私にもよくわからないし、それはきっと同じ物事の二面性を語っているだけなのだろうから、ある意味、どちらでも良いと思っている。
しかし、人の善意という心は、誰も否定しないし否定しにくい事柄なのとてもやっかいな面を持っている。
妻の恵子が重い病気にかかって以来、いろいろな人が慰めてくださったり思いやってくださるのは全て「善意」から出ていることなのでとても有り難いとは思っているのだが、やはり人の気持ちというのは「一方通行」では絶対にまずいなと思うことがしばしばある。
今日、郵便ポストを見ると恵子の古くからの友人から封書が来ていたのでそれを彼女に渡し私は一人で仕事をしていたのだが、しばらくして彼女の様子がおかしいので見に行くと涙ぐんでいる。
どうしたのかと尋ねるとどうも手紙の内容と関係があるらしい。
彼女曰く「気にかけてくれるのは嬉しいんだけど、この人本当に私のことや私の今の状態をまったく理解していない」と言って今度はちょっと腹をたてているような口ぶりである。
この手紙の主とは、恵子が二十年ぐらい前に京都の帯の製造会社の東京の工房で帯の下絵を描く仕事をしていた時の同僚だった人だ。
彼女とはそれ以来の親交がある。
この帯の下絵を描く仕事時代の仲間とは全員今でもつきあいがあるし、私もその仲間全員(とはいっても5人だけだが)とも知り合いだ。
帯の下絵を描いていた人たちだけあって皆さん日本画を描く技術は相当なものだし、その中の一人は現在日本画壇の中で活躍している。
そのうちの一人(手紙の主)のこの彼女はわりと頻繁に恵子に手紙をくれる。
もちろん、恵子の病気のことも知っているし客観的な状況なども事あるごとに伝えている(はずだった)。
なので、もうちょっと気を使ってくれるかと思ったのだが、今日の手紙に入っていたその友人の絵に恵子はちょっとショックを受けたようだった。
同封されていた絵は、私たちが以前飼っていた猫の絵だった。
十年ほど前に死んだ私と恵子の飼い猫はシューシューという名前で24歳まで生きた長生き猫だった。
この猫にこの友人も何度も会っていた。
なので、手紙に同封されていたシューシューの絵はとても繊細で細密な日本画に仕上げられていて「さすがプロの絵描き」と思わせるに十分見事な仕上がりだった。
しかし、そのことが恵子の心を狂わせてしまったのだ。
当然だと思う。
そのデリカシーのなさに私もちょっと唖然とした。
もし私が脳卒中に倒れ楽器を演奏できなくなってしまったとしてその療養中に私の同業者のフルーティストが私の好きな曲を演奏した録音を送ってきたとしたらどうだろう?
私はその行為を素直に喜べるだろうか。
私だって麻痺さえしていなければ「これぐらいの演奏はできたはず」とは思わないだろうか。
演奏ができない悔しさと怒りでその友人を憎んでしまわないだろうか。
恵子も、泣きながらこう叫んでいた。
「私だって右手が自由ならこれぐらい描けるのに!」。
この画家の友人もおそらく「善意」で絵を送ってきてくれたのだろう。
わざわざ悪意を持ってイヤミでこんな絵を同封したとは思えない。
しかし、脳卒中で身体が麻痺してしまった友人に対して取るべき行為ではないと思う。
自分が同じ立場だったらどう思うだろうかという配慮がまったく欠けている。
やはり、人の心に大事なのは単なる「善意」でも、単なる「悪意」でもなく、相手のことを「思いやる気持ち」なのではないかと思う。
同じようなことを自分も他人にしていないだろうか。
ちょっと考えさせられてしまった。
しかし、人の善意という心は、誰も否定しないし否定しにくい事柄なのとてもやっかいな面を持っている。
妻の恵子が重い病気にかかって以来、いろいろな人が慰めてくださったり思いやってくださるのは全て「善意」から出ていることなのでとても有り難いとは思っているのだが、やはり人の気持ちというのは「一方通行」では絶対にまずいなと思うことがしばしばある。
今日、郵便ポストを見ると恵子の古くからの友人から封書が来ていたのでそれを彼女に渡し私は一人で仕事をしていたのだが、しばらくして彼女の様子がおかしいので見に行くと涙ぐんでいる。
どうしたのかと尋ねるとどうも手紙の内容と関係があるらしい。
彼女曰く「気にかけてくれるのは嬉しいんだけど、この人本当に私のことや私の今の状態をまったく理解していない」と言って今度はちょっと腹をたてているような口ぶりである。
この手紙の主とは、恵子が二十年ぐらい前に京都の帯の製造会社の東京の工房で帯の下絵を描く仕事をしていた時の同僚だった人だ。
彼女とはそれ以来の親交がある。
この帯の下絵を描く仕事時代の仲間とは全員今でもつきあいがあるし、私もその仲間全員(とはいっても5人だけだが)とも知り合いだ。
帯の下絵を描いていた人たちだけあって皆さん日本画を描く技術は相当なものだし、その中の一人は現在日本画壇の中で活躍している。
そのうちの一人(手紙の主)のこの彼女はわりと頻繁に恵子に手紙をくれる。
もちろん、恵子の病気のことも知っているし客観的な状況なども事あるごとに伝えている(はずだった)。
なので、もうちょっと気を使ってくれるかと思ったのだが、今日の手紙に入っていたその友人の絵に恵子はちょっとショックを受けたようだった。
同封されていた絵は、私たちが以前飼っていた猫の絵だった。
十年ほど前に死んだ私と恵子の飼い猫はシューシューという名前で24歳まで生きた長生き猫だった。
この猫にこの友人も何度も会っていた。
なので、手紙に同封されていたシューシューの絵はとても繊細で細密な日本画に仕上げられていて「さすがプロの絵描き」と思わせるに十分見事な仕上がりだった。
しかし、そのことが恵子の心を狂わせてしまったのだ。
当然だと思う。
そのデリカシーのなさに私もちょっと唖然とした。
もし私が脳卒中に倒れ楽器を演奏できなくなってしまったとしてその療養中に私の同業者のフルーティストが私の好きな曲を演奏した録音を送ってきたとしたらどうだろう?
私はその行為を素直に喜べるだろうか。
私だって麻痺さえしていなければ「これぐらいの演奏はできたはず」とは思わないだろうか。
演奏ができない悔しさと怒りでその友人を憎んでしまわないだろうか。
恵子も、泣きながらこう叫んでいた。
「私だって右手が自由ならこれぐらい描けるのに!」。
この画家の友人もおそらく「善意」で絵を送ってきてくれたのだろう。
わざわざ悪意を持ってイヤミでこんな絵を同封したとは思えない。
しかし、脳卒中で身体が麻痺してしまった友人に対して取るべき行為ではないと思う。
自分が同じ立場だったらどう思うだろうかという配慮がまったく欠けている。
やはり、人の心に大事なのは単なる「善意」でも、単なる「悪意」でもなく、相手のことを「思いやる気持ち」なのではないかと思う。
同じようなことを自分も他人にしていないだろうか。
ちょっと考えさせられてしまった。
と言うのはよくある気がします。
本当に相手の事を気遣って相手の為になる行動をするのは
とても難しい事ですね。
でも、健常者が病気の人の立場に立つことはある意味不可能なので、後は「想像力」の問題だと思います。どれだけ想像力を働かせられるか。この能力が人間にとって一番大事な能力なのでは?と最近つくづく思います。
健常者だったころ、善意で人を傷つけたこと無いといいきれないのに、自分が病んだとたん、とても敏感になるのです。
私もそうでした。
私は、子供(大)が私の好きだった登山の杖をかってきてくれました。
無理だと想いましたが、イマジネーションの欠如だなんて思いませんでした。
友人からも色々もらいました。感謝してます。悲しくなっても、「この人、わかってない!」と腹はたたなかった。
誰だっていつ脳卒中になるかわからない。介護される側になるかわからない。明日は我が身。
一生懸命、絵を描いて送ってくれるご友人、素晴らしいじゃないですか。まったく無神経と思いませんよ。仕方ないことですし、「わからなくて当然だな」と受け取るイマジネーション力も大事ですよね。
それができると、健常だった頃以上に寛容な人間になる人もいます。そんな人を見てきたし、尊敬してます。
人の身になるということは、とっても難しいのです。
なってみて初めてわかること、たくさんあります。
大事なのは、「両者が」思いやることだと思います。
コメントありがとうございます。
結論として「両者が思いやることが大切」というのはよくわかります。そして、本来はそうしなければならないということにも同感します。しかしながら、妻の場合、その友人がプロフェッショナルな仲間だったことで単に「健常者vs身障者」という感情だけでは御しきれない何か別な感情があったのだろうと思います。私が例えに出した「もし私自身が同じ病気になって同業者から演奏の録音でも送られたらどうだろう...」という感情は、単に健常者が身障者を思いやれないということとは若干次元が違うような気がしたのです(プロ同士のライバル心、嫉妬など複雑な感情があります)。ただ、今の妻が病気から来るものなのか、あまり「他人に寛容になれていない」のは確かで精神的な動揺が友人の絵に拒否反応を起こしたのも否めないところです。本来は仲の良い画家仲間なはずなのですが。