自分の辞書を作る

2022年12月13日 14時20分28秒 | 沼田利根の言いたい放題

それは、伝えたい言葉であり、受け止める力の源泉。

言葉の可能性をどこまで信じ抜き、課題に立ち向い続けるかである。

政治家たちの言葉の軽さは、政治家の人間性の軽さでもあろうか。

失敗や失言が繰り返されるが、全く責任は取らない。

元来なら議員を辞職すべきなのに、居座り続ける往生際の悪るさには、呆れるばかり!


作詞 酔えない私 酔っているあなた

2022年12月13日 14時20分28秒 | 創作欄


酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた

酔いたいのだけれど酔えない私
酔えば本音が出てしまう
本音を言えば恋は終わり
初めての恋に別れを告げる
悲しいのだけれど去って行きたい

酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた
酔えば体を求めてくるあなた
それがもう嫌なのと心を閉ざす
これは遊びと突き放したい
あなたが傷付き私も傷付く

酔えない私
酔っているあなた
酔えない私
酔っているあなた
出会いのころ私は酔っていた
あなたは酔ったふりばかり
京都の夜が私を酔わしたの
私の涙のわけをあなたは知らない


ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道

2022年12月13日 12時02分16秒 | 社会・文化・政治・経済

石飛 道子  (著)

内容(「BOOK」データベースより)

龍樹『中論』をブッダの阿含経典をもとに解明する初めての試み!
インド最大の論理学者・龍樹の思想がブッダの思想とみごとに重なった!龍樹の時代にブッダ精神がふたたびもどってきたとき、龍樹の『中論』が生まれた。
それは、ブッダの法ではありながら、これまでとはまったくちがった法の姿をしていた。それは、ブッダ論理学の結晶だった。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

石飛/道子
1951年、札幌に生まれる。北海道大学大学院博士課程単位取得退学。現在、北星学園大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
本書の内容については、著者の管理するマニカナ=ホームページのマジカナ道場で、『インド人の論理学』の著者である桂紹隆氏と興味深い議論が交わされている。幾つものテーマで議論の末、途中参加のDavid氏が著者の敗北を宣言し、著者も首肯したかに見える。また、著書への言及を感謝する三浦俊彦氏からも『論理学に関する無理解のサンプルについて 68 の指摘』が本書に対して提出されている。
なぜ、そうなったのか?

本書は、釈尊の「苦楽の中道」と龍樹の「八不中道」に共通するのが「仏教論理学」だと主張し、真理表を用いた論証を試みている。しかし、「苦楽の中道」は此岸(凡夫)から彼岸(聖者=四沙門果)に至る方法を述べた「俗諦(世俗諦)i.e. 事実」であり、「八不中道」は「真諦(勝義諦)i.e. 真理」とされる「縁起の理法」を凡夫が勘違いして執着しないように否定形で述べたものである。その龍樹も、後年の『十住毘婆紗論』では釈尊と同様に、四沙門果の最初であるシュダオン(預流)に入る重要性を力説している。

ブッダ釈尊の教法を学ぶからには、四聖諦の苦諦と滅諦が真諦(法則)であり、集諦と道諦が俗諦(法則の具体的な応用方法)であることに気づかなければならない。従って凡夫が聖者を目指すならば、我が身に照らして集諦を理解し、道諦を実践しなければならないのである。だから釈尊は、様々な個性や成長段階の凡夫に対応し得る修行法として、三十七菩提分法を創出したのである。
そのように理解すれば、凡夫が聖者に近づくために役立つ「仏教論理学」は「俗諦」の論理を扱うべきであったように思う。釈尊も龍樹も絶対視(=執着)されることを恐れて慎重に扱っていた「真諦」を真理表のような限定された方法で安易に扱ってしまったのは無謀だったかも知れない。
この本の問題点は、仏陀と竜樹が「空」を自覚しており、それを説明するために、真理表なるものを持ち出しているが、これこそ、著書がマインド(言葉)の中に巻き込まれている証拠である。これを用いるとわかりやすく説明できると思ったのであろうか?むしろ、背理法として、「A]として説明していくと、矛盾が生じる。したがって「Aに非ず」とすることを各所で使っていると見た方がわかりやすい、たくさんのことを持ち出しており、逆に一般人に見えにくくしている。
言葉(西洋論理学とでもしておきましょう)で表現できないものを表現するには、ただ逆説的な2つのことや、両極の2つのことを受け入れる受容性があればよい。
たとえば、「今生きている」「今死んでいる」このどちらもなんですよ!って言われて、そうなんだ、って感じれたら、すわわち自覚である。別の「神秘体験」という
本では、これを「超論理」といっている。我々が現実と読んでいるものからは感じられないかもしれないが、そのどちらも成り立つとすること。これが「超論理」
「有る」ともいえ「無い」とも言える・・・など。真理表はじゃまくさい。
 
 
 
 真理表の各行で命題が変わっている。真理表とは、一つの命題について、その部分に真か偽かを当てはめ、その結果、全体真理値を確定する表です。各行で命題そのものを変えてしまっては、一体何のための真理表なのかわけがわからなくなります。

 また、ゲーデルの不完全性定理は論理についての定理ではなく、算術についての定理です。

 他におかしなところがいくつもあります。現代論理学では時間を扱う論理や、因果性を扱う論理が形式化されています。著者はそのようなものは仏陀論理学以外にないと思っているようですが、単なる知識不足です。

 龍樹の言説の分かりにくさもあり、以上の基本的誤解、無知のために、とても奇っ怪なものになっています。
二度とこのような著作は書くべきではありません。学者生命の問題です。
 
 

この本で明らかにされたことの核心は、「真理は言葉では語れない」事をブッダが示していて、龍樹がそのことを論理的に明らかにしていて、その様が真理表の16番に対応するよ、という指摘、ですね。
的確な指摘だと思います。
ただ、それ以上でもそれ以下でもない。

これはないものねだりかもしれませんが、私としては、排中律の立場にたたずに「ありのままに」世界を見るときに見えてくる世界の不思議さや面白さについて、もっと知りたかった、と思いました。
こんなことを言うのは、私が、「個を超えた大いなる働きのようなもの」に関心があり、そういう働きについては通常の「縁起」を超えた原理が働いていると感じていて、その原理を掴みたい、と思っているからです。

ブッダは、そこにいたる道を示してくれてはいる。
言葉でその道の入り口まで連れていってはくれている。
「ほら、ここが入り口だよ。ここから先は言葉による分別を超えた世界。しっかり自分で歩んでいくんだよ」
と、まあ、そういうことですね。
観念して自分で歩いて風景を楽しむことにします。
この本に、その世界の見聞録を求めるんじゃなく。
(結局、「ありのまま」に世界を見る=見える世界は変わらないが感じ方が透明になってくる、ということを、その一瞬、その一瞬において実践するしかないんでしょうね。心理学でいうフロー状態が一つの理想でしょうか?)

あ、あと、弁証法について、もっと知りたいと思いました。
ブッダの語りは弁証法的だ、という指摘はたぶん当たっているのだろうと思いますが、それなら弁証法を退ける形式論理学の真理表を用いるのではなく、弁証法のツールを用いた方が、話がさらにもう一歩先まで行ける気がする。
(もっとも、筆者は、形式論理学での使い方をかえて、弁証法的に真理表を運用しています。そこはこの本のユニークなところだと思います。でも私は、「その先」を知りたい)

どなたか、弁証法の論理を、恣意的な論理の運びを排除した形で形式論理学なみにすっきりとなおかつ細かくまとめた本をご紹介くださいませんか?
(私はヘーゲルを直接読んだことはございません。恣意的なんじゃないかと疑っているため。そもそも、「正」「反」「合」というとき、恣意性を排除することは原理的にできないのかも。価値判断が入るから。そこが、ブッダが奨めるように「ありのまま」の立場に立とうとすると、どうなるんだろう?)
 
龍樹の「中論」をここまで緻密に分析した本は今まで見た事がない。
中論を題材にした本は少なくないが、ほぼその全ては、西洋思想に当てはめたり、瞑想と神秘の世界で終わったり、論理的に展開されても相依相関関係と捉える空に結論ずけらるものばかりである。
この本は、そうしたこれまでの龍樹研究より一重深い仏教の視点が平易な言葉で明かされた。
文体は難しくなく、一般人でも読み進める事も容易であるにもかかわらず、説かれた内容は高度で大乗仏教、上座部仏教を問わず、仏教を学するものは一読する価値がある。
日本においては故中村元氏の龍樹論を超えるものと言えるかもしれない。
この分野に関しては古今東西に残る名作ではないだろうか。
早期の英訳が期待される。
この作者の深い仏教理解には脱帽である。
 

釈尊が説いたとされる原始仏教の経典を丁寧に読み解き、中観の思想と関連させて論じています。
とてもエキサイティングな内容です。
平易なことばで深い哲理を説明できる力量はなかなかのものです。
仏教思想に興味を持つ人には大変参考になる本です。
 

面接や受験に失敗した理由がわかる本。優しい本です。

仏教の本質

2022年12月13日 12時02分16秒 | 社会・文化・政治・経済

仏教の出発点は、人々の苦しみを一緒になって乗り越えることにある。

釈尊は多くの教えを残したが、その大半は、目の前にいる人々の悩みや苦しみと向き合う中で語られた。

釈尊は、教えを説く対象を限定することなく、「われわれの万人の友である。万人のなかまである」との信念のままに、行く先々で出会ったさまざまば人々に法を説いた。

釈尊の評伝を綴った哲学者・カール・ヤスパースは、「仏陀の出現は知識の教師としてではなく、救済の道の告知者としてなのである」(仏陀と龍樹―峰島旭雄訳、理想社)と記している。

「救済の道」との表現はインド医学の用語を踏まえたものとヤスパースは述べている。

まさに釈尊の説法の底流にあったのは、病気になった人に最も適した薬を施すような励ましであった。

釈尊には、生命の尊厳に対する深い確信があった。

全ての人に尊極の生命が具わっており、厳しい環境にあっても生命に具わる可能性を開花させることができるとの確信である。

当時の社会では、自分の今いる姿(立場)や未来は、過去からの宿命で一切定められ、変えることができないと説く「宿命論」が支配的であった。

また、人間生活の出来事には特別な原因や条件はないとする「偶然論」の思想も説かれていた。

「宿命論」の思想は、どれだけ努力しても運命は変えられず、自分の境遇をただ受け入れるしかないとの諦めを植え付け、人間の心から希望を奪い去るものであった。

また「偶然論」も、どんな行いをしようと結果には関係ないと考えるために、人生を無軌道にしてしまうばかりか、他の人々を傷つけても意に介さない状態を招いた。

釈尊は、こうした呪縛や悪弊などから人々を解き放った。

人生は全て動かし難いものと決定づけられているのではなく、今この瞬間の「行い」で切り開くことができると説いたのである。

仏教では、自らの一念の変革によって、未来の結果(果)つながる今現在の状態(因)そのものを変えることができると訴えている。

そして、原因と結果の関係を方向づける「縁」の重要性を提起している。

つまり、「因」が同じでも、そこにどのような「縁」が結びつくかによって、一人一人に現れる「結果」は異なってくると、説いた。

この視座に立って、生命の尊厳の可能性への確信を抱きながら、生きる希望を失いかけた人に寄り添い、共に前へ進もうと励ます生方を、仏教は促しているのである。


人生を変える「第3の場所」

2022年12月13日 11時50分15秒 | 沼田利根の言いたい放題

仕事、家庭以外の「第3の場所」
この視点が不可欠。

例えば、過労死やいじめ自殺は、居場所が限定的になっているように思われるのだ。
だから、逃げ場所が不可欠。

視野狭窄になっていれば、第2、第3の居場所があることが見えなくなっている。

孤独な高齢者ほど詐欺被害に遭いやすのも事実。
相談相手も居ないので、追い込まれて詐欺師の巧妙な手口を疑わず騙される。

アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグさんのよると、「第一の場所(家庭)、第2の場所(仕事や学校)に加えて地域の多様な住民が心を通わせる「第3の場所」が求められるという。

多様な触れ合いが減り、人が孤立化する一方で、家庭や職場、学校に求められる役割が過剰に高まると指摘している。
そこで環境や立場を超えて励まし合える身近な人の絆が期待される。

悩みを勇気に、不安を確信に、疲れを充実に、愚痴を感謝に変える価値を創造し触発する「第3の場所」が期待される。

「生命が触れ合う場所」はあればこそ、行き詰まったとしても、困難を打開する道が開かれる。

沼田利根は「第4の場所」勝負の世界―にも軸足を置いても居る。


一人一人の可能性を信じ抜くことだ

2022年12月13日 11時01分29秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽人生に苦労や困難はつきものだ。

大事なのは負けないこと。

試練の中で心を鍛え、粘り強く挑戦を重ねたい。

▽嘘は呪われた悪徳である―思想家・モンテニュー

▽社会の基盤は、家庭にある。

社会の繁栄のためにも、家庭での信頼関係と尊重、心の温かいつながりが期待される。

▽一人一人の可能性を信じ抜くことだ。

▽誰もが貴重な存在―その理念こそ、あらゆる偏見や差別を打ち砕く、生命尊厳と平等の哲理である。

哲理(てつり)とは:哲学上の道理。人生や世界の本質などに関する奥深い道理。

 

 


日本人は議論下手

2022年12月13日 10時36分21秒 | 沼田利根の言いたい放題

旧統一協会問題が指摘されてから30年以上放置されてきた。
日本人は議論下手である。
つまり、物事をとことん突き詰め、考え抜くことができなかったのだ。

「物事の本質・核心に迫るのが最も苦手なのが日本人」

それが、財務省の決裁文書改ざんにつながった森友問題や怪文書騒動を引き起した加計問題などにシビアな結論が出せないのである。

とことん議論して物事の本質や核心に触れようとしない。

お互意見を戦わせることによって、その問題について新しい発見をしたり、認識を深め合ったりすることができるはずだ。

対話(対談)の文化の構築が不可欠なのだ。

たとえば<いじめ>は絶対ダメ―許されないことを教育の場でとことん論議してこなかったのである。

人権問題である<いじめ>に対する認識の浅さの裏返しなのだ。