死にいたる病/現代の批判

2024年02月14日 10時38分05秒 | 社会・文化・政治・経済

キルケゴール (著), 桝田 啓三郎 (翻訳)

「情熱のない時代は、ねたみが、傑出する人の足を引っ張り、人々を否定的に水平化する」

それを打破するには一人一人が「不動の宗教性を獲得するしかない」

彼が自分の寿命の短いことを自覚し、その短い生涯のうちに、なすべきことなそうと戦った。誰もが今世の命には限りがある。だからこそ「今」を全力で生きる意味や価値を自覚できる。

「英雄」とは、自分にできることをやった人間である。

凡人とは、自分にできないことを夢見ながら、自分にできることをやろうとしない人間である。

自身が定めた使命を、時を逃さず果たしててゆく。

その人こそ真の英雄である。

 

 
『瞬間』や『人生行路の諸段階』も良いですが、やはり『死に至る病』は名著です。
信仰と世俗的な教会批判、絶望、など。
現代でも意義を失っていない思想書です。

 

 
大学時代、サークルの後輩の男の子と2人で飲んだ時、彼が言った:「僕って、自分のことを人に話さないんですよね~。」
それを聞いた私は思った:(話してるじゃん。)
 これと似たような矛盾をキルケゴールは指摘する。
例えば、「私は人生に絶望しました。死にたいです。」と言いながら、真っ青な顔色をしているAさんと、「幸せで~す」とニコニコしているBさんがいたとする。
精神科医なら、どちらが「精神的にヤバい」と考えるかというと、「自分は絶望している」と他者に訴えられるAさんはまだ救いがあり、自分の絶望に気づいてさえいなくて、世の中に流されて生きているBさんの方が、もっと悲劇かもしれない…といったような、パラドキシカルなことが書かれている…何この本。
めっちゃ面白いじゃないですか!
 ・・・といっても、やはり古典的名著。内容が難しく、私には3割程度しか理解できなかったので、評価も4としますし、ざっくりと表面的な感想しか書けないのですが、「自殺は罪」「絶望の反対は信仰」「もし人の宿命が初めから決まっていると考えるなら、服従のみの人生になり、祈りに意味なんてないよね」など、名言多し。
キルケゴールさん、200年前の人とは思えないほど面白いことを言っているので、飲み屋さんで一緒にお酒を飲みながら語りたくなりました。
 

まず、この「死に至る病」とはヨハネの福音書十一章のある言葉から来ていて、(ご自分で聖書を紐解きお探しください。)絶望の諸様相を克明にときあかし、人間観察のあまりのふかさに、絶望とはこういうものだと克明に襞(ひだ)の裂け目までえぐったしょもつです。
死の時牧師が駆けつけてきてくいあらためることができますか。と言われ一度は「いや私にはできない」といいますが最後に、「うんできる」といい天国にレギーネ・オルセンに会いに旅立ちました。
ほんとうに苦しい、42歳での死を膨大な、著作による、ストレス、精神的疲労、のため路上で昏倒しました。

 1830年に17歳でコペンハーゲン大学にに入学し1834年に日記(膨大な量のもの)1843年(あれかこれか)第一部第二部を印刷へ回し フルーエ教会でレギーネオルセンがキルケゴールに会釈しました。
 その後も激しい絶望と美しい感性が見事に溶け合った、美しい愛をレギーネを一途に思い続け最後にレギーネ(ものすごい美しい温和なかたです。)(画像検索をしてみてください。)とても温和な彼女とついにセーレン・キルケゴールの思いも通じず。
レギーネが別の男性と結婚し、キルケゴールはやんわりと、穏やかにその男性にレギーネへの思いをうちあけ、結局死んでしまい(彼のたましいが。)「死に至る病」を残しました。
おびただしい、執筆のため路上で昏倒して、天国に召されました。
 私はプロテスタントの信徒で17歳の時18歳の女性と今でも教会で仲睦まじく相思相愛で現在私が28歳SAさんが、29歳で牧師のもと、結婚準備をしています。
でもわたくしは12歳の時から28歳の今まで心の病のため、統合失調感情障害となり、苦しくて苦しくて死んでしまいそうな精神的絶望のめ躁鬱を繰り返し。
入退院も3度目です。しかしSA さんも心の病のため同じく思春期の時、統合失調症を患ってしまいました。
ですから彼女の苦しみがわかるのです。私はヴァイオリンを弾きながら彼女はフルートとピアノを弾きながら10年間私は一途に彼女を思い慕い続けています・
 
 キルケゴールは父親が熱心な憂鬱な信仰を持ちしかし実は先妻のもとで女中を犯して生まれたのがキルケゴールなのです。その女中となっった、7人兄弟の末っ子でその不実のキルケゴールの犯されて生まれた子がキルケゴールの母親でおそらくとても温和な、やさしく魂の美しいキリスト者と思われます。

 周囲が認めるレギーネ・オルセンさんとキルケゴールは婚約しますが。
本当に幸せだったと思います。
二人ともしかし、本人が「大地震」と呼ぶつらいできごと、キルケゴールの父親が神を一度呪ったこと、そして自分のそれまでの原罪に基づく苦しみから、放蕩の限りをつくし遊女を買ったことなど、自分の罪にさいなまれ良心の呵責から、婚約破棄となったのです。

 そのキルケゴールの父親とは、キルケゴールと死の二日前に和解しました。
1841年、28歳の時、レギーネ・オルセンさんに婚約指輪を送りかえし
10月11日デンマークの厳しい冬を前にして、レギーネとの関係を最終的に断ち切る。
36歳の時、「初恋」「誘惑者の日記」「美しき人生観」「結婚の美的権利」「美と倫理」と名付けた「あれか、これか」を、ヘーゲルがだいっきらいだった、キルケゴールが出版しました。

 ヘーゲルの精神現象学を読むとさらによくわかるのですが、だめでした。私は現在モンテーニュ、パスカル、ニーチェ、ヘルダーリン、クラシック音楽、そしてカントの実践理性批判、判断力批判を読んでいる最中でものすごく大変ですです 。
一日日4時間読書(マルセル、プルーストの、失われた時を求めての「逃げ去る女」の途中まで来ていて、憂鬱な鬱状態といまかいている、札幌の初夏の緑の詩を書いています。つらくてつらくて死にたいです。
 
 キルケゴールの父親はとても教育が上手で、散歩に出られないキルケゴールをあのパン屋さんはねこうなんだよ、と優しく優しく教育しました。
それで稀有なたぐいまれなる、実存主義哲学者へと崇高に昂揚したのでした。
 
 この桝田啓三郎さんはさんはデンマーク語からのちょくやくですので、絶望した人にはぜひ、おすすめします。
 

デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813-1855)の代表作。
キルケゴールは、日本でいえば徳川家斉の時代の人で42歳で夭折している。
キルケゴールはレギーネという女性を愛し、婚約までしているが一方的に婚約破棄している。
しかし、終生レギーネを愛したらしい。このあたりの事情は謎だが訳者は、キルケゴールの父がメイドをレイプして、そのメイドと結婚せざるを得なくなり、キルケゴールの母がそのメイドである、ということを知り、レギーネをそういう家族の一員に引き入れることに躊躇したのではないか、と述べている。
また、当時のデンマーク国教会は神の栄光を賛えるばかりで人間の罪について真剣な洞察を欠くことをキルケゴールは非難し、「教会に真のキリスト教を呼び戻す」ために立ち上がったのだという。 
 「私の使命を理解すること、私にとって真理であるような真理を見いだすことが肝要なのだ。いわゆる客観的真理などを突き止めたとしても、それが私の何の役に立つだろう」、これが、キルケゴールの実存主義思想の出発点であり思想形成の原点でもある。
真理は主体性の問題である、という思想運動が実存主義にほかならない。
 キルケゴールにとって、人間とは神の前にただひとりで立つ単独者であり、神に対して責任を取るという仕方で自由にみずからの主体性の形成に踏み出すときに真の人間らしさを発揮することのできる存在である。
自由を引き受けて生きる人間のあり方を「実存」とよぶ。生きる上での既成の根拠を自分の中にもたない自由が人間を不安に陥れる。
不安は自由のめまいである、という。
この不安から逃れるために人は惰性で日常を過ごし、刹那的享楽に没入する。
ここに大衆化社会の陥穽がある。
人間はこの弱点をしっかりと心得て、自由に対して誠実でなければならない。
 曰く・・・
 絶望は無限の長所である。この病にかかりうる可能性が、人間が動物よりもすぐれている長所である。
 死が希望となるほどに危険が大きいとき、そのときの、死ぬことさえもできないという希望のなさ、それが絶望であり、絶望は死にいたる病である。
 世間の人は自己というようなもので大騒ぎなどしない。自己自身を失うという最大の危険が世間ではまるでなんでもないことのように平静に行われている。
これほど平静におこなわれる喪失はない。
 世間の目からみると冒険は危険なことである。
冒険すると失うことがあるからであり、冒険しないのが賢明なことになる。
しかし、冒険をしない場合には、それだけはほとんど失うことがないはずのものをやすやすと失いかねない。
つまり自己自身を失ってしまいかねない。
 自己と神に気づくためには、想像力が人間を蓋然的なものの雰囲気よりもさらに高く舞い上がらせ、その雰囲気から脱出させなくてはならない。
 意識が増せば増すほど、それだけ絶望も強くなる。
 孤独への要求は、人間のうちに精神があるということのしるしであり、またそこにある精神を測る尺度である。
 人がキリスト教につまづくのは、キリスト教の目標が人間の目標ではないことにある。キリスト教が人間を人間の頭では理解できないような並はずれたものにしようとするということである。
 人間は、神の観念を人間の自尊心の一要素として神の面前で自分の重みをつけるために用いてきた。
ちょうど政治生活において、野党に所属することによって自分を重くし、自分が反対することのできるなにものかをもてるために政府の存在を望むように、人は神を除き去ることを欲しない。
異教徒は厳粛に戦慄をもって神の名をよぶが、キリスト教界では神の名は日常会話にしきりに出てくる。ときおり教会にいけばこの人物に奉仕したことになり、牧師にも褒められる。
 人間の最大の悲惨は、キリストにつまづいて、そのつまづきのうちにとどまっていることである。 
 みたいな話。なんとなく、ニーチェやロロ・メイなどと似たものを感じる。
 
 

絶望についての書物ということで読みました。
大前提となるキリスト教について信仰も教養も無かったので、中盤以降は書いてある内容に殆ど共感を持てず。論理展開だけを追っていく羽目に…

信仰を持たない凡人の読後印象は、哲学者が書いた宗教本or電波本、、、というものでした。
今の日本を生きる我々が感じる絶望について、ヒントの獲得は期待できません。

現代の批判の方は、今の日本にも通ずるような洞察がたくさんあって興味深く読めました。
 
 
この本は『死に至る病』と『現代の批判』を収録しています。
『死に至る病』は多くの人がレビューしているので、このレビューでは『現代の批判』について大まかなあらすじと感想を述べたいと思います。

 『現代の批判』はもともと『二つの時代』という小説の評論として書かれたものの一部が編集されて出版されたものです。
その小説では、「革命時代」と「現代」に分けて、それぞれいかなる時代で人々はどう生きたかを対比的に描いています。
そしてキルケゴールはこの対比に沿って、キルケゴールの生きた「現代」、つまり19世紀前半を対象にして自身の経験も生かしながら論じています。

 「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立っても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう時代である。」とキルケゴールは序文で述べていますが、これはまさしく「今」の「現代」にも当てはまることです。
そして、そんな時代において人々は「水平化」していると述べます。
この「水平化」とは個々人の個性の埋没という意味以上に、「公衆」という新たな存在を浮かび上がらせます。
「公衆」とは誰でもないが、しかし誰もが当てはまる無の存在です。
「世論」という言葉で表すと分かりやすいかもしれません。
そうした水平化を促すのが、キルケゴールの時代では新聞などの全国で読める情報媒体でした。
われわれは自身になんの関係もないことであるにも関わらず、新聞や週刊誌が取り上げた芸能人のゴシップネタに喜々として食いつくことがありますね。そうしてネタにされた情報をエサに「公衆」は肥大化します。
在りもしない責任も負わない「公衆」が特定の人物に誹謗中傷を浴びせ、エサに飽きたらまた新しいエサを求め、そんなエサを提供してくれる情報媒体をわれわれは定期購読します。

 キルケゴールもまさにこの「公衆」の被害者でした。彼の言論をある雑誌が攻撃し、それによって彼は街を歩いていても石を投げられ、唯一の気晴らしである散歩を出来なくなったのです。
しかし彼が本書において批判しているのは、彼を攻撃した雑誌ではありません。
その「公衆」に一瞬でも参加しているにもかかわらず、「わたしはただ定期購読していただけだ」と責任逃れ(他人のふり)をし、彼にあわよくば憐れみの目で共感するような人々の無責任さを批判しているのです。

 新聞や雑誌などの定期刊行物は「民意」の具体的なあらわれではありません。
ただひたすらに具体的・個別的存在を抽象化したに過ぎないのです。
しかしこれら抽象物がありもしない(一方ではある)「公衆」という存在を生み出し、人々の水平化を促す...これが「現代」の特徴であるとキルケゴールは言います。
私の目線では「今」の「現代」において、これに当てはまるものはTwitterであるように感じます。
 そしてキルケゴールは述べます。
「ほんとうに黙っていることのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙っていることのできる者だけが、ほんとうに行動することができるのだ。」と。
われわれ「公衆」が家で、あるいはカフェで、あるいはTwitterで行っているのは「おしゃべり」です。それは黙りもせず、語りもせず、ただ無限に湧く「話題」をエサに消費してるにすぎない
。それが本当に「公衆」ではない実存性をもった人間であると言えるのでしょうか?われわれは然るべきときには黙り、然るべきときには語らなければなりません。
どちらかを選択しなければならないのです。
ここにキルケゴールの思想である「あれか、これか」が見えてくると思います。

 このように『現代の批判』はまさに「現代」のことについて論じているかのように先見的な文章です。
「主体的な真理とは何か?」をただ追い求めたキルケゴールの読みづらい、分かりづらい文章を何度も味わって読んでみてください。私もがんばります。
 

何もしない人間

2024年02月14日 09時28分49秒 | 創作欄

皿も洗わない。

料理もしない。

部屋の掃除、風呂場を洗わないし、トイレ掃除もしない。

ぐうたらの生活であり「あんたは楽でいいね。何にもしない人間、寝て起きれば、食事が出される」と同居人から嫌味を言われ続けている。

一人で生活したのは、大阪支局でのわずかな3か月である。

それまで滞在して医局員の野田誠が結核で入院したので、急遽私が大阪支局勤務となったのだ。

支局と言ってもオフィスではなく、安アパート2階の和室二間であった。

そこのアパートの4畳半の部屋にデスクがあり、電話とフアックスが備えられていた。

寝室兼居間の6畳の2階までから、夜となればスナックや居酒屋の喧騒が聞こえてきた。

そして、隣の部屋の女性は水商売らしく、午前1時、2時に帰宅する。

たまには、男を部屋までれてきている様子であり、私は聞き耳を立てた。

私は、同居人に電話をかけ「大阪に来ないか?」と聞いてみたのだが、「大阪には行く気になれない」とつれない返事であった。

仕方ないと、私は夜の街を彷徨うのである。

アパートのある場所は、大阪阪急 十三駅西から徒歩5分の繁華の街の立地であり、北の新地へ私は向かっていた。

そこは、財界人の情報交換の場として栄えてきた、大阪・キタを代表する高級歓楽街。

バー、クラブ、スナック、小料理屋、和洋割烹などの飲食店舗が集まる、キタの高級歓楽街。北は国道2号線、南は堂島川、東は御堂筋、そして西は四ツ橋に囲まれた、東西約500m/南北約250mの長方形の地域。

私が大学時代に交際した北島芳江は、和洋割烹店の一人娘であった。

彼女の母親は40歳の若さで子宮がんとなり、2年の闘病生活で逝ってしまった。

私は芳江の母の葬儀に出ていた。

喪服を着て意気消沈する芳江に私は惚れ直す想いがした。

芳江から紹介されたことのある従妹の沢田亜希が「コイさん可哀そう」と涙を一杯浮かべていた。

亜希は音大の声楽科でオペラ歌手を目指していた。

東京・日比谷公会堂での藤原歌劇団による「蝶々夫人」を芳江と亜希と3人で鑑賞した日が思い出に残っている。

私は、帰りの喫茶店で亜希に聞いてみた「発声はどうすいるのですか?」。

亜希は微笑みながら「声は体の後ろから出すのような感じですね」と言うのだ。

幼児からバレエを習っていた芳江とは、「白鳥の湖」を鑑賞した思い出があった。

私は、結婚して母親となった芳江に無性に逢いたくなっていた。


家人が喘息となり内科へ

2024年02月14日 09時25分32秒 | 日記・断片

喘息(ぜんそく)に移行しやすい咳喘息

風邪などの感染症が治っても、咳が長期間(発症後8週間以上)続く場合は咳喘息のおそれがあります。
咳喘息は、発作的な激しい咳が夜中から明け方に出る、気道が刺激に過敏になっていて、アレルゲンが咳の誘因になる、季節によって悪化する、などの点は喘息(ぜんそく)とよく似ていますが、

  • 「ゼーゼー、ヒューヒュー」といった喘鳴や呼吸困難を伴わない
  • 痰はあまりからまないといった違いがあります。

1~2ヶ月の薬物治療で治ることが多いとされていますが、大人の約3~4割(子どもではさらに高率)が喘鳴を伴う典型的な喘息(ぜんそく)に移行するという報告があります。

咳が続く期間と考えられる病気

 

喘息(ぜんそく)に症状が似た病気・移行しやすい病気

風邪、インフルエンザ、百日咳、マイコプラズマなど、感染症によっても発作性の咳が出ます。感染症による炎症がきっかけとなり、喘息(ぜんそく)を発症することもあります。
また、長く続く症状が結核やがんであることもあります。
風邪などはセルフケアによって短期間で治ることも多いのですが、感染力が強い、重症化しやすいなど、抗菌薬による治療が必要となる感染症もあり、症状が激しい場合や長引く場合は、早めに医療機関を受診しましょう。


風邪で声が出なくなる

2024年02月14日 09時02分46秒 | 日記・断片

これまで、何度も風邪になったが、声が出なくなったのは初めてではないだろうか?

また、先日は、食べたサバの刺身が原因と思われる蕁麻疹となる。

両腕ばかりではなく、腹部、胸、背中も赤く膨れ上がった。

これは尋常ではないと、内科医院へ行く。

なるべく自然治癒に頼っきたが、受診して薬をもらったら、翌日は湿疹が嘘のように消えた。

念のために、処方された1週間の薬を3日間飲む。

治ったと思ったら、また蕁麻疹の症状が表れたのだ。

そして、今度は風邪をひいてしまうと、鼻や喉の粘膜が炎症を起こす。

喉が痛いのだ。ボイスケアの喉飴(プロポリス配合)を舐める。

鼻や喉の粘膜が炎症、これが声が出なくなる原因で、炎症を治すのが一番大切。

その為には薬と安静が大切になるので、風邪をひくと内科の診察を受ける人が多いのですが、声が出ないほどになるのなら耳鼻咽喉科を受診することだ。

検査して炎症があるなら、薬と蒸気で症状を軽くする事が出来る。

喉を楽にするなら、内科より耳鼻咽喉科の方が間違いとされている。


風邪で声が出なくなる

2024年02月14日 09時02分46秒 | その気になる言葉

これまで、何度も風邪になったが、声が出なくなったのは初めてではないだろうか?

また、先日は、食べたサバの刺身が原因と思われる蕁麻疹となる。

両腕ばかりではなく、腹部、胸、背中も赤く膨れ上がった。

これは尋常ではないと、内科医院へ行く。

なるべく自然治癒に頼っきたが、受診して薬をもらったら、翌日は湿疹が嘘のように消えた。

念のために、処方された1週間の薬を3日間飲む。

治ったと思ったら、また蕁麻疹の症状が表れたのだ。

そして、今度は風邪をひいてしまうと、鼻や喉の粘膜が炎症を起こす。

喉が痛いのだ。ボイスケアの喉飴(プロポリス配合)を舐める。

鼻や喉の粘膜が炎症、これが声が出なくなる原因で、炎症を治すのが一番大切。

その為には薬と安静が大切になるので、風邪をひくと内科の診察を受ける人が多いのですが、声が出ないほどになるのなら耳鼻咽喉科を受診することだ。

検査して炎症があるなら、薬と蒸気で症状を軽くする事が出来る。

喉を楽にするなら、内科より耳鼻咽喉科の方が間違いとされている。


映画 クリフハンガー フォールアウト

2024年02月14日 08時15分23秒 | 社会・文化・政治・経済

2月13日1時30分からCSテレビのムービープラスで観た。

まさに死を隣り合わせを岩場を上る女性の必死さと、迫力に圧倒される。

高さ3000メートルの岩壁で凶悪な男たちに命を狙われた女性ロッククライマーの戦いを描いたサバイバルアクション。

標高3200メートルのアンテラオ山を訪れたロッククライマーのケリーとソフィー。

しかしソフィーは同じロッジにやって来た男たちに暴行され、口封じのため崖下へ突き落とされて死んでしまう。

その現場を目撃したケリーも命を狙われ、岩壁を登って逃げようとするが、男たちは頂上へ先回りして上部から執拗に彼女を攻撃。

ケリーは岩壁に宙吊りとなったままで攻撃をかわしつつ、決死の反撃に出る。

主演は「HOSTILE ホスティル」のブリタニー・アシュワース。「ゾンビ大陸 アフリカン」のハワード・J・フォード監督がメガホンをとった。ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2022」上映作品。

2021年製作/86分/イギリス
原題:The Ledge
配給:AMGエンタテイメント
劇場公開日:2022年2月18日

 ロッククライマーのケリーは友人のソフィーと共に何か思い入れのありそうなアンテラオ山(ドロミテ?)を訪れる。そこで2人は女性蔑視のドクズ男1人と辛うじて良心が残っているものの流されていく3人の男と出会うのだった。

 なぜかソフィーはそんな男4人と意気投合。しかし調子に乗り茶化しに茶化した挙句乱暴され殺されてしまうのだった。その現場を目撃・録画していたケリーは4人に追われることになり断崖絶壁の岩棚を軽装備で逃げ惑う...

 かつて最愛の人と2人で制覇できなかった山を今度は独り最愛の人を偲びながら~、とケリーという女性の自律の物語がメイン。同情の余地の無いドクズな男たちという胸糞な障害がそれを後押しする。

 ただなんだろうか、上と下と下と上と断崖絶壁におけるケリーと男どもの優劣然り繋がりが描かれそのシチュエーションを機能させようとする試みは感じ取れるも

【未体験2022】クリフハンガー/フォールアウト |テアトルシネマグループ
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クリフハンガー フォールアウト