:100万人
■イラン:97万9400人
■ウガンダ:94万800人
■エチオピア:79万1600人
このほかシリア国内では630万人が住まいを失っている。

フロー体験

2018年06月26日 10時55分49秒 | 社会・文化・政治・経済
独自の生き方の表現であり、生活の質を高めるものでる。
達成感や成長感がある。
満足や充実、わくわく感と深く関わって、自分が強く、たくましくなったようにも感じる。
心の健康を維持し、張り合いのある日々をすごしていく上で、フロー体験は、とても大切なももだ。
趣味、特技、好きなことに深く関わる。
一人一人が自発的に見つけ出すもの。
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フロー (英: Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。
ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。

明確な目的(予想と法則が認識できる)
専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
状況や活動を自分で制御している感覚。
活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。

ブロック塀の倒壊 教訓が生かされなかった

2018年06月26日 10時40分57秒 | 社会・文化・政治・経済
1978年の宮城県沖地震で9人がブロック塀の倒壊で死亡している。
2016年の熊本地震では1人、今年6月の大阪北部地震では2人が犠牲となった。
過去の教訓が生かされなかった。
ブロック塀が危険だという意識がなかった。
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熊本地震で、両親のすむ家のブロック塀が倒れ、隣地の家の外壁を傷つけてしまいました。
隣地の所有者から、外壁の補修費用を請求したいと言われています。
ブロック塀は30年前に建てられ、両親の家の敷地内に設置されています。長さの詳細は分かりませんが、高さは4段です。両親が支払うべきなのでしょうか。

一般的な場合には、土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があることによって他人に損害を与えた場合は、工作物の占有者は被害者に対してその損害を賠償する責任を負い、占有者が損害の発生を防止するのに必要な注意をしたときは、所有者がその損害を賠償しなければならないと規定されています(民法717条1項)。
しかし全く予想外の災害により工作物が破壊されたときには、損害賠償の対象にはならないと考えられています。
今回の地震の場合、いずれに該当するのかは、個別具体的に検討しなければ、判断することができないと思われます。
なお、この本件のブロック塀が設置された後に制定された規定ですが、ブロック塀の高さや設置については、建築基準法施行令第62条の8、及び、平成12年建設省告示第1355号において定める基準を、最低限守らなければならないとされています。
被害の状況や図面等を用意して、弁護士や建築士による対面の相談をうけることをおすすめします。

何か行動を起こしていくのだ

2018年06月26日 10時24分31秒 | 社会・文化・政治・経済
良い教員と出会ったかどうかが、学生の人生を決めると言ってもいい。
それほど、教員の存在は大事なのだ。
どんな分野であれ執念を持った人間が最後は勝つ。
執念の人には、かなわない。
「執念」とは何か。
「忍耐強く耐え抜くこと」は重要であるけれど、まだ受け身だ。
さらにもう一重(いちじゅう)、強く、深く「執拗なまで攻め抜くこと」―これを執念と言うのだ。
ここにこそ、勝利の活路は、必ず開ける。
歴史を動かすのは「人の力」である。
どんな人がいても、烏合の衆では力にならない。
偉大な人間がいるかどうかだ。
偉大な人間がいれば、平和な社会も、豊かな社会も、実現できる。
学生は、「学び、戦う」「探究し、そして行動する」
勉学に専念していれば、それで十分というわけではない。
社会のため、人々のため、何か行動を起こしていくのだ。
勇敢に闘争いくのだ。
そこで得られた経験は、必ず自らの学問に結びつき、自身の貴重な力となっていく。
現実社会を見れば、人を苦しめ、悩ませ、不幸にさせていく悪に満ちている。
この世は、善と悪との戦いだ。
その悪を滅してゆく善の戦いを教えていくのが、教育の役割なのだ。
小さな、つまらない人生を生きてはならない。
大きな使命のため、大きな悩みを持ちながら、大きな自分をつくり、大きな歴史を残すことだ。

<何のために学ぶのか>

2018年06月26日 09時59分59秒 | 社会・文化・政治・経済
教師の接し方が変われば、生徒は大きく伸びていける。
生徒にとって、教師こそ最大の教育環境である。
生徒の可能性を見出していくことは、教師の大きな役割だ。
<何のために学ぶのか>という目的意識を生徒の中に培っていくことも、その人間形成に大きな意味を持つ。
生徒が自他の生命の尊さを深く知ることは、より良く生きるための土台となる。
教師が、生徒の可能性を伸ばそうとするのも、学ぶ目的を育もとするのも、そのより大きな目的は、生徒自身が自らの力で幸福を創造できるようにするためだ。
学ぶことは、人生の幸福を築く大きな力となる。