「入社した日だけど、平原さんに<しばらくね>と言ったの覚えている?」
「覚えている。パソコン教室に通っていた時、池袋で会っていたから」
荒川由紀は真顔で言い張った。
平原今日子は鎌倉から通勤していて、池袋へは行ったことがなかったのだ。
平原は夫を電車の事故で亡くす前は、ずっと主婦であった。
彼女が鎌倉の教会で結婚式を挙げた時は、美男美女の晴れ姿に、通りかかった人たちからは、芸能関係者の結婚式だと勘違いされた。
教会の階段を下って来る新郎新婦、結婚式に列席した人々が列の両側から「おめでとう」「お幸せに」と花弁を撒く。
その光景をプロ仕様の大型のビデオカメラを抱えて、手慣れた様子で撮影するスタッフが3人も居たのだ。
徹にも遠い存在であった<鎌倉夫人>の姿を徹は脳裏に浮かべた。
平原は医科大学の助教授であった夫を事故で亡くさねば、小さな出版社に勤めることはなかっただろう。
広田雄一社長は平野の義理の弟であった。
夫の3回忌法要の席で、「うちで働いてみないか」と広田から誘いを受けた。
そして、小学1年と3年の娘を夫の母親に預けて働きに出たのは33歳の時であった。
「あの人、とても素敵な人だら、私覚えていた」由紀は笑顔になったが、やはり目は笑っていない。
そして喫茶店「丘」の店内をキョロキョロ見回していた。
「この人は多動性だな」と徹は彼女を見守った。
「これから、社長の家へ行こうかな」由紀は突然、言い出す。
「荒川さん、社長は大阪へ出帳中だよ。行ってみ居ない」
「そうだっけ」社長はビルの2階に居て、我々の編集部は3階であった。
「何故、社長の家へ行こうとしたの?」
「個人的に聞いてもらいたいことあったの」由紀は天井のシャンデリアを見上げた。
この人が、精神的に病んでいるとしたら、<その原因があるはず>と徹は思いを巡らせたが、あえて個人なことは聞かなかった。
ステンドグラスを徹は見詰めた。