警察予備隊の創設

2018年10月22日 02時38分56秒 | 社会・文化・政治・経済

朝鮮戦争が起きたので、朝鮮半島へ出撃した米軍に代わって、米軍基地を守らせるために必要だった。

日本に戦争放棄せたのになぜ?


1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。
警察予備隊:コワルウキー大佐が生みの親
その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団(第1騎兵・第7歩兵・第24歩兵・第25歩兵)であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始している。
その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。
7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。
この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。

1952年7月23日
戦争になったら米軍の指揮のもとで戦うという密約を米軍側(マーク・クラーク陸軍大将)と吉田茂首相と結ぶ。

保安隊(ほあんたい、英語表記:National Safety Forces)は、保安庁に警備隊と共に置かれた、日本における国内保安のための武装部隊である。
1952年(昭和27年)10月15日に警察予備隊を改編して発足した。
現在の陸上自衛隊の前身に当たる。

「日本はアメリカ政府ではなく軍部にずっと植民地支配されている。
いったいどんな関係になっているの?」ライス米国務長官が問う。
米国務長官も本当はまったく理解できていない。
「米国軍部と日本政府(官僚)」の関係。

戦争 理由はどうあれ、愚かな選択をした

2018年10月22日 02時02分49秒 | 社会・文化・政治・経済
戦争日本の損失

図式・構図的に例えれば、ネコ・日本とライオン・米国の戦争を日本は選択したわけ。

日中戦争勃発から敗戦まで、植民地籍の人も含めて、少なく見積もっても、戦死者(戦病死含む)約230万人。
これに加えて、民間人犠牲者が約80万人。
生き残った人々も、家族や親しい人の喪失、体や心の傷、経済的損失、生活基盤の崩壊などを被りました。

なお、戦死者の内、餓死が約60万人といわれています。
(栄養失調での抵抗力喪失による病死などを含めた「広義の餓死」は戦死者の6割に達するという意見もあります。)

また、移動中の輸送船撃沈による海没死が40万人と推定され、輸送船船員の死者は6万人におよぶといわれています。

内地の人口統計を見ると、1936年までは毎年1.5%前後増加していたところ、37年以降は0.5%前後となり、戦争による犠牲者発生の影響が明確にみられます。
ついでに、1943年の人口は7390万人ですが、2年後の1945年の人口は7260万人、すなわち2年で130万人が減少するという異常値も。

ちなみに、民間人犠牲者の大部分と戦死者の約3分の1は、サイパン陥落から敗戦までの約1年強に生じており、仮にサイパン陥落時点で降伏できていたなら、死者は約半分、民間人犠牲者も極小数にとどまっていただろうという指摘もあります。

富の損失

工場やその生産設備、船舶、航空機、鉄道車両、ビル、学校など、日本の国富は敗戦時の時価換算で4分の1が失われました。

ちなみに、この時期の軍事費は約7560億円、同時期の国民総生産の3分の1から半分に相当し、現在の貨幣価値に換算すると2268兆円に達します。
アジア戦域での日本人以外の犠牲者数の正確な数はわかりませんが、各国推計を合計すると1900万人となります。
富の損失についてはもはや算定しようもありません。

近年は、またぞろ日本の戦争責任についての議論が目につくのですが*3、海外に対する戦争責任だけでなく、日本国民に対する日本国政府の戦争責任についても、もっと議論すべきじゃないか。

アメリカと日本はなぜ太平洋戦争で戦うことになったの?

2018年10月22日 01時45分55秒 | 社会・文化・政治・経済
第二次世界大戦は、主にヨーロッパでの戦争のはず・・・。
なぜ、日本とアメリカまでが争うことになったのでしょうか?

 実は、日露戦争以降の日本とアメリカはすでに微妙な関係にあったのです。

 日露戦争のときは、ロシアにおける満州占領を恐れていたアメリカは日本に友好的でした。
しかし、いざ日本がロシアに変わって南満州に進出すると今度は日本による満州進出がアメリカにとってはやっかいになってきます。

 19世紀末のアメリカはキューバの独立問題などにより中国進出に遅れをとっていました。まぁ、ロシアに満州を占領されるよりは日本の方がマシか・・・。
と、日露戦争時には日本支持の立場をとっていたアメリカですが日本が日露戦争に勝利すると旅順~長春の間の鉄道を日米で共同経営しない?などと提案してきます。
もちろん日本は「イヤだよ~」ということになるわけですが、その日本の態度に「う~ん。日本も警戒した方がいいな」ということになるのです。
さらに当時のアメリカは太平洋への進出もどんどん進めていたころ。
この太平洋の対岸にあるのが日本ですね。
その日本には強力な海軍がおり、これ以上、日本に力をつけられてもやっかいなことになりかねない・・・。
そこでアメリカは日露戦争終結の直後から日本に対して警戒感をあらわにしていきます。
日露戦争の翌年には、カリフォルニア州にて日本人移民の子供を公立小学校から追い出すという法律までできていますし、1913年にはカリフォルニア州で外国人(主に日本人を想定していたといわれています)の土地の所有を禁止しています。
更には、いつでも日本と戦争ができるようオレンジ計画という作戦まで立てていました。

 そこに起きたのが、1937年の日中戦争です。当然、アメリカにとっては、日本には勝って欲しくない・・・。
それでも一応、表面上は日中戦争において、中立の立場を守っていたアメリカ。しかし、1938年、近衛首相は大東亜共栄圏というスローガンを打ち出します。
日本、満州、中国、東南アジアを統合した経済圏を作ろう!というスローガンです。

 アメリカは、それに強く反応。そして、石油などの資源の輸出の制限などの経済制裁を日本にくわえ、中国支援をするのです。

 石油を止められてしまったら、中国との戦争に勝つこともできません。戦艦も飛行機も動かせなくなっちゃいますからね。

 日本は、「何とかなりませんかねぇ」とアメリカと交渉にのぞむのですが、その間もちゃっかり東南アジアに資源を求めて侵攻。
そんなもんだから、交渉など上手くいく訳もなく、「中国から兵を引き上げて、満州も元の状態に戻せ」と言われ、もうどうにもならなくなった日本は、「いいや、アメリカとも戦争しちゃえ」と太平洋戦争が始まるのです。

 太平洋戦争前から日本とアメリカとの関係は微妙だった訳です。
そこに、日中戦争。
また、ヨーロッパでの第二次世界大戦が後押しして、遂に太平洋戦争突入となってしまったのです。

アメリカからの経済制裁

2018年10月22日 01時35分43秒 | 社会・文化・政治・経済
太平洋戦争とは、1941~45年。
日本がアメリカ海軍が多数駐留するハワイの真珠湾を攻撃し始まった戦争です。では、この太平洋戦争について少し詳しく見てみましょう。

話はヨーロッパに飛んで、ドイツのお話から・・・。ドイツは第一次世界大戦に敗北し、その後の世界恐慌のあおりを受けてファシズム(独裁政治によって軍事力を強化し、海外進出を狙う)に走っていました。
ドイツのナチス党のヒトラーは1939年にポーランドに侵攻。当時、ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがそれに対抗しドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まります。
1940年にはドイツはイギリスを除く、ほぼヨーロッパ全土を支配下に治めるといった怒涛の勢いを見せるのですが・・・。

 その頃、日本は日中戦争の最中。
当時、満州国建国などで国際的に孤立してしてしまっていた日本は、このドイツの勢いに乗ることにします。
1940年、ドイツと同じくファシズムに走っていたイタリアとも手を組み、日独伊三国軍事同盟を結びました。
しかし、遠いヨーロッパの国の2国と軍事同盟を結んだところで実質的な効果はなく、逆にイギリスを支援するアメリカとの対立を深める原因になってしまいます。

 そして、アメリカからの経済制裁を日本は受けることになります。
「石油などの燃料や鉄を日本に輸出しないよ」といいだすのです。中国との戦争中に、燃料がなくなるのは日本にとって痛すぎます。「石油の一滴は、血の一滴」という言葉があるくらい戦争では燃料が勝敗に大きく左右したのです。

なんとか、アメリカの怒りを静めようと日本も努力します。
1941年4月に日本はアメリカとワシントンで交渉を開始。

 しかし、その一方で日本の陸軍は石油やゴムなどの資源を求め、ベトナムへ軍を進めサイゴンへ入城します。

 日本とアメリカの経済力の比較
     人口     原油産出量 石炭産出量 鉄鉱石産出量
日本  7193万人   28万トン 5647万トン 76万トン
アメリカ 1億3167万人 1億8950万トン 4億6391万トン 9389万トン

サイゴンとはアメリカ領のフィリピン、イギリス領のシンガポール、オランダ領のインドネシアなどすべてを攻撃できてしまう場所。これに危機感を募らせたアメリカは日本に対して石油の輸出を全面禁止。
アメリカにいる日本人の資産を凍結させるなどの処置にでます。

 そして、同年11月。
アメリカ国務長官ハルは最後の提案として日本に中国からの日本軍の撤兵、日独伊の同盟廃棄、中国の満州を満州事変以前の状態に戻すことなどの条件を日本に突きつけました。
しかし、日本としては到底飲める内容ではなく、1941年10月、首相に就任した東条英機(とうじょう ひでき)は遂に真珠湾にてアメリカ海軍を攻撃。
太平洋戦争が始まるのです。

 しかし、そもそも、なぜアメリカは日本に経済制裁を加えたのでしょう。
ドイツと同盟を結んだくらいで、そんなに怒ることない。
アメリカあまり関係ないし・・・。

 開戦後、まもなくは日本海軍は怒涛の勢いで太平洋上の島々を占拠します。
1942年1月、マニラ占領。1942年2月、シンガポール占領。1942年3月、ジャワ島占領。しかし、その勢いもそこまで・・・。
1942年6月のミッドウェー海戦では空母4隻、航空機300機を失い、また多数の熟練兵も失い惨敗します。
このミッドフェー海戦を機に戦局は一変。
アメリカの猛反撃にあいます。

 もともと、日本は物資に乏しく、短期決戦でしか勝てる見込みはなかったのです。

 その後は、守りに回った日本ですが米軍の猛攻になす術もなく、硫黄島敗北、沖縄戦敗戦・・・。
そして、広島、長崎に原爆を投下され投下され1945年8月15日。
ついに昭和天皇はラジオにて全国民に向け敗戦を伝えるのでした。

米国と開戦しない選択肢はなかったのですか?

2018年10月22日 01時30分59秒 | 社会・文化・政治・経済
日本はなぜ真珠湾を攻撃したのでしょうか?
開戦しない選択肢はなかったのですか?

真珠湾を攻撃した理由は、米海軍の力を大きく削げると思ったからです。
なぜそれが有効だだと思ったかといえば当時の日本は米国の真意がまるで分かっておらず、日本が怒って見せれば話し合いに応じるだろうと考えたからです。
事実は米国は理由は兎も角、日本を戦争に引っ張り出すことこそが目的だったので後知恵で言えばあれば失敗だったんですが。

また開戦しない選択肢は勿論ありましたが当時の為政者、国民にはその道は見つけられなかったと思います。

言ってしまえば首を占められて意識が遠くなってる時に、それを何とかする美味い手が直ぐ其処にあったとしてもそれに気が付ける状況じゃあなかった、というところですよ。

切羽詰まった時に、物事常に正しい判断が出来る出来ない以前に、正解を見つけられるかどうかは何とも言えないんですから。

真珠湾攻撃の原因は何なんでしょうか?

2018年10月22日 01時26分55秒 | 医科・歯科・介護
米ソ代理戦争

日本軍はなぜ真珠湾攻撃をしたのですか?
太平洋戦争は真珠湾攻撃が始まりと言われています。
では、そもそもその真珠湾攻撃の原因は何なんでしょうか?

当時の日本は中国大陸での利権の絡みでアメリカなどと対立中でした。世に言う「ABCD包囲網」で経済や貿易を封鎖されていたのです。日本としては石油の備蓄が無くなる前に資源の確保をし様としました、つまりこれは封鎖をしているアメリカにケンカを売ることになるわけです。

で、日本軍人は考えたわけです。「アメリカと戦って勝てるか?」と。
戦争は勝てる算段が無ければ起こしにくいものです(逆に無いと敵から吹っかけられることもあります)。
例えば日露戦争では、兵力差は日本軍20万に対してロシア軍200万以上と段違いの差でした。しかし、トルコやフィンランド、中央アジアの抑えを除くと25~30万程度しか出せない上に、輸送は単線のシベリア鉄道でしかできない。
じっとしていてはロシア軍は増える、ならば開戦し、1年で極東のロシア軍を殲滅して遼陽・奉天を占領すれば勝てると判断したために日本は起こしたわけです。

太平洋戦争ではアメリカ太平洋艦隊の集結地点であった真珠湾を攻撃して一気に太平洋のアメリカの戦力を叩くために真珠湾を攻撃したのです。
アメリカ軍は打たれ弱いと考えていたようです。
確かに敵兵を何十倍も殺しているのに、自国に大きな損害がでると米国国民の戦意は低下しています。(例:ベトナム戦争・イラク戦争など)そこで早期に講和すると言う算段でした。
ところがどっこい、間抜けな外交官のせいで宣戦布告の通達が遅れたためにアメリカ国民の怒りが倍増・・・結果は御存知のとおりです。
日露戦争の時と比べると非常に大雑把な計画だったのが失敗につながった原因だと思います。

なぜ真珠湾を攻撃したのか?

2018年10月22日 01時20分06秒 | 社会・文化・政治・経済
ソ連の煽動もあり反日一色となった

落合道夫(東京近代史研究所代表)

 真珠湾事件は一般に日本の奇襲攻撃とされているが実際は反撃であり1年以上前から計画されていた。
このため米国も知っており、事件の10カ月前の1941年1月27日にはグルー駐日米大使はハル国務長官に「日米交渉が決裂した場合日本海軍は総力を挙げて真珠湾を攻撃するという噂が東京外交界に流れている」と警報を送っている。この公電は現在米国ウィスコンシン大国務省外交文書図書館のHPで公開されている。


 しかし、日本の仮想敵国は本来北方の大敵ロシアであり米国ではなかった。
日本人は米国に対して一貫して友好であり、米国産業界にとっても日本は世界第三位であったが、問題を起こさない上得意の国であった。それなのになぜ日本は真珠湾を攻撃することになったのか。

 それは戦前の日本が米政府から長期的な圧迫を受け、追い詰められたからである。日本の対米戦の動機は自尊自衛であり、まさに窮鼠猫を噛むであった。
日本の反撃の直接の契機となったのは直前のハルノートであるがルーズベルトの敵対行動はその4年前の支那事変から始まっていた。

 1937年8月13日の支那事変はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。
日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な援蒋軍事援助を開始し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。

 蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質米ソの対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。

 それではなぜルーズベルトは日本を攻撃したのか。
これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。
それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。

 日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。
そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。

 この結果、1930年代の米国社会は政府の反日姿勢に加えソ連の煽動もあり反日一色となった。
1934年米国を訪れた吉田茂は駐英大使の資格で行ったのにひどい待遇を受けたと記している。これに対し元外交官で極東専門家のマクマレーは1935年国務省極東部長ホーンベックの要請を受け極東政策について意見を具申した。