創作 典子

2022年12月12日 20時30分51秒 | 投稿欄

「うまくいかないのが恋」作家・髙木のぶ子
「身に染みる薬も傷口から入る」
恋愛する人は実にたくさんのことをまなぶ。
思うに任せぬことが人間を深める。
恋は、人間に対する深い咀嚼を深めるチャンス。
恋愛の98%は思いがけないもの。
思いがかなうのは、せいぜい2%としかないでしょう。
自分の心を内側に封じ込めないで、外に出していくことが大切。
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「仕事だ」と言って家を出る。
「仕事ではない」と見抜いている妻の佳子が玄関まで追って来て、「仕事はウソね!長男だけでも連れて行ってよ」と息子の幸太郎を玄関まで連れてくるのだ。
父親を恨めしそうに見る息子を元水信夫は威圧するように睨みつける。
息子の幸太郎は父親の視線に恐れて、母親の背後に身を潜める。
背中にデートと書いてあるわけではないが、夫のいそいそとした様子は如何にも怪しいのだ。
初めての彼女との日曜日のデートであった。
上野駅の「忍ばず口」の改札口の外に、藤田典子が待っていた。
人の姿が多い日であった。
緑色のトックリエーター姿の典子は何時ものように後ろ向き姿である。
「人に見られたくないの」と伏し目がちな典子は、華奢な体でどこか影が薄く映じる。
「日展」へ向かう人並みが続いていた。
絵にほとんど興味がない元木は、日展を観る柄ではないが、毎年観ているという典子の誘いである。
「今日はダメね。絵が少しも印象に残らないわ」と典子は笑顔を失っている。
「元木が一緒だがら?」元木は自嘲気味に言う。
「そうよ。一緒に来るんじゃなかった」典子は濃紺の手提げバックから灰色のニット帽を取り出して被る。
突風が吹き銀杏の葉が散ってきた。
「淋しいい季節になりそうね」
「別れの秋に?」
「そうね。それを願っているの」
典子は珍しく元木の目を凝視した。
19歳で出会って、2年の歳月が流れていた。
元木は家庭の臭いがしない男と言う人もいた。
「センセイ、なぜ、結婚していると言わなかったのですか?」42歳の時に親しくなった中国人の露露に問われたことを想いだした。
それから、2年後に池袋の同じサパークラブで典子と出会ったのだった。
天安門事件以降、北京に戻っていた露露からの手紙が途絶えていた。
彼女の中野のアパートに2度泊ったが、深い関係には至らなかった。
だから露露からの文通も続いていたのだ。
1度、その露露の話を典子にもしていた。
「私との関係も清いままで居れば良かったのにね」典子は複雑な表情をした。
「酒でも飲みますか?」
「どちらでも」
「ホテルは?」
「バカ!今日は行くわけないじゃいの」典子は拳骨で元木の腰を叩く。
結局、西郷さんの銅像を見てから、石段を下る時、典子が元木の手を求めてきた。
「どうしたのかしら?目まいがするの」典子の指は冷たくなっていた。
タクシーに乗り、浅草へ向かった。
浅草で典子と酒を飲むのは3度目である。
色々な居酒屋があるが、お銚子3本を飲むと「おしまいです」と追い立てられる店だ。
中年男が、若い娘を苛めているような酒の席となってしまった。
嫌が上でも第三者の視点を意識する。
「本音を言ってしまったら、それきりになってしまうと思うの」
「酔ったら、その本音が出ますか?」
「私、酔わないもの」典子は毅然としていた。
「好きになってしまったの」と言われたのは出逢って3回目であった。
相思相愛の経験がない元木の心は、舞い上がってしまったのだ。
「好きになったのは間違いですよ、と言いたいのですか?」詰問口調になる。
「すべて、遊びだと言ってたらどうするの?」
「それが、本音なのか?」元木は落胆する。
典子は落胆して俯く元木を見て、「本音は言わない。胸の中に締まって置くわ。でも2人は波長が合ってしまうのね。不思議な関係よ」
居酒屋を出て次の店へ向かう。
典子は何時ものように快活な足取りとなっていた。
「何処へ?」
「お参りですね」
雷門をくぐり、浅草寺へ向かう。
元木は昭和27年ころ、浅草の店で働いていた従姉に母と会いに行ったことを思い出した。
当時、まだ浮浪児たちが居て、物乞いをしている姿を忘れることができない。
浅草の記憶は元木にとって観光地としての賑いや明るい面だけではなかった。
結局、何時ものコースで神谷バーで電気ブランを飲む。
「酔わないな。どこか、遠くへ行くたい」
「とにかく、元木からも離れたい」
「そうね。でもそのまま疎遠になるのは嫌」
2盃目の電気ブランがきいていた。
「そろそろ、酔った?」
「全然」典子はまだ毅然としていたのだ。
「私は、足にきた。帰りましょう」
酔い覚ましに隅田川に向かう。
吾妻橋の欄干に腕を乗せ、典子は隅田川を見つめている。
「夜の川は陰鬱ね」
「死に神が見えますか?」
「元木の死に神がね」
「まだ。愛しているでしょ?」
「分からない」典子は長い髪を左右に振る。
その髪が元水の頬を撫でる。
「好きなんでしょ?」
「分からない」また髪を左右に振る。
「もっと酔いますか?」
「私は酔わないもの。あなた一人で酔っている。酔える人が羨ましいな」
隅田川は作家の芥川龍之介が子どものころ泳いだ川だ。
学校の唱歌にも歌われている。
親しみのある川であるが、この日ばかりは淀み、さざ波は鉛色で陰鬱な模様を形づくり、私たちを手招きする「死神」は小舟を曳いてゆく。
なぜか、フランス映画の「オルフェ」の映像の中の死神が典子の姿と重なった。

 

 


「想像する豊かさ」

2022年12月12日 15時26分23秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

一番大事なのは<自分の心に勝つこと>

目の先の結果に一喜一憂せず信念を貫く時、どんな出来事も意味があるものとなる。

▽一見、不条理に思える事態でも、意味がある。
その中から<自分でなければ果たせない使命>をつかむことができる。

▽<広く><良い>人間関係を持つ人ほど長生き-との研究がある。

▽<戦いは攻め抜いた方が勝つ>
阪神は、悪いパターンで、残塁が多かった。
勝負どころで、タイムリーが出ないのである。
勝つこともあれば、負けることもあるが、負け方が悪すぎた。
さらに、選手全般に言えることなのだが、好球を簡単に見逃すことだ。
ボールが見えていないから、明らかなボールに手を出してチャンスを逃しているのだろう。

▽健康県の特徴
地域住民が生きがいを持っている。
目標を持って生きている
野菜を多く食べている。

▽活字を読み、人が得るものとは一体何だろう。
それは、まず「想像する豊かさ」だ。
歌人・道浦母都子さん
「言葉の豊かさです。語彙の豊かさは、生活の豊かさに通じる」

▽「窓の外を見てください。青空がありますね。しかし、青空はないのです。青空という言葉があるのです」言語学者・丸山圭三郎さん

▽「言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなくて、私たちの世界を生成していく」のであり、「そこには人々の世界観を生み、認識を秩序立って、流動する森羅万象を形あるものにする」ことを意味する。
言葉が世界を成立させる。
言葉の乱れは社会を混乱させる。

▽心を知り、琴線に触れること。
どうすれば心が通うか、希望が湧くか、心を砕く日々の努力。

▽読書は、智慧も、知識も、指導力も、そして生きる力も与えてくれる。

▽燃える<求道の心>こそ、自身の確かな成長をもたらし、時代を変える力となるはず。



 


わが誓いを貫く人生

2022年12月12日 15時25分26秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽振り込め詐欺など特殊詐欺の被害はなぜ絶えないのか?
昨年は1万4115件。
被害総額は4年連続で400億円を超す異常事態。
大阪で目立つのが「医療費などが戻る」と偽る還付金詐欺。

▽千里の道も一歩から。まず一歩を、臆せず力強く踏み出すことだ。

▽いかなる大業も、地道な努力の積み重ねを無視しては達成されない。
失敗を恐れない勇気・不退転の人ひな、誰もかなわない。

▽<私>にしか果たせない使命がある。
<私>にしか結べない縁がある。

▽<つながり><絆>が求められ今の時代だからこそ、友情を広げ、<励ましの世界>を創造していく。

▽<自分は何をしたのか><自分に勝ったのか。負けたのか>に一切の尺度がある。

▽わが誓いを貫く人生。それ自体が、多くの友への鑑となる。

▽今、世界を見渡してみると、紛争が絶えず、人々心には政治や社会に対する不安が募り、無力感が蔓延し、希望を持ちにくい時代となっている。

 


「思いを<秘める>のではなく<声に出す>こと

2022年12月12日 15時10分11秒 | 新聞を読もう

▽社会で信頼されるには、信念、努力、忍耐が必要だ。
その生き方を学ぶ場はどこにあるのだろうか?

▽感謝する気持ちが不可欠。
それを忘れると人は、傲慢、不遜にさえなってしまう。
謙虚であれば、人々に支えられて現在の自分があることを理解でき、自ずと感謝の気持ちが起こるはず。

▽「悩みは成長の証」
<今の挑戦>こそ一切の勝利の源泉。
<負けない人生>を歩む。
苦難や悩みの中から<勝利の花>を咲かせる。

▽目の前の<一人>を大切にする姿勢。
どこまでも<報恩感謝>の気持ちで、全てに挑戦する。
「自分の葛藤や工夫が少しでも後輩の役に立てば嬉しい」と人材育成への熱い思いを語る青年の姿。

▽「名は体を表す」
例えば「太陽会」「敢闘会」は、地域の「老人会」より大きな社会的広がりと使命を彷彿させる。

▽あふれるモノの消費から智慧を大切にする暮らしへ

▽22歳で起業し、自分が望む仕事をみつけた矢島さん。
夢をかなえるポイントは?
思いを<秘める>のではなく<声に出す>ことですね。

『日本の伝統産業の仕事がしたい』と、とにかく声に出し続けてきました。今でも、<こうしたい>と思ったったことは、言い続けています。
(株)「和える」代表取締役・矢島里佳さん

 


生命の尊厳の前に、余りにも人の命が軽る過ぎる

2022年12月12日 15時06分17秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽「人は今生きている社会に何ができるのか?」

不条理、理不尽、無理解、悪意、無明。
時に無力さに暗澹たる気持ちとなる。
憎悪の連鎖。

▽戦争、紛争、日々、人の命が奪われていく。
空爆などで死ななくともいい人々の命が奪われていくどうにもならない現況。
生命の尊厳の前に、余りにも人の命が軽る過ぎる。

▽この世から<悲惨><苦渋><残酷>を無くさなければならないはずなのに、解決の道はほど遠い。
人類の負った業とも言うべきであろうか?
迂遠とも思われるのだが、<人間の生命・心>を改革する他ない。

▽国民の幸福度を近代化の指標としている国・ブータン。
先進国が豊かさの再定義を余儀なくされている今、幸福度という尺度で<本当の豊かさ>を世界に問いかける国である。

ある意味で、掘り下げて一度は考えてみたい命題にあふれている。

▽例えばパソコンは、欠陥製品なのではないだろうか?
テレビや携帯電話は、電源のスイッチを入れれば瞬時に画面が映るが、パソコンは直ぐには軌道しない。
その違いは何であろうか?と素人の立場で思うのだ。

▽治療法もない難病の存在から頭が離れない。
最後は食事が呑み込めなくなる―友の過酷さは、まるで人類の苦を一身に背負っているように想われてならないのだ。
「かわいそうに」老いた母親の嘆きのつぶやきが胸に強く響いた。


▽幸せの条件

2022年12月12日 14時28分16秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽1963年、当時の首相から依頼され、77歳で第5代国鉄総裁を務めた石田禮助さん。
三井物産の代取締役社長も務めた。
最初の記者会見で、自らを「ウォーム・ハートを持ったヤング・ソルジャー」と称する。
直訳すれば、熱い心の一兵卒。

▽「よみがえる力は、どこに」城山三郎著で、<自ら犠牲になって耐え抜いて働くという覚悟からだ>と記す。
「公職は奉仕すべきもの」と宣言する。
勲章は拒否し、没後は妻が断る。
現在の人々に伝えたいエピソードだ。

▽文化芸術振興基本法
「日本近代史上の大事件にして革命」と作家の山崎正和さんが絶賛。

▽自分を頼りにしてくれる人がいることが心の支え、助けになる。
人のために頑張れば報われる。

▽大局的な観点、重要な政策や課題もあるのではないか。
そうした議題を設定する機能がマスコミにはある。
日本大学教授・岩渕美克さん

▽毎日新聞「日曜くらぶ」―わたしの幸せ

幸せって、そのさなかに感じるものではなく、後から振り返って、あのときは幸せだったと思うものではないでしょうか。
小説を書いているときは夢中ですから、そのときは幸せだなんて思いません。
もともと小説家になりたかったんです。
女学校時代に川端康成さんの小説「花のワルツ」を呼んでバレリーナ―に憧れ、バレー教室に通うようになりました。
その帰り道、映画「美女と野獣」を見たことがきっかけで女優の道に。
10代のころは慾張りで、いろんなことをやりたかったんですね。女優・作家の岸恵子さん

▽幸せの条件
「病のなかでみつけた幸せ」
闘病はいつも前向きになれなくても、前向きになりたい、という願いをもって生きる人は人生の勇者であり、決して気の毒な人なのではない。
心療内科医・海原純子さん

 

 

 


何度もトライする不屈の魂を持とう

2022年12月12日 13時51分06秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

広島東洋カープオーナー・代表取締役社長の松田元(はじめ)さん

伸びる選手は?

頑固で、こだわりがあって、素直な人。

人の意見を聞かない頑固さと、人の意見を聞く素直さの両面をもった人。

矛盾するように思うが、たとえるのは、果物の「桃」。

回りは柔らかいけど、芯の種の部分は、ものすごく硬い。

あれと同じで、取り入れる物は、素直にどんどん取り入れ、でも根っこのところでは、誰が何と言おうと絶対に譲らない芯を持っている。

そういう人は伸びると思う。

真面目な人もいいけれど、真面目すぎるのはダメ。

やっぱり、図太くないと。

今、カープは、<地域と地域><世代と世代をつなぐ>をテーマに掲げている。

また、地域の人たちに喜んでもらえるよう、頑張っている。

恰好だけ、形式だけでマネして、受け継いだようにしても、ダメだってこと。

大事なのは、どこまでいっても「心」。

相手の幸せ、人の幸せのために、自分に何ができるのか、自分の頭で考えて、トライすること。これが大事。

それによって、相手に拒絶されたとしても、たとえバカにされたとしても、トライする。

トライし続ける、その不屈の魂こそ、若い人には受け続けてもらいたい。


日本女子野球連盟の成立

2022年12月12日 13時30分25秒 | 社会・文化・政治・経済

1950年に入ると次々と新しい女子プロ野球球団が誕生した。

  • レッドソックス』:1月に小泉の依頼を受けた関浦信一を代表として結成された。
  • 『ホーマー』:2月に東京・京橋のホーマー製菓の青井英隆社長(あおい輝彦の父)が早稲田大学野球部時代の先輩だった市岡忠男に依頼されてスポンサーとなり結成された。
  • 『パールス』:2月に国際観光を母体として結成された。

これらのチームは、一般公募から選抜した選手(相変わらず「容姿端麗」が選抜基準の1つとなっていた)とブルーバードやメリーゴールドに所属していた選手を分配トレードする形で構成された。

これらの4チームの球団代表が連盟を結成することで同意し日刊スポーツ社に事務方を依頼した結果、同社の井上(斎藤)弘夫が事務局長となり1950年3月28日に日本女子野球連盟が結成された。

連盟の理事会において6月から11月までの間に公式リーグ戦30試合を連盟主催で行うこと、また新規加盟希望球団については開放主義で受け入れることなどが合意された。

ただし、リーグ戦については後述の連盟分裂などの影響で1950年シーズンに関しては機能しなかったようである。

1950年[編集]

1950年4月10日、日本女子野球連盟の初めての公式戦となる日本女子野球連盟結成記念トーナメント大会が1万7000人の観客を集めて後楽園球場で開催された。

  • (第1試合)ロマンス・ブルーバード 14 – 2 レッドソックス
  • (第2試合)ホーマー 6 – 0 パールス
  • (決勝戦)ロマンス・ブルーバード 12 – 1 ホーマー

最高殊勲選手は大島雅子投手(ロマンス・ブルーバード)であった。

トーナメント終了後、2ヵ月にわたってブルーバードとレッドソックス、パールスとホーマーがそれぞれ組になって地方遠征を行った。各地で3000人以上の観客を集めるなど女子プロ野球人気は盛り上がり、それに乗って各地に新しい球団が誕生した。その数は最大で25チームにもなったが、多くのチームは資金難で半年以内に消え去っている。以下は比較的長期間存続したチームである。

  • 『エーワン・ブリアンツ』:エーワンポマード本舗がスポンサー。「ブリアンツ」は英語の"Brilliants"だが、カタカナでは「ブリアンツ」と表記された。球団経営に際しては宣伝意識の強い他球団より本腰だったと言われ、結成当時の入団テストでは審査員としてヴィクトル・スタルヒン杉下茂といった男子プロ野球選手が担当した。チームはその後、親会社が名古屋発祥だったことから中日ドラゴンズよりペットネームを拝借し、「エーワン・ドラゴンズ」と改称した。
  • 『京浜ジャイアンツ』:京浜急行電鉄、京浜百貨店(現:京急ストア)がスポンサー。
  • 『わかもとフラビンズ』:わかもと製薬がスポンサー。ローズ女子野球団の選手を引き継いで結成された。「フラビン」はビタミンB2の学名「リボフラビン」から採られた。

その他、地方で結成されたチームには下記のようなものがある。

  • 名古屋レインボー
  • 滋賀レーク・クイン
  • 京都ヴィナス
  • 京都ラアミース
  • 大阪ダイヤモンド
  • 神戸タイガース(大阪タイガースとは無関係)
  • 京都マルエイイーグルス
  • 大阪日日シスターズ
  • 神戸ダークホース

この頃、トップクラスのスター選手でも月給は7000円程度(年収10万円程度)であった。男子プロ野球のトップスターである大下弘の年収が150万円弱、同時期に行われていた女子競輪の年間獲得賞金額が平均20万円前後であり、銀行員の初任給が3000円、あんパンが1個10円、喫茶店のコーヒーが1杯30円だった時代である。

1950年7月には完成したばかりの後楽園球場の照明施設を利用して、ナイト・ゲームによる読売優勝旗争奪戦が日本女子野球連盟所属の4チームによって行われた。

  • (第1試合)パールス 2 – 3 レッドソックス
  • (第2試合)ロマンス・ブルーバード 7 – 15 ホーマー
  • (3位決定戦)ロマンス・ブルーバード 7 – 13 パールス
  • (決勝戦)ホーマー 4 – 6 レッドソックス(ホーマーの三宅千恵子投手はレッドソックス打線をノーヒットに抑えたが、味方守備陣の10個のエラーで6点を取られて敗戦投手となった。)

ロマンス・ブルーバードは主力選手の流出による弱体化が著しくなっていた。さらに連盟内において「健全スポーツ」を目指すレッドソックス、ホーマー、パールスに新加盟のエーワン・ブリアンツとわかもとフラビンズが同調しあくまでも興行=ショーとしてのプロを目指すロマンス・ブルーバードは孤立無援の状況となった。そのため、女子プロ野球の創始者としての自負もあった小泉とブルーバードは8月に日本女子野球連盟を脱退した。

また、この頃には各チームとも企業スポンサーをバックに持つようになり日産パールス、 三共レッドソックス、富国ホーマー(富国興業)などと改称した。ブルーバードの脱退後、日本女子野球連盟所属のチームは上記3チームにエーワン・ブリアンツ、わかもとフラビンズ、京浜ジャイアンツ、クロス・スターズ、京都ラアミース、京都ヴィナス、滋賀レーク・クイン、神戸タイガースを加えた11チームとなった。

ロマンス・ブルーバードと小泉は9月になって名古屋レインボー、京都ラアミース、大阪ダイヤモンド、神戸タイガースなどと共に11チームで「全日本女子野球連盟」を結成した。全日本連盟は9月末に東京・後楽園球場と大阪球場の2カ所で四都市代表優勝大会を開催したが11月になるとブルーバードの主力選手が相次いでわかもとフラビンズに移籍し、チーム自体が解散の憂き目を見ることになった。全日本連盟もその後程なくして消滅した。小泉はブルーバード解散後は女子プロ野球から手を引き、芸能界の興行を手がけるようになった。

ブルーバードならびに全日本連盟の解散後も、日本女子野球連盟側は引き続き公式戦を行っている。1950年のシーズン最後の大会は、11月に行われた関東女子野球大会だった。決勝戦は三共レッドソックスとわかもとフラビンズの対戦となり、三共が勝利している。

1951年[編集]

1951年シーズン開始前に、親会社の富国興業が手を引いたためにホーマーは解散した。また、日産パールスも日産グループが手を引いて単にパールスとなり監督の伊奈大二郎個人による運営となったが、1951年のシーズン途中で岡田乾電池がスポンサーとなって岡田バッテリーズと改称した。

1951年シーズン最初の公式戦は、4月9日に後楽園球場で行われたオール関東トーナメントだった。

  • わかもとフラビンズ 6 – 3 京浜ジャイアンツ
  • パールス 6 – 0 エーワン・ドラゴンズ
  • 三共レッドソックス 0 – 1 わかもとフラビンズ
  • (3位決定戦)三共 5 – 7 エーワン
  • (決勝戦)わかもと 8 – 5 パールス

最高殊勲選手は3試合すべてに連投した大島雅子投手(わかもとフラビンズ)であった。

5月には新宿西口に東京生命球場が完成し、女子プロ野球の本拠地として使用されることになった。

1951年シーズンは前後期に分けて公式リーグ戦を行った。前期は8勝4敗でパールスを引き継いだ岡田バッテリーズが優勝した。順位は下記の通りである。

順位 チーム名
1 岡田バッテリーズ 8 4
2 京浜ジャイアンツ 7 5
わかもとフラビンズ
4 三共レッドソックス 5 7
5 エーワン・ドラゴンズ 3 9

後期は岡田バッテリーズとわかもとフラビンズが共に5勝3敗で同率となり優勝決定戦を行った結果、わかもとフラビンズが後期優勝となった。

12月1日には前期優勝の岡田バッテリーズと後期優勝のわかもとフラビンズによる日本選手権試合が後楽園球場で4000人のファンを集めて行われ岡田が3-2で勝利、年間優勝を決めている。

また8月12日[5]に、岡田バッテリーズの田辺桂子投手が女子プロ野球史上唯一の完全試合を京浜ジャイアンツ戦で達成している。

プロからノンプロへ[編集]

1952年のシーズン前に、日本女子野球連盟はそれまで女子「プロ」野球を標榜していたものをノンプロ=社会人野球に転換した。「プロ」と言っても企業のバックアップがなければ経営が成立しないことがはっきりしたこと、審判を主に社会人野球の審判に依頼していたため「『プロ』の名称はまずい」というクレームがついたことなどが理由である。また特に地方遠征の手配などは前時代的な興行師に委ねざるを得ない状況であり、このままでは多数の妙齢の女性を抱える球団として問題が起こりかねないという懸念もあった。

選手たちは親会社の社員となってシーズン中も勤務し、午後勤務を終えてからクラブ活動として野球の練習を続けるという形になった。ただし、地方遠征の際には出張扱いとするなど配慮はされていた。

プロからノンプロへの移行期に圧倒的な強さを発揮したのは岡田乾電池(旧岡田バッテリーズ)であった。同チームはプロ時代の1951年に始まって、1955年まで5年連続で日本選手権を制覇している。岡田乾電池の強さの原動力となったのは田辺桂子・君島政子の両エースであり、君島は4番打者としてもチームを牽引した。

1953年1月、東京都世田谷区の紅梅製菓が女子野球部を設立し日本女子野球連盟に加盟した。チーム名は『紅梅ミルクキャラメル』だった。しかし同チームは1954年には解散し、主力選手は同じ製菓メーカーの坂口翁女子野球部に移籍した。1954年秋季の順位表は下記の通りである。

順位 チーム名
1 岡田乾電池 8 2 0
2 三共 6 4 0
3 エーワンポマード 5 4 1
京浜急行
5 坂口翁 4 6 0
6 わかもと製薬 0 8 0

1955年のシーズン後、5連覇を達成した岡田乾電池がレイ・オ・バック社に吸収合併されたために解散した。エースの田辺桂子、君島政子をはじめとする主力選手もそれを機に現役を引退した。

1956年6月には坂口翁も解散となったが、8月に白元が旧岡田乾電池と坂口翁の選手を引き継いで女子野球部を創設した。しかし12月にはエーワンポマード本舗も解散となり残る球団は三共、京浜急行、わかもと、白元の4チームとなった。

1958年にはわかもとが解散した。ほぼ同時に久光製薬サロンパス本舗が女子野球部を創設し、主力選手はサロンパスに引き取られた。

1958年から1962年まで、三共が日本選手権5連覇を果たした。三共の中心選手はエースで4番の大和田恵美子投手、助監督の秦孝子捕手、主将の中村桂子投手などだった。特に大和田は、身長170cmと恵まれた体格を活かした剛速球で名をはせた。大和田は1957年新人王、1958年から1961年まで4年連続で最優秀投手、1961年1962年最高殊勲選手、1965年首位打者など数々のタイトルを獲得した。秦の引退後は助監督も務めた。

この間1959年、日本女子野球連盟が解散し日本女子野球協会が設立された。同時に、選手のユニフォームもショートパンツから長ズボンに変更された。6月には京浜急行が女子野球部を解散した。

その後、下記のようなチームが生まれては消えていった。

三共の全盛時代の後、1963年から1967年まで5連覇を果たしたサロンパスの中心となったのはエースで4番の近藤信子投手であった。近藤はもともと1950年のプロ創設時から内野手としてプレーしていたがいったん引退するなど紆余曲折の末にサロンパスに加入し、20代後半になってから才能が開花した遅咲きの選手であった。

1963年から1967年まで5年連続で最高殊勲選手、1963年から1966年まで4年連続で最優秀投手を受賞し「おんな長嶋」の異名を取った。1965年春季のリーグ戦で近藤は7勝0敗(7完封)、防御率0.1という驚異的な成績を残している。オーバースローサイドスローアンダースローを使い分けカーブシュートスライダーといった変化球を駆使する近藤の前に相手チームは凡打の山を築いた。三共の大和田とサロンパスの近藤の対決は、どちらが投げてどちらが打つ場合も1960年代前半における女子野球最大の名勝負と言われた。


<人生の師>が必要

2022年12月12日 11時45分10秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

学問にせよ、スポーツにせよ、何かを習得しようと思えば、必ず指導者が必要だ。

良き指導者がいれば、上達も早いし、向上の著しい。

だから、自分ひとりで習得しようとすれば、徒労も多く、またすぐに行き詰ってしまうものだ。

同じように、人生をより有意義に、最大に価値あるものにしていくためには、生き方の根本的な価値観や人間観などを教えてくれる良き指導者、すなわち<人生の師>が必要である。

「人」と「人」との絆のなかのみ、真に人間ははぐくまれ、開花していくのだ。

そう考えると、良き師、偉大なる師に巡り会えた人生は、最高の人生といえるのではないだろうか。

 


自分自身に誇りを持つことだ

2022年12月12日 09時03分16秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽生きる途上には、思いもよらぬ試練がある。

その時、<これさえなければ>と悔やむより<これがあるから>と奮起した方が、人生を開いていける。

苦闘は、成長の糧になる。

▽核戦争による環境変動で最悪50億人が餓死するー試算に対して、核兵器を廃絶する以外に人類が生存する道はない。

▽宗教は、哲学・理念であり、自分の「生き方」をつくる土台にもなる。

自分の人生を自分で開く指針でもある。

▽自分自身に誇りを持つことだ。

自分自身を卑しめていくことは、絶対にあってはならない。

<自分自身に生きる>ことだ。

▽自分らしく、自分の持つ個性や特質を発揮すればいい。

誰にも、自分にしか果たせない使命がある。

自分にしか果たせない使命があるはずだ。

 


創作 安酒場

2022年12月12日 08時10分57秒 | 創作欄

「失礼じゃないか」と相手は怒りをあらわにした。
相手はこちらの不誠実な対応の件で抗議したのだ。
「申しわけありまでんでした」と私は詫びるほかなかった。
結果的に友人と友人の知人の面子もをつぶしたのだ。

「これで、友人関係の親しみは消えたな」と思うほかなかった。
友情こそ人生の宝なのだが、その一つを失ったのである。
礼儀と誠実、真心の配慮-常識豊かな、人間性あふれる振る舞いに欠けていたと深く反省する。

友人のチャップリン(愛称)は言っていた「安い店には出入りしないことにしている。喧嘩になるからな」
その安酒場・食堂での3人の出会いであった。

一人は友人で、「先生」とみんなが敬意を示していた

彼らは酒を飲み運転して帰る人たちであり、悪い予感がしていたのに、町内会のカラオケ大会の話をした。
「そうかい、飛び入りでも歌えるんだな。行こう」と言いだす。
そして彼らの車に乗ってしまう。
警官の姿を避けるように、農道を抜けて車が走る。
「こんな道を行けるんだ」と呆れて言う。
だが、運転した男は、自宅へ寄ると車を外車に乗り変えて再び脇道を行く。
昼から数時間も飲んでいるのに、相手の男はほとんでハンドルがぶれることもなく運転がスムースである。

容貌はいかにもヤクザ風で、眼つきが鋭い。
4人が乗った車は、ミスターマックスの駐車場へ停まる。
当方はまず、ミスターマックスのトイレに寄る。
カラオケ大会は午後6時からと想っていたが7時からだった。
まだ、1時間以上ある。
まず、新道会館によって、カラオケの飛び入り参加はOKであるかを確認した。
だが、今年は参加者が多いとかで、<NO>であった。
知り合った知人にそのことを告げて詫びるが、相手は怒る。
こちらも喧嘩腰となってしまう。
「勝手に着いてきたんだろう」言葉には出さないが、「しつこい奴らだ」と身がまえる。
声が段々大きくなる。
「バカ野郎。だましたな」と相手の2人は捨て台詞を吐いて肩を怒らせ車に乗り込む。
そして、火の見櫓の跡地のコンクリートに座っている友人にも「カラオケの飛び入りはダメでした」と伝えた。
「今まで、さんざ待たして、何処に行っていたんだ」と友人も怒りをあらわにする。
「ですから、交渉しに行ったのですが、カラオケんの飛び入りはダメでした」
「俺の知り合いは、ずっと駐車場で待っているぞ。どうしてくれるんだ」
「ともかく、謝ります。申しわけなかったです」
「そんなんで、すむのか」
「謝ります。このとおりです」と頭を下げる。
「それではすまないよ」
「謝ります」と段々大声になる。
新道町内会の役員が「子どもたちが居るんだから、大声で怒鳴るのは止めてください」と注意をする。
カラオケ会場の阿夫利神社に子ども御神輿を担いだ子どもたちが多数居て、再度、御神輿を担ぐ用意をしていた。
カラオケ大会に出る子どもたちも待機していた。
憤慨した友人に対しても「しっこい奴だ」と怒りが込み上げてきた。
同時に「カラオケ大会」のことなどを安酒場・食堂で話した自分の愚かしさにも腹が立っていた。
私は毎年、恒例の駅前のカラオケ大会や白山の金毘羅のカラオケ大会も出ていた。
「昨年は戸頭会館のカラオケ大会も出たです」などと余計なことまで、安酒場でしゃべったのだ。
相手の男たちは、カラオケ好きで「行ってみるか」とその気にさせたのだ。

ところで、昨年のことであるが戸頭のカラオケスナックでは、タバコを吸った男に対して「こんな場所で、タバコ吸うんじゃない!」と怒鳴りつけてしまったのだ。
「酔って、人を怒鳴りつけるなんて、もう帰りなさい」と私の女友達に店の外に連れ出されたのだ。

迂闊にも女友達にとって<お世話になっている大切人>に怒りを爆発させてしまった。
「もう2度とくるか」と店の外で怒鳴る。

長年通ったその店との関係も切れていまった。女友達の親しい友人がママをしている店であったのだ。

受動喫煙問題に過剰に反応し、他の店でも他人を怒鳴りつけてしまったこともあった。
安酒場は、客が酒を飲んで帰るのを咎めもせずに見過ごしている店である。
当然、店内でのタバコもありなのだ。
隣の席から流れる青い煙に酒がだんだんまずくなって怒りを爆発させてしまった。
友人のチャップリン(愛称)がいみじくも言っていた<安酒場で喧嘩になる>そんな要因も何となく分かる気がした。

 

 

 


茨城県つくば市選挙速報 山本 みわ 公明党2位当選

2022年12月12日 05時56分32秒 | 社会・文化・政治・経済

開票状況(つくば市選挙区)

定数:5人 立候補者数:8人

 

選挙速報(22時05分現在) 開票率:100%

得票順 当・落

候補者の氏名

党派

新現元

得票数

1

星田 こうじ 自由民主党 13,460

2

山本 みわ 公明党 11,355

3

鈴木 まさし 自由民主党 10,400

4

ヘイズ ジョン 無所属 9,515

5

うの のぶこ つくば・市民ネットワーク 8,797

6

山中 たい子 日本共産党 7,727

7

塚本 一也 自由民主党 7,663

8

ささき りか 無所属 3,004

開票は終了しました。