2013年12 月20日 (金曜日)
「君には見えない部分があるんだ。それは何んなんだろうね?」
真田は30代のころ左翼運動の同士とも思われた男から言われた。
左翼運動は日本の国のあり方を変えるだろうと思われたが、真田には運動を進めるうちに違和感もあった。
真田は裏の社会で生きてきたのだから、右翼的な考えも捨てきれずにいたのだ。
真田は結局、その男と距離を置くことになるのだが、その男の愛人と親くなった。
彼女は在日2世であり「真田さんには、朝鮮の血が流れている感じがするの」と言う。
「君は朝鮮系なのか?」真田は驚いた。
真田は戦後の日本の動乱期を知ったいたので、心のどこかで朝鮮の人を警戒し蔑視しもしていたのだ。
だが、真田は女の魅力に惹かれていく。
「真田さんの子どもがほしい」と言うので、真田は応じた。
それまでの真田は家庭をもつつもりもないし、父親になるつもりもなかったで心境が変化いたのだった。
女に会いたけれ会いに行く質であり、女を束縛したり、囲い込む気持ちにはなれなかった。 また、去っていく女を追うこともしなかった。
女は金山冬子と名乗っていた。
「2月生まれなの。真田さんは?」
「俺も2月に生まれた」
「そうなの。どうりで波長が合うとなと思ったのよ」
冬子は真田の手をとり胸にあてがうようにした。
「波長か」真田は胸の温りをまさぐる。
「私の鼓動が伝わるかしら」
冬子は真田の胸に身を強く寄せた。
「私ね。妊娠したみたいなの」 冬子は嬉しそうに微笑んだが、真田にそれを喜ぶ表情はなかった。
冬子は敏感に読み取って「産んでもいいんでしょ?」と念を押すように言う。
真田は「ああ」と答えるしかなかった。
「愛してくれているのよね」
「ああ」
「愛していると言って!」
冬子は波長の狂いを懸念したようであった。
「愛しているさ」真田は冬子の瞳を見詰めた。
「この胸に誓える」冬子の目が潤んできた。
「誓う」真田は冬子を強く抱きしめた。
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<参考>
韓国でも日本でも歴史教育現場では、 日本人を「加害者」、朝鮮人を「被害者」という側面でしか教えられていませんが 実は、戦後に朝鮮人が「戦勝国民」「朝鮮進駐軍」と自称して日本全国で狼藉を働いたこと、 朝鮮半島でも朝鮮人が多くの日本人に対し虐殺や強姦などしていた加害者としての歴史があるのです。
日本が敗戦した後、日本国内にいた朝鮮人達は、「我々は戦勝国人であり、連合国人である。」と称し、「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国の法律に従う義務はない。日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない。戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」と称し、その通り実行しました。
彼らは武装解除された日本軍の武器と軍服を着て武装し 徒党を組み多くの日本人を無差別に殺しました。
GHQの記録に残ってるだけで4千人以上の日本人が餌食になりました。
それは、各地における暴行、略奪、窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、人民裁判などであり、それは酷いものであったと言います。
朝鮮人たちはやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に占領されました。
当然、日本人は在日を強く憎むようになりました。
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「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけても手も足もでない。
「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。
警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
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堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した
最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った
其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た
此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」
と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである
だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか
聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い
「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない
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“浜松事件”は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。
“浜松大紛争”とも呼ばれた 事件の発端
戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
事件の概要
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。
小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。
5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
その後の顛末
この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。
同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。
2013年12 月18日 (水曜日)
創作欄 真田と栄子 7)
新四国巡礼
江戸時代の頃、巡礼が流行となり、各地に大小さまざまな巡礼地ができた。
一般に四国の八十八カ所霊場を巡礼することを「遍路」といい、巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現存する250年もの歴史のある巡礼地だ。
真田は取手駅前通りに面して存在した取手協同病院を退院した日、白装束姿の巡礼者を見かけた。
駅まで送ってきた栄子から、「お遍路さんたちよ」と教えられた。
宗教心が全くなかった真田であったが、「俺も過去の罪滅ぼしに、巡礼でもするか」と呟くように言いながら、巡礼者たちの姿を見送った。
「天皇陛下万歳」と叫んだ太平洋の島での戦場では、天皇は神の存在であった。
思えば、思うほど愚かな戦争であった。
子どもたちが大人に戦いを挑んだも同然の戦争であった。
食料と武器弾薬を運ぶ輸送船のことごとくが米国の攻撃で沈没されて、島へは補給されなかった。
まさに兵糧攻めにあった戦国時代の城のようなものであった。
さらに栄養失調の上にマラリアでも日本兵士たちは死んでいったのだ。
制空権を奪われ退路も断たれていたので、島の戦場から逃げ出すこともできないのだ。
最後は洞窟に身を潜めていたところを、アメリカ兵たちの容赦ない火炎放射器の攻撃で日本兵たちは焼き殺された。
あれは地獄そのものであった。
真田があの太平洋の島で生き残ったことが奇跡であった。
そして真田の妻子たちの命を奪った昭和20年の東京大空襲の地獄絵を真田を何度も想って見た。
神や仏など無意味な存在と思うのも必然である。
だが、脳梗塞が軽くすんだことで、真田は大きな何かの存在に生かされたのだと考えはじめていた。
これまで 虚無的な真田の心情を埋めてくれたのは出会った女性立ちであった。
自治医科大学を卒業した小西公子は医師として秋田の赤十字病院に勤務していると手紙をよこした。
「看護婦の経験を活かし、日々、患者さんたちから学んでいます。我々医療従事者は基本的に患者さんたちに育てられていることを実感しています」真田はその手紙の箇所を何度も読み返した。
巣立った娘を思う気持ちに真田はなっていた。
http://www3.ocn.ne.jp/~kumaken/index.html
2013年12 月16日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 6)
真田は実は当時、国民的な人気プロレスラーであった力道山との因縁が深かった。
真田は仲間内から力道山が北朝鮮の出であったことを闇ブローカーの仲間から聞いていた。 真田は1956年、東京オリンピックが開催される前、東京・世田谷用賀の不動産屋で力道山と対面した。
実業家としての力道山は、オリンピックの会場の一つとなる世田谷駒沢などに目を付けていた。 だが、世田谷に居を構える右翼の大物も世田谷駒沢の利権に食指を伸ばしていたのである。 力道山は結局、世田谷駒沢などへの投資を断念して、渋谷と赤坂に後年、拠点を構えている。 真田は身長182cmであり、会ってみると力道山が小柄に見えた。
公には180cmとしていた力道山は実は176cmであった。
真田は力動山のファンであったが、力動山に危うさを感じていた。
機嫌がいい時と機嫌が悪い時の力道山の話を真田は仲間うちから聞いていたのだ。
さらに力道山は酒グセも良くはなかった。
粗暴な性格が災いしたことな否めない。
真田は力動山の死を知った時、「やっぱりな」と受け止めた。
真田は昭和40年、取手が関東のベットタウンの一つとして開発されつつあることに便乗しようと思い始めていた。
このため、取手協同病院を退院した翌月には、住まいを取手に移した。
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<参考>
暴力団山口組三代目組長の田岡一雄は「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。
2013年12 月13日 (金曜日)
創作欄 真田と栄子 5)
「真田さん、ご家族に連絡したのですか?」
大田栄子は気遣った。
「独り身なんだ」
「ご家族はいなのですね」
「そうなんだ。心配する者がいない、ということは気楽だね」真田は笑顔になった。
「私と同じですね」 栄子も微笑んだ。
「栄子さんに家族はいなにの?」
「そうです。私に女子競輪選手になるように勧めた父は52歳の時に脳内出血で亡くなりました。植木職人をしていて、ギャンブル好きでした」
「52歳! 若すぎる死だね」
「倒れて、一度も目覚めることなく亡くなりました」栄子は涙ぐんだ。
真田は麻雀仲間が同じ52歳で心筋梗塞で呆気なく逝ったことを脳裏に浮かべた。
癲癇持ちで突然発作が起きて、「あ~」と叫びながら雀卓に倒れこんだり、床に倒れ込んだりしていた。
真田たちは何度か男の発作が収まるまで見守った。
その男は大手の電機メーカーの工場に勤務していたが、土曜日に雀荘に表れ徹夜麻雀に加わっていた。
その日も男は癲癇の発作をおこしたたのだと真田たちは思った。
だが心筋梗塞であったのだ。
突然死んだ男は真田より2歳年下であった。
栄子は真田の姿に死んだ父を重ね見た。
父が生きていれば同世代と思われたのだ。
「栄子さんのおふくろさんは?」
問われて栄子の顔は複雑な表情となった。
「母は・・・母は私が小学校2年生の時に居なくなりました」
「居なくなった?」
「家へ帰って来なくなったの」
真田は栄子の悲しげな顔を見詰めながら余計なことを聞いたと悔やんだ。
2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子 4)
若い倉持由紀江ととりとめのない話をしていたが、真田は突然、メランコリーな気分となる。
尿意をもようしたのでトイレへ向かう。
そして戻ってくる間に異変が起こった。
右足がつるような感じがした。
トイレから戻ってくるまでおしぼりを手に由紀江が立ったまま真田を待っていた。
その笑顔が揺れているように見えた。
ボックス席に着いた真田は受け取ったはずのおしぼりをテーブルにおとした。
右手がまるで骨折したようにだらりと重く垂れ下がった。
そして手首に痺れが走った。
それは電流が走ったような軽い痛みであったが、脱力感で手首の辺りが重くなっていた。
酒を飲めば収まるだろうと盃を右手でつかんだが、それを床に落とした。
「真田さん、どうかしましたか」 由紀江は真田の顔を覗き込むよに見詰めた。
「大丈夫、疲れが溜まったたんだ。徹夜麻雀もしたしね」
頭を何度も振りながらボックス席に背中をもたげると、真田の意識が遠のいていく。
結局、真田は取手駅前の通りに面した取手協同病院に運ばれた。
「俺は、いったいどうしたんだ」 ベットに横たわっている自分の姿に真田は愕然とした。
「ここはどこだ?」真田は豆電球が灯る天井を見上げながら身を起こした。
古い部屋であり木製のガラス窓の外は闇に包まれていていた。
腕時計を見ると午前2時であった。
実はこの病院に戦前のことであるが、作家の坂口安吾が住んでいたのである。
真田は翌朝、看護婦から脳梗塞を起こしたことを聞かされた。
「真田さん、運がよかったですよ。比較的軽い脳梗塞だったのよ」
40代と思われる小太りの看護婦は、検温をしながら言う。
「脳梗塞だったんだ。気を失って何も覚えていない」
「この病院が、駅前でよかったのよ」
「病院は取手駅前にあるのか」
「そうね。駅まで1分ほどよ」
午後2時ころ、元女子競輪選手だった大田栄子が真田のことを心配して病室にやってきた。
「真田さん、昨夜は驚いたわ。倒れた時はどうなるかと思って・・・」
「俺は倒れたんだ」
「席から床に転げ落ちたのよ」
「そうだったのか」
栄子は何時ものように午前2時に店を閉めて、起きてからすぐに銭湯の朝湯に入り、掃除、洗濯をしてから真田の見舞いに来たのである。
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<参考>
茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院 (旧・茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院
1976年 |
9月 |
旧取手協同病院と旧龍ヶ崎協同病院とが合併 現在地に新築移転し取手協同病院となる |
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坂口安吾(小説家)1938年から2年間、取手病院に住み込む。
1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで小田原に移住する。
創作欄 真田と栄子 3)
「居酒屋では、日本酒を飲んでいましたね。やはり日本酒ですね」
栄子はおしぼりを出しながら尋ねた。
「取手の地酒があれば、それがいいな」
「それなら、田中酒造の君萬代ですね」
「ユキちゃん、君萬代をお願い」と大田栄子は立ち上がってカウンター内の倉持由紀江に声をかけた。
間もなく由紀江が日本酒を運んできた。
20代と思われた由紀江はまだ18歳であった。
男好きのする顔立ちであり愛想が良くて由紀江を目当てにバー「ジャン」に通ってくる客の多かった。
髪をアップにしているので大人びて見えた。
「ユキちゃんお願いね。私は向こうへ行くから」と栄子はカウンター内へ入った。
常連客はみんなかつての栄子の競輪ファンたちであった。
「お客さんは、どこからいらしたんですか?」
真田は濃紺のスーツを着ていて、地元取手の人間には見えなかったようだ。
「東京の自由が丘から」真田は日本酒を一口飲んで答えた。
口あたりはまろやかで思いのほか美味しい地酒であった。
「日本酒を美味しそうに飲むですね」
由紀江が微笑むと幼さが漂った。
「君はまだ、高校生みたいに見えるね」
「来月、19歳になるの」
「若くていいな」
「お名前、お聞きしていいですか?」
「真田、生まれは長野県の松本だけど、残念ながら真田幸村の子孫ではない」
由紀江には真田幸村が何者であるか知識がなかったので、話が通じなかった。
「真田さんは取手競輪に来たのですね」
「そう、往年のスター選手だった松本勝明が出ていたのでね」
由紀江は競輪の知識がないので、松本勝明の名前を出しても反応がない。
「ママが元女子競輪の選手だなんて、すごいことようね。お風呂に一緒に入って太腿を見てびっくりしたの」
由紀江は両手で輪を作りながら、「ママの太腿は、私のウエストくらいあるのよ」と無邪気な笑顔となる。
真田は栄子の太腿を見てみた衝動にかられた。
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<参考>
真田 信繁 / 真田 幸村 は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。
江戸時代初期の大坂の陣で活躍し、特に大坂夏の陣では、寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追いつめた。
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。
そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
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http://www.kimibandai.sake-ten.jp/history.html
2013年12 月11日 (水曜日)
創作欄 真田と栄子 2)
競輪好き人間であれば、競輪女王であった田中和子元選手のことを誰もが知っているであろう。
田中選手は1955年に「全冠制覇」達成し女子競輪における唯一の選手であった。
特別競輪を実に15回制覇している。
驚愕ともいえる強さであり、落車を1回した以外は全て1着だったという年まであった。
神奈川の渋谷小夜子も強かったが、渋谷が引退すると田中和子は独擅場の強さを誇るようになった。
後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れなかった。
「田中和子は強かったね」真田は田中和子の走る姿を思い浮かべた。
「本当に、田中さんは強かったです。とても私には勝てませんでしたね」
元女子競輪選手の大田栄子の目が輝いた。
まさか取手駅前の居酒屋で元女子競輪の選手と出会い、女子競輪時代の昔話ができるとは真田は思わなかったので気持ちも高揚してきた。
大田栄子は実はバー「ジャン」という店を経営していて、居酒屋で客引きをしていたのだ。
居酒屋の店主は競輪好きであり、選手時代の大田栄子のファンの一人であったので、店内での客引きを大目に見ていた。
競輪帰りのファンの常連客でその居酒屋は競輪開催日には賑わっていた。
「私の店に来ませんか?バーですが日本酒も置いています」
真田は喜んで誘いに応じた。
通称祇園横丁にバー「ジャン」はあった。
カウンター席とボックス席二つがあり、10数人で一杯になるほどの広さである。
店には、20代の女性と40代と思われる女性が居た。
カウンター席に6人の男性客が居て、その日の競輪の話などをしていた。
大田栄子はビックス席に真田を招き、接客した。
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<参考>
取手地区はかつて、陸前浜街道の宿場町として栄え、本陣をはじめ、旅館や茶屋が並ぶ陸上交通の要所であった。
また、江戸時代中期から明治時代にかけて諸藩の産物を運搬する利根川水運が盛んであった時代には、宿場町として河岸を中心に発展した。
昭和22年取手町に井野村を編入し、昭和30年、取手町、稲戸井村、寺原村、小文間村と高井村の一部が合併し、取手町が誕生した。
昭和40年を転機に日本住宅公団、民間の宅地開発、大手企業の進出などで人口が急増し、同45年10月、取手町は、県内17番目の市制を施行した。
1970年(昭和45年)取手町は取手市となった。
取手は、地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
1970年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加。
1971年(昭和46年)上野―取手間は複々線化により輸送力が上がっている。
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<参考>
女子競輪
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。
また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。
そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。
なお、女子選手が男子選手と結婚し、その子供も競輪選手になったという例もある。
女子競輪が衰退していった理由としては、男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、 ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
女子の強豪選手は西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。
最初から選手の質の維持に問題があったことなど。
2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)
競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だっ選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪