それは、伝えたい言葉であり、受け止める力の源泉。
言葉の可能性をどこまで信じ抜き、課題に立ち向い続けるかである。
政治家たちの言葉の軽さは、政治家の人間性の軽さでもあろうか。
失敗や失言が繰り返されるが、全く責任は取らない。
元来なら議員を辞職すべきなのに、居座り続ける往生際の悪るさには、呆れるばかり!
それは、伝えたい言葉であり、受け止める力の源泉。
言葉の可能性をどこまで信じ抜き、課題に立ち向い続けるかである。
政治家たちの言葉の軽さは、政治家の人間性の軽さでもあろうか。
失敗や失言が繰り返されるが、全く責任は取らない。
元来なら議員を辞職すべきなのに、居座り続ける往生際の悪るさには、呆れるばかり!
酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた
酔いたいのだけれど酔えない私
酔えば本音が出てしまう
本音を言えば恋は終わり
初めての恋に別れを告げる
悲しいのだけれど去って行きたい
酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた
酔えば体を求めてくるあなた
それがもう嫌なのと心を閉ざす
これは遊びと突き放したい
あなたが傷付き私も傷付く
酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた
出会いのころ私は酔っていた
あなたは酔ったふりばかり
京都の夜が私を酔わしたの
私の涙のわけをあなたは知らない
仏教の出発点は、人々の苦しみを一緒になって乗り越えることにある。
釈尊は多くの教えを残したが、その大半は、目の前にいる人々の悩みや苦しみと向き合う中で語られた。
釈尊は、教えを説く対象を限定することなく、「われわれの万人の友である。万人のなかまである」との信念のままに、行く先々で出会ったさまざまば人々に法を説いた。
釈尊の評伝を綴った哲学者・カール・ヤスパースは、「仏陀の出現は知識の教師としてではなく、救済の道の告知者としてなのである」(仏陀と龍樹―峰島旭雄訳、理想社)と記している。
「救済の道」との表現はインド医学の用語を踏まえたものとヤスパースは述べている。
まさに釈尊の説法の底流にあったのは、病気になった人に最も適した薬を施すような励ましであった。
釈尊には、生命の尊厳に対する深い確信があった。
全ての人に尊極の生命が具わっており、厳しい環境にあっても生命に具わる可能性を開花させることができるとの確信である。
当時の社会では、自分の今いる姿(立場)や未来は、過去からの宿命で一切定められ、変えることができないと説く「宿命論」が支配的であった。
また、人間生活の出来事には特別な原因や条件はないとする「偶然論」の思想も説かれていた。
「宿命論」の思想は、どれだけ努力しても運命は変えられず、自分の境遇をただ受け入れるしかないとの諦めを植え付け、人間の心から希望を奪い去るものであった。
また「偶然論」も、どんな行いをしようと結果には関係ないと考えるために、人生を無軌道にしてしまうばかりか、他の人々を傷つけても意に介さない状態を招いた。
釈尊は、こうした呪縛や悪弊などから人々を解き放った。
人生は全て動かし難いものと決定づけられているのではなく、今この瞬間の「行い」で切り開くことができると説いたのである。
仏教では、自らの一念の変革によって、未来の結果(果)つながる今現在の状態(因)そのものを変えることができると訴えている。
そして、原因と結果の関係を方向づける「縁」の重要性を提起している。
つまり、「因」が同じでも、そこにどのような「縁」が結びつくかによって、一人一人に現れる「結果」は異なってくると、説いた。
この視座に立って、生命の尊厳の可能性への確信を抱きながら、生きる希望を失いかけた人に寄り添い、共に前へ進もうと励ます生方を、仏教は促しているのである。
仕事、家庭以外の「第3の場所」
この視点が不可欠。
例えば、過労死やいじめ自殺は、居場所が限定的になっているように思われるのだ。
だから、逃げ場所が不可欠。
視野狭窄になっていれば、第2、第3の居場所があることが見えなくなっている。
孤独な高齢者ほど詐欺被害に遭いやすのも事実。
相談相手も居ないので、追い込まれて詐欺師の巧妙な手口を疑わず騙される。
アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグさんのよると、「第一の場所(家庭)、第2の場所(仕事や学校)に加えて地域の多様な住民が心を通わせる「第3の場所」が求められるという。
多様な触れ合いが減り、人が孤立化する一方で、家庭や職場、学校に求められる役割が過剰に高まると指摘している。
そこで環境や立場を超えて励まし合える身近な人の絆が期待される。
悩みを勇気に、不安を確信に、疲れを充実に、愚痴を感謝に変える価値を創造し触発する「第3の場所」が期待される。
「生命が触れ合う場所」はあればこそ、行き詰まったとしても、困難を打開する道が開かれる。
沼田利根は「第4の場所」勝負の世界―にも軸足を置いても居る。
▽人生に苦労や困難はつきものだ。
大事なのは負けないこと。
試練の中で心を鍛え、粘り強く挑戦を重ねたい。
▽嘘は呪われた悪徳である―思想家・モンテニュー
▽社会の基盤は、家庭にある。
社会の繁栄のためにも、家庭での信頼関係と尊重、心の温かいつながりが期待される。
▽一人一人の可能性を信じ抜くことだ。
▽誰もが貴重な存在―その理念こそ、あらゆる偏見や差別を打ち砕く、生命尊厳と平等の哲理である。
哲理(てつり)とは:哲学上の道理。人生や世界の本質などに関する奥深い道理。
旧統一協会問題が指摘されてから30年以上放置されてきた。
日本人は議論下手である。
つまり、物事をとことん突き詰め、考え抜くことができなかったのだ。
「物事の本質・核心に迫るのが最も苦手なのが日本人」
それが、財務省の決裁文書改ざんにつながった森友問題や怪文書騒動を引き起した加計問題などにシビアな結論が出せないのである。
とことん議論して物事の本質や核心に触れようとしない。
お互意見を戦わせることによって、その問題について新しい発見をしたり、認識を深め合ったりすることができるはずだ。
対話(対談)の文化の構築が不可欠なのだ。
たとえば<いじめ>は絶対ダメ―許されないことを教育の場でとことん論議してこなかったのである。
人権問題である<いじめ>に対する認識の浅さの裏返しなのだ。