ヴォルフガング・シュトレークも論じているように、高度成長が終わった70年代から、資本主義システムはケインズ的な再分配重視の政策のままでは自らを存続させることができなくなり、延命のために規制緩和と金融化を推し進め、同時に国家の債務の累積が起きましたがそれは「時間稼ぎ」でしかなく、その帰結がリーマンショックでした。
それも国家や中央銀行の介入によってなんとか脱したように見えますが、単に負担を外部に転嫁し危機を先送りにしたに過ぎません。
そもそも資本主義と民主主義には本質的にズレがあり、双方が「幸福な結婚」をしていた高度成長時代がむしろ例外的なのです。
資本主義は自らが存続の危機に陥ると、民主的な公平性を振り捨てて資本の自由のみを優先するようになり、今の民主政治の危機に至ります。
今世界を覆っている政治の混乱も、根本的な原因は資本主義市場経済の行き詰まりにあるのです。
中世と近代の間に「近世」という移行の時代があったように、今は近代と次の時代の間の移行の時代だと考えています。
資本主義へ問題意識をもっているという点では(彼とは異なる角度からですが)、斎藤さんと同じです。
しかし、その解決策として、生産を社会的な計画のもとに置くアソシエーショニズムを持ち出したことには、全く納得できません。
全体を読んで、部分的に学ぶところはさまざまありました。冷笑主義が蔓延る現代日本で、理想をもって社会を語る著者の勇気には大いに敬意をもちます。
資本主義を自明化することなく問題化するという点で、本書の意義は大きいものがあると思います。
しかし、「あえて」星ひとつをつけます。それは、もう人類には失敗する余裕は無いと考えるからです。20世紀の共産主義の失敗の歴史に学ばなくてはなりません。わたしたちは、真に実現可能な資本主義市場経済のオルタナティブを目指す必要があります。
アソシエーショニズムといっても、具体像がきわめてあいまいです。人々が生産手段を自律的、水平的に共同管理するという生産の次元に焦点をあてた解決策を提示しますが、全体の経済システムがどのように動くのかのヴィジョンが見えません。
要は、ミクロの生産現場はそれなりに論じられているのですが、マクロの視点が弱いのです。マルクスは生産に焦点をあてたのに対し、彼が(不当に?)批判したプルードンは流通の変革を志向します。わたしは、これからのことを考えるにはマルクスよりもプルードンのほうに学ぶべきことが多いと思います。
人間の経済活動とは「システム」です。システムはひとつの生き物のようなもので、その中で個々はそれぞれの機能を果たしつつ他と有機的な連携を保って全体を構成しています。
分業に否定的なマルクスは、経済活動がシステムであるということをあまり理解していないように見えます。
分業は人間の経済活動から必然的に生じます。人間の経済活動がシステムであるということは、全体を管理し計画することは不可能ということです。人間の理性には限界があります。人間は、限定合理的な存在です。人間は、経済システム全体を設計することはできません。
契約論的・啓蒙主義的な構築主義は現実の経済システムに適用することはできません。人間の自律性や理性の限定性をアソシエーショニズムは理解していません。
柄谷行人がNAMで失敗したのもそこに根本的原因があると思います(青木孝平さんが「コミュニタリアニズムへ」でアソシエーショニズムを徹底的に批判しています)。
経済全体の管理計画を無理にやろうとすれば、著者の批判する、一部の官僚が全体を計画的に管理する非効率的で抑圧的な旧ソ連のような国家体制に「必然的に」陥るでしょう。
この点で、ハイエクが「隷従への道」でいっていることは正しいと思います(わたしは新自由主義者ではないし、ハイエクは嫌いですが)。
交換無くして社会は無く、貨幣なくして交換はありません。資本主義市場経済と市場経済は別概念です。市場経済はいままでもずっとあったしこれからもずっとあり続けるでしょう。
しかし、資本主義市場経済は市場経済の一バリエーションで、ここ数世紀の歴史しかない経済システムなので、永遠ではありません。経済成長しつづけなければ自壊する資本主義市場経済システムはもう限界を迎えています。
社会主義や共産主義、アソシエーショニズムが解決策にならないとしたらどうすればいいか?
わたしは、マルクスが不当に批判したプルードンに影響をうけた、シルビオゲゼルの貨幣改革論が議論の俎上にのせられるべきと考えます。
管理経済は不可能であるとするなら、市場経済の「質」を変えるしかありません。そして、市場経済の質は、それを成り立たせている貨幣の質によって決定します。
経済活動の「媒介」となる、コミュニケーションメディアとしての貨幣を変えることで市場の質は変わります。
社会システム理論によれば、実体があって関係があるのではなく、まずはじめに関係があって後に実体があると考えます。経済において実体とは生産や消費、関係とは貨幣による交換のことです。
交換のあり方が生産や消費を決定するのです。生産に焦点を当てた共産主義やアソシエーショニズムの変革は順序が転倒、逆立ちして現実に合わないので失敗してきたのです。
生産・流通・消費のうち「流通」に焦点をあてたプルードンは正しいのです(ただしアナーキズムには疑問がありますが)。
シルビオゲゼルは減価する貨幣、つまり時間と共に少しずつ価値を減らしていく「腐るお金」を提唱しました。少しずつ価値を減らしていくのでお金を持つ人々は手元にずっと持つのではなく、お金をつかおうとします。
お金が一部に留まって経済活動が停滞することがなくなります。
そして、手元に置いていたら少しずつ価値を減らしていくので、「利子」もありません。資本主義では事業を始めるためのお金を借りるときに金利が発生します。
借りたときより多い額を返さなくてはなりません。だから、経済全体が成長しないと事業が成り立たなくなる企業が増えるのです。
しかし、お金が腐っていくならば、資本主義のように「貸し手が借り手より強い立場」ではなくなるので、利子もなくなります。
経済全体が成長しなくても、財やサービスが社会を良好に循環するエコロジー市場経済に移行します。わたしは、これこそが資本主義市場経済のオルタナティブと考えます。
このゲゼルの提案をケインズは、流動性があるのは貨幣のみではないので貨幣の減価は意味がないと批判していますが、彼自身がインフレ化による貨幣の減価を推奨するという矛盾をさらけ出しています。
ケインズは、マイナス金利を課すと、他の貨幣を代替する資産に移行してしまうから導入困難と指摘していますが、世界ではインフレ減価がよく発生している現実と矛盾しています。
インフレによる減価が起きている国でも、それが常識的な範囲なら、通貨はきちんと流動性を維持しています。
このケインズの見立て違いの要因は、貨幣の統治性を見落としているところにあります。
貨幣は、その歴史で見ると、租税手段として認められることで、その流動性を得ています。
このため、統治安定と納税技能がある限り、仮にある程度インフレやゲゼル式の減価が発生しても、それがある程度の水準におさまるなら、流動性が弱まるということはないでしょう。
ケインズは、貨幣と他の財貨との違いは流動性の程度に過ぎないと見なしましたが、そうではないのです。
貨幣は国家の統治と一体の、特別な商品なのです。ケインズは自分の思想がオリジナルでないことを隠すためか、前任者を批判し続けましたが、ゲゼルの存在がなければケインズは一般理論を書けなかったでしょう。
フロンティアが目の前に無限に広がっていた時代、経済成長する余地の多かった時代、自然利子率がプラスの時代は、プラスの利子率の貨幣金融制度が必要でした。
その意味で資本主義経済システムはその時代に必要な経済システムでした。しかし現代は、自然利子率がプラスであることが当たり前ではなくなった時代です。
今の貨幣金融制度(自然利子率がプラスであることが前提)の基礎は19世紀に生まれたと言われています。
しかし、それももう歴史的役割を終えました。自然利子率がマイナスである時代には、それに応じた貨幣金融制度が必要です。それが、シルビオゲゼルの提唱した「腐るお金」です。
これは彼の提唱した時代にはスタンプ貨幣という複雑で手間のかかる方法が必要でしたが、現代は電子マネーがあるので、やる気があれば十分実現可能だと思います。緩やかなインフレがどうしても起こらなくなった現代には、減価する貨幣が必要です。
長いレビューを最後まで読んでくださった方には、ぜひ、岩村充さんの「貨幣進化論 成長なき時代の通貨システム」、そしてアソシエーショニズムの不可能性を論じた西部忠さんの「資本主義はどこへ向かうのか」(複雑系経済学やルーマンの社会システム論からアソシエーショニズムについて論じています)、塩沢由典さんの「複雑系経済学入門」、青木孝平さんの「コミュニタリアニズムへ」を読んでいただきたいと思います。
現状分析にはシュトレークの「時間かせぎの資本主義」と「資本主義はどう終わるのか」、そしてウェンディブラウンの「いかにして民主主義は失われていくのか」がいいでしょう。
人間の経済を理解するためには社会システム論が重要です。複雑系科学もそうでしょう。何よりも、システム論的に経済を考える事が重要です。市場とは、貨幣というコミュニケーションメディアによって形成される自律分散的なネットワークです。
共産主義やアソシエーショニズムはそれを全く理解していないから、失敗するのです。市場経済そのものを否定するようなマルクスの思想は人間の自然性に反しています。人間とは、言葉や貨幣などを「交換」する生き物だからです。
その交換のネットワークから自生的に秩序が生まれてくるのに、それをすべて理性で管理できると考えるのは間違いです。そのことを踏まえた変革、つまり貨幣改革による「市場の体質改善」が必要です。
で、今度は自民党の推薦を受けて北海道知事に立候補するも落選、2009年の衆議院選挙では国民新党から出馬するも落選、現在は政界からは引退した状態である。
実兄は「 水子の譜(うた)―ドキュメント引揚孤児と女たち 」著者の上坪隆氏。
本書は、上で書いた著者の経歴の前後、東大入学前と政界引退後にあたる話が主である。
父親は元憲兵中佐で満州に赴任、戦争後は戦争犯罪人としてソ連、中国に抑留、裁判を受け、終戦後10年以上経ってから帰国。
一方、残された著者の一家は極貧の生活の中でも希望の大学に進学する。
著者は冤罪とされる事件も担当した弁護士なのだから、公開された起訴状や父親の証言を見て長期間の拘留・待遇見直しによる「学習」の効果を疑わなかったのか?という不自然さを感じたが、
それだけ著者の父が戦時中731部隊に捕虜を何人も送り死亡させたことを知った時の衝撃が大きかったということなのだろう。
日本を戦争する国にしてはいけない、日本と中国は絶対に武力ではなく対話しなければいけないんだという主張を見ると、著者の父親だけではなく、その娘である著者自信も「認罪」したのだろうと考えずにはいられない。