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2024年02月16日 10時08分36秒 | 医科・歯科・介護

本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン 


よみがえる大野 日本語=タミル語接触言語説

2024年02月16日 09時39分27秒 | 社会・文化・政治・経済

タミル語による記紀、万葉集の未詳語などの考察
田中 孝顕 (著)
 
大野説は如何にして闇に葬られたのか?
言語学界の固執を暴き、タミル語でしか分からない古代日本語の本当の意味を追求する。

大野 晋博士による「日本語タミル語説」は、提唱されて以来40年間経つ今日まで、多くの学者によって全否定されてきた。
しかし本当にこれはおかしな説なのだろうか?
例えば、ヤマトはタミル語で日の本、巻向は日の出、
木花開耶姫は「王の命・早く・散らす」姫を意味する。
これまで意味不明とされてきた日本書紀・万葉集・古代地名などの未詳語を
タミル語で解くと、驚くべき古代日本の真実が明らかに!!
 
著者について
■田中 孝顕/タナカ タカアキ
1945年1月6日生まれ。東京都江東区深川永代。のち中野区鷺宮へ疎開。
國學院大學卒業。
Napoleon Hill「思考は現実化する」(翻訳。きこ書房 1990)  「日本語の起源 日本語クレオールタミル語説の批判的検証を通した日本神話の研究」(きこ書房 2004) 「日本語の真実」(幻冬舎2006) 「ささがねの蜘蛛 意味不明の枕詞・神話を解いてわかる古代人の思考法」(幻冬舎2008) T.Burrow, M.B.Emeneau 著「ドラヴィダ語語源辞典 度・和・英対訳版<逆引き可能>』(日本語版監修。きこ書房 2006) マーク・セバ「接触言語 ピジン語とクレオール語」(翻訳。きこ書房 2013) その他。
 
大野説の復活、万歳!


著者の田中孝顕氏は、自己実現や人生の作り方の本をたくさん出している人なので、大野先生の前向きな生きざまには大いに共感したのではなかろうか。(もちろん、大野説への理解・共感が根底にはあるはずだ。)そんなわけで、大野説に対して保守的な批判を繰り返すばかりで、真理に対する可能性をつぶしてまわる学者たちにがまんがならず、この際はっきり一言言っておく、という気構えで出したのがこの本だ。そういう義侠心から出た本なので、2200円という破格の安さなのだろう。とにかく、一人でも多くの人に読んでもらいたいとい気持ちで付けた値段設定だ。今時、これほど厚い本なら倍の値段はするだろう。
内容については、著者の学者批判は明快かつ具体的で説得力にあふれている。ふたたび大野説を舞台に引き戻すよい契機になるのではないか。ぜひ、多くの人にこの本を読んでいただき、日本語のなりたちについて一緒に考えていただけたらと思う。
さて、大野晋先生と批判派の学者たち、歴史に名を残すのはどちらか。私は、間違いなく大野先生の方だと思っている。
日本語はどこからきたのか―ことばと文明のつながりを考える 
大野 晋 (著)
 
日本語の起源 新版 (岩波新書) 新書 – 1994/6/20

大野 晋 (著)
 
日本語とはどこに起源を持つ言葉なのか.旧版(一九五七年刊)では答の得られなかったこの問いに,数多くの単語,係り結びや五七五七七の短歌の形,お米や墓などの考古学的検証,さらにカミ,アハレ,サビなど日本人の精神を形作る言葉の面から古代タミル語との見事な対応関係を立証して答え,言語と文明の系統論上に決定的な提起を行う.


1919‐2008年。学習院大学名誉教授。東京大学文学部卒業。国語学者。文学博士(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 源氏物語 (ISBN-13: 978-4006001971 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

日本がまとまりをもって見えてくる好著~壮大なパースペクティブと緻密な検証姿勢は学問の鏡か
 
日本は言語/文化/民族が多岐化しており、大野氏はその盲点を見事に衝いた衝撃的な事実を、
言語学会のみならず文化学会や民族学会にも突きつけたことになるでしょう。
本書の要諦はこういうことです:

即ち、従来日本語の起源に関して、アルタイ語説などがいわれてきましたが、
文法構造の類似性の割には単語レベルでの相互間識別状況や音韻との対応性の悪さのために、
決定打を欠いた状況にあったわけですが、南インドのドラヴィダ系タミル語を起源とすると、
古代日本語を核として古代日本文化も古代日本民族もひとつにまとまるというわけです。
即ち、北インドのサンスクリット(梵語)やその系列線上には実に多様な言語系統が乗ってくるのですが、
古代日本語はそのどれとも異なります。結局、日本の基層文化は仏教(仏教すら舶来品!)ではなく、
神道にあるという思想史的事実関係ひとつとってみても、頷ける点が多々あります。

形質人類学的なタミル人とのDNA相同性にせよ、文化人類学的なタミル文化との相同性にせよ、
古代日本語・古代日本文化・古代日本人という形でひとつにまとまる重大な契機を与えてくれた、
という点で本説はまことでしょう。

冒頭当方は日本は言語/文化/民族が多岐化している、といいましたが、
それは日本語が故地から離れ、日本列島内で独自の自閉と変化を辿ってきたがために、
やがて怒涛のように押し寄せてきた舶来文化の積極的輸入から文化変容を来たしたうえ、
人種的な混淆も進んだことから混成民族(クレオール)が形成されてきたのです。
即ち、言語・文化・民族なのではなく言語/文化/民族なのです。

そこで、大野氏は事態を逆に考えました。
いったんバラバラになった民族要素がひとつでありうる既成の民族を探り当てたわけであり、
それがほかならぬタミル人だったわけです。
タミル語と古代日本語の認識態様ひいては言語学的構造の同一性、
またタミル文化と古代日本からの農耕文化の同一性(田畠や墓所をめぐる文化形態に色濃く顕現している!)
そしてタミル人と日本人の人種学的同一性。この3つが揃う限り、日本人はタミル人を起源としている、といえるでしょう。
その意味で大野先生は言語人類学者であったといえましょう。

本例は学問論としても有意義です。即ち、言語学と人類学が対立していては何事も解決しないのです。
言語人類学として提携関係にある限り、難問が一挙に綻び、解決に向かうというものです。
そうした向きにはぜひ本書をご一読になり、日本語・日本文化・日本人について再考願いたく思います。
きっと日本という国・民族がまとまりをもって見えてくるに相違ありません。
もっと少なく読む
 
 
読み物としては面白い
 
国語学者大野晋がいわゆる「日本語=タミル語同系説」を提示した著作。
斬新な発想を裏付けようと少しずつ考証を重ねていく展開は半ばドキュメンタリーのようでもあり読んでいて楽しい。
ただし論証が丁寧かといえば微妙で、後に言語学的観点から色々な批判もあったらしい。
専門的なことは別としても、たとえば所々で「〇〇さんの祖父母の代にはこういう風習があった」みたいなエピソードが挿入されるのだが、数千年、数万年単位の仮説を論じているというのにせいぜいこの一世紀の間に消えた伝統のようなものを傍証とするのはあまりにも「現在」を特権化しすぎな気もする。
とはいえやはり読み物としては面白い。
読んで損をした気分にはならないと思う。
追記(2023/03/25):上の方のレビュー、何が言いたいのか全くわからない。素人の感想というのはなるほど事実ですが、その疑問「数万年単位の仮説を論じるのにこの一世紀ほどで消えた伝統のようなものを傍証とする手続きは正当なのか」に答える訳でもなくご自身の国文学研究科出身という経歴を披露するばかりでそれ以上のことは何も言ってくれていない。
後段の文化人類学云々も意味不明で、文化人類学の学的寄与が存在するからと言って、それを援用する者の主張が正しいことにはなりません。大昔に事典を買った、だからなんですか? 学会に参加したことがある、だからなんですか? 
総じて陳腐で蒙昧で権威主義的なポエムでしかないので、突っかかられた意味も分からず単に不愉快です。
 
 取り扱い注意本だが、お勧め本
 
先ず、タミルをタミールというは、スピットファイヤーをスーピットファイヤーと云うが如しで両者成立する。
些細なことに立腹は無用。選考レビューにあまり無いことを追加。
①四海千は、学習院時代の大野教授が1年間休職したのを、知っていたが、NHKがインドまで出向いて密着取材をしていたのは知らなかった。
②NHKの特番での大野の発言は、本書の内容と重なるのでNHKの番組を見て本書を読んだほうが、理解は深まるのだが。
③何が取り扱い注意なのか? 
本書p32,p202等に出てくる「タミル語大辞典」(1924-39年、マドラス大学編、全七巻4351ページ)が、超警告・注意なのである。
④四海千は貧乏だった30年前ー今でもビンボーだが、前記大辞典の抜粋辞典1冊(3万円もした)を買ってある。
既に村山七郎によって、全部英語で記述されているタミル語の見出しの英語訳の日本語訳が、大野の独断過ぎる日本語訳で捻じ曲げられているとの指摘を見る。
先行レビューに、読みものとして云々~は、失礼だが素人さんの感想で、国文科(日本文学科)大学院出身者としては、本書の内容をいずれも深刻に受け止めなければならない。
2023年現在で、日本の国文(日本文学)科および日本語学科の大学教員の99パーセントは、タミール語に無関心だが、縦割りの言語学科大学院出身者の中には、タミル語ばかりでなく、テルグ語ヤカンナダ語等の関心も高い。p29に出てくる藤原明教授と大野晋の国語学会(於筑波大学春季)での大喧嘩をただ見ていた者として、もう少しまともな議論ができなかったのか?と今でも思う。
④超お勧めの理由の第一は、本書が文化人類学の視点を持っているからだ。またゾロNHKの教養特集の話になるが、古事記・日本書紀の神話や風土記説を訓(よ)み解釈するには、東南アジアや台湾・中国大陸での文化人類学の資料を参照することは必須で、大野教授が云うように南インド地域を入れても良いと四海千は思えるようになった。中南米裸族の風習も入れてよい。
⑤ユング心理学の創設は、比較神話学者は、精神病理科医者の臨床を知らない、反対に精神病理科臨床医は、比較神話学のデーターを全く知らない、この欠陥を両者のデーターを共有することで、一例のみだが、太陽がペニスを垂らしていると云う精神病者と同類な太陽説話・神話類を創作した古代人部族の心理状態を、ユング学は類推する事ができるようになった。大野の文化人類学視点の主張は全く正しい。
⑥ただ、二者間(タミル語文化VS日本奈良時代語文化)のみの比較がかえって正確さを損ねてしまう場合もあることに注意をしなければならない。
長くなるからあと1例に留めるが「妻問い婚」は、中国黄河文明の勃興の漢民族は礼の思想から外婚制を建前としているが、中国少数民族(5千年ほど前は、少数でもなく今と居住地域も違ったが)は「妻問い婚」制が多い。すべて南インドに発すると結論付けるのは、疑問が多すぎる。
 
 
功罪相半ばする一冊


日本語の起源という日本語学最大のテーマに挑む一冊。
伝統的な国語学の範囲における係り、五七五七七の短歌の形,カミ,アハレ,サビといった単語の精神文化的研究は大変示唆に富むものであり、読むべきところが多い。

 しかしきわめて残念なことに、日本語の起源をタミル語と、比較言語学的な手続きを全く経ずに強引に結び付けているが、全く理解に苦しむところである。
大野氏の師である橋本進吉先生は草葉の陰でどう思われているだろうか。
 一部で「クレオール」という用語や概念を振り回す傾向があるが、クレオールを理解していないと言わざるを得ない。
近年の対照言語学や言語類型論の観点からも、タミル語以上に日本語との文法の類似性を見せる言語はすでに相当数報告されている。タミル語の文法のみを取り上げる理由はない。
また、いつ、どのようにしてタミル語をはなす人々が日本列島に到達したのか。また、その間に中間にあたる言語が存在しないのはなぜか。大野説に固執し、不要な論難を行い、これまでなされてきた誠実な言語学の努力や成果を侮辱する人々は以上のような疑問に答える義務がある。
 大野氏の文体は非常に流麗であるので、多くの人々には一見説得力があるように見えるようだが、比較言語学的にはほとんど意味がないものだと結論せざるを得ない。岩波新書という権威と入手のしやすさから、本書が多くの言語学の素人を惑わせているとすれば、その罪は重いといわざるを得ない。
 個人としての氏の逝去は悼むし、古典文法の功績について、評価すべき点について評価するのはまったくやぶさかではない。しかしもはや、なぜこのような「トンデモ」本が出版され、一定の認識を得るという悲喜劇が起こったのか、出版や学術研究のありかたや集団心理について解明する時期であろう。

 学術的なタミル語説の検討については、次のような書籍を読まれることを薦めたい。
堀井令以知 「比較言語学を学ぶ人のために」
村山七郎 「日本語タミル語起源説批判」
安本美典 「新説!日本人と日本語の起源」
 
 
本当は日本語に一番近いのはタミル語ではなく、ドラヴィダ諸語。
タミル語はドラヴィダ諸語の代表的一言語に過ぎない。
 
 実を言うと1981年に出版された藤原 明による「日本語はどこから来たか」という書物により日本語とドラヴィダ諸語の近縁関係が記述されており、それは正当な比較言語学的方法によりなされており、本物である。
個人的には決定済と確信している。
 一方、本書はウィキペディアを見ると分かるがタイトルの如く一言語のみと日本語を比較していることから、比較言語学者より批判を浴びている。
例えは悪いが英語との比較にラテン系言語であるイタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語の中からイタリア語のみを選ぶようなものである。
本書に藤原 明の記述もあり、知っていながら安易な方法を選択した理由が分からない。
 残念なことに藤原 明の書物は絶版となっていることから代用品として本書を読む以外に方法がないでしょう。(因みに藤原書はアマゾンでは古書3冊出品されているがいずれも8千円台)藤原 明の方は例の豊富さ、図解の豊富さ等で本書より数十倍の説得力がある。
 21世紀の今日、日本語起源論はドラヴィダ諸語との近縁関係で決着させるべく若い人が研究を継続してくれるというのが個人的熱望である。