由紀の父親の遺影

2019年01月17日 23時57分38秒 | 創作欄
    • 「私のこと、家まで送って」由紀は甘えるような口調で言う。
      徹は由紀のことを家族に聞いておこうかと思った。
      なぜ、そのように思ったのか?
      「尋常でない由紀のことを家族は、どこまで認識しているのか」確かめたかったのだ。
      「同僚として、今後も一緒に仕事を続けていけるのか」と不安な気持ちにもなっていた。
      まだ、社長は「面白い子だ。ユニークだね」と由紀を表面的にしか見ていない。
      社長の息子は「頭がおかしい」と決めつけいる。
      家で由紀の事が話題になるだろう。
      東北線の白岡駅西口から本町通り商店街を越え西側の市道を行くと、由紀の家と隣接する建設工務店があった。
      「お母さん会社の真田徹さんをお連れしたの」と玄関で由紀が紹介する。
      「そうですか。遠慮なくお上がり下さい」と親しみがこもった声であった。
      「突然で、申しわけありません。娘さんと同じ編集の仕事をしています。よろしくお願いします」徹は頭を下げた。
      玄関の右手の応接間に通うされた。
      「私、コーヒーを入れてくる」と由紀は部屋を出て行く。
      「お住まいはどちらですか?」と聞かれる。
      「高崎線の上尾です」
      「上尾なのね。妹が住んでいるので良く知ってますよ」と微笑む。
      台所に立っていたのだろう、割烹着姿であり和服を着ていた。
      徹は出窓の棚に置かれている額縁に入れられた写真に目を留めた。
      「亡くなった父親です。猿も木から落ちると言う例えがありますが、建築中の2階の足場から落ちて、頭を打つて亡くなりました。その時のショックであの子は眠れないと言って毎日泣いていました。うつになり、婚約していたのですが破談になりました」
      「そうでしったか」徹はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。

 

映画 『米』

2019年01月17日 23時23分27秒 | 医科・歯科・介護

』(こめ)は、1957年(昭和32年)3月4日公開の日本映画である。東映製作・配給。監督は今井正

カラースタンダード、118分。

封建的な因習の残る農村の人間たちの生活を、霞ヶ浦の美しい田園風景と共に描いた、今井正監督の初のカラー映画。第31回キネマ旬報ベスト・テン第1位。

出演者 望月優子
江原真二郎
木村功
中村雅子
加藤嘉
原泉
音楽 芥川也寸志

 

 

米
 
東映映画会社のタイトル画像からして何か芸術祭とか賞狙いの感じがひしひしと伝わる作品である。
霞ヶ浦の帆船がたくさん出てきて帆を立てる様は、スペクタクル映像のように見えるところは、一見の価値があるかもしれない。
ただ内田吐夢がやった「土」の現代版(あくまで当時ですよ)を作りたいと言う要望から、かなり貧乏な映画になっており体制への批判の映画でもある。
そこは今井正の左翼思想がよく出ていてやむを得ないかもしれない。
木村功の茨城弁が効いていると、だんだんお笑いコンビカミナリのたくみくんのように聞こえてくるのが、どうにもおかしい。
女性は、みんな赤プル。
そして後半だんだん主役が望月優子になってきて木下恵介の「日本の悲劇」ではないかと思うような展開になってくる。
この映画は、当時はかなり評価が高かった作品であって今更ながらに見てみるとそんなにグッとくる映画でもない。
むしろ同じく望月優子が主役を演じた方「日本の悲劇」の凄さがよくわかる。

茨城県の零細農家の次男と三男を中心に描いた物語。

農民の子供として生まれたのだが、土地も持てず、貧困生活とそれに伴う不遇の生活。
こうした兄弟を描いているのだが、大きな帆をふくらませて霞ヶ浦(だったか?)で行う独特の漁の風景は美しかった。

物語の不遇さ、そしてそれに反比例するような情緒豊かな風景の対比によって、名作としての地位を得たのではないだろうか。

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茨城県 出島のいちご

2019年01月17日 22時39分56秒 | 日記・断片

今年も出島のいちご店へ電話でいちごを二箱注文した。

出島のいちごは、5年ほど前から送ってもらい食べている。
お世話になった前の職場の社長宅にも届けた。
宅配便は、午前8時ころ到着した。
「毎年、送ってもらい、ありがとう。楽しみにしている」と午後8時ころ渡辺さんから携帯電話に連絡がある。
「久しぶりに飲みたいね」と言う。
3年前へ社へ訪ねたら外出中であった。
「仕事、順調ですか」と聞いてみた。
「おかげさまで、辞めさせてくれない」と元気な声であった。
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霞ヶ浦は右手でじゃんけんの「チョキ」を人差し指と中指で作り、掌を手前に向けた形をしています。
人差し指の先端が石岡、中指の先端が土浦、曲げた薬指の辺りが美浦村、手首が水郷地方です。

人差し指と中指が作る股の部分、すなわち出島地方。
ここは、以前は、その名の通り、出島村であったのが、1997年に霞ヶ浦町となり、2005年、千代田町と合併し、かすみがうら市となったものです。

この一帯は、旧石器時代の頃は、象なども住んでいたようですが、縄文中期の海進時代には、海で、その後、海が退くにつれて、人が住むようになり、弥生時代から古墳時代になると、稲作が広まり、この一帯は「豊葦原瑞穂の国」と言うにふさわしい土地であったようです。

大和朝廷の支配下では、九州や東北経営の兵站の拠点でした。たくさんの大型の前方後円墳がそれを物語っています。

明治以降も、農業や漁業が盛んな土地です。しかし、周辺の市町村の人口が増え、汚水が湖を汚し、過剰な養殖や、護岸工事で葦原が無くなるなど、自浄作用も減り、霞ヶ浦の汚染は、今でも進んでいます。

今、那珂川などから水を引こうと言う計画が進んでいますが、それだけで問題は解決しないでしょう。周辺の市町村の下水道の完備など、汚水の流入を防ぐことが第一と思われます。


ひきこもり支援 相模原市

2019年01月17日 11時59分35秒 | 社会・文化・政治・経済

ひきこもり状態とは ひきこもりのタイプ ひきこもり支援のポイント

 『ひきこもり状態』とは、様々な原因の結果として 社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就 労、家庭外での交遊など)を回避し、概ね家庭にとど まり続けている状態(他者と交わらない形での外出を していてもよい)と定義されています。(ひきこもり 地域支援ガイドブックより)  ひきこもりは病名ではなく、あくまで状態を表す言 葉です。

ひきこもり支援のポイント
 『ひきこもり状態』とは、様々な原因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就
労、家庭外での交遊など)を回避し、概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出を
していてもよい)と定義されています。

(ひきこもり地域支援ガイドブックより)
 ひきこもりは病名ではなく、あくまで状態を表す言葉です。
 大きく分けて以下の 3 つのタイプに分けられ、それにより支援の方法が変わってきます。
 『ひきこもり』はその人らしい生き生きとした日々を回復していくためのプロセスです。叱咤激励だけで
はなかなか解決しません。元気を取り戻すための支援やご本人が安心できる環境づくり、コミュニケーショ
ンの見直しなどが大切です。
 また、ご家族をはじめとする支援者が、孤立せず社会とつながって元気を取り戻すことも忘れないよう
にしましょう。
 ひきこもり支援ステーションは、ひきこもり支援コーディネーターがひきこもりに関する相談対応、課
題整理を行い、様々な機関と連携しながら、ご本人にとってより良い生き方を一緒に考えていきます。どう
ぞお気軽にご相談ください。
原則 18 ~ 64 歳のひきこもり状態にあるご本人、そのご家族および支援者           
※上記の年齢以外は支援機関と連携の上、個別に対応を検討します
ご利用案内
費  用
無料です
相談受付
相模原市
月曜日~金曜日(祝日・年末年始を除く)
午前 10 時~正午    午後 1 時~4 時
相談専用ダイヤル:042-769-6632


中高年のひきこもり

2019年01月17日 11時54分25秒 | 社会・文化・政治・経済

ひきこもりとは、「自室からほとんど出ない」「自室からは出るが家から出ない」「普段は家にいるが近所のコンビニなどには出かける」に該当する「狭義の ひきこもり」と、「普段 は家にいるが、自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」「準ひきこもり」を合わせた総称です

現代社会の問題点

ひきこもりの長期・高齢化
これまでひきこもりは若者の問題として捉えられ、10代~20代の若者に限定した対策が協議されてきました。
しかし、近年ではひきこもりも長期化・高齢化傾向にあります。30代~50代にもなると国や自治体・NPOの支援対象年齢からも外れてしまい、支援の手が満足に届かないのが現状です。
彼らの親も高齢になるにつれ、問題に立ち向かう気力・体力をなくして解決を諦めてしまいます。親の死を隠して年金を不正受給、その末の孤独死…といったニュースは後を絶ちません。
このような最悪の事態に陥る前に、根本的かつ具体的な対策を講じる必要があります。
行政やご家族での対応には限界があります
現代社会の全てのひきこもりを、国・行政機関のみで対応しようとすれば、社会保障制度が崩壊する程の予算と時間がかかることでしょう。
多くのご家族が、様々な文献や相談機関を当たり、講演会やセミナーで著名な方の意見を聞いては、根気強く対処を続けておられます。 しかしこれらの対処方法は、必ずしもそのご家庭の現状に即したものとは限らず、実際には継続困難なテクニックも中には存在します。
効果が見られないまま数年が経過するようであれば、方法論としては失敗であったと言わざるをえないでしょう。

こうしたご家族が精神的・肉体的・金銭的に追い詰められて当センターにご相談になるケースは少なくありません。
ひきこもりは、日々の経過を見守るだけでは解決しません。解決は時間が経てば経つほど困難です。
一刻も早く専門機関へご相談を
ひきこもりの改善にどのようなケアが必要かは一人ひとり異なります。 月に数回の断続的なケアで解決するケースもあれば、数カ月~1年近くの継続的な支援が必要なケースもあります。
専門家視点で本人の特性や家族問題としての深刻度合を見極め、最善の方法を選択することが何より大切です。

もちろん、当センターの自立支援が「全ての」ひきこもり問題における「完璧な」解決方法であると断言できるものではありません。
しかし私たちは、現実に差し迫ったご家族の思いやご事情を鑑みて、日々ベストを尽くしております。
お子様の事を真剣に考え、向き合い、そして考える力を養うため、私たちは全力でサポートいたします。
NSP自立研修スクール
社名 株式会社NSP
〒105-0013
東京都港区浜松町1-21-4 港ビル4階
電話番号
0120-87-2121
アクセス
浜松町駅 徒歩3分
大門駅 徒歩6分


外国人花嫁のあっせん

2019年01月17日 11時41分53秒 | 社会・文化・政治・経済

 国際結婚ブローカーという営利の事業者が存在し、 彼らが生じる問題点も少なくはありません。 

斡旋業者や国際見合い結婚の体験者からは 「日本人女性にもてない男性でも外国人妻ならもらえる」 「日本人女性より外国人女性の方が従順」 といった

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都市部では、集住都市における単純労働者の占める割合が高い。

一方、農村が多い東北地方においては、1970年代以降に深刻化した過疎化・少子高齢化・嫁
不足による後継者不足解決のため、1980年代後半以降、山形県最上地区で行政が主導して外国人配偶者(女性)
の受け入れを推進し、全国的にも注目を集めたという興味深い事例が存在する。
この例のように、東北地方における在住外国人は「外国人配偶者」の占める割合が高く、彼/彼女らと如何に共生していくのかという点に大きな特徴がある。
 日本の国際結婚数は、2007年末で40,272件、全婚姻数(719,822件)の5.5%を占め5前年よりは減ったものの、外国人登録者数が総人口に占める割合と比較しても高いといえる。日本人同士の婚姻数が減少傾
向にある中で、農村だけではなく都市部においても嫁・婿不足が進むと同時に、グローバル化に伴う人の移動
によって、今後、国際結婚は増加していくものと考えられる。
 日本では1950年代から70年代前半にかけて高度経済成長期を迎えたが、それと同時に特に農村において
は、若者の都会への流出による過疎化、高齢化、農業後継者不足といった問題のほか、嫁不足も指摘される
ようになっていた。
財団法人日本青年館結婚相談所所長の坂本洋子氏によれば、日本における「農村の嫁不足」という表現で地域の「結婚難」が始まった。
 農林水産省は、1998年、「農村女性」に関する全国的な調査を行い、報告書を発表した。
その中で、農村における嫁不足の一因として「農村が若い女性に敬遠される」ことと「(農村)青年自身の消極的性等の個人的な要因」を挙げている。
「農村が若い女性に敬遠される」理由としては、1.因習、慣習が煩わしい、2.近所の目が煩わしい、3.文化・娯楽・教養のための施設が乏しい、4.農業に魅力がない、5.農業以外の就業機会がない、6.女性個人の自由になるお金がない、といったことが挙げられている。
農村部における外国人配偶者と地域社会
安藤純子さん


国際結婚の現在・過去・未来

2019年01月17日 11時29分37秒 | 社会・文化・政治・経済

絶食系男子となでしこ姫― 単行本

 
 

「全身小説家」井上光春さん

2019年01月17日 11時12分50秒 | 医科・歯科・介護

瀬戸内寂聴と恋愛関係にあったことはよく知られている。

NHK放送特集番組の中で、瀬戸内寂聴自身が告白したものによれば寂聴の出家仏門入りの動機は、井上との関係清算という動機によるものだったという。
両者は関係清算後は、通常の友人関係を井上の死に至るまで継続した。

1992年に大腸癌で死去。享年66。
晩年は癌と闘病しながら多作な創作活動を続けていた。
長女は、児童文学翻訳家、直木賞作家として活動している井上荒野。
父を描いた『ひどい感じ 父・井上光晴』、小説『もう切るわ』、『グラジオラスの耳』、『ヌルイコイ』などがある。
全身小説家
『さようならCP』、『ゆきゆきて、神軍』などで知られる映画監督原一男が小説家「井上光晴」の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画。
井上光晴が1989年に癌告知をされたことにより、晩年を密着する映画となった。
映画の中で、井上の死後に、彼の経歴を調べ直した結果、今までの彼の述べていた経歴や生い立ち、すなわち「関東州旅順で生まれる」「独学で専検に合格、七高、国学院などで学び」などが虚構であったことが明らかにされた。
本作では埴谷、瀬戸内も長時間にわたり出演し、井上に関しての証言をしている。
ちなみに「全身小説家」という表題は、埴谷がかつて井上のことを形容した言葉に基づいている。


この先も生きるのなら 書かなければ

2019年01月17日 11時05分14秒 | 社会・文化・政治・経済

井上 荒野(いのうえ あれの、1961年2月4日 - )は、日本の小説家。
小説家井上光晴の長女に生まれる。
調布市立第三中学校、玉川学園高等部を経て、成蹊大学文学部英米文学科卒。
卒業後は小学館の近代文学全集編集部に3年間勤めていた。
主な受賞歴 島清恋愛文学賞(2004年)
直木三十五賞(2008年)
中央公論文芸賞(2011年)
柴田錬三郎賞(2016年)
『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞受賞
織田作之助賞(2018年)
この先も生きるのなら 書かなければ、と思えた 井上荒野

父を亡くした病・がんを患ったのは30代半ばのこと。
手術は成功したものの、死への恐怖心がぬぐえない。
そんな感情と、どのように向き合ったのでしょうか

S状結腸がんになったのは21年前、36歳のときです。
ある日、お腹がぐぐっと痛くなることがあって、そのあとも痛みは続きました。お通じもなくなって。
病院に行くと、当時私が若かったこともあり、がんとは疑われず、便秘という診断。でも痛みがひどくなる一方なので、1週間後くらいに入院しました。
病院で内視鏡検査をしたところ、腸に腫瘍が見つかり、その重みで腸が絡みあって腸閉塞を起こしていることがわかりました。
このまま放っておくと腸が壊死してしまうので、緊急手術をすることに。術後、担当医に呼ばれ、「残念だけど、がんだった」と告知されたのです。
手術では、大腸の腫瘍部分とまわりのリンパ節を切除しました。

(『婦人公論』2018年5月22日号より一部抜粋)


宇宙技術を医療に応用

2019年01月17日 10時45分34秒 | 医科・歯科・介護

宇宙航空研究開発機構(JAXA)や東京大学、慶応大学は、X線天文衛星「ひとみ」の宇宙望遠鏡の技術を使って、医療用の顕微鏡を開発する。

従来の約50倍の精度で、腫瘍(しゅよう)内からがん細胞のもととなる「がん幹細胞」を見分けることを目指す。
2~3年以内に試作機の完成を目指す。
 がん幹細胞は、がん細胞を生み出すとされるが、腫瘍の中で周囲の細胞との区別が難しく、現在の顕微鏡では生きた動物のなかで観察できなかった。

 体内で観察するには、がん幹細胞にだけくっつく化合物と組み合わせた放射性同位元素を作り、X線を検出する高精度な顕微鏡で、体内での位置を突き止める必要がある。


ともかく話題になればいい

2019年01月17日 10時23分11秒 | 沼田利根の言いたい放題

ヘイト本の購入者に年配者が多い。
日本の言論空間には、極端に過激で差別的な排外主義的あるいは反歴史的な「右派」言説が増えている。
論者と読者の双方に分断が進み、言論の軸が失われたと理解すべきだ。
中国や韓国など、標的に選んだ「敵」をうまくこきおろす。
非常識であろうと、ともかく話題になればいい。
それが「炎上」商法化となる。
いじめの構図にも似ているだろうか。
憂さ晴らしや不満の吐きどころになっている。
ヘイトは、問題から目をそらす「麻薬」のようなものであろうか。
言論が分極化し、過激化しているのに、日本の政治は奇妙に安定している。
なぜか、諦めであろうか。
投票率の低下は無関心や白けであり、期待できないと思っている有権者の意思表示とも想われる。
また、歴史そのものは変えられないが、歴史の解釈は変えられる。
<明治維新間違いであった>
<日本は戦争をしたくなかったのに、させられた>
あるいは、日本は<単一民族>と思い込みたい人もいるだろう。
ところで、日本は戦争をしなかったら、どのような国なっていただろうか?


由紀への不可思議な思い

2019年01月17日 07時53分20秒 | 創作欄

喫茶店「丘」を出で上野駅へ向かって歩いていた。
客引きの一人がが「オネイさん」と由紀に声をかける。
由紀は眉を潜める。
徹から2、3歩後を歩いていた由紀が彼の前に出る。
そして、由紀は「明日ドライブに行くの」と言う。
徹は由紀の視線を無視して、上野駅へ足早に向かった。
徹は、由紀が誰とドライブに行こうがどうでもいいと思っていた。
「2度誘われけど、断ったの。でも、3度目の誘いだから、明日は行くの」由紀は徹の横顔に視線を向けた。
上野界隈は徹にとって親しめる街だった。
徹は約2年間だけあるが、上野駅前の雑居ビルにある企業で働いたことがある。
昼休みには、周辺を歩き回っていたのだ。
でも、彼いとって、苦い思い出となる職場だった。
社長の秘書で経理担当の久田順子に「あんたは、会社を乗っ取るつもなのね」と突然に言われた。
そのことが契機となり、その企業から身を引くことにもなる。
「この会社、乗っ取るほど価値があるのか」と徹は言いたかったが、沈黙した。
徹は、3年前に久田順子に嫌みを言われた喫茶店の前を通る。
道から内部が見える喫茶店で、偶然にも久田順子が店の中に居てこちらに視線を向けていた。
タラコ唇にタバコを咥えている。
挑むような陰険な目であり、徹は不快な気分となる。
「あの人、私たちを睨んでいる」と由紀が気付いていた。
徹は上野駅から高崎線に乗る、由紀は東北線である。
由紀は別れ際に、「印刷会社の課長の沼尻さんからドライブ誘われている」と言う。
印刷会社の営業課長である沼尻康太は、「車に乗せた女には、必ず乗らせてもらうよ」と職場で吹聴している女たらしの男だった。
沼尻は過去に婦女暴行で3年間服役していることも明らかだった。
徹は「ドライブに行くのは止めろ」と思わず声を高めた。
「なぜ、止めるの」由紀の声も高くなった。
徹は由紀の後に着いて東北線に乗る。
大宮駅まで鉄路は一緒である。
「沼尻のような男の餌食にさせられない」徹は不可思議な思いに駆られた。
「なぜ、一緒なの。この電車は東北線よ」由紀は不機嫌な顔のままだった。
徹は何を、どのように言うべきか混乱している。
「徹さんは、沼尻課長さんのこと嫌っているのね。でもあの人優しくていい人よ。印刷工場へ原稿届けに行くと親切に色々教えてくれる。そして私のこと励ましてくれるの」
下心のある男の言動が透けて見えるのに、無知とも思われる由紀は、男を疑っていない。
「ドライブ止め、俺と旅行に行かないか」
「旅行?どこへ」
「新潟辺りへ」
「連れて行ってくれるのね。いいわ」由紀が応じた。
「楽しみね」
由紀の細い腕が徹の腕を抱えるようにした。

人はなぜ心が病むのか?
徹は由紀の横顔を見詰める。
目を閉じている由紀を憐れに思った。




立ち話

2019年01月17日 06時37分52秒 | 日記・断片

何となく苦手意識があって、避けていた人がいた。
その人に西田さんが声をかけ立ち話となる。
「甲状腺がんで、手術ができないので、制ガン剤で治療している」とその人が言う。
15㌔も痩せたそうだ。
心臓の手術を過去に受けたことも話していた。
西田さんは取手に50年も住んでいるので、多くの人を知っている。
当方は新道の自治会で、西田さんは八重洲の自治会。
道一つ隔てて、自治会が分かれている。
西田さんは自治会の役員をしていたので、顔が広いのだ。
今は空き家になっている家の元住人だった人たちの事も話題にする。
皆さん亡くなっている。
「数日前に、亡くなっていた人が居て、パトカーが来ていた」
「どこの家ですか」
「ミスターマックスの裏の家、3軒目かな」
パトカーが通るので確認しに行くが停車せず、通り過ぎて行く。
「警らだね」と見送る。


新しい仕事

2019年01月17日 06時15分37秒 | 日記・断片

今朝の早朝散歩で、飛岡健(トビケン)さんの話となる。
友人は、昨年暮に78歳なので仕事を「今年いっぱいで辞めることにしている」と言っていた。
だが、「新しい仕事ができたので、やめれなくなった」と言う。
「今日も、大物に会うんでね。彼ら東大出の人たちは頭がいいね。話も上手だし、英語もうまい。通訳の資格を持っている人もいる」と言う。

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飛岡 健(1944年(昭和19年)10月20日 - )は、日本の航空工学者、客員教授、経営者。株式会社現代人間科学研究所、および株式会社未来と経営の研究所の代表取締役。

研究分野 航空工学
自然科学
人文科学
哲学
経済学
研究機関 東京大学宇宙航空研究所
出身校 東京大学大学院工学系研究科
主な業績 ロケット研究