杉山 龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 - 1987年(昭和62年)9月20日)は、日本の陸軍軍人。
インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる人物である。
「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は息子。
福岡県福岡市出身。
祖父は政財界のフィクサーともいわれた杉山茂丸、父は作家の夢野久作である。
弟は詩人の杉山参緑。
1937年(昭和12年)福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1940年(昭和15年)陸軍士官学校(53期)を卒業し、ボルネオでは胸部貫通銃創の重傷を負う。
陸軍少佐で終戦を迎える。
戦後、3万坪の農地を売り、緑化の費用にあてた。
インドの政府や個人の協力を得て、インドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化したが、日本の政府や企業などからは理解や協力が得られず、日本ではあまり知られていない。
1955年(昭和30年)戦友から、日本で農業を学んでいたインド人を紹介され杉山農園で農業技術を教えた。
初めてインドに行ったのは1962年(昭和37年)、砂漠となったパンジャブ州を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となるユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。
また、国際文化福祉協会を設立しインド救援の寄付金を募った。
植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至ったが、杉山は杉山農園を売却して資金を調達し、家族を日本に残して渡印した。
のち、4万坪の福岡市の杉山農園、家屋敷は人手に渡り、借家住まいとなり、国連関係者からの環境会議出席の求めに友人から旅費を借りて出席した。
祖父・茂丸が台湾で関与した蓬莱米をインドに移植することに成功している。
終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人認可申請もいまだ認められていない。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。
祖父の杉山茂丸は政治家で、伊藤博文の懐刀として活躍された人物です。
地元は名家で不自由なく育った龍丸さんは、財産を私物化してはならないという
祖父の遺言を尊重し、給料がもらえる士官学校へと進学しました。
なぜ、杉山龍丸さんは、インドに目を向けたのか?きっかけは?
戦後の1954年、上京してプラスチック関係の仕事を始めていた杉山龍丸さんは、
東京駅でインド人の青年を連れた士官学校の同期生と出会いました。
この際、成り行きでインド人青年の世話を押し付けられてしまいました。
それをきっかけにしてインドからの留学生が龍丸さんを訪ねてくるようになり、
何人目かの留学生にミルミラー(S.K.Mirmira)さんという方がいました。
この方はガンジー翁の直弟子でした。彼らを世話したことがきっかけで、
ガンジー翁の他の直弟子たちとのお付き合いが始まり、インドにのめりこんでいくことになります。
実は、その杉山さんの活動を知ったインド政府は、昭和37年、彼をインドに招き、
1961年、当時、42歳だった杉山龍丸さんは、
イギリスから独立してまもないインドに行きました。
杉山龍丸さんが16歳時に祖父が、17歳時に父親が突然亡くなります。
亡くなる間際に祖父から聞いた言葉が、その後の杉山龍丸さんの人生に大きくかかわってきました。
その言葉は・・・
「杉山農園の土地は私物化せず、当初の目的通りアジアのために使え」
「アジアの人々を救いなさい」
はじめて目にしたインド。
インドの殺伐とした茶褐色の荒涼な大地、広大な砂漠に驚き、息をのんだそうです。
そこで彼は改めて、当時のインドの困窮の凄まじさと、
国を良くしようと願う人々の熱意に打たれ、この国のために尽力しようと誓います。
「これがインドだ。これがインドか・・・」
砂漠化が進むインドでは、農作物も育ちにくく、国民の多くが慢性の飢餓状態。
雨が少ない年には死者の数は500万人以上にのぼる苛酷な現実を目のあたりにし、
「インドの人々を救いたい」と心に誓いました。
杉山さんが行なった、インドの大砂漠の緑地化とは?
成長が早く根が深いユーカリを植林し、
地下水脈をせき止めて水を確保することを提案し、実地指導にあたった杉山龍丸さん。
インドは地下水位が低いこと、および土壌に有機物が少ないことに気づき、
それが、レンガを焼くために森林を伐採した結果であることを確信したことから、
活動が始まりました。
というのは、「世界中で、古代文明があったところは砂漠になっている。
これは、森林(自然)と共存できない文明は滅ぶということだ」
という結論に達し、インドの仲間たちに樹を植えることを提案し実践しました。
では、なぜユーカリの木を植林に利用したのでしょう?
それは、オーストラリアの砂漠で元気に育っていた
ユーカリのことを知っていたからです。
砂漠を緑に変えるような水源を求めて、来る日も来る日も奔走しました。
しかし、灼熱の炎天下に見えるのは、乾いた大地のみ。
あきらめかけたその時、炎天下の砂漠で家畜の牛達が休んでいる場所があり、
木陰でないのになぜ?と奇妙な光景に疑問を持ったそうです。
掘ってみると、そこにかすかな湿り気を感じ、
「砂漠にも水がある」ことに気づきました。
「暑さに強く、成長も早いユーカリが地下水を吸い上げれば地表も潤い、
作物も育てられるのではないか?」
龍丸さんはそう考えたそうです。
インドの国土はヒマラヤ山脈の裾野を走っており、
ヒマラヤから地下水が流れている可能性の高い国道1号線沿いに
植えたほうがいいと考え、自ら国道沿いの村々を訪ね歩き協力を求めました。
「一緒に作物を作り、豊かになろう。」
始めは、今を生きるのに精いっぱいで、緑を植えること、
作物を作ることには興味を持たなかったそうですが、
龍丸さんの熱い思いに、次第に心が動き始めました。
植林前の光景
困難を乗り越えて、杉山龍丸さんと周辺住民の人々と植林した大地は今?
砂漠化を止めるために水探しをしていた際、事業が始まって間もなく、
インドに大飢饉が起こり、その対策を優先したインド政府は
事業を中止することを発表しました。
それでも杉山龍丸さんは、福岡に残した土地や財産をすべて売却し、
現在価格にして140億円もの私財を投げ打ち、それをインドでの植林につぎ込みました。
「よいしょ。どっこいしょ。」
人々の掛け声と、鍬を持つ映像が残っています。
荒涼とした砂漠にいつしか日本語の掛け声が溢れていったそうです。
そして今、不毛の大地と言われていた国道の両脇には
緑のユーカリが4mおきに植えられ生い茂り、木々の高さは15mにも達しています。
ユーカリの巨木は地下水を吸い上げ、大地を潤し、並木道は総延長470kmにも及びます。
植林後の光景(不可能を可能にする)
「私達がこうして暮らしていけるのも、すべて豊かな緑のおかげです。」
龍丸のシンプルな植林技術は、村から村へ、人から人へと伝えられました。
周囲の土地には稲、麦、馬鈴薯の三毛作ができるようになりました。
この事業に対して日本政府からは一切の援助はなく、
また杉山さん自身が学者ではなかったことから学会からも黙殺され、
一個人が成し得た壮大な緑化事業は、彼が昭和62年に亡くなるまで、
日本ではほとんど知られることはありませんでした。
しかし、インドの人々の間では、いまなお
「インド独立の父はガンジー。インドの緑の父(グリーンファーザー)は杉山龍丸」
と讃えられているほどの偉業を行ったと語られています。