「私が休みの日に、何をしているのか、あなたには分からないだろうな?」
北の丸公園の安田門への道、外堀に目を転じ美登里は呟くように言った。
怪訝な想いで徹は美登里の横顔を見詰めた。
徹を見詰め返す美登里の目に涙が浮かんでいた。
「私が何時までも、陰でいていいの?」
責めるような口調であった。
区役所の職員である36歳の徹は、妻子のいる身であった。
「別れよう。このままずるずる、とはいかない」
美登里は決意しようとしていたが、気持ちが揺らいでいた。
桜が開花する時節であったが、2人の間に重い空気が流れていた。
乳母車の母子の姿を徹は見詰めた。
母親のロングスカートを握って歩いている少年は徹の長男と同じような年ごろである。
「私は、何時までも陰でいたくないの」
徹の視線の先を辿りながら美登里は強い口調となった。
徹は無表情であった。都合が悪いことに、男は沈黙するのだ。
北の丸公園を歩きながら、美登里は昨日のことを思い浮かべていた。
九段下の喫茶店2階から、向かい側に九段会館が見えていた。
美登里は徹と初めて出会った九段会館を苦い思いで見詰めていた。
美登里は思い詰めていたので、友人の紀子に相談したら、紀子の方がより深刻な事態に陥っていた。
「私はあの人の子どもを産もうと思うの。美登里どう思う?」
美登里はまさか紀子から相談を持ち掛けれるとは思いもしなかった。
「え! 紀子、妊娠しているの?」
紀子は黙って頷きながら、コーヒーカップの中をスプーンでかきまぜる仕草をしたが、コーヒーではなく粘着性のある液体を混ぜているいうな印象であった。
「美登里には、悩みがなくて良いわね」
紀子は煙草をバックから取り出しながら、微笑んだ。
「私しより、深刻なんだ」美登里は微笑み返して、心の中で呟いた。
結局、美登里は紀子の前で徹のことを切り出すことができなかった。
創作 美登里の青春 2)
「あの夏の日がなかったら・・・」
美登里はラジオから流れているその歌に涙を浮かべた。
歌を聞いて泣けたことは初めてであり、気持ちが高ぶるなかで手紙を書き始めていた。
「なぜ、あなたを愛してしまっただろう。冷静に考えてみようとしているの。あなたは遊びのつもりでも、私の愛は真剣なの。でも、陰でいることに耐えられない。18歳から21歳までの私の青春が、あなたが全てだったなんて、もうい嫌なの」
そこまで書いたら、涙で文字が滲んできた。
美登里は便せんを二つに割いた。
泣いて手紙を書いていることを、徹に覚らせたくはなかった。
美登里は日曜日、信仰している宗教の会合に出た。
そして会合が終わり、みんなが帰ったあと1人残った。
先輩の大崎静香の指導を受けるためだ。
「美登里さん、私に何か相談があるのね。元気がないわね。会合の間にあなたを見ていたの」
指導者的立場の大崎は、説法をしながら壇上から時々美登里に視線を向けていたこを美登里も感じていた。
美登里と6歳年上の大崎は、性格が明るく生命力が漲り、常に笑顔を絶やさない人だ。
そして何よりも人を包み込むような温かさがあった。
人間的な器が大きいのだと美登里は尊敬していた。
「この人のように、私もなれたら」美登里は目標を定めていたが、現実を考えると落差が大きかった。
大崎は美登里の話を、大きく肯きながら聞いていた。
「それで、別れることはできないのね」
大崎が美登里の心を確かめるように見詰めた。
「そうなの」
美登里は涙を流した。
「それなら美登里さん、日本一の愛人になるのね」
美登里はハンカチを握りしめながら、大崎の顔を怪訝そうに見詰めた。
「日本一の愛人?!」心外な指導であった。
大崎は当然、美登里に対して、「相手は、妻子のある男なのだから、別れなさい」と指導すると思っていた。
改めて、美登里は尊敬する大崎の包容力の大きさを感じた。
そして、美登里は決意した。
「私は、日本一の愛人にはなれない。徹さんと別れよう」