1995年(平成7年)「阪神・淡路大震災」1月17日。
早朝散歩で取手・青柳の方面を歩いていた。
午前5時46分だった。
田圃が多い地域である。
ラジオで関西方面で大きな地震があったというアナウンサーの声に思わず足を止めた。
「これは、ただごとではないな」と報道の内容を聞きながら走って自宅へ向かう。
はやる気持ちでテレビを観た。
あれから24年。
死者6334人、行方不明3人、負傷者4万3792人に上る未曾有の大災害だった。
当日の朝はまだ、地震の全体像がつかめない段階だった。
情報も錯綜していた。
自衛隊の出動も遅れた?
5時46分震度6(実際は7)とNHKは放送。
宮田治アナウンサーがNHKの神戸市内での7時32分火災を伝えた
午前6時36分 神戸、1月16日、震度1、井戸水濁る。
宮田治アナウンサー(大阪)がNHKの神戸市内での7時32分火災を伝えた。
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時の貝原兵庫県知事、彼自身も被災した、だから高見裕一が県に電話しても出られるはずもない。
知事は公舎に止まった、待てば迎えが来ると、その迎えが来たのは地震発生から2時間後、貝原県知事は県庁舎に着いても自衛隊の派遣要請は出さなかった。
自衛隊の基地司令官、官舎で被災した、すぐに隊に指示を出し、非常招集をかけた。その後、彼は液状化し膝までの泥水の中を歩き、1時間20分後に部隊に到着した。
この時、隊は出動準備を完了し、県からの要請を待っていた。
あの時、自衛隊はすぐに出動準備を始め、命令無しに出動すれば違法になるため、訓練名目で被災地上空にヘリを飛ばし情報収集に努めた。
火災、自衛隊はヘリによる消火を進言した、しかし時の政府「水投下により溺死者が発生すると拒否」、消防は瓦礫に阻まれ要救助者のいる火災現場に近づけなかった。
近くの駐屯地から偵察名目で出動した隊員、目の前の被災者を違法覚悟で救助した。
兵庫県が自衛隊に災害派遣を要請したのは10時10分、県知事が指示をしたのではなく、防災係長が県知事名義で出動要請をした。
8時20分には県庁に到着していた県知事は事後承認を行った。
この時、村山首相は派遣は3,000名と限定指示した。
すでに要請以前に海自は呉から救援物資を積んで神戸に向かっていた。
セブンイレブンは8時30分、ダイエーは8時に地震対策本部を立ち上げ、ヘリで状況視察と共に救援物資お輸送を開始した。
テレビは通常放送を中止し地震の情報を伝えていた、しかし、時の村山内閣動かず。
村山内閣が大変な災害と気付いたのは16:00。
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その日、同僚の一人が社長の指示で神戸に取材に向かった。
同僚は大阪でレンタルカーを借りて神戸へ向かうが大混乱で、迂回しながら現地入りしたそうだ。
社内ではテレビに釘付けとなる。
当方は日課として、厚生労働省へ向かう。
日比谷クラブでもテレビに記者たちが釘付けの状態だった。