史上最年少「5冠」挑戦か 藤井竜王、王将挑戦権かけて19日対局

2021年11月18日 23時01分20秒 | 社会・文化・政治・経済

11/18(木) 18:14配信 毎日新聞

藤井聡太竜王=幾島健太郎撮影

 史上最年少「5冠」に挑戦か――。渡辺明王将(37)への挑戦者を決める第71期ALSOK杯王将戦リーグ(毎日新聞社、スポーツニッポン新聞社主催、ALSOK特別協賛)の藤井聡太竜王(19)―近藤誠也七段(25)戦が19日、東京都渋谷区の将棋会館で行われる。藤井は13日に竜王獲得を決めて史上最年少で4冠になったばかりだが、19日に勝てば王将への挑戦権を獲得し、「史上最年少5冠」をかけ、来年1月に開幕する王将戦七番勝負に挑むことになる。

【3連覇中 ヤマタノオロチ退治する渡辺王将】

 王将戦は将棋の8タイトルの一つで、1950年に創設された。名人戦に次ぐ歴史を持つ。全棋士が1次、2次予選をトーナメントで戦い、予選を勝ち上がった棋士とシード棋士の計7人で挑戦者決定リーグ戦を行って挑戦者を決める。

 渡辺王将は、第68期の王将だった久保利明九段に挑戦して勝利。その後、第69期に広瀬章人八段、第70期に永瀬拓矢王座の挑戦を退け、3連覇している。通算10期獲得で永世王将となり、過去には大山康晴十五世名人(23~92年)が通算20期獲得したほか、羽生善治九段(51)も12期獲得して、永世王将の資格を持っている。

 近年は、番勝負ごとに勝者が開催地にちなんだ仮装をして記念撮影するのが恒例となっており、これまでも数々の棋士が、ちょんまげのかつらをかぶってその土地出身の武将になりきったり、地元の民謡に合わせて踊ったりする姿を披露している。

 王将位をかけた七番勝負は、例年1~3月に行われる。第71期の七番勝負第1局は来年1月9、10日、静岡県掛川市の掛川城二の丸茶室で行われる。


茨城5区でも自民応援演説に日当 前参院選は21人に支払い

2021年11月18日 22時56分30秒 | 事件・事故

11/18(木) 20:33配信

共同通信
 衆院選茨城6区で行われた岸田文雄首相による自民党候補者応援演説の際、参加者21人にそれぞれ5千円が支払われていた問題で、動員と支払いをした任意団体「茨城県運輸政策研究会」は18日、菅義偉前首相らが訪れた茨城5区の応援演説で4人に同様の日当を支払っていたと明らかにした。また2019年の参院選でも、21人に日当を渡していた。

 研究会は県トラック協会関連の任意団体。茨城6区ではこれまでに、安倍晋三元首相による応援演説の参加者3人にも日当を支払っていたことが分かっている。

 
 

競輪人間学「落車までは読めない」

2021年11月18日 22時25分11秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅠ 小倉競輪祭 11月18日 初日

4レース

並び 9-2 7-1-4 8-3 6-5

レース評
清水は地元防府記念を優勝、浅井は地元四日市を惜敗で、それぞれGⅠをむかえた。いきおい一番が清水で二番目浅井の結論

地元記念を4連覇して波に乗る清水選手に賭けた。
だが、まさかの落車だった。

「落車までは読めない」
競輪ファンたちの嘆きは、空しく胸に響く。
全く想定外の清水選手の落車であったのだ。

7=9の3連単で勝負!

だがまさかのアクシデント!・・・これが競輪

結果

9-2 1,080円(5番人気)

9-2-8 2万980円(55番人気)

なお、競輪グランプリの最終切符を懸けて開催されている小倉競輪祭GⅠレース。
思えば、地元取手競輪のファンとしては、武田豊樹選手が出走していないことに、寂しさを感じる。

2011年 1着長塚智広―2着武田豊樹
2012年 1着武田豊樹―2着長塚智広
2014年 1着平原康多―2着武田豊樹
2015年 1着武田豊樹―2着平原康多
2016年 1着平原康多―2着武田豊樹

なお、今年も神山雄一郎選手が小倉競輪祭に出ていることが、驚異的である。
神山選手は、2014年には3着であった。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 9 浅井 康太   11.8   掬い抜出す
2 2 村上 博幸 1車身 11.8   浅井マーク
  3 8 高橋 晋也 1/2車身 12.2   B 後ろもつれ
4 5 松谷 秀幸 1/8車輪 12.1     清水を牽制
  5 4 小川 勇介 1車身 11.9     先頭が落車
6 1 中本 匠栄 1/2車身 12.0     目標が落車
  6 菊池 岳仁         バック不利
7 清水 裕友         B乗り上げ
3 大槻 寛徳         B押上競妨

戦い終わって

戦い終わって写真

 若干の主導権争いはあったが、高橋晋也-大槻寛徳の東北勢が先手。3番手は叩かれた菊池岳仁。その後ろに浅井康太。鐘4角から清水裕友が痛快に捲り上げるが併せて菊池も踏み込む。菊池マークの松谷秀幸が1半で清水をブロックすると清水は不発。ここで大槻が菊池を押し上げ、菊池が落車。空いた内を浅井がするすると上昇し、高橋の番手を奪う形となり、直線で一気に抜け出す。2着にも巧く立ち回った村上博幸が続く。
 巧い立ち回りから勝利を掴んだ浅井は「展開は厳しかった。見てもらった通り、内が空いてくれたし、突っ込む事が出来た。ハンドル捌き、脚は悪くないが、本来なら清水君の動きをしないと駄目だと思っている。地区プロでペダリングに閃きがあったし、四日市でもそれを試したら、良い感触を掴めていました。状態は維持出来ていますね」。
 2着の村上は「浅井とはずっと連係しているし、特にこの小倉での連係が特に多いですからね。特に作戦会議はしなかったし、全てお任せでした。脚には余裕あったし、外を踏もうと思ったが、浅井が内に入ったし、コースを探しながら突っ込んだ感じ。弥彦では痛恨の調整ミスを起こしたし、今回はしっかり、慎重に調整しました」。
 3着に粘り込んだ高橋は「大槻さんの作戦通りに走れた。今日は風を切りたかったんで。残れているし、軽かったと思う。思ったより長い距離踏んできつかったが、調子は良いと思う。改善点を探して、二走目以降に繋げたい」。


観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか

2021年11月18日 12時08分14秒 | 社会・文化・政治・経済
 

メガヒットをうむために、鍛えるべきたったひとつの能力。
それは、「見る力」。

データや論理的思考だけではクリエイティビティは上がらない。
だが、センスや直感・感性はどうやって磨けばいいか、わからない。
そこで注目すべき力が、観察力だ。
多くの人の感情を動かす作品も、大衆に愛される商品も、
すべては「観察する力」から生まれているーー。
「宇宙兄弟」「ドラゴン桜」「マチネの終わりに」を仕掛け、
新人マンガ家の育成に携わる著者が、その頭の中をすべてさらけ出した
ビジネス・クリエイティブで最重要となる画期的思考。

(本書「はじめに」より引用)

僕はクリエイターを発掘し、育成する仕事をしていて、「いいクリエイターの条件は何ですか?」という質問をよく受ける。そのたびに「観察力だ」と答えている。人生は長い。インプットの質が良ければ、最終的にアウトプットの質も良くなる。インプットの質を高めるのが「観察力」だ。観察力が大事だと自分で認識もしている。周囲にも観察力を高めるようにアドバイスをしている。
では、観察力とは何か、自問自答する。
それに対して、僕ははっきりと答えることができなかった。「じっくり観て、気づきを得て、考えること」というくらいの解像度の低い答えしか思いつかない。ましてや、どうやって観察力を鍛えるのか。そのためにできることは何か。僕は思いつかない。

自分たちが変わるために一番必要な概念を、自分はぼんやりとしか理解していない
のか。そのことに驚きつつ、観察とは何かを考え始めた。
そもそも観察とは、仏教用語である。科学とは、観察の歴史でもある。哲学者たち
も観察について問い続けた。この本は、そういう観察についての積み重ねをしっかりと押さえてはいない。僕が、クリエイターたちとより良い創作をするために、必要な観察とは何かを徒然なるままに思索したものをまとめたものだ。体系立てているわけではないので、学術的に観察を知りたい人には物足りなく感じるかもしれない。だが、僕と同じように観察力を鍛えたい人には、ヒントとなるものはあると思う。

出版社からのコメント

■目次
第1章 観察力とは何か? 観察をめぐる旅への誘い
・「観察力」こそがドミノの一枚目
・観察を阻むものから考える
・自分という牢獄

第2章「仮説」を起点に観察サイクルを回せ
5つの具体的アクション

・「問い→ 仮説→ 観察」のサイクルを回す
1 まずは愚直なディスクリプション
2 外部の「評価」を参照軸にする
3 記憶は信用せず、データに当たる
4 徹底的に真似る 型に気づく
5 自分だけのモノサシを育む

第3章 観察は、いかに歪むか (認知バイアス)
・人は自分がみたいものだけみている
・信念を補完し、思い込みを利用する──確証バイアス
・悲観を準備する力に変える──ネガティビティバイアス
・みんなの意見に流されていないか──同調バイアス
・レッテルを貼らず〝今〟の相手を見る──ハロー効果
・成功者の話を真に受けすぎない──生存者バイアス
・問題の原因を人の能力に求めない──根本的な帰属の誤り
・現代の魔女狩りとは何か──後知恵バイアス・正常性バイアス
・現実を見る準備はできているか

第4章 見えないものまで観察する (感情類型と関係性)
・人・社会・時代を見通すために
・感情とは取り扱いの難しいセンサー
・感情を「情動」と「混合感情」に分ける
・個性は存在しない。他者との「関係性」に目を向けよ

第5章 あいまいのすすめ (正解を手放し 判断を保留する)
・観察とは本能に抗う行為
・絶対の反対とは何か
・多様性とはあいまいな世界
・「すること」と「いること」
・あいまいの4象限
・観察とは愛である

著者について

佐渡島庸平
株式会社コルク代表取締役社長。編集者。
1979年生まれ。中学時代を南アフリカ共和国で過ごし、灘高校に進学。2002年に東京大学文学部を卒業後、講談社に入社し、「モーニング」編集部で井上雄彦『バガボンド』、安野モヨコ『さくらん』のサブ担当を務める。03年に三田紀房『ドラゴン桜』を立ち上げ。小山宙哉『宇宙兄弟』もTVアニメ、映画実写化を実現する。伊坂幸太郎『モダンタイムス』、平野啓一郎『空白を満たしなさい』など小説も担当。12年10月、講談社を退社し、クリエイターのエージェント会社・コルクを創業。インターネット時代のエンターテイメントのあり方を模索し続けている。コルクスタジオで、新人マンガ家たちと縦スクロールで、全世界で読まれるマンガの制作に挑戦中。
 
 
 
見ていることと、それを抽象的な意味にして考えること、受け取った意味を基にして行動することには大きな隔たりがあり、その人間行動を反射のように当然のものとするか、畏れを持ってそれぞれの要素に対するメタ認知を高めようとするかで、個人の人生というのが大きく変わってくる。
よりよい人生を生きよう、自己へのメタ認知を高めようという人間にはとても役に立つ本だ。
 
 
ずーっと同じ仮説ばかり頭をよぎってなかなか前に行動が進まないことがよくありました。

でもこの本の「観察」を意識して、いろんな角度から一つの事柄に向き合うことで、新しい仮説が見えてきました。
新しい行動のためのきっかけをもらえた気分です。
 
 
漫画家の育成を通じて「観察すること」に真摯に向き合った本
まだ漫画家の卵でしかない作家が1日1ページ、日々の出来事をマンガにすることを求められ、そのなかで自分自身のメガネにも気づきはじめ、「あ、確かにそうかも」という”面白さ”を表現できるようになる
たぶん芸大の講義でもほとんど同じことが言われそうだし、『ブループリント』に共通するものを感じる

たしかにアーティストは書くよりも語るよりも、最初に「何を観るのか」というテーマ設定と気づきにこそ価値がある。それが職人からアーティストに変わる瞬間だし、絵をきれいに書く技術論より前に、一線級のアーティストの出来る/出来ないを見分けるものなんだろうなと思う

結論としては自分のバイアスメガネを「外すことはできない」
自分がどういうバイアスかを認識しながら観る、何度も何度も自分のバイアスメガネを確認する
というプロセスが、創造的な発見につながる。
 
 
読めばすぐ分かるが、本書は認知行動療法(Cognitive behavioral therapy、略称: CBT)をモチーフにしている。

認知行動療法は、素人でも垣根が低くて入りやすい、とてもシンプルな心理療法である。100ページ程度の入門書を一冊読めば、すぐにでも始められる。

認知行動療法とは、ひと言で言えば「自己修養を方法論化したもの」と私は理解している。「こう生きるのが正しい」とか、お説教たれたりはしない。価値判断は交えない。
道に迷って、東西南北どちらに行けば良いのか困っている人に、「こっちの方に明かりが見えるよ」と教えてあげる。または、自分でそうと気付けるよう、心を訓練する。認識行動療法とは、そういうものだと私は捉えている。

ただし、もともとが心理療法なので、目指す水準は低い。
「日常生活と社会生活をちゃんと送ることができて、周囲の人間とトラブルを起こさず、なんとか折り合って行ければ、それでよし」と考える。お医者さんやセラピストは、宗教家でも哲学者でもないから、「クライアントを、健全と不健全の中間地帯=ゼロエリアまで誘導する」以上のことは考えないのだ。

「認識行動療法のおかげで、自分の偏った見方・考え方に気付くことができました。」
それは良い。では、その先に行くには、どうすれば良い?

自分の足で歩いて行けば良いのである。基礎的な体力と、大まかな土地勘さえあれば、どこまででも歩いて行けるものである。
今度は、東西南北どちらに進もうが自由だ。もう迷うことはない。旅の道中を楽しんで、自分のペースで歩いて行けば良い。

本書の著者は、この旅の楽しみ方を「観察力の鍛え方」と呼んでいるのではなかろうか。
これが私の仮説である。

本書を読み進んで行くと、著者自身の肉声が、どんどん出て来る。
もう認知行動療法は必要ない。川を渡るには筏(いかだ)が必要だが、川を渡ったら筏は捨てるべきだ。
私が本書に記したアンダーラインも、実は後半以降に集中しているのである。

そもそも人生には地図なんてない。予定調和も運命論も、ただのフィクションだ。迷った時には迷えば良い。歩き続ければ、必ずどこかには着くのだから。

著者は、迷いつつも、試行錯誤しつつも、なんだかとても楽しそうだ。
これがきっと、「旅を楽しむ」と言うことなんだろう。

137ページに出て来る、著者独自の「妖精・妖怪」論は、ことのほか面白かった。(敢えてネタばらしはしません。読んでのお楽しみと言うことで。)

210ページから213ページまで来て、「著者がホントに言いたいことはコレなのかな?」と思った。
ただし、ここだけ先回りしてツマミ食いしても、おそらく理解できません。本書は、徒歩旅行を楽しむように、一歩一歩、読み進めるべき本なのですから。

214ページから先、著者はひと山こえて、またどこかへ行ってしまった。著者が登ろうとしている山は、日本アルプスみたいに、稜線で次の山へ次の山へと、つながっているらしい。私は著者の背中を見送るしかなかった。どうか楽しい旅行になりますように。

【追記】
自分が書いた上記の文を読み返してみたんだが、ためになることは、ほとんど書いてない。書評文としても中途ハンパである。
このままでは申し訳ないので、以下に、写真家ユージン・スミスの言葉を引用したい。

映画『MINAMATA』にも出て来たセリフなんだが、ふいに頭に浮かんできた。元夫人のアイリーン・美緒子・スミス氏のテキストを要約する。

(引用、はじめ)
ジーンは「客観性」などというものは存在しない、我々は皆偏見を持っている、とよく言っていました。一番大切なことは出来るだけ正直で公平であること。彼の望みとは、我々の予断や偏見が、できるだけ真実に近付くことでした。
[京都国立近代美術館『W.ユージン・スミスの写真』7ページから要約]
(引用、終わり)
 
まあ、私なりの、本書を読み解くためのヒントのつもりです。
 
 

もちろんNewsPicksのインベスターやスタートアップルも毎回観てましたし、先日の福岡講演のnew era,new cityも観ましたし、Voicyも聴かせていただいているし、何せ東京と福岡の2拠点生活をされているということで、勝手に尊敬してました。

新刊は、Voicyで執筆中のことを話されていたので、とても楽しみにしていました。Voicyでは必ず1日の振り返りとして「事実」「感情」「気づき」を言語化されていています。明らかに左脳と右脳、論理と感性、父性と母性を意識されていると感じます。


観察というと色んなイメージが浮かぶかも知れませんが、私は最初メタ認知というか禅でいうawarenessに近い概念だと思っていました。
疑問→仮説→観察の繰り返しによって観察は鍛えられる
起点はどこからでも良さそうだと思った
このサイクルは途中で止まることがある
それは分かった気になる時だ
故に本書では分かった気になりそうなとき、あえてその物差しを割り、曖昧なままにし続けることを推奨している
また、バイアスがかかることで分かった気になってしまうので、出来るだけ自然体で見ること
だがそれが難しい
分かった気になると興味が失われてしまうので、興味を持ち続けるために愛することも忘れないでと
 
 
人が世界を見るときは色んなバイアスや感情により歪められている。
すぐ分かった気になるというのはぼくがやってしまうバイアスなのですが、分かった気になるとそこで観察が止まってしまう。
他にもこの本には色んなバイアスについて書かれており、いかに認知が歪んでしまうかを知ることが重要だということが分かった。
 
 
観察は行動のきっかけ。
堂々巡りの考えよりもしっかり物事の真実を観察。
その結果行動。

新しいことに取り組もうか悩んでいた自分には一つの光明でした。

観察力。
これからこの言葉使わせていただきたいと思いました。

大衆とは?

2021年11月18日 11時52分32秒 | 新聞を読もう

大衆のための政治

「大衆とともに」は不変の原点

公明新聞:2012年7月25日(水)付

立党精神継承して50年 「9.13」党幹部座談会

「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」。今年は公明党の立党精神の淵源となった公明政治連盟(公政連)の第1回全国大会(昭和37年9月13日)から50年。その節目に当たって、立党精神を再確認するとともに、その今日的意義などについて党幹部が語り合った。

山口那津男代表 全国の議員、党員、そして支持者の皆さまには炎暑の中、党勢拡大に取り組んでくださり、本当にありがとうございます。本年9月13日には「大衆とともに」の歴史的宣言から50周年の佳節を迎える。立党精神は公明党にとって不変の原点であり、いつの時代にあっても公明党議員一人一人の胸に深く刻まれてきた。各地で開かれる夏季議員研修会で共々に研さんし、決意も新たに前進していきたい。

太田昭宏全国代表者会議議長 多くの先輩方が「大衆とともに」という立党精神を胸に戦ってこられた。50年前の9月13日、東京・豊島公会堂で、公明党の前身である公政連の第1回全国大会が開かれた。壇上には墨痕あざやかに「団結」の2字が掲げられ、大会は終始、「庶民の手に政治を取り戻すぞ!」との熱気に包まれていたという。

太田 講演を読み返すたびに、「庶民の声を代弁する政党や政治家はいないのか」との声を受けて、創立者が庶民不在の政治は断じて許さないと獅子吼されたのだと思う。大会に参加された方々は「大衆から遊離した今までの既成政党の議員と同じであってはならないとの講演に、身の引き締まる思いがした」と、異口同音に語っている。

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大衆とは?
社会や集団のメンバーのうち,指導者やエリートを除いた残りの多数の人びと。

社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々。

社会の大部分を占める一般の人々。特に、労働者・農民などの勤労階級。


「エリート対大衆」というような階級的な概念ではありません。では何かと言えば、近代特有の「mass man」、大量にいる人たちのことだ、というのがオルテガの考えです。

しかも、「根無し草」になってしまった人たちであるというところがポイントです。自分が意味ある存在として位置づけられる拠り所のような場所、つまり「トポス」(ギリシャ語で「場所」の意)なき人間のことです。自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別もつかないような、個性を失って群衆化した大量の人たち。それをオルテガは「大衆」と呼びました。

だから、単なる「庶民」とは大きく異なります。むしろ彼は「庶民の世界」を高く評価していました。決して裕福ではなく、学があるわけではない、けれどトポスをもった人──たとえば、親から継いだ商売を何十年も真面目に営んで、それを後継者にしっかりと手渡したような人は、オルテガにとって「立派な人」なのだと思います。

自分の居場所をもち、社会での役割を認識していて、その役割を果たすために何をすべきかを考える人。それが、彼にとっての本来的な「人間」だった。近代人はそうではなくなり、「大衆」化してしまっている。そして、その「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険があるというのが、「大衆の反逆」という問題設定なのです。

では、そうした「大衆」はどのように生まれてきたのか。オルテガはこう説明しています。19世紀ヨーロッパにおいては、都市に人口が大量に流入してきた。同時に、医療衛生などが急速に進化したことによって、端的に言えば人が「死ななくなった」。その結果、人口が急増した。

それも、農村部の伝統社会で増えるのではなく、都市部で膨大な数の群衆が一気に増えるという現象が起こってきた。それに伴って生まれてくる密集や充満を、オルテガは嫌いました。彼の文章を読んでいると、おそらく彼が現代に生きていたら、満員電車が大嫌いだっただろうなと考えてしまいます。

一八〇〇年から一九一四年までに──したがって、ほんの一世紀あまりのあいだに──ヨーロッパの人口は一億八千万から四億六千万にはねあがったのである! 

この二つの数字の隔たりは、過去一世紀がさかんな増殖力をもっていたことを明白に物語っていると、私は推察する。この三世代のあいだに、人間の巨大な塊が生産され、それが歴史の平野に奔流のように投げだされ、氾濫したのである。

同時に、この増加がめまぐるしい速さで起こったということ、「拙速」ともいうべき「速さ」に対する嫌悪も感じられます。

このめまぐるしい速さは、歴史のなかに、おびただしい数の人間を加速度的な勢いでそれからそれへと投げだしたので、かれらを伝統的文化で満たしてやることが容易でなかったことを、意味している……

つまり、さまざまなものが蓄積されてきた世界から、根無し草の群衆ばかりの世界へと、人々が追いやられてしまった。それがたった3世代ほどの間に起こったので、多くの人が依って立つものを失ってしまった、と言っているわけです。

こうした急速な変化の背景には、19世紀を通じて起こった、産業化による農村社会から工業社会への変動がありました。この変化によって、農家の次男、三男は食べていけなくなり都市に出るしかなくなっていく。一方で、工業化が進む都市部では大量の労働者が求められていたので、需要と供給がマッチし、都市に多くの人々が流入しました。

そうして都市に出てきた人たちは、自分が自分であることを担保してくれる場所、つまりトポスを捨ててきています。農村ではローカル共同体の構成員として意味づけられた存在だった彼らが、都市の労働者となり、代替可能な記号のような存在として扱われるようになっていくのです。

こうした概念を、どちらかというと肯定的にとらえたのが、ドイツの社会学者であるテンニエスです。

彼は、農村のような、地縁や血縁で人間が拘束されている社会を「ゲマインシャフト」、個人と個人の契約などによって成り立っている社会を「ゲゼルシャフト」と呼び、近代社会は必然的にゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ移行していくと述べました。進化していく社会の中では、ゲマインシャフトのような古き共同性はもはや必要とされていないと考えたのです。テンニエスはオルテガより少し年上、ほぼ同じ時代を生きた人ですが、オルテガとは正反対の立ち位置を取った人だと言えるでしょう。

■『NHK100分de名著 オルテガ 大衆の反逆』より


取手・新町ふれあい通りの追突事故

2021年11月18日 11時31分19秒 | 社会・文化・政治・経済

新町ふれあい通りでは昨年、男性が自動車にひき逃げされ、気の毒に亡くなっている。

花束とアルコール類の缶が20個以上、手向けられている光景を見た、胸を痛めた。

妻と父親と想われる二人が如何にも悲しそうであった。

逃げた犯人は千葉家の人で逮捕されたのだ。

取手・新町ふれあい通りの追突事故
 
動画リンク
 
 
 
 

創作 サラ金地獄 1)

2021年11月18日 07時50分32秒 | 新聞を読もう

友人の原田昭雄から「島田君は、我慢でき男だね」と言われてしまった。
また、先輩の谷川弘樹は「島(しま)は、大人になりきれていなね」と指摘されていた。
「そのとおり」なのだ、と島田真治は自身の弱点を改め自覚する。
親子は似ると言っても、皮肉にも悪い方に似てしまったのだ。
ギャンブル狂の父親は、競馬にのめり込み、勤務していた農協を辞めざるを得なくなる。
上司の温情により懲戒免職処分ではなく、辞職なので退職金の1000万円が支給され、それで競馬につぎ込んだ400万円の借金を返済できたのだ。

謹厳実直と外目には見られていた父親の伸一には、裏の顔があり、愛人もいたのだ。
愛人は部下の一人で、離婚経験者の28歳の園田徳子(のりこ)であった。
父親は徳子にも100万円の借金があったのだ。
当時、大学生であった島田真治は夏目漱石のような小説を書きたいと思っていたのだが、書いてみると太宰治のような創作となっていた。
それで、「ダメだ」とペンを投げる。
文芸評論を試みたが、それも中途半端となる。
思えば、島田真治は、嫌っていた母親の梅子にも似ていたのだ。
長野の上田で育った梅子は、農家に嫁ぐことを嫌って家出同然で上京し、従姉を頼って東京の浅草の料亭で働く。
梅子は、憧れの女流作家の一人の自宅を訪ね「弟子にして下さい」と懇願して断られた過去がある。
皮肉なもので、出会った相手が東京・三鷹の農協に勤める男であり、農業とは無縁ではなかったのだ。
梅子は結婚後、嫌っていた作家の太宰治と同じ町内に住むことになる。
そして梅子は、美容を通じて太宰の愛人とも無縁でなくなる。
だから、太宰の心中には大きな衝撃を受けることにもなる。
梅子は創作を続けたがそれを発表することもなく、48歳で肝臓がんで亡くなる。
息子の真治は、母親が創作を諦めることなく続けたいたことを死後、姉の真紀子から知らされ、複雑な気持ちとなる。
真治は母親に自身の日記を盗み見られた時から、母親とは疎遠になっていた。
大学2年の時から、三鷹の家を出て新宿アパート住まになる。
彼が住む柏木は歌舞伎町に近いし、新宿2丁目の怪しげな店にも近い。
当時の真治は生真面目であり、夏目漱石のような、モラルバックボーンを貫く生活をしていたが、学友の小野川圭司に誘われ、新宿2丁目の如何にも怪しげ店へ初めて行くこととなる。
「島田、お前は女好きだな。ここへ入れ」といわゆるヌードスタジオへ案内するのだ。
スタジオは2畳ほどのスペースで、西洋の飾り窓を想わせた。
個室ではヌード嬢と二人きりなる。
だが、性交はないし、モデル嬢の体に指1本触らせないシステムだった。
女はいわゆる大人のおもちゃで自慰行為をして、客にこれ見がしに大胆露骨に陰部を露出するのである。
欲情が高まった男たちは、新宿旧赤線地帯へ向かうのである。
一方、ゲイの小野川は男を求め遊技場へ、そして好みの男と出会えればホテルへ向かう。
真治は自己嫌悪に陥りながら、小野川と別れて、柏木のアパートへ向かう。
彼は明日の土曜日から、府中競馬場でのガードマンのアルバイトがあったので、寝過ごせないと目覚まし時計をセットする。
だが、その日の午前1時過ぎには、隣室の女が男を連れ込んでいて、女の喘ぎ声が壁越しに否応なく聞こえてきたのだ。


参考

新宿2丁目は北は靖国通り、南は新宿御苑に挟まれた町である。

靖国通りと新宿通りを結ぶ新宿二丁目仲通り(かつては六間通り・広小路とも称した)や、御苑大通り(旧称「栄通り」)から太宗寺方面に伸び仲通りと直交する不動通り、さつき通り、花園通り(柳通りとも称する)周辺に同性愛者向けのバーやクラブなどが集中していた。
1958年の売春防止法の完全施行まで一部の区域は色街として栄えた。

赤線地帯は道路整備等の関係で「新宿遊廓」時代の範囲より狭くなり、現在の新宿二丁目北西部の約100メートル四方の場所に所在し、約100軒のカフェーが営業していた(その南側には風俗営業法の許可を受けていないモグリの店もあり、これは青線と呼ばれた)。
客層はサラリーマンや学生等が多かったという。
この時代の二丁目は、吉行淳之介の「驟雨」や五木寛之の「青春の門」など小説の舞台になっている。

1958年(昭和33年)、売春防止法の完全施行(1957年は部分施行)により、「赤線(旧遊廓)の街」としての旧新宿二丁目は幕を閉じることとなり、1960年代後半〜1980年代前半には旅館や飲食店、ヌードスタジオ、トルコ風呂(ソープランド。現在も数軒営業中)などが点在する地域になった。

その後旅館のほとんどはビジネスホテルなどにその姿を変え、旧新宿二丁目西端(現新宿三丁目東端)エリアは「要町」と呼ばれる、「要通り」や「末広通り」などを有する都内屈指の飲み屋街となった。

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サラ金地獄から抜け出す方法ありますか?

サラ金とクレカローンで400万の借金地獄になっています。
ほとんどがパチンコと競馬につぎ込みすぎて生活費がなくなり借りたお金です。負けを取り返そうとしてキャッシングした分もかなりあります。

給与から家計の分を嫁に毎月渡しているので、借金があることを嫁は知りません。借り入れ額もいっぱいになり返済することができない状態になってきてしまい困っています。

これ以上借り入れを繰り返すと本当に終わりだと思うので、返済を軽くするとか、遅らせるとかできませんか。

ベストアンサーに選ばれた回答
もしかしたらムダな返済をしているかもしれません。その場合は、今ある借金を大幅に減らすことができる可能性があります。

私も多重債務で返済に苦労していたときがありました。どうすこともできない状態になってしまったので、借金専門の無料相談に駆け込みました。弁護士さんから、本当は払う必要のない利息まで支払っていることを教えてもらいびっくりしました。

そのまま債務整理をお願いして、当時の借金330万円を一気に90万円まで減らすことができました。おかげで返済に苦労していた状態から抜け出すことができ、生活を切り詰めていてできなかった晩酌ができるようになったのがとてもうれしかったです。

今、支払い続けている借金に、本当は払わなくてもいい金額を返済しているかもしれません。
ムダな返済をしているかどうかは、無料相談(http://eig7.com/acr5)ですぐに確認することができます。
参考にしていただけたら幸いです。

質問した人からのコメント

どうもありがとうございました。私の借金も軽くすることができることがわかりました。借金が250万以上も減ることになれば、返済もらくにしていけそうです。大変助かりました。


その他の回答

まずはギャンブルを止めましょう。
無駄な利息はもったいないので家族に相談して貯蓄を使いましょう。
それでも無理であれば親御様に泣きついて借り入れしましょう。
それも無理であれば自己破産も、視野に入れましょう。

自宅が持ち家であれば売却も良いでしょう。嫁さんとは離婚もありうるでしょう。

危機感を持ち早めに対処しないと無駄な利息を払うだけですよ。

頑張って下さい。


サラ金の歴史が物語る日本経済の裏面史

2021年11月18日 06時55分28秒 | 社会・文化・政治・経済

9/2(木) 15:03配信

nippon.com
小島 庸平

消費者金融の看板(東京都千代田区) 時事

毎日のように流れるテレビCM、街角で見かけるCDやATMの派手な看板、「サラ金」は日本人にとっておなじみの存在だ。一時は激しい取り立てにより自殺者や失踪者が続出するなど大きな社会問題となったこともあり、社会の「鬼っ子」的存在でもあった。そんなサラ金を学術的に研究・分析した『サラ金の歴史』(中公新書)が注目を集めている。本書の著者、小島庸平氏が近現代日本経済の裏面史、サラ金の歴史を解説する。

素人高利貸がサラ金のルーツ
小島庸平著『サラ金の歴史』(中公新書)

日本の消費者金融は、俗に「サラ金」と呼ばれる。「サラリーマン金融」の略である。しばしば貯蓄好きの国民と言われた日本人は、消費者金融も大きく発展させた。「サラリーマン金融」という呼び名は、日本の消費者金融の誕生と成長の経緯をよく物語っている。

日本で企業や官公庁に勤めるサラリーマンが一定の数を占めるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。戦前のサラリーマンは、相対的に高い教育水準を持ち、毎月決められた収入を保障された少数のエリートだった。しかし、雇用は必ずしも安定しておらず、いつ首を切られるかわからない不安定な立場でもあった。そのため、サラリーマンに金を貸す金融機関はまれだった。

そこで重要な意味を持ったのが、会社の同僚間の金の貸し借りだった。貸し手が借り手と同じ会社に勤めていれば、借り手の経済状態や人柄、給料の支払い日などを正確に把握できる。貸し手と借り手との間の情報の非対称性が小さく、資産運用のオプションも限られていたために、有利子の金の貸し借りが知人や友人の間で盛んに行われていた。いわゆる「素人高利貸」である。サラ金は、人と人とのつながりの中で金を貸す素人高利貸から生まれることになる。

素人高利貸からサラ金を生んだのが、1922年生まれの田辺信夫だった。田辺は、勤務先の貿易会社で素人高利貸に取り組んで資金を貯え、1960年に脱サラして日本クレジットセンターを創設した。同社は、1960年代から70年代初頭にかけて、日本を代表する消費者金融企業に成長する。


団地金融の誕生
ただし、最初に田辺が目をつけたのは、サラリーマンではなく、公団住宅(団地)に住むサラリーマンの妻だった。後に団地金融と呼ばれ、高度経済成長期に一世を風靡(ふうび)することになる。

当時の団地は、風呂やシリンダー錠といった最新の設備を備えたモダンな住まいだった。子育て世代を中心に人気を集め、入居するには厳しい審査をパスせねばならなかった。田辺は、団地に住む既婚女性なら原則として誰にでも金を貸した。顔見知りでなくとも、入居審査をクリアした団地の居住者なら、一定以上の所得を確実に持っていると判断できたからである。

加えて、団地の主婦の多くは、夫から給料を全額受け取って家計を管理する責任を委ねられていた。万一やりくりに失敗して赤字を出しても、できれば夫にはそれを知られたくない。田辺は、夫に内緒の借金に限定して団地の主婦に金を貸した。団地金融で金を借りれば、夫にバレないうちに返済しようと必死になる。家計管理者としての主婦の責任意識が、回収する上で有用だった。団地の入居審査で信用審査を代替し、この時代に特有な性別役割分業意識を巧みに利用して、事業を軌道に乗せた。顔見知りの範囲の外に融資対象を広げた点で、団地金融は日本の消費者金融に画期的な技術革新をもたらしたと言える。

サラリーマンの交際費が生んだ借金需要
創業の翌年に当たる1961 年、田辺は団地金融の手法を応用して、サラリーマン金融に進出した。当時のサラリーマンは、妻に家計と生活を全面的に委ね、「モーレツ」に働きながら熱心に社内外の仕事仲間との交際に明け暮れていた。取引先の接待や、社員同士の飲み会やゴルフなどへの付き合いが良いほど、人格円満で仕事熱心だと評価され、昇進にも有利だったからである。

とはいえ、交際には金がかかる。サラリーマンの夫たちは、妻から与えられる小遣いの中から、交際費をひねり出さねばならなかった。その不足を埋めるために歓迎されたのが、サラリーマン金融だった。あるサラ金の社員は、67年に次のように述べている。

「サラリーマンにとって酒、マージャン、デートなどに使うお金は健全資金なんです。借金して遊ぶくらいのサラリーマンでなけりゃ、出世しませんよ。だから、うちの会社は正々堂々と遊ぶお金を、誰にでも、どうぞお使いくださいといって貸すんです」

浪費的な使途でも問題はなかった。融資対象は一流企業の社員に限っていたし、借金の存在が会社に露呈すれば出世の道を断たれかねない。だから、必死に返済した。田辺信夫をはじめとするサラ金業者たちは、居住形態や勤務先などの外形的な基準に特化して審査コストを節約することで、消費者金融ビジネスを大きく成長させたのだった。

銀行が後押ししたサラ金の規模拡大
1970年代に入ると、高度経済成長の終焉(しゅうえん)を尻目に、サラ金はさらに大きく成長する。その最大の要因は、日本経済全体の貯蓄超過だった。

高度経済成長期の前半までは、日本経済はマクロレベルで見て貯蓄が不足していた。金融機関が家計に働き掛けて必死で集めた預貯金は、重化学工業を中心とする基幹産業へと優先的に配分され、投資が投資を呼ぶ好循環を支えた。そこに、消費者金融が入り込む余地はなく、サラ金が銀行から金を借りるのはほとんど不可能だった。

しかし、1970年代に入ると、多くの企業は蓄積した内部資金を設備投資に当てるようになり、石油危機に伴う資金需要の減退とあいまって銀行融資への依存度を低下させた。同時に、戦後のベビーブーマーが20代後半から30代前半の働き盛りに入り、老後に備えて熱心に貯蓄に努めた。貸出先は減っているのに、預貯金は増える。金余りに直面した金融機関は、融資先を獲得するのに躍起になった。そこで見いだされたのが、急成長するサラ金だった。

消費者金融の世界では、業界トップに立つことが何よりも重要である。一般に、サラ金の顧客は、知名度の高い最大手からまずは金を借り、借金がかさむにつれてランクを落として借り換えていく。つまり、業界トップに立てば、クリーンな優良客を獲得できる可能性が高まる。各社は、最大手になることを目指して、激しい規模拡大競争を展開した。後押ししたのが、銀行をはじめとする金融機関だった。資金需要が低迷する中で、大口の貸付先としてサラ金が注目されたのである。

規模を拡大すれば、スケールメリットが発揮され、より利益を上げやすくなる。だが、一流企業のサラリーマンだけを相手にしていては、融資規模は限られてしまう。銀行からの融資を獲得した1970年代のサラ金は、より所得の低いサラリーマンや自営業者、主婦などにも金を貸すため、審査基準を大幅に緩和した。その際に第一の武器となったのが、ブラック・リストをはじめとする顧客の信用情報の共有だった。1972年には、現在のJICC(日本信用情報機構)の前身に当たる信用情報会社が設立されている。

第二の武器が団体信用生命保険の導入だった。顧客が死亡・疾病(しっぺい)などで債務不履行に陥っても、保険金で損失をカバーできるようになったのである。規模を拡大したがために、サイコロを何回も振れば各目が出る確率は6分の1に収斂(しゅうれん)するという大数の法則が働いてリスクを定量化できるようになり、貸し倒れの損失を保険で補いながら大規模に金を貸せるようになったのが1970年代だった。


自殺者・失踪者の増加が社会問題に
貸し倒れをも恐れぬ規模拡大によって、サラ金は当時の銀行には持ち得なかった膨大な個人信用情報を蓄積した。1970年代後半の資本自由化に伴って、外資系消費者金融企業が次々と日本に上陸した際、サラ金が競争に打ち勝てた要因も、各社が収集した信用情報を日系企業間で共有したことで、審査を的確に実施できたからだった。

しかし、大数の法則に基づくリスク管理は、大きな副作用を伴った。サラ金の評判を著しく落としたのである。貸し倒れ損失を確率論的に経営戦略に織り込むことはできても、返済不能に陥った顧客一人ひとりにとっては、人生を破滅させかねない深刻な事態である。1970年代後半から返済に苦しんで家出・自殺を図る顧客が増えつつあったが、それでもサラ金はあえて過酷な回収を続け、従業員の間には顧客の自殺を歓迎する雰囲気さえ存在した。仮に顧客が自殺しても、団信によって保険金を受け取ることができれば、結果的に回収ノルマが軽減されるからである。

こうした野放図な融資規模の拡大と強引な債権回収は、当然ながら社会的に問題視され、大蔵省をはじめとする行政も規制に重い腰を上げた。1983年に貸金業規制法が制定されると、銀行も融資を絞り、一時は業界第2位のプロミスさえ破綻寸前にまで追い込まれるほどの「冬の時代」が続いた。

時代に合わせ、生き続けるサラ金
だが、長期的に見れば、1980年代半ばに「冬の時代」に突入したのは、業界にとって幸運だった。バブルの熱狂から距離を取らざるをえなかったことで、銀行のように不良債権処理に苦しまずに済んだのである。バブル崩壊後のサラ金は、アコムの「むじんくん」を皮切りに次々と自動契約機を開発し、若者向けに融資を伸ばしていった。不況下でも好調な業績に支えられて次々に株式上場を果たし、経団連への加盟も実現している。この頃、各種の長者番付でサラ金創業者やその一族は上位層の常連となり、その繁栄は絶頂を迎えていた。

バブル崩壊直後の顧客たちは、早期の景気回復に対する楽観的な見通しを持っており、借金によって当座をしのごうとしていた。自動契約機の登場と店舗の増設によって借りやすくなったこともあり、21世紀初頭までサラ金の融資残高は伸び続けた。しかし、日本経済は「失われた20年(30年)」とも言われる長期不況に直面し、待ち望んでいた景気回復はなかなかやってこなかった。自殺者数・自己破産件数は毎年のように戦後最悪を更新し、その元凶、サラ金は世評の悪化に再び直面しなければならなかった。

こうして2006年に制定されたのが、改正貸金業法である。栄華を極めたサラ金の経営は、規制強化で悪化し、2010年代を通して業績は低迷する。現在、最大手クラスも含めて大多数のサラ金は銀行の傘下に入ることで命脈を保っている。

だが、サラ金は、強靭(きょうじん)な生命力を持つ。コロナ禍の下で、アイフルは配当を復活させるなど、経営改善の兆しも見えはじめた。1960年代の猛烈サラリーマンとともに生まれたサラ金の歴史は、そう簡単に終焉を迎えることはなく、コロナ後の社会でも時代に合わせて続いていくことだろう。(敬称略)

バナー写真:時事

【Profile】
小島 庸平
東京大学大学院経済学研究科准教授。1982年、東京都生まれ。2011年、東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了。博士(農学)。東京農業大学国際食料情報学部助教などを経て現職。著書に『大恐慌期における日本農村社会の再編成』(ナカニシヤ出版。2020年、日経・経済図書文化賞受賞)、『サラ金の歴史』(中公新書)。共著に『昭和史講義2』(ちくま新書)、『戦後日本の地域金融』(日本経済評論社)など。


サラ金の歴史-消費者金融と日本社会

2021年11月18日 06時38分29秒 | 社会・文化・政治・経済

 小島 庸平  (著)

利用したことはなくても、誰もが見聞きはしたサラ金や消費者金融。しかし、私たちが知る業態は、日本経済のうねりの中で大きく変化して現在の姿となったものだ。素人高利貸から団地金融、そしてサラ金、消費者金融へ……。

好景気や金融技術の発展で躍進するも、バブル崩壊や社会問題化に翻弄されていった業態について、家計やジェンダーなど多様な視点から読み解き、日本経済の知られざる一面を照らす。

 

著者について

小島庸平(こじま・ようへい)
1982年東京生まれ.東京大学大学院経済学研究科准教授.2011年,東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了.博士(農学).東京農業大学国際食料情報学部助教などを経て現職. 著書『大恐慌期における日本農村社会の再編成』(ナカニシヤ出版,2020年,日経・経済図書文化賞受賞) 共著『昭和史講義2』(ちくま新書,2016年),『戦後日本の地域金融』(日本経済評論社,2019年)など.
 
 
 
サラ金の百年史である。たぶん、初めての新書版サラ金通史と思う。
サラ金については、サラ金の告発本、サラ金との闘争本、サラ金被害本が多い印象で、本書のような視点で書かれた本は読んだことがない。
前書きと終章によると、本書は、サラ金が過剰融資に走り、多くの人々を自殺や貧困に追い込んだ事実は詳述する。しかし、過剰な批判は意識的に抑制する。
つまり、サラ金業者の非人道性を告発・暴露するというより、その経済的・経営的な合理性と努力を内在的に理解しようと努める本である。
第1の視点は「金融技術」に着目し、「サラ金」による金融技術の革新のプロセスを跡づける。サラ金こそが、多数の家計に無担保で金を貸すため効果的な金融技術を、日本で最初に生み出した金融機関である。
第2の視点は「人」であり、サラ金の創業者達の来歴、初志、経営方針の変遷、そして、利用者の変遷をたどる。中心利用者は戦後日本で最も一般的な労働者とされるサラリーマンであり、身近な世界で生まれたビジネスである。
サラ金の歴史には、近現代の日本が経験したダイナミックな変化が鮮やかに反映しているとし、利用者の家族関係解析、家計ジェンダーアプローチも加え、サラ金の歴史をトータルに検討していく。
終章では高利貸と民族差別の問題が提起されている。
構成
序章 家計とジェンダーから見た金融史
第1章 「素人高利貸」の時代ー戦前
第2章 質屋・月賦から団地金融へー1950~60年代
第3章 サラリーマン金融と「前向き」の資金需要ー高度経度成長期
第4章 低成長期と「後ろ向き」の資金需要ー1970~80年代
第5章 サラ金で借りる人・働く人ーサラ金パニックから冬の時代へ
第6章 長期不況下での成長と挫折ーバブル期~2010年代
終章 「日本」が生んだサラ金
私的感想
〇面白いと言って良いのかどうか分からないが、ちょっと目から鱗の落ちる本だった。
〇分かりやすく書かれており、特別な経済学経営学知識は要らない。
〇サラ金が、戦前の親戚友人間の高利貸しに始まっているという説は面白い。そういえば、戦前の金貸しマニュアル本を読んだ記憶がある。
〇戦後最初のサラ金が団地妻への秘密の少額融資であったというのも面白い。秘密なら必死で返すし、いざとなれば夫を巻き込めばよいので大丈夫。夫の許可がある場合は、二人とも金に困っているのでリスク高く、拒否。合理的。
〇高度成長期の「前向き」の資金需要も面白い。酒の付き合い、マージャン、アルサロ(アルバイトサロン)遊びで使う金は、サラリーマンとして前向きの健全資金なので大歓迎。生活費を借りるのはサラリーマンとして不健全で、リスクが高いので貸してはいけない。サラ金創業者も、初期には、こういう合理性とモラル(?)を持っていたようである。
〇しかし、サラ金の企業規模が増大し、企業競争、融資拡大競争が激化し、その一方、70年代の低成長時代になって、サラリーマンの生活資金補填の需要が多くなると、そんなことを言ってはいられない。サラ金はサラリーマンの生活費の貸付へ舵を切り替え、家計の穴埋めに悩む主婦も積極的に融資対象に組み込んでいった。その結果は・・・。
〇金融技術の変化も興味深いが、そちらはもうちょっと写真があると良かったと思う。157頁の手作業時代のレンダースエクスチェンジ社(信用情報会社)の写真は時代を感じさせる。
〇終章はよくまとまっていて、感動的。突然出てくる民族問題は唐突の感はあるが、まあ、そういうことかと思う。
私的結論
〇副題もいい。消費者金融と日本社会。
蛇足
〇昔、消費者法の講義を聴いた時のことを思い出した。熱血のサラクレ弁護士さんがサラ金被害、先物取引被害の話をしてくれた。あてられたので、つまらないことを言ったら・・。
 
 
これは労作。何らかの賞を受賞しても驚かないくらい中身が充実している。
サラ金が個人間融資から生まれ、団地金融、サラ金に発展していったところを、金融技術、人との関わり、家計からの観点から分析している。
なぜサラ金が存在するのか、なぜセーフティネットのような機能を果たすことがあったのか。極力、業者、利用者のどちらにも肩入れしないように書かれている。そのため、サラ金被害をことさらに強調はしていない。
大手のほとんどが銀行系に吸収され、金融システムの一部となったサラ金の今後を考えさせられた。
 
 
これは労作。何らかの賞を受賞しても驚かないくらい中身が充実している。
サラ金が個人間融資から生まれ、団地金融、サラ金に発展していったところを、金融技術、人との関わり、家計からの観点から分析している。
なぜサラ金が存在するのか、なぜセーフティネットのような機能を果たすことがあったのか。極力、業者、利用者のどちらにも肩入れしないように書かれている。そのため、サラ金被害をことさらに強調はしていない。
大手のほとんどが銀行系に吸収され、金融システムの一部となったサラ金の今後を考えさせられた。
 
 
高度に綿密な調査、研究の結果をわかりやすく面白くまとめられてあり、とても勉強させて頂きました。
このような相当の研究努力による価値高いものを新書としてお安く読めるとは思わず、読書後は満足感とともにその点に驚きました。
サラ金についてあまり知識はなく、漠然とこのような話題は借金苦に悩まされた人々による批判的なものになりやすいだろうと思っていましたが(本書にもそのような文献が多いと書かれてます)、この本は、研究書として、中立的な立場で客観的な歴史の記述に拘られています。
サラ金の「技術」の発展に特に焦点を置かれておりますが、サラ金業に何か高度な(科学「技術」等から類推されるような)技術ってあるのかな?と思いましたが、暴力恫喝的な行為による借金の取り立ても、そのような「技術」の大事な部分であり、そのような記述に客観的であることへの拘りが感じられて面白いなと思いました。
一方で、計算機や無人貸出機など当時の先端の情報技術の活用にかなり早い段階で取り組まれていたという話も面白かったです。
 
 
この本は、まずサラ金前史として、戦前の貧民窟の高利貸や素人高利貸、そして、戦後の質屋事情と団地金融などを説明して、サラ金登場以前の家計の借金事情と、その借金をファイナンスした金融業者の姿を描くことから始まる(第1・2章)。

そして、高度経済成長期になって、サラリーマンの旺盛な前向きの遊興資金需要に応える形で、無担保・信用貸しの「サラ金」が登場する。この高度成長の時代は、上場企業のエリート・サラリーマンに融資対象を限定することで、融資に規律が働いていた(第3章)。

しかし、日本が低成長に移行し、また企業が貯蓄超過の状態になり、企業からの設備資金需要が減少するなかで、融資先に困っていた長期信用銀行や信託銀行などが、サラ金に対して積極的に資金の提供を始める。資金調達の容易化は、サラ金にとって業容拡大のチャンスではあったが、高度成長期のように遊興資金需要はない。そこで、サラ金は、家計の生計費補填と言った後ろ向きな借金需要に応えるようになり、さらに融資対象を緩和して、主婦、収入の低いサラリーマン、自営業者に広げることになった(これらの人たちを「金融包摂」したとも言える)。

審査基準を緩和すれば、融資額は増加するが、当然、貸し倒れも増加する。そこで、サラ金は、①信用情報(ブラックリスト)を業者間で共有することで、不良債務者を排除し、②団体信用生命保険(団信)を導入して、債務者が死亡した場合、保険金で回収しようとした。この団信の導入が、債務者を自殺させてでも借入金を返済させるという、苛烈な取り立てを生んだ。金融庁が、2006年に大手消費者金融5社が受け取った団信の保険金を調査したところ、死因が判明したうち25.5%が自殺だったという。尋常ではない比率である(第4章1〜2)。

こうした過剰な取り立ては、サラ金業者の企業統治(ガバナンス)、特殊な企業風土、企業の急拡大に人材育成が追いつかなかったこと、過剰なノルマなども背景にあった(第5章3や第6章2)。

サラ金業者の業容拡大に比例して、多重債務者の自殺や家出が増加し、社会問題化する。1977〜78年の第一次サラ金パニック、1981〜1983年の第二次サラ金パニックから始まり、バブル崩壊後まで、サラ金が業容拡大を図るたびに、何度も多重債務者の問題は社会問題化し、その都度、サラ金規制強化を求める世論や社会運動が盛り上がり、規制が強化されることが繰り返された。そして最終的に2006年12月の貸金業法改正で、グレーゾーン金利は消滅し、サラ金の凋落は決定づけられる(第4章3〜第6章)。

以上が簡単な要約になるが、この本の長所は、まず第一に、産業構造や銀行制度の変化という、経済史でよく取り上げられる視点からではなく、家計とノンバンク(サラ金)という全く異なる視点から、戦前からバブル崩壊後の「失われた30年」までの時代を通史的に描き、日本経済史に新たな光を当てていることである。

第二に、サラ金が多重債務者を自殺や家出に追い込んだことで、サラ金に対してはどうしても感情的にネガティブに描きがちであるが、経済学やファイナンス(金融技術)に関しての学術的な分析を織り交ぜることで、サラ金業発展の「経済合理性」をも、中立的によく説明している。

第三に、膨大な資料文献を噛み砕いて、達意の文章表現と文章構成で記述されている。分厚い新書であるにもかかわらず、読んでいて躓くところもないし、飽きがこない。とんでもない著者の筆力である。

最後に(第四に)、終章を読んだとき、サラ金を通して、民族差別の問題や、我々も預金者としてサラ金の発展や社会問題化に関わってきたという視点を与えられ、著者の視野の広さに驚愕させられた。また、全体を通して、家庭の主婦の役割、ジェンダー的な視点にも、とても目配りが行き届いていることも特筆すべき点であろう。経済史や経済学に止まらない、多様な視点を与えて、多様な読み方ができるのも、本書の魅力である。

兎に角、感激して読了した。もちろん、評価は「最優秀の作品」の☆5つと評価したが、☆5つを上回る価値があった。これは私の書いた15番目のレビューである。2021年3月2日読了。
 
 
サラ金の歴史で学べたことは、如何にお金を稼げる人にしか貸さないか。

明日のお米を買うのに借りたいという属性は避ける。

団地金融という言葉も初めて知れて、勉強になりました。
 
 
元サラ金業者社員です 業界5位の会社でした 当時の貸付金利は50パーセント ただし 銀行金利は6パーセント の時代です 資金調達金利は15% です その中で人件費の費用すべて賄うのです
アコムは木下記念財団を設立して奨学金給付型で進学金を交付しています プロミスも持ちがぶすべて売却創業家は農業生産法人の経営をされています あまり著者が非難することはできないと思います
 
 
 
 

第 10 回「日本人の意識」調査(2018) 結果の概要

2021年11月18日 06時18分39秒 | 社会・文化・政治・経済

調査目的:5 年ごとに同じ質問、同じ方法で世論調査を重ねることによって、日本人の生活や社会についての意見の動きをとらえる。1973 年の第 1 回から数えて、今回が10 回目になる。
調査時期:2018 年6月 30 日(土)~7月 22 日(日)
調査相手:全国の 16 歳以上の国民 5,400 人(層化無作為二段抽出)
調査方法:個人面接法
有効数(率):2,751 人(50.9%)
45 年間にわたる調査を通して、明らかになった意識変化の主な特徴は以下のとおりである。
① 結婚することについて「必ずしも必要はない」と考える人、子どもを持つことについて「結婚しても、必ずしも子どもをもたなくてよい」と考える人が増えた。最近の5年間も増えて、それぞれ 68%、60%と多数派になっている(この 2 問は第5回の 1993 年から開始)

② 結婚した女性が職業をもち続けることについて、73 年には「子どもが生まれても、職業をもち続けたほうがよい」という人は 20%と少なかった。しかし、この考えを持つ人は増え続け、最近の 5 年でもさらに増えて 60%となった。

③ 女の子に「大学まで」の教育を受けさせたいと考える人は、83 年までは 20%台にとどまっていたが、88 年以降増え続け、今回は 61%となった。「大学院まで」も 4%に増え、女の子にも高い学歴を望む人が多くなっている。ただし男の子の場合には 72%が「大学まで」と考えており、「大学まで」の教育を望む人の割合は、男の子の場合と女の子の場合とで今も開きがある。

④ 天皇に対して「尊敬の念をもっている」という人が、2008 年以降増加している。今回は 41%で「好感をもっている」や「特に何とも感じていない」を上回り、45 年間で最も多くなった。
調査開始からの変化をみると、88 年までの昭和の時代は結果に大きな動きはなかった。しかし平成になると「好感をもっている」が大幅に増加し、その後は調査のたびに、最も多い回答が入れ替わっている。

⑤ 国民の行動が国の政治に影響を及ぼしていると感じる人が、調査開始以降、長期的に減少している。「選挙」と「デモなど」の2つは 08 年に増加し、減少に歯止めがかかるかと思われたが、その後はまた減少して 03 年の水準に戻った。「世論」については、98 年からは 10%程度で大きな変化はみられない。3つの中では「選挙」が最も多いが、影響を及ぼしていると思う人は 42%と半数に満たない

⑥ 今の生活に、全体としてどの程度満足しているかを尋ねた結果、「満足している」という人が増加している。現在では「満足している」が 39%で、「どちらかといえば、満足している」を含めると 92%の人が満足していると回答した

⑦ 仕事と余暇のどちらを優先するかについて、70 年代には「余暇も時には楽しむが、仕事のほうに力を注ぐ」という《仕事優先》の考えが最も多かった。しかし、80 年代から 90 年代前半にかけて「仕事にも余暇にも、同じくらい力を入れる」という《仕事・余暇両立》の考えが増加
し、《仕事優先》に代わって最も多くなった

⑧ 職場、親せき、近隣の3つの人間関係において、「なにかにつけ相談したり、たすけ合えるようなつきあい」を望む人が長期的に減少している。最近の 5 年間では、親せきでさらに減少した。こうした密着した関係を望む人は、職場で最も多く、近隣で最も少ないという関係は 45年間変わっていない。

新聞を読む 
1983年79・9%
2018年51・8%

生活全体に満足している
1983年20・7%
2018年38・7%

生活に不満
1983年31・2%
2018年8・0%