杉山龍丸 インド緑の父 テレビで放映

2019年01月21日 22時57分54秒 | 社会・文化・政治・経済

杉山 龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 - 1987年(昭和62年)9月20日)は、日本の陸軍軍人。
インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる人物である。
「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は息子。

福岡県福岡市出身。
祖父は政財界のフィクサーともいわれた杉山茂丸、父は作家の夢野久作である。
弟は詩人の杉山参緑。
1937年(昭和12年)福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1940年(昭和15年)陸軍士官学校(53期)を卒業し、ボルネオでは胸部貫通銃創の重傷を負う。
陸軍少佐で終戦を迎える。
戦後、3万坪の農地を売り、緑化の費用にあてた。
インドの政府や個人の協力を得て、インドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化したが、日本の政府や企業などからは理解や協力が得られず、日本ではあまり知られていない。
1955年(昭和30年)戦友から、日本で農業を学んでいたインド人を紹介され杉山農園で農業技術を教えた。
初めてインドに行ったのは1962年(昭和37年)、砂漠となったパンジャブ州を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となるユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。
また、国際文化福祉協会を設立しインド救援の寄付金を募った。
植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至ったが、杉山は杉山農園を売却して資金を調達し、家族を日本に残して渡印した。
のち、4万坪の福岡市の杉山農園、家屋敷は人手に渡り、借家住まいとなり、国連関係者からの環境会議出席の求めに友人から旅費を借りて出席した。
祖父・茂丸が台湾で関与した蓬莱米をインドに移植することに成功している。
終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人認可申請もいまだ認められていない。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。

祖父の杉山茂丸は政治家で、伊藤博文の懐刀として活躍された人物です。

「杉山茂丸」の画像検索結果

地元は名家で不自由なく育った龍丸さんは、財産を私物化してはならないという

祖父の遺言を尊重し、給料がもらえる士官学校へと進学しました。

 

なぜ、杉山龍丸さんは、インドに目を向けたのか?きっかけは?

 

戦後の1954年、上京してプラスチック関係の仕事を始めていた杉山龍丸さんは、

 

東京駅でインド人の青年を連れた士官学校の同期生と出会いました。

 この際、成り行きでインド人青年の世話を押し付けられてしまいました。

 それをきっかけにしてインドからの留学生が龍丸さんを訪ねてくるようになり、

 何人目かの留学生にミルミラー(S.K.Mirmira)さんという方がいました。

 この方はガンジー翁の直弟子でした。彼らを世話したことがきっかけで、

 ガンジー翁の他の直弟子たちとのお付き合いが始まり、インドにのめりこんでいくことになります。

実は、その杉山さんの活動を知ったインド政府は、昭和37年、彼をインドに招き、

1961年、当時、42歳だった杉山龍丸さんは、

イギリスから独立してまもないインドに行きました。

 

「杉山茂丸」の画像検索結果

 

杉山龍丸さんが16歳時に祖父が、17歳時に父親が突然亡くなります。

 

亡くなる間際に祖父から聞いた言葉が、その後の杉山龍丸さんの人生に大きくかかわってきました。

 

その言葉は・・・

 

「杉山農園の土地は私物化せず、当初の目的通りアジアのために使え」

 

「アジアの人々を救いなさい」

はじめて目にしたインド。

インドの殺伐とした茶褐色の荒涼な大地、広大な砂漠に驚き、息をのんだそうです。

そこで彼は改めて、当時のインドの困窮の凄まじさと、

国を良くしようと願う人々の熱意に打たれ、この国のために尽力しようと誓います。

「これがインドだ。これがインドか・・・」

砂漠化が進むインドでは、農作物も育ちにくく、国民の多くが慢性の飢餓状態。

雨が少ない年には死者の数は500万人以上にのぼる苛酷な現実を目のあたりにし、

「インドの人々を救いたい」と心に誓いました。

「Tatsumaru sugiyama」の画像検索結果

杉山さんが行なった、インドの大砂漠の緑地化とは?

成長が早く根が深いユーカリを植林し、

地下水脈をせき止めて水を確保することを提案し、実地指導にあたった杉山龍丸さん。

 

インドは地下水位が低いこと、および土壌に有機物が少ないことに気づき、

それが、レンガを焼くために森林を伐採した結果であることを確信したことから、

活動が始まりました。

というのは、「世界中で、古代文明があったところは砂漠になっている。

これは、森林(自然)と共存できない文明は滅ぶということだ」

という結論に達し、インドの仲間たちに樹を植えることを提案し実践しました。

関連画像

では、なぜユーカリの木を植林に利用したのでしょう?

それは、オーストラリアの砂漠で元気に育っていた

ユーカリのことを知っていたからです。

 砂漠を緑に変えるような水源を求めて、来る日も来る日も奔走しました。

しかし、灼熱の炎天下に見えるのは、乾いた大地のみ。

 あきらめかけたその時、炎天下の砂漠で家畜の牛達が休んでいる場所があり、

木陰でないのになぜ?と奇妙な光景に疑問を持ったそうです。

掘ってみると、そこにかすかな湿り気を感じ、

「砂漠にも水がある」ことに気づきました。

 

「杉山茂丸」の画像検索結果

 「暑さに強く、成長も早いユーカリが地下水を吸い上げれば地表も潤い、

 作物も育てられるのではないか?」

 龍丸さんはそう考えたそうです。

 インドの国土はヒマラヤ山脈の裾野を走っており、

 ヒマラヤから地下水が流れている可能性の高い国道1号線沿いに

 植えたほうがいいと考え、自ら国道沿いの村々を訪ね歩き協力を求めました。

 「一緒に作物を作り、豊かになろう。」

 

始めは、今を生きるのに精いっぱいで、緑を植えること、

 作物を作ることには興味を持たなかったそうですが、

 龍丸さんの熱い思いに、次第に心が動き始めました。

「India nationa road 1 NH1」の画像検索結果

植林前の光景

困難を乗り越えて、杉山龍丸さんと周辺住民の人々と植林した大地は今?

砂漠化を止めるために水探しをしていた際、事業が始まって間もなく、

インドに大飢饉が起こり、その対策を優先したインド政府は

事業を中止することを発表しました。

それでも杉山龍丸さんは、福岡に残した土地や財産をすべて売却し、

現在価格にして140億円もの私財を投げ打ち、それをインドでの植林につぎ込みました。

「よいしょ。どっこいしょ。」

人々の掛け声と、鍬を持つ映像が残っています。

荒涼とした砂漠にいつしか日本語の掛け声が溢れていったそうです。

そして今、不毛の大地と言われていた国道の両脇には

緑のユーカリが4mおきに植えられ生い茂り、木々の高さは15mにも達しています。

ユーカリの巨木は地下水を吸い上げ、大地を潤し、並木道は総延長470kmにも及びます。

関連画像

植林後の光景(不可能を可能にする)

「私達がこうして暮らしていけるのも、すべて豊かな緑のおかげです。」

龍丸のシンプルな植林技術は、村から村へ、人から人へと伝えられました。

周囲の土地には稲、麦、馬鈴薯の三毛作ができるようになりました。

この事業に対して日本政府からは一切の援助はなく、

また杉山さん自身が学者ではなかったことから学会からも黙殺され、

一個人が成し得た壮大な緑化事業は、彼が昭和62年に亡くなるまで、

日本ではほとんど知られることはありませんでした。

 しかし、インドの人々の間では、いまなお

「インド独立の父はガンジー。インドの緑の父(グリーンファーザー)は杉山龍丸」

と讃えられているほどの偉業を行ったと語られています。


 



袋田の滝 氷瀑

2019年01月21日 22時18分38秒 | 社会・文化・政治・経済

茨城県を代表する観光スポット、袋田の滝。日本三名瀑に数えられ、高さ120メートル、幅73メートルの大きさを誇ります。

寒さ厳しい冬には滝全体が真っ白に凍結し、その神秘的な風景は「氷瀑」と呼ばれ親しまれています。

2012年には6年ぶりに“完全凍結”し、ピッケル片手に氷壁に挑むアイスクライマーの姿も見ることができました。

 穏やかさと荒々さを併せ持つ名瀑

日本三名瀑のひとつに数えられる「袋田の滝」は、大子町は元より茨城県が誇る観光名所。

平安時代の歌僧・西行法師は袋田の滝を見て、「花もみち 経緯にして 山姫の 錦織出す 袋田の瀧」と詠い、その魅力を称えました。

遠くから眺めると穏やかな白いラインが、近付くと地面を叩きつける荒々しさを見せます。

眺めていると心が魅了され、時が経つのも忘れてしまうことでしょう。

  • 平成31年1月21日
    11:00頃撮影
  • 気温:2℃ (9:00時点)

 

 
冬の氷瀑の姿
四季ごとにその姿を変える袋田の滝。厳しい冬には滝全体が真っ白に凍結し、ピッケル片手に氷壁に挑むアイスクライマーの姿を見ることができます。※天候条件により凍結しない場合もあります。 
また、冬季に開催されるイベント『奥久慈袋田「冬の滝紀行」』では、滝のライトアップや吊り橋のイルミネーション、滝川のさざれ石の灯影など、普段は見ることができない幻想的な冬の風景を演出します。

日本三名瀑のひとつ
久慈川の支流滝川に架かる袋田の滝は、日本三名瀑に数えられ、高さ120メートル、幅73メートルの大きさを誇ります。 
滝の流れが大岩壁を四段に落下することから、別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれ、また一説には、その昔、西行法師がこの地を訪れた際、「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と絶賛したことからとも伝えられています。

四季折々に変化する滝
四段の岩壁を流れる水のつくり出すラインは白糸のようになめらかに、そして時には激しく、さまざまな顔を見せてくれます。 
新芽吹く木々の緑に縁どられた春、涼を求めての夏、あでやかな紅葉が滝のお化粧をする秋、厳しい寒さで滝が凍結する冬と、袋田の滝は四季折々に姿を変えてくれます。


冬の氷瀑の姿

 


 
 

「水戸の梅まつり」

2019年01月21日 20時41分30秒 | 【お知らせ】
  • 偕楽園

    日本三名園 偕楽園
     金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに、日本三名園のひとつに数えられる梅の名所です。広大な園内には約100品種3,000本の梅が植えられており、早咲き・中咲き・遅咲きと、長い期間に渡って観梅を楽しめるのが特徴です。

《好文亭》好文亭は藩主の別邸として建てられ、名前は梅の異名である「好文木」に由来します。斉昭公は家臣や領民を招き、養老や詩歌の宴を催したと伝えられています。

《好文亭表門》偕楽園の正門に相当し、黒門とも呼ばれます。ここから入園すれば、斉昭公が意図した「陰と陽」の世界が感じられることでしょう。

 偕楽園は、金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられ、天保13年(1842年)7月、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により造られました。

「偕楽園」の名は、「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という中国の古典『孟子』の一節から名づけられました。

造園に際し、斉昭公は自らその構想を練り、藩校弘道館を勉学・修行の場、偕楽園を休息の場として互いに対をなす一体の施設として設計した、と言われています。

 偕楽園には約100種3,000本の梅が植えられ、かぐわしい早春の訪れを告げてくれます。

2月下旬から3月にかけての「水戸の梅まつり」を皮切りに、桜、つつじ、秋には萩、初冬には二季咲桜と、花々が季節を届けてくれます。

 平成27年4月、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されました。

所在地 水戸市常磐町1-3-3
交通 ■ 電車・バスご利用の方(乗車時間約20分、運賃240円)
・水戸駅北口4番バス乗り場から「歴史館・偕楽園方面行き」に乗車
 〔好文亭表門〕
  『歴史館偕楽園入口』下車徒歩8分。または、『好文亭表門入口』下車徒歩5分。
 〔偕楽園東門〕
  『偕楽園東門・常磐神社北参道』または『偕楽園・常磐神社前』下車徒歩3分。
・水戸駅北口6番バス乗り場から「偕楽園行き」に乗車
 〔偕楽園東門〕
  『偕楽園入口』下車徒歩8分。または、終点『偕楽園』下車徒歩5分。
■ 車ご利用の方
 常磐自動車道・水戸ICから約20分
 北関東自動車道・茨城町東ICまたは水戸南ICから約20分
■ 近隣に無料・有料駐車場あり
 または偕楽園下駐車場(水戸市常磐町1-6093-1)が便利です。
時間 ■ 偕楽園本園
 2月20日~9月30日 6:00~19:00、10月1日~2月19日 7:00~18:00
■ 好文亭
 2月20日~9月30日 9:00~17:00、10月1日~2月19日 9:00~16:30
 ※時期により開園・開館時間が異なります。また、催事により延長されることがあります。
料金 ■ 偕楽園本園
 入園無料
■ 好文亭
 大人 200円(20名以上150円)、小中学生 100円(20名以上80円)
 満70歳以上 100円(20名以上も同料金)※平成30年6月1日から
 難病患者の方は無料です。
休日 ■ 偕楽園本園
 なし
■ 好文亭
 12月29日~31日
問い合わせ 偕楽園公園センター
TEL:029-244-5454 / FAX:029-244-5866
HP:http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kairakuen01.html
園内マップはこちら
注意事項 ■ 東門外の偕楽園レストハウスと東門内の見晴亭にて車椅子を無料でお貸しております。
■ 偕楽園本園(常磐公園)は史跡名勝です。ペット(犬等)を連れての入園はご遠慮ください。また、本園内は禁煙です。

2月3日 節分祭 鹿島神宮

2019年01月21日 20時35分46秒 | 【お知らせ】

平成31年

  • 2月3日(日)
    3時・6時
    節分祭閉じる ▲
    節分祭
    節分祭

    一陽来復と除災招福を祈る祭典・追儺神事の後、「福は内」の掛け声とともに大量のお福分け当たりくじ付福豆が神職・年女年男・特別ゲストの手によって撒かれます。豆撒きは午後3時からの第一部と午後6時からの第二部に分かれています。


  • 「福は内」の掛け声とともに豆を撒き、一陽来復と除災招福を祈る節分祭が下記の日程で執り行われます。
    鹿島神宮では2月3日午後3時と午後6時に節分祭豆まき式を執り行います。

    日程 平成31年 2月3日(日)
    時刻 第1部 15:00
    第2部 18:00
    また、舞台から豆まきをご奉仕いただく方も募集しております。詳細は節分祭奉仕申込書をご覧いただき、お申し込みは鹿島神宮まで直接お越しください。

  • お福分けの当たりくじ付福豆を特設舞台よりまきますので皆様の来宮をお待ちしております。


由紀と新潟へ

2019年01月21日 16時45分25秒 | 創作欄

心の病とは何か?
人はなぜ狂うのか?
17歳であった徹が、密かに思っていた同級生の生田百合が、京王線の芦花公園駅のホームから身を投げたのは拭うこと出来ない大きな衝撃となり、徹に暗い影を落とした。
新聞では報道されなかったが、百合は妊娠していたと同級生の中井節子が明かした。
この噂は文芸クラブ内に留まり、学校内に拡散することはなかった。
徹は崇拝する夏目漱石が神経衰弱であったことに着目した。
また、詩人の高村光太郎の妻智恵子がなぜ心が病むだのだろうかと関心を抱いた。
智恵子は統合失調症のような状態になり、精神病院に入院したとされる。
徹は眠れぬ夜を迎え、遠くて苦い高校生の記憶が蘇る。
それから、由紀のことをあれこれ考え、2時間ほどしか寝ていなかった。
徹は由紀と大宮駅で待ち合わせをしていた。
待ち合わせの8時の約束は、20分ほど過ぎていた。
由紀は来ないでほしいとさえ想う。
そして、本来なら遅れたのだから急ぎ足になるであろうに、由紀はゆったりした足で姿を見せた。
「ごめんさい、私、昨夜は眠れなくなって寝坊したの。これお願い」由紀は大きなバックを徹に預けるようにする。
徹は日帰りの予定で軽装だった。
徹は予め買っておいた乗車券を由紀に渡した。
「ありがとう。車内でお金は出すわ」由紀は浮き浮きした様子だった。
「いいよ。俺が企画したような旅だからね」
徹は改札口のところで由紀から手を握られた。
「手、冷たいね」由紀が手に力を込める。
何時も、長いスカートを履いている由紀は、緑色のジーパン姿でコートの下は濃厚の徳利セーターだった。


生きる勇気と希望

2019年01月21日 14時25分09秒 | 社会・文化・政治・経済

人に尽くそうと決め、勇気を出して行動を開始した時、もっと強い自分になれる。
人間としての器が、もっと大きくなる。
励まされる人から、励ます人へ。

暗いニュースが続く時代だからこそ、人間の善性に光を当て、人々の結合を強める。
よりよい人生を社会を築くために、励ましのエールを贈る。


新しい発想で「文化」を発信する

2019年01月21日 14時06分56秒 | 社会・文化・政治・経済

子どもの頃、何かに夢中になった経験が、その人に与える影響の大きさを実感しています。

地域への愛着と誇りを育む環境教育が期待される。
自然環境の維持・保全は、そこに住む人が地域の良さを知り、地域を好きになることから始まる。

博物館に来れば、地域の自然や歴史、文化を知ることができる。
魅力を知ると<守りたい> <伝えたい>という気持ちが湧いてくる。
新しい発想で「文化」を発信する。
-----------------------------------
全日本博物館学会は、わが国で初めての、博物館学を研究し発展させることを目指した学会で、1973年8月に発足しました。
学会発足当時には日本の博物館はまだ数も少なく、いわば博物館の成長期ともいえる時期でしたが、博物館法の施行以後、全国各地で設立された博物館での事業や運営の経験に基づいて、博物館の在り方についての議論が進み、学会の必要性が求められる中で設立されたものです。  
 博物館学とは、理論と実践とが一体になった学問です。
博物館学事典による定義では博物館学とは、「“博物館とは一体何であるのか”ということを明らかにし、その独自の方法、その使命を考究するのが博物館学であり、その究極の目的は、良い博物館、良い博物館活動の確立にある」とされています。
つまり現実に博物館という現場があり、それをより良いものにするためにはどういう理論が必要なのかを考えるということは、単なる机上の作業ではなく、すぐに現実の博物館の運営に生かすことが必要であるという側面があります。  
博物館は地域社会にとっての情報センターであり、文化の拠り所です。
博物館の状況はその国の文化の在り方を表現しているものでもあります。
そのような博物館を日本の社会に根付かせ、多くの市民が利用するようにすることは、博物館学の役割の一つであると考えています。  
 全日本博物館学会は、研究者、学芸員、博物館職員などの直接の博物館関係者はもちろん、博物館を利用する立場の研究者、市民を含めて、より多くの人々との議論を通じて、日本の博物館の現状と在るべき方向を研究し、その成果を発信していきます。
そのためには多様な立場の人々との議論の場を作り、様々な意見を交わすことが必要です。ぜひ多くの博物館に関心を持つ皆さんが,全日本博物館学会に入会され、議論の輪に加わってくださることをお願いします。                                                        全日本博物館学会
                 布谷知夫会長 


重要なのは、運用する人間の心

2019年01月21日 12時15分00秒 | 社会・文化・政治・経済

社会制度や仕組みは大切だが、それより重要なのは、それを運用する人間の心である。
いかに制度が整っても、人間のいかんで、制度は悪用、形骸化させてしまう危険がある。
だからこそ、為政者も民衆も、確かな哲学が必要。
自己のエゴイズム、欲望をいかに制御し、昇華するかが大切である。



魂の言葉を紡ぐ

2019年01月21日 11時56分52秒 | 社会・文化・政治・経済

石牟礼道子対談集

  • 時代の混迷の中、本当に生きる支えになる力のある言葉が必要とされているが、情報の氾濫の中で言葉が力を失って久しい。環境から宗教的次元へと魂の言葉を紡ぎ続ける石牟礼道子30年の発言集。

    石牟礼 道子 (イシムレ ミチコ)

1927年熊本県天草生まれ。生後すぐに水俣に移る。詩人、作家。

著書に『苦海浄土(三部作)』『あやとりの記』『十六夜橋』『石牟礼道子全集・不知火(全17巻、別巻1)』、共著に『なみだふるはな』ほか。

<form action="http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309013695/#reportbox" method="post"><fieldset>

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

ここに魂に響く確かな言葉がある!近代という底のない絶望の淵から、いま深い希望が甦る。三十年の発言の重み。

内容(「MARC」データベースより)

魂に響く確かな言葉がある! 近代という底のない絶望の淵から、いま深い希望が蘇る。

辺見庸、志村ふくみ、瀬戸内寂聴らとの対談を収載。

言葉、生命、死、時間、エロス、魂、そして水俣について語る。

</fieldset></form>

魂の言葉を紡ぐ

 偉大な方が亡くなられたんだな。
この対談集を読み終えて改めて感じた。
ただ、この本を読んでいる限りでは、感受性の豊かな繊細で心優しい女性といった印象で、水俣病を世に知らしめた人という言葉とはほど遠かった。
しかし語られるのはやはり水俣病のことである。
あるいは近代化の矛盾の象徴としての東京、日本という国が壊れていっているという事実、そして病と尊厳性との関係。
彼女の眼差しはとてつもなく鋭かった。
私は胸にひりつくような痛みを感じながら読んでいた。
同時に無関心であることは罪だと思い『苦海浄土』を読もうと改めて思った。

 

 
 
 

水俣病 人命より建前優先

2019年01月21日 11時50分18秒 | 社会・文化・政治・経済

化学会社・チッソ、御用学者、県、国も人命よりも、建前を優先させた。

発見に関わる経過
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。
1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。
1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11か月だった女児が発症した例である[注 6]が、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
1954年:熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。
当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。


生まれ変わった気持ちで挑戦

2019年01月21日 11時22分58秒 | 社会・文化・政治・経済

万般にわたって変化する時代。
過去の経験が生きる時もあれば、逆に解決を妨げることもあろう。
時には見方を変え、柔軟な発想で捉え直す中で新しい道も見えてくる。
人間も、組織も、常に変化の中にある。
発展するか、衰退するか。
常に戦いの連続だ。
<今まで通り>
<これくらいで何とかなる>は惰性。
日々、生まれ変わった気持ちで挑戦すれば、新しい未来が開けてくる。


<いじめ母子心中>

2019年01月21日 11時13分47秒 | 社会・文化・政治・経済

両親のメモを無断で相手に 学校の対応に家族不信募らす
1/21(月) 9:25配信 河北新報
 小学2年の長女へのいじめを苦に母親が2人で無理心中したとみられる事件は学校のちぐはぐな対応がいじめ収束の機会を逃し、不用意な行為が家族の不信感を招いた経緯が父親の証言から浮かぶ。

 父親によると、両親は昨年5月に長女が同級生2人からいじめを受けたことを知り、学校に相談。

担任教諭は同級生の保護者に連絡せず、子ども同士の握手で仲直りをさせたが、収束しなかった。

 校長室登校を続ける長女に校長が教室へ行くよう促したが、裏目に出た。

父親は「長女は我慢をして教室に行き、体調をさらに崩した」と指摘した。

 学校への不信がピークに達したのが、昨年8月にあった同級生の親との話し合いだった。

 両親が同級生への質問項目を書いたメモを、校長が無断で相手方に渡したことが分かった。

「口頭で謝罪を受けたが、情報管理ができておらず信用できなくなった」と振り返る。

 母親は9月以降も市教委に相談したほか、文部科学省の24時間子どもSOSダイヤルに連絡したが、具体的な対応はなかったという。

 長女は8月に「しにたいよ」と手紙に記すなど、ふさぎ込むようになった。

父親は「母子で家にいる日が多くなった。2人は誰も頼れず、追い詰められてしまった」とうなだれた。


南海トラフ地震 1060万人が帰宅困難

2019年01月21日 10時56分48秒 | 社会・文化・政治・経済

防災・減災対策の効果 防災・減災対策を推進することによる被害軽減効果について試算した。(地震動が「陸 側ケース」の場合)

① 建物の現状の耐震化率(約 79%)を 100%まで向上させるとともに、出火防止対策 等を併せて講ずることによって、資産等の被害額は約 170 兆円から約 80 兆円と、 ほぼ半減するものと試算される。

② 上記対策に加えて、津波避難の迅速化等を行うことによって、生産・サービス低下 による被害額は約 45 兆円から約 32 兆円と、3 割程度減少するものと試算される。

主な推計結果
①ライフライン
○上水道
・被災直後で、最大約 3,440 万人が断水し、東海三県の約6~8割、近畿三府県の約
4~6割、山陽三県の約2~5割、四国の約7~9割、九州二県の約9割が断水す
ると想定される。
○下水道
・被災直後で、最大約 3,210 万人が利用困難となり、東海三県の約9割、近畿三府県
の約9割、山陽三県の約3~7割、四国の約9割、九州二県の約9割が利用困難と
なると想定される。
○電力
・被災直後で、最大約 2,710 万軒が停電し、東海三県の約9割、近畿三府県の約9割、
山陽三県の約3~7割、四国の約9割、九州二県の約9割で停電すると想定される。
○通信
・被災直後で、固定電話は、最大約 930 万回線が通話できなくなり、東海三県で約9割、
近畿三府県で約9割、山陽三県で約3~6割、四国で約9割、九州二県で約9割の通
話支障が想定される。
・携帯電話は、基地局の非常用電源による電力供給が停止する1日後に停波基地局率が
最大となる。なお、被災直後は輻輳により大部分の通話が困難となる。
・インターネットへの接続は、固定電話回線の被災や基地局の停波の影響により利用で
きないエリアが発生する。
○都市ガス
・被災直後で、最大約 180 万戸の供給が停止する。東海三県の約2~6割、近畿三府
県の最大約1割、山陽三県の最大約1割、四国の約2~9割、九州二県の約3~4
割で供給が停止すると想定される。
②交通施設被害
○道路
・基本ケースにおいて、道路施設被害(路面損傷、沈下、法面崩壊、橋梁損傷等)は
約 3 万~3 万 1 千箇所で発生すると想定される。
・陸側ケースにおいて、道路施設被害は約 4 万~4 万 1 千箇所で発生すると想定され
る。
○鉄道
・基本ケースにおいて、鉄道施設被害(線路変状、路盤陥没等)は約1万3 千箇所で
発生すると想定される。
・陸側ケースにおいて、鉄道施設被害は約1万9 千箇所で発生すると想定される。

○港湾 ・基本ケースにおいて、対象港湾の係留施設約1万7千箇所のうち約 3 千箇所で被害 が発生すると想定される。

・陸側ケースにおいて、対象港湾の係留施設のうち約 5 千箇所で被害が発生すると想 定される。

・対象防波堤延長約 417 キロメートルのうち約 126~135 キロメートルで被害が発生す ると想定される。

○空港 ・中部国際空港・関西国際空港・高知空港・大分空港・宮崎空港で津波浸水が発生す ると想定される。このうち、高知空港と宮崎空港では空港の半分以上が浸水すると 想定される。

③生活への影響 ○避難者 ・避難者は断水の影響を受けて1週間後に最大で約 950 万人が発生し、避難所への避 難者は1週間後に最大で約 500 万人と想定される。

○帰宅困難者 ・平日の 12 時に地震が発生し、公共交通機関が全域的に停止した場合、一時的にでも 外出先に滞留することになる人(自宅のあるゾーン外への外出者)は、中京都市圏 で約 400 万人、京阪神都市圏で約 660 万人に上ると想定される。

・地震後しばらくして混乱等が収まり、帰宅が可能となる状況になった場合において、 遠距離等の理由により徒歩等の手段によっても当日中に帰宅が困難となる人(帰宅 困難者)は、中京都市圏で約 100 万人~約 110 万人、京阪神都市圏で約 220 万人~ 約 270 万人に上ると想定される。

○物資 ・食料の不足量は、発災後3日間の合計が最大で約 3,200 万食と想定される。

・飲料水の不足量は、発災後3日間の合計が最大で約 4,800 万リットルと想定される。

・毛布の不足数は最大で約 520 万枚と想定される。

○医療機能 ・重傷者、医療機関で結果的に亡くなる者及び被災した医療機関からの転院患者を入 院需要、軽傷者を外来需要とした場合、被災都府県で対応が難しくなる患者数は最 大で入院が約 15 万人、外来が約 14 万人と想定される。

④災害廃棄物等

○災害廃棄物等 ・建物の全壊・焼失等により発生する災害廃棄物が最大で約2億5 千万トン(約 2 億 2 千万 m3 )、津波により陸上に運ばれて堆積した土砂等の津波堆積物が最大で約 5,900 万トン(約 4,100 万 m3 )、合計約 3 億 1 千万トン(約 2 億 6 千万 m3 )に上る と想定される。

⑤その他 ○エレベータ閉じ込め ・住宅、オフィスの被災及び停電により、エレベータ内における閉じ込め事故が多数 発生し、最大で約2万3 千人が閉じ込められると想定される。

○危険物・コンビナート施設 ・静岡県から大分県の臨海部にかけて、最大で、流出約 60 施設、破損等約 890 施設の 被害が発生すると想定される。

○文化財 ・津波浸水や揺れまたは火災により被災する可能性のある国宝・重要文化財は、最大 で約 250 施設と想定される。 ○孤立集落 ・道路や漁港等の被災によって外部からのアクセスが困難となり、最大で農業集落が 約 1,900 集落、漁業集落が約 400 集落孤立する可能性がある。


南海トラフ地震防災対策

2019年01月21日 10時53分35秒 | 社会・文化・政治・経済

【南海トラフ地震防災対策推進地域の指定基準について】
(1)震度に関する基準
震度6弱以上(関係都府県等が管轄地域内の防災対策を検討するために個別地
域の状況を踏まえて実施した被害想定や防災アセスメントの結果、震度6弱以上
となる市町村を含む。)
(2)津波に関する基準
「大津波」(3m以上)が予想される地域のうちこの水位よりも高い海岸堤防
がない地域
(3)過去の地震による被害
○ 過去に発生した南海トラフ地震で、特殊な地形の条件等により大きな被害を
受けた地域については、次の南海トラフ地震でも同様の被害を受けないとは
いえないため、これを配慮した地域とする。
○ 「過去に発生した地震により大きな被害を受けた地域」という判断は、確か
な古文書・調査記録などに記録された個々の市町村の被害記録を基に、当該
地域の揺れを震度階級に換算したものが震度6弱以上となる市町村とする。
(4)防災体制の確保等の観点
「周辺の市町村が連携することによってはじめて的確な防災体制がとれる地域
については、防災体制等の観点からこれを配慮した地域とする。」こととし、そ
の具体的運用は以下の通りとする。
・ 広域防災体制の一体性(消防、水防、医療、ごみ処理、上水道など)
・ 周囲を指定候補市町村に囲まれている市町村
【南海トラフ地震津波避難対策特別強化地域の指定基準について】
○ 陸上において津波により30cm以上の浸水が地震発生から30分以内に生じ
る地域とする。
※ 各府県独自の被害想定において、地震の揺れに伴い堤防が沈下する等の設定
で、津波が到達する前に浸水が発生するという想定の場合は、「30分以内の
津波による浸水」とはみなさないものとする。
防災・減災対策の基本的な考え方
今回の被害想定は、東日本大震災の貴重な教訓を踏まえ、想定外をなくすという観点
から、最大クラスの地震・津波が発生した場合の被害をとりまとめたものである。
今後、発生が想定される地震・津波については、比較的頻度の高い地震・津波から最
大クラスの地震・津波に至るまで相当の幅がある中で、行政、インフラ・ライフライン
の施設管理者、企業、地域及び個人が、それぞれ果たすべき役割を踏まえ適切な目標を
設定した上で、防災・減災対策を着実に進めていくことが重要である。
具体的には、以下のとおりである。
(1) 津波による人的被害については、最大クラスの津波に対しても「何としても命
を守る」ことを最優先として、住民等の避難を軸に、土地利用、津波避難施設、防
災施設など、ソフト対策とハード対策の取りうる手段を組み合わせた総合的な津波
対策を確立する必要がある。
(2) 防災・減災対策を考える上で重要なことは、東日本大震災から学んだように、
ハード対策に過度に依存することなく、日ごろからの避難訓練や防災教育、災害教
訓の後世への伝承などのソフト対策を充実することである。ソフト対策は、具体的
な効果を算定することはなかなか困難ではあるが、継続的に実施すれば必ず効果を
発揮するものであり、これらの対策をおろそかにすることなく、行政をはじめ、地
域や一人ひとりが努力を積み重ねていくことが必要である。
(3) 施設等や経済的な被害については、最大クラスの地震・津波に対して被害をゼ
ロにすることを目標にすることは現実的ではなく、仮に最大クラスの地震・津波が
発生した場合の被害の拡大を少しでも抑えることができるよう、各々が対応できる
ことを見極め、備えておくことが重要である。
(4) 地震動への対応については、最大クラスの地震によって震度 6 弱から震度 7 の
強い揺れがこれまで以上に広範囲で想定されるということであり、必ずしも特別な
対策が必要というものではなく、これまでの耐震対策を着実に進めることが重要で
ある。
(5) 災害応急対策は、危機管理の観点から最大クラスの地震・津波を想定して備え
る必要がある。
経済的な被害の様相
(1)構成
大規模な地震が発生すれば、事業所等の施設・設備の被害や人的被害、電力等のライ
フライン施設の被害により、生産やサービスの低下へ被害が波及していく。
経済的な被害の様相は、東日本大震災をはじめとする既往地震の被害事象等を参考に、
南海トラフ巨大地震が発生した場合に、建物や資産等の被害、生産・サービス低下等に
よる被害が時間的・空間的に波及拡大する状況をとりまとめたものである。
今回の被害想定では、被害の様相を「総括」と「項目別」に分類して作成した。
また、経済的な被害を減ずるための「主な防災・減災対策」について、事業継続計画
(BCP)の策定・充実等7つの項目別に分類して、とりまとめた。

(2)総括
「総括」では、被災状況及び影響の拡大の状況を俯瞰するために、「超広域にわたる甚
大な被害」、「我が国の製造拠点の被災」、「食料等の生産拠点の被災」、「人流・物流の大
動脈の寸断」、「二次的な波及」及び「復旧・復興」