利根輪太郎の競輪人間学 本命が突っ張り先行で自滅

2025年01月31日 21時59分44秒 | その気になる言葉

  GⅢ 高松競輪 万博協賛 玉藻杯争覇戦 2日目

10レース

9-1 2-5-6 3-7 4-8

レース評

レース評

結果2着も特選の犬伏は超強かった。主力分散の二次予選ならきっちり!番手は久米だが、杉森の絡みもいい。

2-5の3連単で勝負する。

だが、まさかの2番犬伏の先行となる。

1番人気2-5(2・4倍)

2-5で固いと思う。

これが競輪の落とし穴であった。

つまり、2番の3着も想定すべきであったのだ。

さらに、人気薄の「外枠は買え」の出目作戦もある。

競馬では8枠流しで美味しい馬券をゲットしていた。

肝心なことの出目作戦の本質を喪失していた。

食堂「さかえや」のお客たちの競輪談義で180万円の車券を買った人は、競馬で400万円の馬券も取ったと言っていた。

過去に、取手競輪で7000万円を払い戻した人のことが思い出されたのだ。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 8 簗田 一輝   11.4   中団3半鋭
2 5 久米 康平 1/4車輪 11.6   犬伏乗り交
3 2 犬伏 湧也 1/4車輪 11.7   SB 突張り先行
  4 6 福島 栄一 1/4車輪 11.5     先制3番手
  5 4 大塚 玲 1車身 11.4     簗田マーク
× 6 7 杉森 輝大 1車輪 11.1     最後方追込
7 1 星野 洋輝 1/2車身 11.4     3半切替も
8 3 吉田 有希 2車身 11.5     叩ず8番手
9 9 坂本 貴史 2車身 11.9     6番手捲ず
 
2

4=6
3,650円(10)
2

5=8
22,110円(24)
3

2=5=8
4,040円(12)


2=5
150円(1)
2=8
750円(12)
5=8
3,070円(23)
6-4
12,170円(20)
8-5
114,900円(59)
8-5-2
310,200円(219)

 

戦い終わって写真

 前受けした犬伏湧也が赤板から突っ張り先行。関東勢を出させず主導権を奪う。南関勢は終始、四国勢を追う形に。最終バックで坂本貴史が仕掛けてくると、簗田一輝が合わせながら出ていく。ゴール戦は逃げる犬伏、番手の久米康平、捲り追い込む簗田が横一線だったが、1着は簗田、2着に久米、犬伏は3着まで沈んだ。
 1着の簗田は「犬伏君が突っ張ってもカマシても前の方がいいなと思っていた。年末くらいから練習の感じは良かった。今年に入って成績も伴ってきたかな。上向いてきている」。
 2着の久米は「犬伏は2周行ってくれましたからね。本人は納得していないようだったけど風もあるし重かったから。僕は余裕もあったしいい。形も悪くなかったでしょう」。
 3着の犬伏は「二次予選でラインを連れ込んだ方が準決や決勝にチャンスが生まれる。みんなで勝ち上れたのは良かったけど、ワンツースリーでないと…。後ろの康平さんに抜かれるのは仕方ないとしても、南関勢に行かれるのは納得できない。最低限のレースはできたけど、まだまだ自分が甘い」。


外付け脳とは?

2025年01月31日 11時28分30秒 | 社会・文化・政治・経済

ネットの空間は、いわば外付け脳である。

個々人が自分で記憶するはずの情報や考えるための素材を脳の外に置いておける。

その意味で有用である。

だが、リアルな空間でないために、反社会的なことや非論理的なことも考えてしまう。

人間は洪水のような情報を使いこなせるほど成熟していない。

しかも、自分と同じ意見に賛同しがちとなる。

人は良いことより、強い刺激に惹かれる傾向がある。

人間は良くも悪くも、新しくて強い刺激に敏感に反応してしまう。

つまり、人間は自分を肯定したり、正当化したり、興奮させたりする。

「自分の都合」即した刺激だけを強く受け取ってしまう。

その典型が兵庫県知事選の結果とその後の推移に如実んみ表れている。

 

「IoTの膨大な情報を処理する外付けの“脳”を提供したい」

神近 博三  

日経テクノロジーオンライン

「モノのインターネットで膨大な情報が生み出されるようになると、人間の生まれ持った能力では処理しきれなくなる。そこで、その人の好み、習慣、TPOなどを総合的に判断して気の利いた提案をする仕組み、いわば外付けの“脳”を作ってしまおうとGoogleは考えている」。

 


人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ

2025年01月31日 11時09分03秒 | 社会・文化・政治・経済

ロバート・フルガム (著), 池央耿 (翻訳)

本当の知恵とは何だろう?

人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持で日々を送ればいいか、
本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。

人生を見つめ直し、豊かにする感動のメッセージ!
“フルガム現象"として全米の学校、企業、政界、マスコミで大ブームを起こした珠玉のエッセイ集、決定版!

ロバート・フルガム著
1937年生。牧師、作家。著書『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』『いったいぜんたい、どうしてこんなことをしてきたのだろうか。』『気がついた時には、火のついたベッドに寝ていた』 他。

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(じんせいにひつようなちえはすべてようちえんのすなばでまなんだ、英語:All I Really Need to Know I Learned in Kindergarten)は、ロバート・フルガム英語版によって著された書籍

1937年、 テキサス 州 ウェイコ 生まれ。

本の世界で有名になったフルガムさんにしてはやや意外なことに、少年期から青年期にかけては テキサスの荒々しいカウボーイ の世界で育つ。

若き日についた仕事も、工事人夫、新聞配達、 牧場のカウボーイ 、 カウボーイ・ショー の歌い手、 ロデオ・ライダー と、もっぱらその路線。

概要

1988年アメリカ合衆国で出版される。最初の1年で400万部を売り上げる[1]

日本では1990年河出書房新社から出版。日本語訳者は池央耿。世界103カ国で出版され、2004年時点で累計700万部[2]

日本語版発売から15年後には、新たに25編のエッセーを加えた『新・人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』が出版される[3]

内容

内容はエッセー集で、作者の若い頃からの習慣で毎年のごとにまとめている自らの生活信条

充実した人生を送るためには、幼稚園で教わったであろう事が重要で、生涯大切にするべき知恵であることを指示する[4]

ありきたりの金言集とは異なり、全ての子供が幼稚園で学んだだろう生活信条が、平易な言葉で記されている[5]

砂場で遊ぶことは社会性を学ぶことであり、遊ぶことによってコミュニケーションをとり、特に喧嘩をした場合に仲直りをするというのは大学などで学ぶことではなくて、幼稚園の砂場で遊びながら学ぶことであるとする[6]

行われている早期教育に対して澤口俊之は、自らの著書『幼児教育と脳』の中で『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』を紹介して、幼稚園の砂場で遊ぶことこそが、幼児教育の原点であるとする[7]

 

内容の一部 (P17-P18)

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものはかならずもとのところに戻すこと。
ちらかしたら自分で後片づけすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
 
保育所の発表会で保護者の方々へお伝えしました。
 
三つ子の魂100までといいますが、子供のころの経験や学習は人生の宝物。
そんな簡単で、大切な人生の哲学にあふれています。
 
 

 

 


矢内原事件 皇民化に反対

2025年01月31日 10時49分54秒 | その気になる言葉

矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年明治26年〉1月27日 - 1961年昭和36年〉12月25日)は、日本経済学者植民政策学者東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章無教会主義キリスト教の指導者としても知られる。長男は哲学者法政大学名誉教授の矢内原伊作、三男は経済学者慶應義塾大学名誉教授の矢内原勝

「国民は生まれかわらねば」

 

人物・生涯

青年期

愛媛県越智郡富田村(現・今治市[1]に四代続いた家系の医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟(望月信治)の家から兵庫県立神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に通学して卒業。1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。

中に無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。

ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。一高を出て大学に入る間の夏休みに、一人で富士山に登っている。1913年(大正2年)20歳の時であった[2]

壮年期

1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。同年5月友人のすすめで西永愛子と金沢で結婚式を挙げた。新居浜時代は新婚生活時代でもあった。翌年5月長男が生まれ伊作[注釈 1]と名付けた[3]

当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。

1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる[4]

彼は、学者になって何か社会に貢献することを神から示された道として決心した[5]

同年秋に欧州留学に旅立つ。イギリスドイツパレスチナ旅行・フランスアメリカなどへの留学を経て、1923年(大正12年)予定を早めて帰朝し、肺結核で療養中の妻を見舞った(妻は1か月半後の3月26日に24歳で死去)。同年教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。1年後、幼い子どもたちのことも考え堀恵子と再婚する。

矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。

前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。

その研究の結実の代表的なものが、各言語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。

このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。

矢内原事件

[編集]
矢内原の辞職を報じる『東京朝日新聞』

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌9月に「国家の理想」と題する評論を寄せた。

国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど、今日では日本でも常識化した民主主義の理念が先取りして述べられていた。

しかし、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。

また、同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演[6]の結語(「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」)も、不穏の言動として問題となった。

11月24日土方成美教授会で、矢内原の言論活動を非難した。結局1937年(昭和12年)12月に、事実上追放される形で、東大教授辞任[7]を余儀なくされた。

12月1日に辞表を提出、12月4日に退官。 1936年(昭和11年)6月20日に岩波書店から発行されていた『民族と国家』は、1937年(昭和12年)12月1日、矢内原が辞職した当日に内務省により発禁処分[8]。自費出版を試みるも1938年1月20日発禁処分。

辞職後は、『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行した[注釈 2]

毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行った。1939年(昭和14年)から土曜学校を開いた[9]

また、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。

1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している[注釈 3]

1945年(昭和20年)8月15日、矢内原は終戦の詔勅山中湖畔で聞いて、これから新しい時代がくるのだから、平和のために働かなければねばならないと感じた[11]

戦後

[編集]

敗戦後の1945年(昭和20年)11月4日東京帝国大学経済学部教授会は矢内原の復職を決定[12]

度重ねた要請で復帰した。辞職してからちょうど8年後であった。

休職になっていた大内、有沢、脇村らも復帰した。担当する植民政策論を国際政策論に名称を変更した。

その後1946年(昭和21年)社会科学研究所長、1948年(昭和23年)経済学部長、1949年(昭和24年)教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年(昭和32年)まで2期6年務めた)。

1952年(昭和27年)には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。

一方、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生(学生自治会委員長、学生大会議長、ストライキ議案提案者の3名)は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。

この原則を適用され退学処分を受けた者に、江田五月今井澄などがいる。

この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。

事件に関し衆議院行政監察特別委員会に東大学長として証人喚問された[13]

晩年

多磨霊園にある矢内原家の墓

退任後の1958年(昭和33年)に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。

1960年(昭和35年)11月、姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演している。

教会における最後の講演となった。

翌年の6月、東大教養学部学友会主催の講演会で「人生の選択」という題で東大生に対する最後のメッセージを残している。

同年7月、札幌市民会館において北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んでいる。

また、退職後は、学生問題研究所を創設し、その所長として学生の生活や思想の調査・研究に取り組んだ[14]

晩年の人生論に、1961年(昭和36年)NHK放送の「子供のために」の中で子供を大事にする思想的根拠として次のように述べている。

「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である」[15]

1961年(昭和36年)12月25日、胃癌のため入院先の東大伝染病研究所附属病院で死去[16]。68歳。

なお、法政大学名誉教授で著名な詩人矢内原伊作慶應義塾大学経済学部名誉教授・作新学院大学長の矢内原勝は子息である。矢内原家は、食事時に私語をせず厳格な忠雄を子息たちは恐れていたという。

没後、蔵書の一部が矢内原勝によって琉球大学附属図書館に寄贈され「矢内原忠雄文庫」となっている(1988年(昭和63年)に650冊、1995年(平成7年)に199冊)[17]

東大駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があった。

矢内原は東京大学教養学部長時代に、自身が一高時代に学んだ経験から、襟を正して正門からというノーブレス・オブリージュと正攻法を普段から学生たちに教えていた。

しかし、東大が「きけ、わだつみのこえ」世代の太平洋戦争からの帰還学生たちが社会主義を標榜した学生運動の全学ストライキ突入を行い、授業を行えなくなった際は、「特別に門以外の場所を通行してよい」と発言した。

そしてストライキの最中、向学心の有る諸君は特別に垣根を飛び越えて門のうちに来たれ、と学生に呼び掛けた。この門は今は「矢内原公園」にその名を残している。

エピソード

左から三谷隆信河合栄治郎、矢内原忠雄(1911年)

矢内原は一高基督教青年会・弁論部の先輩である河合栄治郎に男子学生同士の相思相愛の恋心を抱いており、「敬愛する河合さんと美しき赤城の上に清き生活を送らんとの念は馬鹿に強くなった。河合さんは、はじめて「忠雄さん」なる語を用ひられた」「星は一つも見えぬ暗い夜だ、運動場のゆるき傾斜に僕は河合さんに抱かれ夢の如く赤城の清き交りを思つた。

前面の人家も連山の如く見えた。あゝほんとに夢心地であった。

時間の観念も頭にない。眠くもない、さして寒くもない、恍惚としていた」と、16時間連続で抱き合って星を見ながら黎明の中始発の汽車の汽笛が鳴り始めるまで耳元で囁きあい、河合から「忠雄さん、あくまでもpureであって下さい。僕は君のpureなるを愛します」と言われ、語り合った幸福な思い出を日記に書き記している。[18]

矢内原は31歳の時、二番目の妻となる堀恵子に「あなた今頃はもうスヤスヤ御やすみでせう。鳩の夢でも御覧ですかしら。(…)今はねもう午前一時に近いのです。私今まで勉強して居りました。近処の松の山が風がゴーッとなつて居り、二階の雨戸もガタガタ言って居ますがそれが一層しづかさを増します。私こんな静かな時に一人居るのが一番うれしいのです。」と愛の手紙を書き送っている[19]

東大在学時代には雨の日曜日が好きであること、内村鑑三の柏木聖書研究会の帰りに「それに空の雲がすてきであった。水蒸気の豊富な雲が夕日の光を吸ひとつて赤く輝いた。

路の水たまりも為に赤くなつて居る。詩編第十九編、ラスキンの解釈を思ひ出した。」と手帳に書き記している[20]

矢内原と親交があった長谷川町子は、矢内原が長谷川の妹の結婚式と妹の夫の葬式の司式を務め、「(矢内原は)厳格なお顔の割に、可愛い物がお好き」であり、矢内原が晩年に入院した際には長谷川がクマの玩具を見舞品として贈ったと『サザエさんうちあけ話』の第29章で触れている。

 


子どもの自殺 SNS 孤立化影響か

2025年01月31日 10時37分23秒 | 社会・文化・政治・経済

解説】

小中高生の自殺者数過去最多 SNS・少子化・地域のつながりの希薄化…大人が作った決まりが生きづらさに?

1/29(水) 10:00 配信 日テレNEWS NNN 29日に厚生労働省が発表した去年の自殺者数(暫定値)は2万268人と統計開始以来2番目に少ない一方で、小・中・高校生は527人と過去最多に。

増加傾向にあるこどもの自殺、今のこどもたちをめぐる環境や傾向などを取材しました。

子どもの自殺減らすには…大切なのは“話を聴く”環境<#きっかけ解説>

■全体では過去2番目に少なくなるも小中高生は過去最多に…

厚生労働省が発表した暫定値では、去年、自殺した人は2万268人で、2023年より1569人減り、1978年の統計開始以降過去2番目に少ない状況です。

女性は6505人と2年連続の減少、男性も1万3763人と3年ぶりに減りました。

一方、小・中・高校生の自殺者は、2023年より14人増えて527人で、小・中・高校生の項目ができた1980年以降過去最多でした。

全年齢でみると、2023年と比べ、進路や友達との関係についての悩みなどの学校問題が理由の自殺が増加したほか、2022年から調査項目に追加されたSNS・インターネット上のトラブルを理由とした自殺は過去最多の42件でした。

■止まらないこどもの自殺増加 理由分からない状況

■「恵まれているのにこんな気持ちになってごめんなさい」今のこどもたちの傾向…

 

日テレNEWS NNN


ザイム真理教

2025年01月31日 10時18分21秒 | その気になる言葉

 

マンガ 日本を破滅に導くザイム真理教の大罪 


映画 ビフォア・サンセット

2025年01月31日 09時59分55秒 | その気になる言葉

1月31日午前6時からCSテレビのムービープラスで観た。

字幕の会話の連続であるので、目が好かれた。

ビフォア・サンセット

ALLTIME BEST

劇場公開日:2005年2月5日

 
 

ビフォア・サンセット』(Before Sunset)は、2004年アメリカ映画

1995年の『恋人までの距離』(Before Sunrise)の続編にあたり、監督のリチャード・リンクレイターと主演の二人(イーサン・ホークジュリー・デルピー)は前作と同じ。

映画内の設定と同じく、実際に前作の9年後に撮影されている。監督に加えて二人の主演俳優も脚本を手がけており、 第77回アカデミー賞脚色賞には3人がノミネートされた。

物語は、この二人の会話を中心に展開し、それ以外に物語に係わってくる登場人物は少ない。また、映画内の時間がほぼ現実の時間と同時進行するように作られている。

本作の続編は、2013年の『ビフォア・ミッドナイト』(Before Midnight)。

  • 撮影は15日間で行われた。
  • セリーヌの家に入る前に、話しかけてくる女性と、庭でバーベキューをする男を演じるのは、ジュリー・デルピーの実の両親で俳優のアルバート・デルピーとマリー・ピレ。
  • 監督と主演の二人は一作目のあとに『ウェイキング・ライフ』 (2001年)でも再び組んだ。このアニメ映画を作る過程で、3人で部屋にこもって、アイデアを出し合ったことがあったという。その作業が楽しく感じられたことが、この作品での共同脚本執筆につながった。現場で即興で加えられた部分もあるが、撮影前にお互いに長く話し合ったことで、脚本はほぼ完成した状態で撮影を行った。[4]
  • この映画の直後、イーサン・ホークは離婚したが、原因がこの映画にあるのではないかと疑われ[5]、ジュリー・デルピーにもインタビューが廻った際、彼女は「イーサンは役にのめり込むタイプだから……」と答えている[要出典]。さらにホークとデルピーが親密そうにしている写真等が出回ったが、ホーク側は家庭崩壊の原因がデルピーでないと語り、後にホークと子守のライアン・ショーヒューズとの不倫が原因であることが明らかになった。ホークとデルピーの噂は、元妻ユマ・サーマンとデルピーが犬猿の仲だったという話から飛び火したのではないかと言われている[要出典]

あらすじ

ウィーンでの出会いから9年後、あの一夜のことを描いた小説『This Time』で作家となったジェシーは、小説のプロモーションでパリの書店を訪れる。小説の結末は曖昧に終わっており、インタビューでは小説が実話であるなら、実際は再会できたのかと尋ねられる。答えをはぐらかすジェシーがふと横を見ると、そこにはセリーヌが立っている。驚くジェシーを見て、セリーヌはほほ笑む。

ジェシーはプロモーションの対応をそそくさと済ませると、店の外で待っているセリーヌのところへ向かう。再会を喜んだ二人は、ジェシーの飛行機が出るまでの間、秋のパリを歩き回ることにする。

9年前に再会を約束した12月16日に、ジェシーはウィーンを再訪したのだが、セリーヌはブダペストに住む祖母が亡くなったために、葬儀で行くことができなかった。その後、セリーヌはニューヨークに留学し、現在はグリーン・クロスの仕事に就いていた。ジェシーは結婚して男児の父となったが、妻との関係はうまくいっていない。セリーヌのほうも、交際して別れた男たちが次々と自分以外の女性と結婚したことに傷ついていた。会話を重ねるごとに、二人は9年前の出会い以来、互いを忘れられずにいたことを知る。

カフェに立ち寄り、観光客向けの遊覧船に乗って過去や近況、それぞれのパートナーのことを語り合ううちに、飛行機の出発時間は近づき、ジェシーはセリーヌを送迎車で家まで送ると言う。

セリーヌのアパートの前で二人は抱き合う。少しでも長く一緒にいたいジェシーは、部屋でセリーヌが作った歌を聴かせてほしいとせがむ。

セリーヌはギターを弾きながら、ジェシーへの想いから作ったワルツを歌う。

もう一曲とせがむジェシーをセリーヌは拒み、カモミール・ティーを淹れる。

お茶を待つ間、ジェシーはプレイヤーでニーナ・シモンのCDをかける。セリーヌは『ジャスト・イン・タイム』に合わせて踊りながら、シモンの口調を真似て「飛行機に乗り遅れるわよ」と言う。ジェシーは「知ってるよ」と答える。

キャスト

役名 俳優  
ジェシー・ウォレス イーサン・ホーク  
セリーヌ ジュリー・デルピー  
書店員 ヴァーノン・ドブチェフ  
中庭の女性 マリー・ピレ  
バーベキューをする男 アルバート・デルピー  
ジャーナリスト ルイーズ・レモワン・トレス  
ジャーナリスト ロドルフ・ポリー  
フィリップ ディアボロ  
船の係員 デニス・エブラール  

劇中歌

オープニングで流れる「An Ocean Apart」、セリーヌの部屋で歌われる「A Waltz For A Night」と、エンドロールで流れる「Je T'aime Tant」は、演じるジュリー・デルピーが作ったもの[3]

部屋でかけるCDはニーナ・シモンの「Just In Time」。

  • 撮影は15日間で行われた。
  • セリーヌの家に入る前に、話しかけてくる女性と、庭でバーベキューをする男を演じるのは、ジュリー・デルピーの実の両親で俳優のアルバート・デルピーとマリー・ピレ。
  • 監督と主演の二人は一作目のあとに『ウェイキング・ライフ』 (2001年)でも再び組んだ。このアニメ映画を作る過程で、3人で部屋にこもって、アイデアを出し合ったことがあったという。その作業が楽しく感じられたことが、この作品での共同脚本執筆につながった。現場で即興で加えられた部分もあるが、撮影前にお互いに長く話し合ったことで、脚本はほぼ完成した状態で撮影を行った。[4]
  • この映画の直後、イーサン・ホークは離婚したが、原因がこの映画にあるのではないかと疑われ[5]、ジュリー・デルピーにもインタビューが廻った際、彼女は「イーサンは役にのめり込むタイプだから……」と答えている[要出典]。さらにホークとデルピーが親密そうにしている写真等が出回ったが、ホーク側は家庭崩壊の原因がデルピーでないと語り、後にホークと子守のライアン・ショーヒューズとの不倫が原因であることが明らかになった。ホークとデルピーの噂は、元妻ユマ・サーマンとデルピーが犬猿の仲だったという話から飛び火したのではないかと言われている[要出典]

 


歌手にご祝儀

2025年01月31日 03時40分15秒 | 日記・断片

ベテランの演歌歌手がカラオケスナック店に来た。

「挨拶にきた」と来店も名目を告げていた。

そして5曲を歌。

出演料はなしなので、心ある人がご祝儀を出す。

1番多い人は5万円だった。

さっちゃは2000円。

15人が居ても、ご祝儀をだしたのは、4人だった。

マンションを経営し、駐車場も所有している金持ちは「5万円じゃ、少ないかな、もっと出そうか」というので、知人の一人が「もう、いいんじゃないの」と言うのだ。

「お金持ちがいるものね」と目を丸くする人も。

1300円か1500円で遊べるカラオケスナックである。

カラオケボックなら500円。

 

 


1930年代 日本がイギリスと同盟を結んでいたら?

2025年01月31日 02時58分56秒 | 社会・文化・政治・経済

日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本(大日本帝国)とイギリス(大英帝国)との間の軍事同盟(攻守同盟条約)である[1]。

1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸(ランズダウンハウス(英語版))オーバルルームにおいて調印された[2]。

その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した[3]。

歴史
清の利権争い

小村寿太郎

ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)

林董
→「清 § 半植民地化・滅亡」も参照
1895年(明治28年)の日清戦争で清が日本に敗北して以降、中国大陸をめぐる情勢が一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清国政府はロシア帝国とフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目になったが、これをきっかけに急速に列強諸国による中国分割が進み、アヘン戦争以来のイギリス一国による清の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊した[4]。

とりわけ、シベリア鉄道の満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や華北への進出は激しかった[5]。フランスもフランス領インドシナ(現在のベトナム)から進出して雲南省、広西省、広東省、四川省など、華南を勢力圏に収めていった。ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携しており、華北を勢力圏とするロシアと連携してイギリスが挟撃される恐れが生じていた[6]。

これに対抗してイギリス首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは、清国の領土保全(英語版)を訴えることで、露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに、1896年(明治29年)3月にはドイツ帝国と連携し、露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで、英独両国の清国内における権益を認めさせた[7]。

また、これに先立ち、同年1月にフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これにより、フランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した[7]。

独露の進出阻止
1897年(明治30年)に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ帝国軍が清に出兵し膠州湾を占領、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵は、ドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて始めは歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及び、ドイツへの警戒感も強めた[8]。

1898年(明治31年)に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、武力侵攻によって清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした[9]。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけ、「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限付きで山東半島の威海衛をイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために、山東半島をドイツの勢力圏と認めざるを得なかったが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとっては大きな痛手であった[10]。植民地大臣のジョゼフ・チェンバレンはこの年、イギリスが「栄光ある孤立」の政策を続ける限り、清国の運命はイギリスの利益と願望に反したかたちで決まるだろうと演説し、クリミア戦争のときのように、いずれかの強国と軍事的に連盟することが今後必要になるはずだと訴えた[11]。

1899年(明治32年)に入った頃には、ロシア帝国主義の満洲と華北全域の支配体制はより盤石なものとなっており、ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった[12]。さらに、1900年(明治33年)に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した[13]。ロシアは満州からの撤兵を約束したが、なかなか実行せず、むしろ南の朝鮮半島(大韓帝国)にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた[2]。

同盟締結
この頃、日本の政界では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らは、ロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断し、イギリスとの同盟論を唱えた。

結局、日露協商交渉[14]は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、1902年(明治35年)1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった[2]。

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ、戦費調達[15]等で日本を大いに助けた。

また、日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった[16]。

第二次同盟

1906年、英国使節コノート公アーサーの手でガーター勲章を佩用する明治天皇
第一次同盟は1902年(明治35年)1月30日から起算して5年間有効とされた。しかし、締結2年後に日露戦争が開戦し、戦況が日本軍の優勢となったことが英国内で報じられると、英国では同盟拡張などの唱道者も現れた。第一次同盟に調印したランズダウン英国外相は、1905年(明治38年)3月下旬に、在英国日本国大使館初代大使にして特命全権大使となった林董を介し、同盟継続について準備協議を希望する旨を日本側に打診した。これを受けた日本側は協議を進め、日本政府が同年5月24日に閣議で裁可した新交渉案を英国に提示し、両国の事前交渉が始まった。

イギリス側は同盟の適応範囲をインド(イギリス領インド帝国)まで拡大することを希望したが、新たな戦争に巻き込まれたくなかった日本は難色を示した[17]。両国間で更なる協議が進められた結果、第一次では適用範囲が東亜(清韓両国)とされていたが、第二次日英同盟では東亜にインドを加えた適用範囲に拡大された。また、大韓帝国については、国際情勢から第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結し、第一次日英同盟での「防守」を主軸とした内容が、第二次では「攻防」へ変更された。

英国側はランズダウン外相、日本側は小村外相がポーツマス条約の事前交渉で渡米していたことから、在英国日本国大使館の林特命全権大使が出席調印し、8月12日にロンドンで第二次日英同盟が締結された。第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と、清国に対する両国を含む列国の商業的機会均等を肯定し、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた攻守同盟に強化された[17]。日本の大韓帝国の保護国化をイギリスが承認する条件で妥協した。また、同盟の有効期限が10年間へと変更延長となった。同条約は、ポーツマス条約締結後の同年9月27日に両国で公表されている。

第三次同盟
1909年(明治42年)、アメリカ合衆国国務長官のノックス(英語版)は東清鉄道中立化提案(満州の全鉄道を清国に返還し、列国の管理下に置こうとするもの[18])を行う。一方日本は、翌1910年(明治43年)第二次日露協約を成立させて両国の関係の調整を進展させた。日米対立の機運の醸成の中、英米間で総括的仲裁裁判条約締結の気運がおこると、これと日英同盟協約との関係の調整が問題となった。そこで1911年(明治44年)新たに第三次日英同盟が成立した。この改訂協約においては、締約国の一方が第三国と総括的仲裁裁判条約を結んだ場合、その締約国は前述の第三国と交戦する義務を負わないことを規定していた。これによって、アメリカ合衆国をこの同盟の対象から除外した[19]これは日本、イギリス、ロシアによる中国での権益拡大を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。ただし、この条文は「自動参戦規定」との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかった。そのほか、前協約から韓国(大韓帝国)に関する条項、およびインド国境防衛に関する条項が削除された[20]。さらに、同年に発生した辛亥革命に対する日本の行動にイギリスは同調せず、官軍と革命軍の仲介を図ったため、日本側はイギリスに不信感を持ち、両国にとって条約の重要性は低下した[17]。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。(第一次世界大戦下の日本も参照)

同盟解消
第一次世界大戦後の1919年(大正8年)に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国(米・英・仏・伊・日[21])」の利害対立が表面化し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残った[22]。1921年(大正10年)には、「国際連盟規約への抵触」「日英双方国内での日英同盟更新反対論」「日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑」「日本政府の対米協調路線」を背景にワシントン会議が開催される。ここで、「日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約の締結」および「日英同盟の更新は行わない事」が決定となり、1923年(大正12年)を以って「日英同盟」は前述「四カ国条約」へと移行(拡大・希薄化)した[23]。

「拡大」とはいっても、これは、日英以外の新たな条約加盟国となった「アメリカ」と「フランス」の同意が得られない場合、当然、機能不全となるため、実質的には弱体化であったと言える。当時のイギリスの外相アーサー・バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を(実質)破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を吐露している[24]。後年ヘンリー・キッシンジャーは、四カ国条約を「遵守されなくても如何なる結果ももたらさない条約」と評した[25]。

新日英同盟
→詳細は「日英円滑化協定」を参照
2023年(令和5年)1月12日、日本と英国は新たに日英円滑化協定を締結した。これは、日英の部隊が共同訓練などで相手国を訪問した際の法的地位などを定めた協定で、出入国時の査証(ビザ)申請要件免除や派遣国の運転免許証の有効化、活動時の武器弾薬の所持許可などを盛り込んでいる[26]。

つまり、それぞれの軍隊(自衛隊・イギリス軍)が他方を訪問する際の面倒な入管などの手続きを簡素化することによって、それぞれの軍隊の協働する作戦が円滑に行うことができる。これをうけて、英首相官邸は「日英同盟を締結した1902年以来、最も重要な日英間の防衛協定」と発表した[27]。事実上の日英同盟復活と言われている。協定の目的について、英国軍の日本領土駐在を認めていることから、インド太平洋での日英両軍の大規模な展開だとしている[28]。

この背景について、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)の秋元千明日本特別代表は、ロシアや中国の覇権主義的な動きと米国の存在感の低下に触れながら「米国だけで中露両国に対応できなくなった。補完役を果たすのが日英。米国を加えた三国同盟が目指されている」と語る。また英国側の視点として、返還後の香港での民主化運動の弾圧などを通じ「中国への警戒心が高まった」と指摘。「ブレグジット(EU離脱)で欧州から解放され、インド太平洋への関与を強めている」と話す。今後、航空自衛隊戦闘機の英国派遣など、関わりが深まると予測しつつも、単純な「日英同盟の復活」という見方には異を唱える。「一緒に戦争する攻守同盟が復活するわけではない。相手を縛らない緩やかな協力だ」とし、中国を過度に刺激しない英国の姿勢を強調している[29]。

なお、日英両国による共同訓練自体は、協定締結以前から行われている。2018年(平成30年)には既に、陸上自衛隊が米軍以外とでは初となる国内における陸軍種間の共同訓練を英陸軍との間で実施している。9月30日から10月12日までの間、日英両参加部隊は、長距離隠密偵察及び統合火力誘導に係る訓練を、富士学校、北富士演習場及び王城寺原演習場で行った[30]。2019年には、陸上自衛隊として初めて英国へ訓練部隊を派遣し、英国における英陸軍との実動訓練「ヴィジラント・アイルズ19」を実施した[31][32]。


人間革命の理念

2025年01月31日 02時50分29秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

人間革命 (にんげんかくめい)は、 創価学会 の 戸田城聖 (第2代会長)によって唱えられた宗教思想 。

その意味は、自分自身の生命や境涯をより良い方向へ 変革 し、人間として成長・向上を目指すということである。

さらに、各個人が「人間革命」を遂げることにより、社会全体の変革さえも可能であると説かれている 。

戦争をするのは人間である。

ゆえに戦争をなくすためには、人間の心に平和の砦ろ築くのである。

人間革命とは、究極の平和思想であり、人間主義、つまり生命尊厳の理念にほかならない。


エナジートロン ウェルネスブランドを展開

2025年01月31日 02時12分04秒 | 医科・歯科・介護

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