ヘブライ文化研究者小辻節三
2019年ロサンゼルス講演:小辻節三を世界に
――「諸国民の中の正義の人」賞への挑戦 ――
広瀬佳司
「ユダヤ人」という言葉は日本人にはあまり馴染がないが、スピル
バーグ監督、画家マルク・シャガール、物理学者アインシュタインなど、ユダヤ人の名前は意外に知られている。
その八面六臂の活躍ぶりはノーベル賞受賞者数にも明らかで、世界人口の0.2%のユダヤ人がノーベル賞受賞者数では、ほぼすべての分野で2割を超えるから驚きだ。
その成功は主に教育重視という伝統に因る。この点では日本人と
も似ているかもしれない。「日本人はユダヤ人の子孫である」という言説が、まことしやかに囁かれた時もあった。
米国ユダヤ社会や、イスラエルにおいて日本人は好感を持たれてい
るようだ。ユダヤ系アメリカ人の友人でも、日本人女性と結婚してい る人が少なくない。日本は神道と仏教を同時に信仰する稀有な多神教 国家である。
そのために、異なる宗教文化も抵抗なく日本文化に取り 込んでしまう。例えば、キリスト教でもないのに、クリスマスやイースターを盛大に祝う。
キリスト教国ではない日本では、ユダヤ人迫害が起こった歴史もなく、ユダヤ人に対する感情的なしこりもない。
歴史的に見れば、19世紀末から20世紀初頭までユダヤ人社会が長崎に存在していた。事実、 坂本国際墓地の一角にはヘブライ語で記されたユダヤ人墓石が並んでいる。
また、日露戦争(1904-05)で弱小国家日本の経済面を支えて くれたのもユダヤ系・米国投資銀行のジェイコブ・シフである。シフは、その貢献が認められ、明治天皇から1906年に勲一等旭日大綬章 を授与された。
それではユダヤ社会からみて、彼らに貢献した日本人は誰かといえ ば、最初に杉原千畝(1900-1986)(すぎはら・ちうね)の名前が挙がる。
杉原は、第二次世界大戦中に、ナチスに追われた多くのポーラン
ド系ユダヤ難民に「命のビザ」を発行し、結果的に多くのユダヤ人を 救った。今では、米国のどのホロコースト記念館にも、杉原の功績を 展示するコーナーが設けられている。だが、杉原の日本通過ビザだけ で多くのユダヤ難民が救われたわけではない。
ユダヤ難民救助の鍵を握るのが小辻節三博士(1889-1973)であった。
京都下賀茂神社の宮司の子孫として生まれた小辻は、十日間有効の
日本通過ビザを携え来日した4600人を超えるユダヤ難民の日本
通過ビザを、当時の外務大臣(松岡洋右)の助言を受け数か月にも延 長した。そればかりか、ユダヤ難民を経済的にも援助し、ほぼすべての難民を希望する国々へ送る支援をしたのが小辻であった。
まだ、日 本ではほとんど知られていないこの稀有なヘブライ語学者の貢献と その情熱は注目に値する。
2019年3月22日に成田を発ち、日本航空のビジネスクラスでロサンゼルスへ飛んだ。今回は在ロサンゼルス日本総領事館主催、サイモン・ヴィーゼンタール・センターと日米文化会館が協賛して、寛容博物館で実施されたビッグイベントである講演会「AFTER SUGIHARA: SETSUZO KOTSUJI’S AID TO JEWISH REFUGEES」(27日)に講師として招かれ、貧乏学者が経験する初めてのビジネスクラスの旅である。確かに座席は広く食事もよい。夜はゆったりと横になって寝られるからあまり腰痛もなくロサン
ゼルスに到着できた。講演までに体調を整えようと公式行事が始まる4日前に私的にロサンゼルスへ向かった。予定通り旧友がロサンゼルス空港で出迎えてくれた。
カルフォルニア州が全米でも日本人人口はトップの26万人(米2010年国勢調査)で、ロサンゼルスの日本人人口は2010年では10万人を超えていたが、次第に減少し現在は9万人(2017年10月現在)前後であるが、ロサンゼルスがアメリカで日本人の最も多い都市であることは間違いない。
庶民的なニュー・ガーディナ・ホテルは、日本人が多い地区に立っている。ゆったりとした部屋で海外初のウォシュレット付日系ホテルだ。欧米ではどんな高級ホテルでもウォシュレットは付いていない。
ただ、一つ困ったことは、ポットも湯沸かし器もないことだ。おまけにペットボトルの水もない。友人が気を利かして炭酸水を何本も持ってきてくれた。
ニュー・ガーディナ・ホテルの周りには日本人向けの小さなショッピングモールがあり、日本人が多い。朝から日本食ばかりである。欧米社会に身を置き、日本文化の中で生活したのはこれが初めてで少し奇妙に感じたが、日本料理屋さんで出された信州蕎麦がとてもおいしかった。
蕎麦定食は15ドルほどなので、アメリカでは手ごろな価格である。ホテルのフロントで働く人々もほとんど日本人で日本語しか聞こえてこない。
ガーディナ地区はその昔、日本からの移民たちが庭師をしていたのでついた名前のようだ。
友人と蕎麦屋で食事を終えて帰ろうとすると、「広瀬先生」と後ろから追って出てきた若い女性が声を掛けてきた。振り向むくと十数年前にノートルダム清心女子大学を卒業した私の元ゼミ生であるから驚きだ。
偶然というのはあるものだ。本当に世界は狭い。ひとしきり話してから、今回の講演会の事も話すと是非参加させていただきたいという。永住権を既に取得し、日本人向けの塾を経営しているようだ。
あっという間に22日~26日までの快適なロサンゼルス日本社会での日々が過ぎた。26日午後にガーディナ・ホテルを後にして日本領事館が予約してくれたロサンゼルス中心街の豪華なホテルへ移動である。ホテルに入ると日本人の姿は全くない。
少数の富裕層の中国人らしき人以外は金髪碧眼の白人世界なのだ。アメリカ社会独特な住み分けかもしれない。
前日、領事館の小林大和(やまと)領事から連絡が入り、詳細な講演会当日のスケジュールが届いた。明日は文字通り分刻みのスケジュールが組まれている。
作るのも大変だろうと思う。やはり、公的な講演会は綿密に計算されたプログラムである。ロサンゼルスに在住の世界で講演活動をしているピアニスト平田真希子さんの演奏で会が始まる。私の講演前には、1分刻みの挨拶が続く。
明日はどれほどの人たちが訪れるのかはわからないが大変な催しになるのは理解できた。それと共に私の緊張感も高まる。
インターコンチネンタル・ロサンゼルス・センチュリーシティに着いて2時間ほど休むと、領事館の車が迎えに来てくれて27日の講演会のリハーサルのために会場へ向かう。
ここで、数時間前に到着したばかりのもう一人の演者である俳優であり、小辻節三の研究家でもある山田純大さんと合流した。
まだ若い純大さんもさすがにお疲れの様子。映画の撮影を終えてすぐに日本を発ったようだ。
講演では私がまず杉原千畝・小辻節三に関係する歴史的、思想・宗教的な背景を説明し、今までの解釈では不十分な点を指摘し、ユダヤ人救助者である二人の日本人の接点をまとめて講演する。
純大さんは小辻家との個人的な関係を紹介することになっていた。
サイモン・ヴィーゼンタール・センターが運営する寛容博物館内の大型シアターでパワーポイントの資料を実際に映し出してセンターの技師と事前調整をした。さすがにプロ中のプロはお手並みが素晴らしい。そこで、当日の司会をされる館長のリーベ・ゲフト氏とも打ち合わせをする。
1時間ほどのリハーサルが終わり、総領事官邸の歓迎晩さん会に向かった。
千葉明総領事ご夫妻の住む官邸は閑静な高級住宅地にある大きな邸宅であった。日本国の威信を示す場所でもあるので当然かもしれない。裏庭にはプールもあり、広い庭園ではガーデンパーティもしばしば開かれるとのことであった。
その夜は、総領事ご夫妻と、ピアニストの平田さん、山田さん、領事の小林さんと私であった。お刺身料理から始まる豪華な日本食で
あった。私などには、日本でもいただけない高級料理である。
なんでもカルフォルニアで有名な日本料理人が準備してくれたものであるらしい。
料理もさることながら、今回のテーマであるユダヤ人社会の特質や、イディッシュ語ユーモアなどの話が中心になり、ご夫妻も興味深く微笑を浮かべながら私の話に耳を傾けてくれた。
日本総領事館でも初めての話題であったと思う。私も主賓として皆さんに何か喜んで頂けることが話せてよかったかなとも考える。奥様である裕子さんの話だと、官邸の周辺には正統派のユダヤ人のコミュニティがあり、しばしば黒装束の人々の姿が見受けられるという。
つまり、富裕なユダヤ人たちが住む安全な一角であるということだ。
純大さんの話だと、イスラエル政府が小辻節三の「諸国民の中の正義の人」賞授与へ積極的に動いているようだ。また純大さんも個人として、そのための資料を色々とイスラエル大使館に提供しているとの話であった。
日本においては、純大さんが小辻節三の研究の第一人者である。忙しい俳優業をしながらも、そうした研究や運動を推進している彼の情熱には頭が下がる。
小辻の長女である高齢のメアリーさんも純大さんに小辻の残したものをすべて譲っているという。絶対的な信頼を得ているのが山田純大という人物である。
その純大さんの話だと、この名誉ある賞を与える「ヤド・ヴァシェム」(ホロコースト記念館)は審査が非常に厳しく、小辻さんの推薦は過去3回退けられたという。単なる名誉の賞ではないらしい。「危険に身をさらし、ユダヤ人を救済した」ことが証明されないと認められないのだ。
外務省は、そうした状況を踏まえて今回の大きなイベントを企画したのだろう。
美味しいお酒もいただき、部屋の全員が思い思いの話を披露し、とても和やかで楽しいひと時であった。しかし、純大さんと私に与えられた使命の重さを考えると、嵐の前の静けさとでもいうべきかもしれない。
私も、純大さんも明日の講演の事を考えやや緊張していたのは事実だ。
27日当日はあまり寝られず、2時間ごとに目が覚め、結局朝の4時にはベッドを出て原稿の最後の仕上げをした。また予想される質問への答えも 入念に準備し直した。朝食もとらず水だけを飲み、ホテルへ迎えに来てくれる総領事館の公用車の到着を待った。純大さんもお疲れの様子だったが約束の時間には姿を現した。11時から再度会場での打ち合わせをする。
講演会は開場が午後6時30分であった。それまでに最終チェックを終えて 昼食の予定だった。ところが、私に一つ困ったことが起きた。当初、原稿を 持ちながらのスタイルで準備していたが、パワーポントを使用するために会 場の灯りが落とされていて、演台のテーブルには小さなライトのみである。
そのために、純大さんのようにコンピューター原稿をそのまま読む方法に切り替える必要性がでてきた。結局、昼食を急いで終えてホテルへ戻り、2時 間ほどコンピューター上の原稿を発表用に整理をし直した。
その作業が終わる頃には午後5時近くなり、仮眠の時間などない。目薬を用意していたのがせめてもの救いであった。
そのまま会場入りをした。不安なのは、準備の 段階で紙媒体の原稿に色々とメモをしておいたのが、コンピューター上にはそれがない。かなり焦る自分があったが、もうこれはどうしようもない。
いよいよ開演である。平田さんのピアノの演奏(ショパン:「エオリアンハープ」)で講演会が厳かな雰囲気で始まった。日本総領事の千葉氏の挨拶、 日米文化会館・最高責任者である日系の望戸(もおこ)リキオ・ダレン氏の挨拶、それからサイモン・ヴィーゼンタール・センターの副館長であるラビ・クーパー氏の挨拶と続いた。
その後で、いよいよ私の講演の順である。呼び出しを受けて、高い演台 講演が始まると少しずつ落ち着いた。準備していたイディッシュ語ジョークもきちっと決まって、220余名の聴衆からも大爆笑を誘った。
この笑いが大きな波となり、私を最後まで運んでくれた。講演後もしばらく拍手が鳴りやま なかった。演壇を降りると、ラビ・クーパー氏が満面の笑顔で私を迎え、「素 晴らしい講演でした!」と強く手を握った。
私の後で演台に向かう純大さんの表情にも緊張が見て取れた。海外では 初めての講演であるという。
始まると、小辻本人や小辻が二人の娘と写った個人的な写真がスクリーンに映し出され、小辻家と親しくないとできない思い出話が披露された。
そのために、会場の人々もとても和やかな雰囲気になっていくのが感じられた。
演台を降りてきた純大さんの表情にも満足感が浮かんでいた。そんな彼と私は固く握手を交わした。こうなると二人は戦友である。
二人の講演が終わり、再び平田氏のピアノ演奏で会場は少し緊張がほぐれた様子である。その後で、寛容博物館のリーベ・ゲフト館長に続いて、私と山田氏、それに山田氏の通訳者が舞台に戻った。少し気がかりな質疑応答の時間だ。最初に、ゲフト氏は私たち二人が、いかにして小辻のテーマにたどり着いたのかを尋ねた。
私はホロコースト研究の一部としてユダヤ人救助者の研究に入ったことを述べた。いわばユダヤ人側からのアプローチである。
山田氏は、ペパーダイン大学(ロサンゼルス)の学生の時に杉原千畝の話に興味を抱き、進めていくうちに小辻節三にぶち当たり、それから小辻のお嬢さん方にコンタクトを取り研究に入ったということを詳細に説明した。
このあとで会場から様々な質問が出たが、そのうち二つほど答えに窮するものがあった。一つは、杉原にビザを発行してもらい、団体で日本に来た350
人のミール・イシヴァー(ラビ養成神学校)の学生はいつ、どうやって上海に移って行ったのかということである。
大まかには41年に神戸を去り、上海へ移り、そこからアメリカやイスラエルへ移ったことはわかっているが、諸説があり純大さんも答えづらかったと思う。
すべてユダヤ難民の口述証言によるために個々人により異なる場合
が多い。
もう一つは、かなり意地悪な政治的な質問である。純大さんが当時の様子を伝えるために日本軍が行進する写真を何枚か画像に挿入していたことに関している。
中年の男性が、「日本人はユダヤ人問題では功績は認められるが、他の民族への対処の仕方はどうだったのですか?」と質問してきた。明らかにアジア諸国での日本軍の残虐行為への批判を込めている質問である。
まとも に応えればさらに厄介な質問が飛んでくるだろう。そのことが想定できたので、これは私が受けて立った。
「今回は、ユダヤ難民の救助者の話をしていますが、それはたまたま私がユダヤ人問題を専門にしているからです。なぜそこに焦点を当てることが大 切かということは、民族間の偏見をなくすためには深くお互いの民族を知ることが大切だからです。
私には他の民族間の問題は専門にしていないので無責任な分析はできません。しかし、偏見をなくすためには、具体例を示すことが非常に大切だと私は思います。
そうした意味で今回は日本人とユダヤ人の関係に絞ってお話をしているのです。だからと言って他の問題があることを否定するという意図はありません。
アメリカを始め、今多くの国々で人種間の偏見から大きな問題が起きています。この講演会が、そうした問題を考える一助になれば幸いです」と答えると、質問者はそれ以上何も言わなかった。
30分ほどの質疑応答後、二人が深々と頭を下げると聴衆から私たちにスタンディング・オベーションが送られた。ありがたい喜びの瞬間であった。
講 演会の終了後に催されたレセプションで、千葉総領事が私のところに来ら れて、「やはり、先生が昨日言われていたような意地悪な質問が出ましたね。
先生のお陰でうまく行きました。本当にありがとうございました」とお礼を述べられた。総領事も気になった質問だったのであろう。しかし、毎回思うことだが、海外での講演会での醍醐味は、そんな質問がきたときに質問者の意図を的確に捉え、瞬時に判断しうまく対処することである。
緊張はするが、 一種楽しみでもある。日本では決して味わえない真剣勝負のようなものかもしれない。
翌日28日、昼過ぎに帰国する私の便に合わせて総領事館の公用車が8時に迎えに来てくれることになっていた。しかし、空腹で、早朝から目が覚めてしまっていた。
昨夜は、講演会が終わってからも日本とアメリカの新聞記者の方が10人ほど来てくれて、その対応で40分ほどの時間を費やした。
私たちの講演に強い興味を抱いてくれたようだ。そのためにレセプションが終わる20分前にしかレセプション会場に行くことができず、会場に行った時には食べ物は180人ほどの客たちによってきれいになくなっていた。
チーズひとかけらも残っていない。しかし、私のゼミの卒業生や千葉総領事と話せたことは意義深かった。
7時30分にはチェックアウトを済ませ、ロビーで公用車を待っていると後ろから「おはようございます!」という声が聞こえた。純大さんだ。風邪をひかれている様子で、「先生、近づかないでください」と手のひらを見せた。
純大さんは、もう一日当地に留まり、翌日の便で帰国予定なので早朝から起きる必要はなかったが、義理堅く挨拶だけはと来られたのだ。芸能界という、上下関係の厳しい世界に身を置かれているせいかもしれない。
しかし、それだけでなく、躾の行き届いた方である。そこで昨夜の反省事項を二人で話した。例の政治的な質問に対する対処の仕方なども話した。
これから純大さんはアメリカで講演をすることが多くなるであろう。老婆心からのアドバイスである。純大さんは、深くうなずきながら黙って私の話を聞いてくれた。
本当に素直で思慮深い人だ。これからも、彼の様に信念を持ち、世界で活躍してくれる若い日本人が増えてくれることを心から望んでいる。
この講演会を機に、数度の打ち合わせを通して山田純大さんのような若い方と知友 になれたことは、このイベントで得た私の財産でもある