1950年に入ると次々と新しい女子プロ野球球団が誕生した。
- 『レッドソックス』:1月に小泉の依頼を受けた関浦信一を代表として結成された。
- 『ホーマー』:2月に東京・京橋のホーマー製菓の青井英隆社長(あおい輝彦の父)が早稲田大学野球部時代の先輩だった市岡忠男に依頼されてスポンサーとなり結成された。
- 『パールス』:2月に国際観光を母体として結成された。
これらのチームは、一般公募から選抜した選手(相変わらず「容姿端麗」が選抜基準の1つとなっていた)とブルーバードやメリーゴールドに所属していた選手を分配トレードする形で構成された。
これらの4チームの球団代表が連盟を結成することで同意し日刊スポーツ社に事務方を依頼した結果、同社の井上(斎藤)弘夫が事務局長となり1950年3月28日に日本女子野球連盟が結成された。
連盟の理事会において6月から11月までの間に公式リーグ戦30試合を連盟主催で行うこと、また新規加盟希望球団については開放主義で受け入れることなどが合意された。
ただし、リーグ戦については後述の連盟分裂などの影響で1950年シーズンに関しては機能しなかったようである。
1950年[編集]
1950年4月10日、日本女子野球連盟の初めての公式戦となる日本女子野球連盟結成記念トーナメント大会が1万7000人の観客を集めて後楽園球場で開催された。
- (第1試合)ロマンス・ブルーバード 14 – 2 レッドソックス
- (第2試合)ホーマー 6 – 0 パールス
- (決勝戦)ロマンス・ブルーバード 12 – 1 ホーマー
最高殊勲選手は大島雅子投手(ロマンス・ブルーバード)であった。
トーナメント終了後、2ヵ月にわたってブルーバードとレッドソックス、パールスとホーマーがそれぞれ組になって地方遠征を行った。各地で3000人以上の観客を集めるなど女子プロ野球人気は盛り上がり、それに乗って各地に新しい球団が誕生した。その数は最大で25チームにもなったが、多くのチームは資金難で半年以内に消え去っている。以下は比較的長期間存続したチームである。
- 『エーワン・ブリアンツ』:エーワンポマード本舗がスポンサー。「ブリアンツ」は英語の"Brilliants"だが、カタカナでは「ブリアンツ」と表記された。球団経営に際しては宣伝意識の強い他球団より本腰だったと言われ、結成当時の入団テストでは審査員としてヴィクトル・スタルヒンや杉下茂といった男子プロ野球選手が担当した。チームはその後、親会社が名古屋発祥だったことから中日ドラゴンズよりペットネームを拝借し、「エーワン・ドラゴンズ」と改称した。
- 『京浜ジャイアンツ』:京浜急行電鉄、京浜百貨店(現:京急ストア)がスポンサー。
- 『わかもとフラビンズ』:わかもと製薬がスポンサー。ローズ女子野球団の選手を引き継いで結成された。「フラビン」はビタミンB2の学名「リボフラビン」から採られた。
その他、地方で結成されたチームには下記のようなものがある。
- 名古屋レインボー
- 滋賀レーク・クイン
- 京都ヴィナス
- 京都ラアミース
- 大阪ダイヤモンド
- 神戸タイガース(大阪タイガースとは無関係)
- 京都マルエイイーグルス
- 大阪日日シスターズ
- 神戸ダークホース
この頃、トップクラスのスター選手でも月給は7000円程度(年収10万円程度)であった。男子プロ野球のトップスターである大下弘の年収が150万円弱、同時期に行われていた女子競輪の年間獲得賞金額が平均20万円前後であり、銀行員の初任給が3000円、あんパンが1個10円、喫茶店のコーヒーが1杯30円だった時代である。
1950年7月には完成したばかりの後楽園球場の照明施設を利用して、ナイト・ゲームによる読売優勝旗争奪戦が日本女子野球連盟所属の4チームによって行われた。
- (第1試合)パールス 2 – 3 レッドソックス
- (第2試合)ロマンス・ブルーバード 7 – 15 ホーマー
- (3位決定戦)ロマンス・ブルーバード 7 – 13 パールス
- (決勝戦)ホーマー 4 – 6 レッドソックス(ホーマーの三宅千恵子投手はレッドソックス打線をノーヒットに抑えたが、味方守備陣の10個のエラーで6点を取られて敗戦投手となった。)
ロマンス・ブルーバードは主力選手の流出による弱体化が著しくなっていた。さらに連盟内において「健全スポーツ」を目指すレッドソックス、ホーマー、パールスに新加盟のエーワン・ブリアンツとわかもとフラビンズが同調しあくまでも興行=ショーとしてのプロを目指すロマンス・ブルーバードは孤立無援の状況となった。そのため、女子プロ野球の創始者としての自負もあった小泉とブルーバードは8月に日本女子野球連盟を脱退した。
また、この頃には各チームとも企業スポンサーをバックに持つようになり日産パールス、 三共レッドソックス、富国ホーマー(富国興業)などと改称した。ブルーバードの脱退後、日本女子野球連盟所属のチームは上記3チームにエーワン・ブリアンツ、わかもとフラビンズ、京浜ジャイアンツ、クロス・スターズ、京都ラアミース、京都ヴィナス、滋賀レーク・クイン、神戸タイガースを加えた11チームとなった。
ロマンス・ブルーバードと小泉は9月になって名古屋レインボー、京都ラアミース、大阪ダイヤモンド、神戸タイガースなどと共に11チームで「全日本女子野球連盟」を結成した。全日本連盟は9月末に東京・後楽園球場と大阪球場の2カ所で四都市代表優勝大会を開催したが11月になるとブルーバードの主力選手が相次いでわかもとフラビンズに移籍し、チーム自体が解散の憂き目を見ることになった。全日本連盟もその後程なくして消滅した。小泉はブルーバード解散後は女子プロ野球から手を引き、芸能界の興行を手がけるようになった。
ブルーバードならびに全日本連盟の解散後も、日本女子野球連盟側は引き続き公式戦を行っている。1950年のシーズン最後の大会は、11月に行われた関東女子野球大会だった。決勝戦は三共レッドソックスとわかもとフラビンズの対戦となり、三共が勝利している。
1951年[編集]
1951年シーズン開始前に、親会社の富国興業が手を引いたためにホーマーは解散した。また、日産パールスも日産グループが手を引いて単にパールスとなり監督の伊奈大二郎個人による運営となったが、1951年のシーズン途中で岡田乾電池がスポンサーとなって岡田バッテリーズと改称した。
1951年シーズン最初の公式戦は、4月9日に後楽園球場で行われたオール関東トーナメントだった。
- わかもとフラビンズ 6 – 3 京浜ジャイアンツ
- パールス 6 – 0 エーワン・ドラゴンズ
- 三共レッドソックス 0 – 1 わかもとフラビンズ
- (3位決定戦)三共 5 – 7 エーワン
- (決勝戦)わかもと 8 – 5 パールス
最高殊勲選手は3試合すべてに連投した大島雅子投手(わかもとフラビンズ)であった。
5月には新宿西口に東京生命球場が完成し、女子プロ野球の本拠地として使用されることになった。
1951年シーズンは前後期に分けて公式リーグ戦を行った。前期は8勝4敗でパールスを引き継いだ岡田バッテリーズが優勝した。順位は下記の通りである。
順位 |
チーム名 |
勝 |
敗 |
1 |
岡田バッテリーズ |
8 |
4 |
2 |
京浜ジャイアンツ |
7 |
5 |
わかもとフラビンズ |
4 |
三共レッドソックス |
5 |
7 |
5 |
エーワン・ドラゴンズ |
3 |
9 |
後期は岡田バッテリーズとわかもとフラビンズが共に5勝3敗で同率となり優勝決定戦を行った結果、わかもとフラビンズが後期優勝となった。
12月1日には前期優勝の岡田バッテリーズと後期優勝のわかもとフラビンズによる日本選手権試合が後楽園球場で4000人のファンを集めて行われ岡田が3-2で勝利、年間優勝を決めている。
また8月12日[5]に、岡田バッテリーズの田辺桂子投手が女子プロ野球史上唯一の完全試合を京浜ジャイアンツ戦で達成している。
プロからノンプロへ[編集]
1952年のシーズン前に、日本女子野球連盟はそれまで女子「プロ」野球を標榜していたものをノンプロ=社会人野球に転換した。「プロ」と言っても企業のバックアップがなければ経営が成立しないことがはっきりしたこと、審判を主に社会人野球の審判に依頼していたため「『プロ』の名称はまずい」というクレームがついたことなどが理由である。また特に地方遠征の手配などは前時代的な興行師に委ねざるを得ない状況であり、このままでは多数の妙齢の女性を抱える球団として問題が起こりかねないという懸念もあった。
選手たちは親会社の社員となってシーズン中も勤務し、午後勤務を終えてからクラブ活動として野球の練習を続けるという形になった。ただし、地方遠征の際には出張扱いとするなど配慮はされていた。
プロからノンプロへの移行期に圧倒的な強さを発揮したのは岡田乾電池(旧岡田バッテリーズ)であった。同チームはプロ時代の1951年に始まって、1955年まで5年連続で日本選手権を制覇している。岡田乾電池の強さの原動力となったのは田辺桂子・君島政子の両エースであり、君島は4番打者としてもチームを牽引した。
1953年1月、東京都世田谷区の紅梅製菓が女子野球部を設立し日本女子野球連盟に加盟した。チーム名は『紅梅ミルクキャラメル』だった。しかし同チームは1954年には解散し、主力選手は同じ製菓メーカーの坂口翁女子野球部に移籍した。1954年秋季の順位表は下記の通りである。
順位 |
チーム名 |
勝 |
敗 |
分 |
1 |
岡田乾電池 |
8 |
2 |
0 |
2 |
三共 |
6 |
4 |
0 |
3 |
エーワンポマード |
5 |
4 |
1 |
京浜急行 |
5 |
坂口翁 |
4 |
6 |
0 |
6 |
わかもと製薬 |
0 |
8 |
0 |
1955年のシーズン後、5連覇を達成した岡田乾電池がレイ・オ・バック社に吸収合併されたために解散した。エースの田辺桂子、君島政子をはじめとする主力選手もそれを機に現役を引退した。
1956年6月には坂口翁も解散となったが、8月に白元が旧岡田乾電池と坂口翁の選手を引き継いで女子野球部を創設した。しかし12月にはエーワンポマード本舗も解散となり残る球団は三共、京浜急行、わかもと、白元の4チームとなった。
1958年にはわかもとが解散した。ほぼ同時に久光製薬サロンパス本舗が女子野球部を創設し、主力選手はサロンパスに引き取られた。
1958年から1962年まで、三共が日本選手権5連覇を果たした。三共の中心選手はエースで4番の大和田恵美子投手、助監督の秦孝子捕手、主将の中村桂子投手などだった。特に大和田は、身長170cmと恵まれた体格を活かした剛速球で名をはせた。大和田は1957年新人王、1958年から1961年まで4年連続で最優秀投手、1961年1962年最高殊勲選手、1965年首位打者など数々のタイトルを獲得した。秦の引退後は助監督も務めた。
この間1959年、日本女子野球連盟が解散し日本女子野球協会が設立された。同時に、選手のユニフォームもショートパンツから長ズボンに変更された。6月には京浜急行が女子野球部を解散した。
その後、下記のようなチームが生まれては消えていった。
三共の全盛時代の後、1963年から1967年まで5連覇を果たしたサロンパスの中心となったのはエースで4番の近藤信子投手であった。近藤はもともと1950年のプロ創設時から内野手としてプレーしていたがいったん引退するなど紆余曲折の末にサロンパスに加入し、20代後半になってから才能が開花した遅咲きの選手であった。
1963年から1967年まで5年連続で最高殊勲選手、1963年から1966年まで4年連続で最優秀投手を受賞し「おんな長嶋」の異名を取った。1965年春季のリーグ戦で近藤は7勝0敗(7完封)、防御率0.1という驚異的な成績を残している。オーバースロー、サイドスロー、アンダースローを使い分けカーブ、シュート、スライダーといった変化球を駆使する近藤の前に相手チームは凡打の山を築いた。三共の大和田とサロンパスの近藤の対決は、どちらが投げてどちらが打つ場合も1960年代前半における女子野球最大の名勝負と言われた。